直接喧嘩することが出来ない-公共の福祉とは何か
公共の福祉とは「人権間の矛盾・衝突を調整する原理」だという見解があって、なにやら人権同士が直接ぶつかり合うかのような表現なんだけども、人権が対国家のみに主張可能な権利(無効力説、間接適用説)だとすれば、人権同士が直接矛盾・衝突するなんてことはありえないはず。つまり、国家だけが人権を侵害できるのであって、「私人Aさんが」人権Aを行使したことによって私人Bさんの人権Bが侵害されるなんて事態、およそ発生しないってこと。おそらくこういうことをいいたいんでしょう。たとえば、現在の利益状況が 人権A 100 人権B 100だとして、国家が人権A保護法をつくって執行・適用すると、その結果、 人権A 150 人権B 50になるような場合のこと(数字が多いほど利益が増えるという意味)。人権同士が直接ぶつかりあってるのではなく、国家が人権Aを保護しようとすると国家は人権Bを侵害することになる、というように、あくまで国家が間にはさまっているわけ。もちろん、こういう状態のことを「人権間の矛盾・衝突」と表現しているのでしょうけど、なんか誤解を招きそうな表現だと思うんで。伝統的な人権観では、国家が「国家のために」私人の利益を侵害することに対抗するための手段が「人権」だったと思うのですが(甲型人権といいます)、人権A保護法が違憲かどうかを論ずる際に出てくるBの人権ってのは、国家が「私人Aのために」私人Bの利益を侵害することに対抗するための手段なわけですよね(乙型人権といいます)。だから、無効力説や間接適用説の人たちがこだわっている伝統的な人権観とは意味合いが違ってきちゃってるんじゃないですか。 甲型 国家 → 私人 乙型 私人 → 国家 → 私人(私人間 私人 → 私人)(ただし、私の歴史理解は極めて浅はかなので、伝統的人権観においてもすでに「乙型人権」が含まれていたのかもしれません。もしそうだとすれば、「対国家」といってもタイプの異なるものがあるんですよ、という限度でご理解ください。)乙型人権を素直に取り込むためには、やっぱし基本権保護説の枠組みに依ったほうがよさそうな気がするんですがどうでしょうか。国家が私人Aの利益を保護するためにどこまで私人Bの利益に介入してよいかって視点は基本権保護説によるものでしょ。余談ですが、公共の福祉の中身について、人権を制限できる根拠となるのは「人権」だけではなく「公益」も理由となる、って説を採る場合には、これまでの記述のうち「人権A」のところを「公益」に書き換えることになるんですが、論旨がかわってくるでしょうか。たとえば、乙型人権は、 公益 → 国家 → 私人のままなのか、 公益 = 国家 → 私人のように甲型人権とおんなしことになるのかどうか。このへんは公益概念の理解の仕方によるんでしょうけど、そこからはもうついていけません。※追記 8月24日『国家が「私人Aのために」私人Bの利益を侵害することに対抗するための権利』を人権概念に取り込むのだとすれば、裁判所が原告Aの請求を認めて被告Bの権利を制限するという純然たる私人間の問題(通常の民事訴訟)についても、人権問題になっちゃうような気がします。裁判所だって国家なわけだし。もしそうだとすると、もはや無効力説や間接適用説は維持できないんじゃないですか。