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加藤浩子の La bella vita(美しき人生)

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April 10, 2013
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 ワーグナーには疎いのですが、それでも、これまでの音楽体験で、ワーグナーに「しびれた」経験はあります。それも、鮮烈に。

  一度目は、カール・ベームがウィーン・フィルと来たときのコンサート。まだ子供でしたが、メインのブラームスの1番にしびれ、そしてアンコールで演奏された「マイスタージンガー」の前奏曲で鳥肌が立ちました。「この世に生まれてきてよかった」と思ってしまったのだから、強烈でした。だから、ワグネリアンになる素質がないわけじゃない、と思ってはいるのです。

 2度目の鳥肌体験は、これまでの人生でただ一度だけ訪れたバイロイト音楽祭でのこと。シノーポリ指揮する「パルシファル」でした。それが「パルシファル」初体験だったのだから贅沢な話です。物語の展開はまるでわかりませんでしたが、 半分以上蓋をされたオーケストラピットから、まさに湧き出てくる音楽に魅了されました。柔らかく、神秘的で、繊細で、「銀いろの音楽」と形容したくなる音楽に包まれる至福。「パルシファル」は、ワーグナーがバイロイトでだけ上演するように指示した作品ですが、心からうなずけてしまったのです。

 その後、「パルシファル」には何度か実演で接する機会がありました。舞台上演のこともあれば、演奏会形式のこともあった。けれど、正直なところ、あの魅了された記憶からは遠かった。バイロイトで銀いろに聴こえた音楽が、下手をすると金属的に聴こえてしまうのです。「銀いろ」と形容したくとも、即物的な「銀色」になってしまう。

 生演奏ではないにもかかわらず、久しぶりに、「銀いろ」に近い音楽を体験することができました。 

 ダニエレ・ガッティ指揮する「パルシファル」。メトロポリタンオペラ恒例のライブビューイング、ワーグナー生誕200年の記念と位置づけられた公演です。

 指揮のガッティは、ミラノ出身のイタリア人ながらワーグナー指揮者として名声を得ているひと。バイロイトでもこの演目を得意としています。数年前にドレスデンの聖母教会で、彼の振る「パルシファル」(演奏会形式)を聴いたドレスデンの歌劇場のスタッフは、「ひざまずきたくなった」と言うくらい感動していました。最近では彼がヴェルディを振ると、どうもワーグナーくさいな、などと思ってしまうほど(笑)。 

 さすが、といったらいいのでしょうか。冒頭から、あの沸き上がるような感触がよみがえったのに驚きました。光り輝く銀の糸を織ったような音楽が、次から次へと際限なく続く。吸い込まれそうになる快感。

 (今回の演出では)金色に輝く「聖杯」が登場していた「パルシファル」、ならば金いろの音楽と形容してもいいのかもしれませんが、私が勝手に描くイメージはやはり「銀」なのです。 最晩年の最後の作品、というのもあるのかもしれない。ヴェルディの最後の作品「ファルスタッフ」も、やはり銀いろの作品だなと思います。「ファルスタッフ」に流れているのは銀いろの微笑です。そして「パルシファル」に流れているのは、そう、やっぱり、銀いろの思想といったらいいのでしょうか、そのようなものを感じます。

 私がワーグナーが得意でない理由のひとつは、おそらくテキストにあります。彼の作品でもっとも人間的というか、身近な血の通ったドラマがある「マイスタージンガー」にしても、芸術論的な部分になるとすっ、と遠ざかってしまうのです。目に見えないシャッターが下りてしまう。なぜか自分でもわかりません。これがヴェルディだと、目をつぶってもテキスト=ドラマ、を感じてしまえるのに。

 ある優秀なワーグナー研究者の方が、ある解説書で「ワーグナーのテキストが苦手なひとは最終的にワーグナーが好きになれないのではないか」と書いていましたが、なるほどと思っています。私はオペラという芸術に、ワーグナーが託したようなことを求めていないのでしょう。音楽を聴くのはまったく抵抗がないのですが。。。

 なので、理解するにはほど遠い接し方ではありますが、やはり音楽の力は素晴らしく、ただただ身を委ねてしまったのでした。

 音楽的にずば抜けていたのは、指揮だけではありません。歌手陣もほんとうに素晴らしかった。

 タイトルロールのヨナス・カウフマンは、この役のために生まれてきた、といいたくなるほど。ちょっとくもりのある光り輝く声はよく通り、音楽の高まりとともにエネルギーを帯びて行くように感じられました。第2幕のクンドリとの凄まじい二重唱をくぐり抜け、第3幕ではパルシファル同様生まれ変わったようになり、「愚か者」だった第1幕とはまったく違う眼光を発しているかのようでした。

 カウフマン同様、あるいはそれ以上に魅了されてしまったのは、アンフォルタスを歌ったペーター・マッティ。北欧出身(スゥエーデン)ながら柔軟で、ベルカントの香りのあるバスは、イタリアオペラにも適性がありそうなオールマイティの印象。苦しみにのたうつ演技も迫真でした。インタビューで、「演技が声に影響を与えた部分もあると思う」と語っていましたが、納得でした。ベルカント的なワーグナーもいいなあ、と思えた歌唱でした。

 グルネマンツ役のルネ・パーペ。うまいです。彼ならではのごつごつした手触りも、隠者という役柄にはプラスに働いていたと思います。好きか、ときかれるとちょっととまどってしまうタイプの歌手ではありますが。 

  カタリーナ・ダライマンのクンドリも貫禄で。これだけの歌手を揃えることができるのはメトの力だ、と思うと同時に、ドイツ・オペラの大作の主役陣にドイツ人が顔を揃えられる今のワーグナー歌手の豊饒が、改めて確認された舞台でした。ヴェルディやプッチーニで、主役級に誰もが世界最高峰と認めるイタリア人を揃えるのは、まず難しいでしょうから。。。

 近未来に設定したというフランソワ・ジラールの演出は、世の果てのような荒涼とした世界に残りうるものを模索するかのような印象。暗いといえば暗いですが、作品の性質からいえば不自然には思いませんでした。余分な動きがなく、音楽との間に齟齬がなく、こちらに立ち止まったり考えたりする余裕を与えてくれたように思います。

 いろいろ思ったことのはありますが、そのひとつは、ワーグナーは「母性」にこだわったのだな、ということです。パルシファルの母への憧憬は、ジークフリートとも重なります。よくいわれる「女性」を越えた「母」という枠組みを強烈に感じました。

 対してヴェルディは「父性」です。世界最高のヴェルディ・バリトン、レオ・ヌッチは、ヴェルディは「父になりたかったのです」と言っています。「ファルスタッフ」にも「父」(フォード)がある。最後のオペラになって、父と娘は和解します。それまではさんざん悲劇のなかで命を落としてばかりだったのに。

 パルシファルの切望は克服されたのでしょうか。たぶん、そうなのでしょう。 

 不得手と思いつつ、体験すればしたで色々発見がある。それもまた、ワーグナーの思うつぼなのかもしれません。

 「パルシファル」は今日までです。舞台上演だとしんどい、と思われる方にもおすすめです。とりあえず3人のとびきりの男性歌手を堪能できるだけでも、損はありません。

 http://met-live.blogspot.jp/search/label/10.%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB 

  

  






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最終更新日  April 15, 2013 11:48:38 PM


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