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7章.友情への終止符 結編

  天空の黒 大地の白 第五部
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ユベールの鋭利な瞳は細められて、ニコラを中央にとらえている。
凪(な)ぎのように静けさを保つユベールの奥で渦巻く葛藤を、ニコラは掌中で転がしてみせた。
「その沈黙が、すべてを意味する・・・だろ?」
ニコラの声には、憐れみを装う匂いがにじみ出ている。
「“平民の女”一人のために命を投げ出すなんて、出来ないんだ。お前には。」
「ニコラ・・・・っ」

シャルロットには、ニコラの執拗な計画の目的も察しがついていた。
「ユベール様、この男の言葉に耳を貸してはなりません!」
ニコラは自分を見捨てさせることでユベールの誇りを傷つけ、彼の命が続く限り苦しみを与えようというのだ。
「貴方はフライハルトに戻らなければ・・・・無事に帰国して、ご自分と国のために力を尽くすのが貴方に定められた義務なのですよ。迷わず為すべきことを果たして下さいませ。」
シャルロットの声は、ユベールのもとへ届いているはずだ。
だが彼は黙したまま、ニコラと対峙している。
そうして彼の右手が静かに、まっすぐ旧友に向かって差し出された。
「銃を。」
黄金色の臆さぬ双眸を、ニコラは刹那、怒りを忘れて見返した。
「シャルロット・・・私は一度、私や母のために尽くしてくれた人々を見捨ててしまった。今また君を、むざむざ死なせてしまったら・・・私は自分の魂をも殺してしまう気がする。ニコラ、君の思惑通りに。だから私は、もう一つの道を選ぶよ。シャルロットを救い、己も救う。」
ニコラが拳を握りしめ、声を荒げた。
「・・・お前の“女王陛下”に、生きて会えなくなっても構わないのか?!」
「私は、良心の命じるままに従う。」

動じない瞳で、ユベールは再び促した。
「銃を。君との決着をつけよう。」

互いの銃に弾が込められる。
不正のないことを自分の目で確かめながら、ユベールは小銃のグリップを握った。
手首に適度な重みを感じる。
母やシャルロットと暮らしていた頃、ユベールはニコラにせがんで、よく狩りに出かけた。
自在にライフルを扱うニコラを見て、尊敬の念すら抱いたものだ。
小銃で的当てをする時、人前では大抵ニコラが勝ちを譲ったが、狙いも速度も本当は自分より優れているとユベールは知っていた。
(あの頃・・・フライハルトに行きたくないと、彼に打ち明けたんだったな・・・)
不思議と、先のことは気にならなかった。
ニコラとの距離を正確に二十歩数えながら、地面を踏みしめる。
(シャルロットがいて、ニコラがいて。そんな暮らしがずっと続けばいいと・・・どのような犠牲の上に成り立っていたかも知らずに。)
振り向いて重心を整えると、既に準備を終えたニコラに向かってユベールは言った。
「ニコラ・・・君の憎しみは正当なのだろう。だが、カイム達に償いを強(し)いことは、どうしても認められない。」
「・・・・辞世の言葉にしては、気が利いてないな。」

見張り役の男が、立ち会いとなって合図を送る。
二発の銃声が、音を立てて響いた。


フライハルト軍の宿舎の扉が激しく叩かれ、倒れ込むように飛び込んできたのはシャルロットだった。
彼女の案内でアドルフとティアナが現場に向かうと、積み重なった石材にもたれて座る人影があった。
「ローレンツ様!」
上官に走り寄ったティアナが、彼の手に触れる。
既に乾き始めた血がべったりと付着した。
「大丈夫、僕は無傷だ・・・彼が、」
ユベールから数歩離れた暗がりに、ニコラが横たわっていた。
両手を後ろ手に縛られ、左腕の付け根辺りには血止めのスカーフが結ばれている。
荒い息をしているが意識はあるようだ。
監視役の男は、とうに逃げ去ったらしい。
ユベールは指揮官の顔に戻って、命じた。
「この男はフランス軍の下士官だ。アドルフ、拘束して連行せよ。」
フライハルト兵に引き立てられていくニコラは、迎えの馬車に乗り込むユベールを憎しみと嘲笑のこもった目で見つめていた。

捕らえられたニコラは、フライハルト軍の管理する建物に身柄を移された。
同じ建物の別室で、ユベールは長椅子に身を委ねて休息をとる。
「無事で良かったじゃ済まされません!無茶です、本当に!」
ティアナは非難の気持ちを隠しもせずに、ユベールを責めた。
「・・・狙いはともかく、速度だけでも互角に渡り合えれば勝機があると思ったんだ。」
一応の弁明をしてから、ユベールは口をつぐむ。
一瞬の出来事で、はっきりと覚えているわけではない。
だが、ニコラは抜き遅れた・・・・
ニコラの銃弾が大きく左方向へ逸(そ)れたのは、既にユベールの弾を受けていたせいだ。
「・・・・・。」
釈然としない思いが、彼をなお寡黙にさせた。
ノックの音がしてシャルロットが顔を見せると、ティアナは言いかけた言葉を呑み込んで席を立つ。
その後ろ姿を見送った後で、シャルロットは口を開いた。
「ティアナさんのお気持ち、分かる気がします。マントヴァの戦いで救われたお命を、いたずらに危険にさらして欲しくない・・・多くの犠牲があった戦場だから、なお。」
「・・・・そう、なんだろうな・・・。」

ユベールは腰掛けたまま両手をひざの上で組み、視線を床に落としている。
「だが後悔はしていない。」
手を差しのべ、シャルロットを呼び寄せる。
彼女はユベールの足元に跪(ひざまづ)き、切れ長の目を仕えるべき主人に向ける。
「シャルロット・・・君は、カイムを大切に思ってくれていたんだね。」
「・・・・・。」

ユベールの柔らかな微笑みを前にして、彼女は思わず声を詰まらせた。
うつむいた彼女の頬に手を当てて、ユベールは上を向かせる。
「昔から薄々は感じていた。君がカイムを特別に想っていること。だから彼の形見を届けるために、どんな犠牲も払ってくれたんだ。君は。」
彼の瞳の黄金色は、亡き人を思わせた。
ただ峻厳であった彼の師よりずっと、穏やかで温かな色をたたえている。
そのせいだろうか、心の堰(せ)きが一気に崩れた。
「・・・正直に申し上げます。確かに私はカイム様をお慕いしていました。ニコラとの関係も本当のことです。私は・・・あの方のご遺志を、ユベール様にお伝えしたかった・・・。」
「カイムの、遺志・・・。」
「“誇りをもて”・・・カイム様が繰り返し教えようとなさった事。貴方は苦難の多い巡り合わせのもとにお生まれになった。フランスは貴方を追い立て、ローレンツ侯も簡単にはユベール様をお認めにならないでしょう。貴方ご自身の咎ではないことで、人は貴方を拒むでしょう。でも、どうかまっすぐ前を見すえて、生きて・・・・その思いがあの剣に託されているのです・・・それは若様を見守ってきた皆や、私の願いでもあるから・・・だから」

ユベールの腕が彼女を抱きしめた。
どのような顔をすればよいか分からず、彼はシャルロットの温もりを感じながら、思いを込めて彼女を抱いた。
「ありがとう・・・君は確かに届けてくれた。」
「ユベール、様・・・」
「カイムに代わって、お礼を言うよ。シャルロット・・・ありがとう。心から、君に感謝している。」

シャルロットはユベールの胸に額を押し当て、幸福な思いに涙をこらえるのが精一杯だった。
誰に感謝を捧げればよいだろう。
ただ何もかも、報われたのだと。

*     *     *


換気の悪いせいだろうか、むっとする臭気が小部屋に漂っている。
ニコラは激痛の走った左肩の傷を、意識から切り離そうと試みる。
「ほう。お前さんも強情だな。」
仰(あお)向けで石の床に転がる彼を、黒髪の大男が見下ろしている。
「歯ごたえのある奴は好きだ。けどなぁ、だんまりを決め込んでいても、いずれ耐えきれなくなる。その時、体が使い物にならなくなっちゃぁ手遅れだ。」
肩を踏みつける軍靴が、体重をかけて加圧していく。
拍車の鋭利な歯が傷口に食い込み、指先が痙攣を起こした。
「言え。ヴェネチアに入ったのは何人だ。次の行動は。」
もう何度目の詰問だろうか。
答えの代わりに、ニコラの体内には閃光のように感覚がよみがえった。
ユベールに向かって銃を抜こうとした、あの一瞬。
右腕の動きが不確かになり、彼はわずかに遅れをとったのだ。
(・・・結局・・・賭は俺の負けか。)
思うように動かなくなった利き腕に、皮肉な眼差しを投げかける。
オーストリア軍との衝突があった日、ニコラも小隊を引き連れて強襲に加わっていた。
マントヴァの城近くを拠点とし、包囲網の作られた南側へと敵を追い込むのが彼らの役割だ。
作戦通り、戦場は面白いように動いていた。
特に竜騎兵達を追撃するのは、爽快の一語に尽きる・・・
ニコラは戦場の華と呼ばれた獲物達に銃弾でカタをつけながら、ユベールの姿を探していた。
その時、あの男を見つけた。
どこかで見覚えがあったが、一年前に渡河作戦を邪魔した青年将校だと、後で気づいた。
真白い軍装に、金色の髪。高慢な、人を睥睨(へいげい)するまなざし。
高位な貴族の子弟と、すぐに分かる。
手負いながら、蒼い瞳は闘志を失わずに炯々(けいけい)と輝きを放っていた。
馬上から振り下ろされたサーベルの切っ先に、鮮血が散り。
ニコラの外套の袖を裂いて、右腕の腱に創痕を残した・・・

かつての精度を失ったニコラにとって、ユベールに報復するための手段が、あの賭だった。
シャルロットを見捨てさせ、無自覚で驕慢な理想主義をねじ伏せてやるつもりであった。
(それが・・・“勝ち目のない勝負”に挑むほど、お前の性根に偽善が染みついていやがったとはな・・・・)
横面を張り飛ばされて、ニコラは現実に引き戻される。
「白昼夢から覚めたか。」
「・・・アドルフ・ギーゼン・・・・王族の狗が。せいぜい、吠えていろよ・・・・どうせユベールには、俺を殺せなんて命令できない。」
「どうだかな。こういった事に、事故はつきものだ。」

室内に絞り出すような呻(うめ)きが響く。
その残響が消えない内に、扉が開いてユベールが姿を現した。
「アドルフ、手を止めてくれ。ニコラと話がしたい。」
額に汗をにじませて喘ぐニコラを、ユベールは冷ややかに眺めた。
アドルフが上官の安全に配慮して、数歩下がった位置で控えている。
「・・・・おい・・・お前にしちゃぁ紳士的なやり方じゃないな。」
「君がカイムやシャルロットにした事を思えば、同情も湧かない。」

ニコラは乱れた呼吸をしながら、口の端で笑ってみせた。
「俺を捕まえて満足か・・・?だけどな・・・お前が何をしようと、無駄なんだよ。マントヴァで思い知っただろう。」
「・・・・。」
「フランスから逃げ出して、フライハルトの女王に身売りして・・・今度は戦場で指揮官ごっこ。だが生憎(あいにく)、お前が継ぐ爵位なんて消えちまうのさ・・・。今にヨーロッパ全土を、三色旗が支配する・・・共和制フランスが、時代遅れの戦争を塗り替える。俺たちの世界が来るんだ。俺たち、サン・キュロットの。」

ニコラの口調は徐々に熱を帯びて、叫びに変わっていく。
「よく聞け、ユベール・・・束の間の勝利に酔うがいい。俺を捕らえて殺したって、腹いせにしかなりゃしないのさ。どれだけ抗っても時代の流れを曲げることは出来ない・・・お前らは滅びる!お前の女王もだ。お前のあがめる女王・・・レティシア・・・ただ王家の血筋に生まれただけで、人の上に立つことを当然と思い上がっている、その女も、今に玉座から引きずり下ろされて地に這うだろう!」
「・・・・黙れ!!」

鈍い音と共に、ニコラの上体が大きく後方へ弾(はじ)かれた。
カービン銃を手にしたユベールが、銃底で力任せにニコラを打ちすえたのだ。
「それ以上の冒涜は許さない!」
なお憤りの収まらないユベールを、アドルフが間に入って引き離さねばならなかった。
うつぶせになって咳き込むニコラの口元から、赤黒い血液が滴(したた)っている。
その場を部下に任せ、アドルフはユベールを部屋の外へ連れ出す。
「大尉。」
ユベールは薄暗い廊下の壁に手をつき、興奮を静めようとする。
「すまない、私は・・・指揮官として、あるまじき行為をした。」
「お気持ちはお察しします。」

壁に灯された蝋燭の明かりが、ユベールの険しい横顔をチラチラと濡らしている。
「取り調べは難しいようだな。」
「忍耐強い男です。頑として口を割ろうとしません。」
「・・・無意味に苦痛を与えることは避けたい・・・規定に従い、あの男を明朝オーストリア軍に委ねる。」

アドルフの頑健な鼻梁に皺が寄った。
「しかし・・・それではフランス軍に引き渡される可能性があります。もしあの男が自由になれば、何度でも大尉のお命を狙うでしょう。」
「・・・捕虜の処遇はオーストリアに一任する約定になっている。」

感情を押し殺した声で、ユベールは結論だけを述べた。


明け方近くの空は、水気を含んだ厚い雲に覆われている。
もうじき雪になるのだろう。
地下室への階段を一歩一歩降りてゆくと、奥から氷室のような低温の空気が吹き上げる。
まぶかに被ったフードで、顔を覆う女・・・シャルロットは、捕虜のいる部屋を目指して歩を進める。
入り口に立つ見張りの兵士に、彼女は何ごとかを囁き銀貨を握らせる。
男はしばらく渋っていたが、もう一枚を追加して首を縦に振らせた。
呼吸を整え、解錠した扉に身を滑り込ませる・・・・
その途端、背後から伸びた男の腕が、彼女の肩を掴んで引き戻した。
「貴様・・・どういう了見だ。」
地の底から沸くような低い声に、彼女は身を固くする。
「アドルフ・・・・」
彼女の視界を、男の巨大な影が遮断している。
フードの下に隠した右手を見逃さず、彼はシャルロットの細い手首を力ずくで引き寄せ、ナイフを取り上げた。
「返して・・・っ。」
「物騒な真似は、副官として見過ごせん。」
「ユベール様のために必要なのよ。ニコラが万が一にも解放されたら・・・。ここで終わらせなくちゃいけないの。あんたは黙って、見ぬふりしてればいい。」
「殺人の罪をかぶる気か。」
「構わない、断頭台にかけられたって・・・・ユベール様を守れるなら・・・・!」

アドルフの厚い手のひらが彼女の口元を覆った。
「騒ぐな。上で待っていろ。」

数分後、黒髪の少尉はニコラを引きずるようにして中庭に連れ出した。
三方向をぐるりと建物に囲まれているが、それぞれの窓は固く閉じられ、いまだ眠りについている。
ニコラは衰弱した様子なものの、表情を固くしたシャルロットを睨み付けた。
「どうする気?」
不審げなシャルロットの問いかけに、男は短く答える。
「必要なことを、するだけだ。」
おもむろに、彼はニコラの両腕を縛っていた拘束具を取り外した。
「行け。」
驚きと警戒をにじませる囚人に、アドルフは顎で行き先を指し示す。
「さぁ、門は向こうだ。」
行け、行け、走れと、アドルフは繰り返す。
意図を計りかねたニコラは、すぐには動こうとせずアドルフの気配をうかがう。
やがて痛みによろめく体を支えながら、彼は背を向けて歩き出した。
初めは足をひきずるようにして、やがて小走りに。速度を上げて。
丁度、耐えきれずに舞い降り始めた雪片が、庭の冬芝に白く散っていく。
視界一面の雪の向こうへ、ニコラの背中が遠ざかっていく。
「アドルフ、だめ、あの男を・・・・!」
彼女の非難の声が、銃声でかき消された。
狙いをつけたアドルフの小銃が、正確にニコラの頭部を撃ち抜いた音だった。
ガクリと膝から折れたニコラの体は地面に倒れ、それきり動かない。
目の前の光景に言葉を失ったシャルロットの隣で、アドルフが文字盤を読み上げる。
「捕虜は逃亡を図ったため、やむをえず射殺した。時刻、4時37分。」
懐中時計の蓋を閉めて、彼は踵(きびす)を返す。
「お前は部屋に戻れ。銃声で皆が起き出してくる。ここに居られると、やっかいだ。」
「・・・・。」

彼女はフードの裾を握りしめ、命の絶えたニコラの姿を遠目に眺めていた。
一瞬、近づいて顔を確かめたい衝動に揺れたが、彼女はアドルフの横をすり抜けざまに呟いて、姿を消した。
「・・・恩に着るわ、アドルフ・ギーゼン・・・・。」
淡雪の結晶が全てを覆い隠すように、ヴェネチアの街に音もなく降り積もっていった。


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