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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2008.12.16
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カテゴリ:osho@spiritual.earth

<15>からつづく

「OSHOの超宗教的世界」 <16>

 トランスパーソナル・セルフとOsho

 歴史の中の数多くのトランスパーソナルな体験というものは、事実あったことであり、そこからはたくさんの意味が引き出せる。そのためにこれから心理学としてのトランスパーソナル心理学の期待も大きくならざるを得ない。そこでイタリアの著名な「サイコシンセシス」のトランスパーソナル心理学者アサジョーリの弟子ピエロ・フェルッチ(「人間性の最高表現」)もこれまでの成果によって、その心理学的効果の意味合いを訴えかけている。p29

 トランスパーソナルな体験とは何かを定義するのがまず先だが、しかし、定方晟「空と無我」の中の比較を借りるなら、「神秘主義にみなぎる異常への志向と、空思想に見られる日常の強調」という対比の中で、もしここでいうフェルッチや玉川がトランスパーソナル体験を、より「神秘主義にみなぎる異常への志向」へ高めていくとするなら、当グログとのつながりはそこまでということになる。

 そもそも、「歴史の中の数多くのトランスパーソナルな体験」という玉川の切り出しが可笑しい。Oshoにあっては、歴史の中に数多くあったばかりではなく、人間はトランスパーソナルな体験から離れてことなど、一度もなかったのだ、というパラドックスが常に隠れているからだ。

 私たちがもし通常の世界とは異なるトランスパーソナルな体験に気づいたとしたら、それは高度の知、強さ、愛、美に対して唯一の源泉が私たちの中にあるということを意味する。そして実際トランスパーソナルな世界は広大で、さまざまな実体があり、類別することも困難だ。しかしもっと近づいてみると、それらは何か共通する基本的な面を持っており、私たちが「トランスパーソナル」と呼んでいる多様な現象が実際には一つの同じ源泉から生じていることに気づく。p29

 そもそも最初から玉川の悪い癖なのだが、その言葉が自分の言葉なのか他の誰の言葉なのかわからなくなるところがある。この部分では、フェルッチとOshoをつなげようとして、Oshoの言葉を要約しているように見えるが、これではOshoは十分代弁されていない。Oshoにおいては、トランスパーソナルな体験とは「通常の世界」なのだ。まったくここで玉川が表現しているのとは違う。

 また「高度の知、強さ、愛、美に対する唯一の源泉が私たちの中にあるということを意味する」と言っているが、ここも微妙に違う。「私たちの中」にある、というけれど、もし「私」がいたら、そこには高度な知、強さ、愛、美、の源泉から断絶してしまう。「私」がいないからこそ、そこに源泉がもともとあった、ということが分かるのだ。

 これらの共通する面とは驚き、正統性、知、一体感、普遍性、そして社会的かかわりだ。以下の項ではこれらの外観を見てみよう。p29

 この辺の言葉のセンスは、まったくOshoの雰囲気から外れているなぁ。

 驚き・・・・通常の体験と比較して、トランスパーソナルな世界ははかりしれないほどの大きな衝撃を与える。トランスパーソナルな世界は、個人的な世界のルールをいとも簡単に破ってしまう。トランスパーソナルな体験はそれに触れようとする人を変容させ、その人の生活をあらゆる面に影響を及ぼす。すなわち私たちを畏敬と魅惑で満たす一つの神秘なのだ。p29

 ここで玉川は自分自身で、Oshoなりトランスパーソナルなり、今自分が言っていることを自分の体験、自分の言葉として言っているのだろうか。それとも、単語を並べているだけなのだろうか。ここで語られている言葉には力がない。体験された自分の言葉だとは到底受け取れない。

 こうしたトランスパーソナル心理学の利点については、Osho自らも世界に宣言したいことであって、OshoはOshoでトランスパーソナル心理学とは別個に、根本的な人間変容を通じて「新人類社会」の実現を図っている。その影響、普及のためにもとりわけ教育問題であって、Oshoは多分フェルッチの次のような提案には全面的に賛成するであろう。p31

 玉川の研究は、他に類するものがないほど、独特ではあるが、またそれだけに玉川のアルファベットのなかに置き換えられたOsho像には、私自身は違和感を持つ場合が多い。

 「子供や生徒の中にトランスパーソナル・セルフの存在を認めることは、その人の中の価値あるすべてのものに命を与えることを意味します。本当の意味での教育とは、人がトランスパーソナル・セルフへの道を進むのを手助けすることなのです。本書では私たちが学んできたような能力や体験はすべて、認知し、刺激することが可能なものです。
 例えばちょっと挙げるだけでも、発明の才能、共感、勇気、集中、美の鑑賞、直観力、細部への注意、分析的な考え方や統合的な考え方、身体を通じて喜びを覚ます能力、目に見えない世界への気づきと意識の広がり、苦痛な建設的な態度などがあります。このように教育は、もはや単に情報を伝えるものではなく、<普遍的(ユニバーサル)な人間>を呼び起こすものなのです」
p31

 この言葉はアサジョーリの言葉なのかフェリッチの言葉なのかわからないが、すくなくとも、このような文章があった場合、私はこの文章をOshoの文章だ、とは感じないし、この言葉にOshoは全面的に賛成するだろうとも思わない。もちろん、サイコシンセシスとやらについて何事も知らない私がどうのこうの言ってもしかたないが、すくなくとも、このようなセンスでは、Oshoは教育には、あまり熱心ではないのではないだろうか。つまり、子供たちを導くとか「手助け」をする、と言った場合には、子どものトランスパーソナルの状態よりも、子供のまわりにいる大人のトランスパーソナルが問われることが多くなるのではないだろうか。

 玉川はこの本において、Oshoとトランスパーソナルの中に対応する何かをさがそうとしているが、このような「理論」のレベルでのすり合わせは、第三者には不可能なのではないだろうか。Oshoには基本的に「理論」はないのだから。もし、互いに融合するようなものあるとすれば、もっと感性的で、しだいしだいに原則そのものが溶けてなくなっていく方向にいくのではないだろうか。

<17>につづく






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Last updated  2008.12.28 10:31:10
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