戦前の日本が中国へアヘンを流通させていたことを示す史料が発見されたと、4日の朝日新聞が報道しています;
日本が戦前、中国東北部につくった旧満州国で実施されたアヘンの専売制度をめぐり、同国の中央銀行だった「満州中央銀行」が、生産や販売に資金を提供するなど制度確立に重要な役割を果たしていたことが明らかになった。愛知県立大の倉橋正直教授(中国近現代史)が、中国・吉林省の公文書館にあたる「档案館(とうあんかん)」が保存していた同銀行の内部文書を入手した。同国は建国当初からアヘンを歳入の柱の一つとしており、背後にあった当時の日本のアヘン戦略の全体像を解明する手がかりになる可能性もある。
満州国のアヘン専売は建国された1932年度に始まった。今回見つかったのは、同銀行が保管していた33年度(同国年号で大同2年度)の「阿片専売特別会計」の一部や、アヘンの原料となるケシの栽培農家に同銀行が費用を貸し出していたことを示す36年(同康徳3年)の資料など計約260ページ。档案館には同銀行の内部文書が約5万点収蔵されており、その中に残されていた。
「阿片専売特別会計」は、アヘンの集荷や原料からの製品化を受け持つ専売公署と同銀行との資金のやりとりの記録。首都の新京(現・吉林省長春市)にある公署以外に、計10カ所あった専売支署が同銀行分行や支行と個別に資金を収受していた状況が記されている。
専売発足直後で軌道に乗っていなかったためか、「鴉片(あへん)作業費 減額 6842976,12」などと年度末に収入見込みの減額を赤い数字で記した文書が多かった。一方で「違法阿片」を押収してその分を繰り入れたことによる収入増を「臨時密生産鴉片収納費 新規 36845」と黒字で記した文書もあった。
各専売支署は地域ごとの販売権を政府指定の卸売人に独占させ、アヘンを流通。35年7月30日付の「阿片収売人並ニ卸売人ノ保証金利息支払ニ関スル件」とした専売公署の通知は、卸売人から預かった保証金の利子を同銀行から各卸売人に支払うよう求めていた。
アヘン輸出は国際法違反とされていたが、日本は国内で生産したアヘンを中国大陸に大量に流通させた。満州国でのアヘン専売は、同国を日本の傀儡とみなした国際連盟から非難を浴びたが、制度は敗戦まで継続した。
《解説》
日本のアヘン戦略の起源は、日清戦争による台湾領有にさかのぼる。当初、行政担当者らは台湾に多数いた中毒患者への対応に苦慮し、専売制を導入することになった。アヘンを国家統制することで中毒患者を徐々に減らす政策だったが、施行までに領有から約3年を要した。
一方、旧満州国では、成立とほぼ同時にアヘン専売制が始まった。日本側に植民地での過去の経験があったとはいえ、素早い専売制の開始は、今回明らかになった満州中央銀行による資金的な支えがあって初めて可能になったといえる。
アヘンの販売収入は、国家建設の費用を集めるため日本国内で販売された建国公債の担保にも充てられていた。中毒患者への人道的措置を名目にしていたアヘン専売が、国家財政を支える収入源として計算されていた実態を裏付けている。
2006年1月4日 朝日新聞朝刊 14版 30ページ「旧満州国の中央銀行 アヘン専売制へ資金」から引用
イギリスが大量のアヘンを中国に持ち込んで「阿片戦争」になったということは歴史で習いましたが、日本にもアヘン戦略などというものがあったとは習いませんでした。戦争中、政府が国民にひた隠しにしていたことは沢山ありますが、地道な研究を積み重ねて史実を明らかにしていくことは良いことだと思います。