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8章.追憶の人 前編

  天空の黒 大地の白 第五部
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8章.追憶の人

フライハルト 王宮前広場の一角にて
洒落た若草色の看板が目印のカフェで、二人の紳士が会話している。
国内で唯一、オーストリアの新聞も提供する店とあって、インテリを自認する中産階層のちょっとした社交場となっていた。
もっとも、彼らの今の話題は新聞ではなく、もっぱら宮廷から漏れ聞こえてきた噂だ。
口ひげを念入りに整えた男が相方に言う。
「とうとう彼が帰国するそうだよ。フーベルト・ローレンツが。」
「誰だって?」
「おいおい、君。それは“ユベール”という愛称の方が有名ではあるけどね。」
「あぁ、アンベルクの勝利の立役者か。去年の秋には随分騒がれたものだったなぁ。なんせ国境ぎりぎりまで迫ったフランス軍を蹴散らしたんだ。彼が戻ってくるなら、またぞろ歓迎ムード一色になるだろう。」

口ひげの男は新聞を閉じて、珈琲カップを手に取る。
「女王の取り巻き連中は、われ先に取り入ろうと手ぐすねひいて待っているそうだよ。なにせ格段の昇進は間違いなしという噂だし、将来はザンクトブルクの侯爵様だからね。」
「またドレーゼ男爵の秘書から仕入れた情報か?確かに女王も彼を重用するんだろうなぁ。あれ以来、ローレンツの名前は農民や靴みがきの小僧にまで知れ渡ってる。この人気を利用しない手はないだろう。」

そう言って相づちを打つ友人に、男はワケ知り顔で大仰に否定してみせる。
「いやいや、それは君がフランスなんかに留学していたせいで、そう思うんだろう。君の発想は、この国の現状に比べて進歩的すぎる。フライハルトでは民衆からの人気なぞ政治に関係ないのだよ。大切なのは腹を空かせた猟犬のような地方領主たちに、どれだけ睨みをきかせられるかさ。」


周囲の喧騒も知らず、ヴェネチアを出立したユベール率いるザンクトブルク竜騎兵中隊は、ついにイタリアを抜けてオーストリア・ハプスブルク帝国の領内に入っていた。
ウィーンを経由して国境を越え、故国フライハルトへ戻る。
思えば一ヶ月ほどのイタリア遠征が、何という重みを持ったことだろう。
南ドイツに従軍した一年よりずっと、北イタリアでの出来事はユベールの心を揺さぶった。
ニコラの死、エルヴィンとの別れ、そして・・・ヴァレリーを通して知った、グストーの秘密裏の活動。
最後にグストー自身を見たのは、アンスバッハ。レティシアの婚約の真意を問いただそうと乗り込んで取り押さえられた時だ。
(結局、レティシア様のことも前進のないまま、私はあの二人に翻弄されている。)
そう思うと故国に帰るというのは、まるで敵地に乗り込む気持ちだった。
緊張を察してか、彼の跨(またが)る愛馬が首を左右に揺らす。
ユベールは、その皮膚の薄い筋肉質の首を撫でてやった。
帰国後を考えるより先に、自分にはやるべき事がある。
ウィーンを経由する理由・・・エルヴィンの父、フローベルガー伯爵のもとを訪れる事は、自分の責務なのだから。

ウィーン郊外にあるフローベルガー邸は伯爵と嫡男エルヴィンの住まいで、ユベールの記憶の限り、客足の絶えない賑(にぎ)わいと華やかさでは他の諸侯に抜きんでていた。
だが、ユベールが副官を連れて伯爵のもとを訪れた時、出入りする人影はまばらで、使用人たちもユベールに対して気まずい顔をするばかりだった。
不運なフローベルガー伯爵は、期待をかけた跡取り息子が行方知れずという事態に打ちのめされ、意気消沈していた。
ウィーン滞在中は何かと自分を引き立ててくれた恩人の痛ましい姿に、ユベールは罪悪感を抱かずにいられなかった。
彼は当時の戦況とイタリアでのエルヴィンの様子を伝えたが、ジャンが持ち帰った情報・・・オーストリア竜騎兵が砲撃によって壊滅したことは、とうとう伏せたままにした。
父親が持ち続けている希望を、確証もなく砕くようなことは口にできなかったのだ。
「・・・リーゼロッテは、どうしていますか。」
「会ってやって下さい。あの子も気持ちが和らぐでしょうから。」

エルヴィンの3つ年下の妹に話が及ぶと、伯爵は頷いて父親らしい気づかいをみせる。
だが彼女は居間に姿を見せようとせず、半刻ほどしてようやくユベールを自分の部屋に招き入れた。
「ユベール。無事に戻ってきたのね。」
1年半ぶりに会うリーゼロッテは金色の巻き髪を結い上げ、大人びて見えた。
鼻先に散っていたそばかすは薄くなり、邪魔のなくなった面立ちは個性的な美しさと言えるだろう。
彼女の声は硬いが、予測に反して憔悴した様子も表に出さずユベールを凛と見すえている。
「しばらくはウィーンに居られるの?」
「いや・・・明後日にはフライハルトに向けて出立する。帰国命令が出ているんだ。」
「そう・・・とうとう帰るのね。」

彼女は会話を打ち切ってユベールの腕を取り、隣接する支度部屋に連れて行く。
「誰にも内緒よ。」
そう言ってクローゼットを開くと、中に幾つも荷詰めを終えたトランクが置かれていた。
「これは・・・旅支度を?」
ユベールの問いに、彼女は自分の決心を打ち明けた。
「私、マントヴァに行く。マントヴァに行って、兄様を捜すの。」
「・・・まさか!」
「本気よ。お父様はイタリアに人をやって探させるだけ。何もせず、黙って報告を待つ毎日なんて耐えられると思う?だから自分で行くわ。ユベール、貴方に手伝ってほしかったけど無理なら構わない。イタリアで力を貸してくれそうな人を教えて。」

リーゼロッテの毅然とした口調は、熱を帯びている。
「お願い。あなたに迷惑はかけないから。」
「・・・・出来ないよ。イタリア行きに手は貸せない。そんな危険なこと、君にさせられるわけがない。」
「ユベール!戦場が危険だってことくらい、分かってる。それでも私は・・・」
「マントヴァは戦場じゃない。敵地だ!」

そう言ってから、ユベールは苦しげに視線を彼女から逸(そ)らした。
「・・・我々の救援作戦が失敗に終わった以上、マントヴァ陥落は時間の問題だ。北イタリアの支配権をオーストリアは失うだろう・・・もうマントヴァに近づくことすら出来ない。」
「・・・・そんな・・・・っ。」
「すまない、リーゼロッテ・・・エルヴィンを頼むと、君に言われたのに。本当に、すまない・・・。」

18の娘にも、これ以上はユベールを傷つけるだけだと理解できた。
ただ、このような悲しみを前にした時、年頃の娘にふさわしい振る舞い方が分からなかったので、彼女は子どもだった頃の素直な方法を思い出した。
ユベールの首に腕を回し、彼女は体を寄せて抱きつく。
「ユベールの馬鹿。責められるために、ウィーンに来たんでしょう・・・でも後生だから、分かってね。あなたが戻ってくれただけでも、嬉しい。」
頬に唇がふれた。
そのふれ合いは、彼が知るどの口づけより無垢で、ユベールの心を打った。
「どうしても、フライハルトに帰るの?本当は気が進まないんでしょ?」
「・・・僕の故国だ。」
「でもフライハルトで過ごしたのは、たった二年じゃない!」

ユベールの心が、ざわめく。
たった二年・・・・レティシアと分かち合った日々より、国を離れてからの時間の方が長くなってしまったのだ。
「ウィーンには領地を離れて暮らす外国の諸侯も沢山いるわ。ユベールだって、ずっとオーストリアに居ればいい。」
兄なら、きっとユベールに忠告しただろう。
フランスという楔(くさび)を打ち込まれて、かつてない揺らぎを経験するドイツの地で・・・兄は瓦解の序奏を聴いたのだ。
フライハルトに戻れば、ユベールは否応なく騒乱の渦中に巻き込まれていくだろう。
彼を裏切った女王のために。
「・・・・それでも。」
ユベールは、リーゼロッテを優しく解き放しながら呟いた。
「陛下に背をそむける事は出来ない。戻るよ。フライハルトに。」
いまだ、自分の心を結びつけているレティシアのもとへ・・・
国から身を遠ざけ軍人として過ごしても、絶えず彼の魂が捕らえられていた場所。
レティシアに会う。
レティシアと、そしてグストー・・・この影が生まれた零の地点と、対峙する。


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