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8章.追憶の人 中編

  天空の黒 大地の白 第五部
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リーゼロッテとの再会から三日後、フライハルトの王宮に知らせが届いた。
「ローレンツ大尉が国境を通過した旨、報告がございました。クラウゼヴィッツ少佐の部隊が合流し、予定の経路を行軍しております。到着は明日、上午とのことです。」
中庭を飾るつる薔薇のアーチを歩きながら報告を受けた女王は、わずかに片眉を上げた。
「そう。ご苦労でした。」
短い返答だけをして、彼女は紅い唇を側に控える婦人に向ける。
「フラウ・クライン。頼みます。」
「お任せ下さいませ、陛下。」

女の漆黒の髪が、背中に優美に流れている。
彼女が女主人の顔を仰ぎ見ると、それは陶器のように冷たい厳粛さをたたえていた。


“約束よ。また三人でカノンを弾きましょう”
リーゼロッテがケースから取り出したエルヴィンのヴァイオリン。
そっと手を置くと、フライハルトで出会った15の少年の面影が揺らいだ・・・

「そろそろ、ご出発の時間です。」
事務的に告げる声が、彼を現実に引き戻してせき立てる。
指先に残る弦の感触を、ユベールは消さずに封をした。
ザルツブルクを経てフライハルトにたどり着いたユベール達は、国境線上の町で同胞の出迎えを受けている。
「では、ローレンツ大尉。我々が先行いたします。」
出立の挨拶をする将校に、ユベールは敬礼を返す。
国境で合流した約五百名の兵士が、竜騎兵中隊を先導する形で街道を整然と行進していく。
説明によれば、彼らはこの2年ほどで新たに編成された部隊であり、国の徴兵に応じて集まった者たちだという。
護衛の役割も担っているとはいえ、彼らはマスケット銃に実弾を装備しているようだ。
「ただの出迎えにしては、ものものしいと思えば。」
ユベールの呟きに、アドルフが馬上から周囲の景色を眺め渡す。
帰還のルートやスケジュールは、クラウゼヴィッツと名乗る将校に指定を受けた。
現在通過している一帯は、反女王派として知られる子爵の家領と近接している。
敢えて火種のくすぶる境界を通って王都を目指そうというのだ。
アドルフの目は左斜め前方、マイン河の堤に現れた二つの騎影を見逃さなかった。
「子爵殿の私兵・・・巣をつつかれて顔を出しやがった。」
偵察役なのか、動く気配もなく黒い染みとなってこちらの様子をうかがっている。
「まぁ、おっかない。いつまたフランス軍が攻めてくるか分からないのに。国の中でツノ突き合わせていて大丈夫かしら。」
列の後尾から聞こえてきた声に周囲の兵士が一斉に振り向くと、シャルロットが肩をすくませてみせた。
先触れを聞きつけて、沿道には凱旋を見物しようと近隣から人が集まっている。
竜騎兵たちが通り行き、褐色の指揮官の姿が視界に入ると波のように歓声が沸く。
彼らの目には、アンベルクの危地で連合軍を勝利に導いた救国の英雄として映っているのだ。
人々の期待に応えて、ユベールは軽く右手を挙げた。
一層高まる歓呼の中、まだ偵察兵が熱狂の有り様を見下ろしている。
(完全に、我々が挑発している形だな・・・これも陛下の思惑の内か。)
横で馬を歩ませているティアナは、顔を赤らめてピンと背筋を伸ばしている。
部隊の兵士達も、久しぶりに戻った故郷での歓迎に自然と表情をゆるませている。
レティシアの目論見(もくろみ)はともかく、この賞讃は苦労を重ねてきた竜騎兵達への報酬として、受け取ってもよいかも知れぬとユベールは思った。
行き過ぎる灰色の町々で、あるいは一年の仕事を終えた休閑の牧草地に沿って伸びる赤茶けた道で。
彼らは押し寄せたフライハルトの民衆から、期待と希望に満ちた歓迎を受けた。
そうして太陽が頭頂にさしかかる頃、兵士達の間から嘆息がもれる。
なだらかな起伏のある幅広な道の先に、白亜の王宮が姿を現した。
威風よりむしろ、訪れる者に瀟洒(しょうしゃ)な印象を与える宮殿は、この国の主を思わせる。
前面に広がるシンメトリーの庭園は、よく刈り込まれたコニファーの緑が、春を待つ空に映えてまぶしい。
正面の門をくぐると、イチイの幹に這う蔦(つた)がユベールの記憶より濃く生い茂っていた。
エントランスの大扉は左右に開け放たれ、礼装姿のユベールとアドルフを迎え入れる。
到来を告げる呼び声が響き、ホールの両脇に居並んだ諸侯や婦人たちから拍手が起こる。
右手の回廊に進み、奥から二つ目の扉。
その向こうにあつらえられた謁見の間で、玉座に腰掛ける人物が、跪(ひざまづ)いて深々と頭を垂れたユベールに声をかけた。

「よく戻りました。フーベルト・ローレンツ大尉。顔をお上げなさい。」

その声は湖面に走る水紋のように、ユベールの心に届いた。
視界に揺れるのは、陽光に透けるプラチナブロンドの髪。
柔らかな弧をえがく唇。
彼が幾度となく反芻した記憶のひと、女王レティシアが、そこに居た。

*     *     *

主人の命令に従って、レオンハルトは真昼の部屋にカーテンを引く。
「今夜は盛大な催しになりそうですね。彼の帰国で宮廷中が騒々しい。」
レオはカーテンの隙間をつまんで、もう一度王宮の正門を眺めてから、ぴったりと合わせ目を閉じた。
グストーの私室は東棟の端にあって、あらゆる騒音から隔離できるのが利点である。
「おっと。」
瓶から取り出した砂糖菓子が一粒、主人の机に落下して転がった。
拾い上げると表面に灰色の埃が付着している。
息で吹いて口に入れると、粉っぽい味がした。
侍女の立ち入りすら拒むグストーの私室は、一種の聖域だ。
清掃にまるで気を配っていない、書束と用途不明の薬品、器具類に埋もれた混沌の空間に出入りできる事は、レオのささやかな自慢だった。
(さて、うちのマスターはどう動く気なのやら。)
口中で菓子を転がしながら、レオは反芻する。
ほんの数分前、エントランスでユベールを出迎える人々に混ざって、レオは彼の顔を見た。
三年ぶりに彼と再会した人間なら、誰もが驚きを禁じえなかっただろう。
少年らしさの抜けきらない、穏和と優美が取りえだった地方貴族の子息は、大尉の称号にふさわしい軍人へと変貌していた。
細身ではあるが厚みを増した、精悍な立ち姿。
一歩一歩を踏み出す時の、正確で機敏な足取り。
当人は気づいているだろうか。
鋭敏な眼光は濃い褐色の肌と相まって、怜悧な鷹を思わせる。
彼を見栄えのよい玩具と侮(あなど)っていた人々は、現実に目覚めさせられただろう。
ユベールは長く平和にまどろんでいたフライハルトに、戦場の匂いを持ち帰った。
彼自身が意図したか否かに係わらず・・・

今頃ユベールは、レティシアへの謁見中だろう。
レオは手元の懐中時計で時刻を確認しながら、主人の様子を盗み見る。
宮廷も城下もユベールの凱旋で賑わっているというのに、グストーは朝から平常通りの職務を淡々とこなし、今は15分の休息といってソファに寝転がっている。
うっかりすると、無関心なのかと疑ってしまいそうだ。
だがユベールが国に呼び戻されたのには、レティシアの意向と同じくらいグストーが関与していたとレオは読んでいる。
幾度も衝突してきた、敵愾心の強い青年将校をどう料理するつもりなのか。
「・・・才覚、努力、金、幸運。」
前ぶれもなしに、グストーが身を横たえたまま呟いた。
「人間の一生を左右する四つの要素だ。二つ欠けば、成功は難しくなる。」
「へぇ・・・意外ですね。マスター、運を信じてたんですか。」

脈絡を理解できないまま、レオは適当な相づちを打った。
「どれほど緻密に計算しても、それを凌駕する巡り合わせが時にはある。だが第五の要素を備えた人間は、さらに稀だ。」
「・・・四つって言ったのに、五個目があるなんてずるい。」

ぶつぶつ言うレオを気にもとめず、グストーは寝返りをうって続ける。
「人々を惹きつけ、束ね、熱狂させる常人を越えた力・・・それこそが一人の人間を時代の象徴へと押し上げる。歴史のうねりが生み出す寵児であり、生贄(いけにえ)だ。」
菓子瓶を弄ぶレオンハルトの手が止まった。
よもや彼は、ユベールがそうだと言いたいのだろうか?
しかし会話は打ち切られた。
グストーは堅い長椅子から体を起こすと、ゆっくりと右腕を回して体をほぐし、立ち上がって上着の埃を払った。
「明日の午後は人と会う約束ができた。お前は同行しなくていい。」
「はい、はい。また秘密主義ですね。くれぐれもお気をつけて。」
「分かっている。」

グストーは、つまらなそうに首を振って仕事の溜まった執務室へと戻った。


一方、謁見の間では衆人の見守る中、ユベールが女王の前に進み出て帰国の口上を述べんとしていた。
二人の視線が、交わる。
(レティシア・・・様・・・・)
ほんの数秒のことだったろう。
その数秒間、ユベールは何ひとつ言葉を発することが出来なかった。
刹那に散る閃光のように、玉座から自分を見下ろすレティシアの目の碧(あお)さだけが焼き付く。
気づくとユベールは再び顔を伏せ、一層深く頭を垂れていた。
うずくような痛みを感じながら・・・

その日は叙勲式、ねぎらいの饗宴と、儀礼的な行事が立て続けに催された。
出席するユベールとアドルフの軍服には、真新しい栄誉のしるしが一つずつ増えた。
王宮の大ホールには竜騎兵中隊に所属する士官全員が招かれ、ゲストの高級将校たちと共に豪奢な料理と酒を愉しんでいる。
自ら臨席した女王が招待客の一人一人に親しく声をかけていた。
ユベールは離れたテーブルで給仕が差し出した銀盆からワイングラスを取る。
「浮かないお顔を、なさっておいでですね。」
ふと側で、女の囁きがした。
「もうずっと、そうして陛下を遠くから見つめていらっしゃる。気をつけなければ、人に悟られますわ。」
ハッとして振り向くと、見知らぬ女性の横顔があった。
背中に流れる髪は艶やかな黒。
年の頃はユベールと同じくらいだろう。
「・・・貴女は・・・。」
初対面の婦人にぶしつけな物言いをされて、ユベールは少し面食らっていた。
このホールに参席している女性といえば、軍の高官関係者である。
「お側に行かれませんの?女王陛下の。」
「・・・・。」

レティシアは満足げな笑顔で、アドルフと言葉を交わしている。
同じ顔を、彼女は自分にも向けていた。
女王として功労者をねぎらう顔を。
(変わらないのだ。私もアドルフも、あの方にとっては・・・。もう個人的な感傷は、お捨てになったのだろう。)
いつの間にか、先ほどの女性は姿を消していた。
会場に流れる調べが優美なメヌエットから艶やかなワルツへと移り、ユベールは周囲に押し出されるようにして女王の前に立った。
純白の長手袋をまとったレティシアの指先が彼を招き、ユベールはその手をとる。
ステップを踏みながら、彼は最初の後悔をした。
体を寄せ合うワルツでは二人の距離が近すぎる。
吐息が彼女の頬に触れはしないだろうか。
だが気持ちとは裏腹に、レティシアの感触はよく馴染んだ。
「・・・ユベール。」
12小節目で、彼女はようやく口を開いた。
「また上達したのね。ウィーンには良いお手本がいらしたでしょう。」
「・・・はい。」

耳元近くで語りかける声音に揺り動かされ、ステップを踏み間違えないようにするのが精一杯だ。
「イタリアでは、つらい思いをさせてしまった。でも貴方がこうして戻ってくれた事を、心から嬉しく思っています。」
彼女の動きは無言の内に、ユベールの負傷した左腕への気づかいがある。
今、レティシアは完全なまでに君主に撤していた。
高雅で気品のある振る舞い。臣下にそそぐ慈愛に満ちた眼差し。
彼女は落ち着いている。
「これからも国のため、力を尽くしてくれますね?」
曲が終わりにさしかかる。
結論は出ているのに、ユベールはすぐに返答することが出来なかった。
「・・・一つだけお聞かせ下さい・・・アンスバッハでの事、陛下ご自身がお決めになったのですか。」
レティシアの背に緊張が走るのが分かった。
ドイツ諸侯が戦火を逃れて集(つど)った都市、アンスバッハで、彼女は内密にバイエルン公爵家との縁談を取り決めたはずだ。
明晰な碧い瞳が彼を真っ直ぐに見上げる。
「そう、すべて私の意志です。」
音楽が止み、新たなリズムを刻み始める。
ユベールは一礼してホールの中央からはずれた。
「ユベール。」
壁ぎわのテーブルへ移動した彼に、レティシアが語りかける。
「フライハルトは、三年前よりずっと複雑な状況にある。難局を乗り越えていくために貴方の力が必要なの。私が、そう判断した。他の誰でもなく。」
レティシアは自分の返答を待っている・・・ユベールは無意識に、下方へ視線をそらした。
「・・・私の忠誠は陛下にのみ捧げています。陛下がお決めになった事であれば、いかようにも従います。」
彼が口にする言葉に、決して偽りはない。
安堵したのか、レティシアの口元がわずかに緩む。
「ありがとう・・・後で部屋に人をやります。今後の相談が必要でしょう。」
「陛下・・・・」

背を向けて立ち去ろうとするレティシアを、彼は呼び止めた。
金色の双眸に宿る光は、燭台の明かりの反射で波のように揺れる。
「戦場で傷つく事が、つらいのではありません。」
会場に流れる舞曲が終わり、踊り手達に周囲から拍手が起こる。
遠ざかるレティシアの後ろ姿は、やがて喧騒と雑踏の合間に消えた。


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