ジャーナリストの斎藤貴男氏は著書「ルポ 改憲潮流」(岩波新書)で、近年のお粗末な改憲論議に警告を発した日弁連の宣言を紹介した上で、昨今の改憲論議のどこが問題なのか、次のように述べています;
日本弁護士連合会(日弁連)は二〇〇五年十一月十一日、人権擁護大会を開いていた鳥取市で、「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」を採択した。同宣言は、昨今の改憲論議の高まりに鑑み、検討・研究を重ねたとして、次のように述べている。
【改憲論議のなかには、憲法を権力制限規範にとどめず国民の行動規範としようとするもの、憲法改正の発議要件緩和や国民投票を不要とするもの、国民の責任や義務の自覚あるいは公益や公の秩序への協力を憲法に明記し強調しようとするもの、集団的自衛権の行使を認めた上でその範囲を拡大しようとするもの、軍事裁判所の設置を求めるものなどがあり、これらは、日本国憲法の理念や基本原理を後退させることにつながると危惧せざるを得ない。
当連合会は、憲法改正をめぐる議論において、立憲主義の立場が堅持され、国民主権・基本的人権の尊重・恒久平和主義など日本国憲法の基本原理が尊重されることを求めるものであり、二十一世紀を、日本国憲法前文が謳う「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」が保障される輝かしい人権の世紀とするため、世界の人々と協調して人権擁護の諸活動に取り組む決意である】
この直前に相次いで公表された自由民主党の「新憲法草案」、および民主党の「憲法提言」に対する、強烈な危機意識の反映だった。ちなみに立憲主義(近代立憲主義)とは、ともすれば暴走して国民の人権を侵害しがちな国家権力に縛りをかけるための憲法、という考え方のことである。詳しくは後述するが、これぞ近代憲法の原理原則であり、グローバル・スタンダードであると言ってよい。
人民を支配する王権は神から授けられたものであり、王は神に対してのみ責任を負うとされた 「王権神授説」の唱えられた時代から、幾多の市民革命を経た後に、人類がようやく辿り着いたひとつの境地。ところが日本における、このところの改憲論議は逆に、あるべき国民像を憲法で定めようとでも言いたげな方向に進みかけている。特に自民党の主流派は近代立憲主義への嫌悪感を隠そうともせず、国家あっての個人、という発想を露骨に打ち出してきた。
斎藤貴男著「ルポ 改憲潮流」岩波新書、34ページから引用
法律の専門家の宣言に述べられているように、
・憲法を国民の行動規範にしようとする
・憲法改正の発議要件緩和や国民投票を不要とする
・国民の責任や義務の自覚あるいは公益や公の秩序への協力を憲法に明記し強調しようとする
・集団的自衛権の行使を認める
・軍事裁判所の設置を求める
というようなことを盛り込んだ改憲案では、現在の憲法を一昔前のものに逆戻りさせてしまうもので、明らかに改悪です。そういう改憲案には、我々は反対せざるを得ません。
ちなみに「国家あっての個人」という倒錯した発想を持つ人は、時折見かけられますが、戦前の政府が国民にかけた催眠術をいまだに引き継いでる人たちなわけで、早く目を覚ましてほしいものでございます。