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2014.09.20
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カテゴリ:災害記録帳
昭和35年(1960年)9月20日午前1時頃、福岡県田川郡上尊鉱業豊州炭鉱において、出水のため作業中の鉱員220名中67名が遭難するという当時戦後最大の炭鉱事故が発生した。この事故を自然災害の範疇に入れることが適切かどうかは分からないが、直接的な原因となったのは豪雨による河床の陥没だった。


豪雨による増水で河床が陥没、坑道へ流入

事故についての資料はあまり残っていないが、「参議院会議録情報 第035回国会 商工委員会 第4号」に現地調査を行った阿具根登委員(元日本社会党参議院議員)の昭和35年10月15日の発言が記されており、その引用を中心にまとめる。

豊州炭鉱は、当時従業員800名余り、月産約1万2000トン、主として国鉄と九州電力に売炭しており、中小炭鉱としては従来、生産面、保安面でもかなりの好成績をおさめてきた炭鉱だった。

災害の発生は9月20日午前零時過ぎ、抗夫の一人が坑口から150m付近で坑道に水が吹き出しているのを発見、報告により、ただちに係員が現場を見て事態を知り、坑内の詰所に退避の連絡をした。

坑内の作業場は、芳の谷区域と大焼区域に分かれ、両区域とも坑口から2000m以上、地表から約300mの深さであり、芳の谷区域については連絡がとれたものの、大焼区域は落盤によって電話線が切断され、ついに連絡がとれず、両区域合わせて67名の行方不明者を出すに至った。
この坑内に流入して大惨事を起こした水は、坑口から約250m離れた中元寺川の川底が陥没したことで、古洞を伝わって川水が流入したので、当日の午前3時には、坑口から15mの位置まで水位が上昇してきた。

前日には、北九州一帯に豪雨があり、中元寺川の水量がふえていたことも要因と思われる。また水量の多さにより事故発生後の防水作業も困難さをきわめたという。
消防団の協力によるほか、自衛隊の応援を求めて懸命の防水に努め、21日12時過ぎ、ようやく川底の陥没孔の締め切りに成功した。
坑口近くまで上昇していた坑内の水位は、陥没孔を塞いだことで徐々に低下したが、坑口から180m付近で大落盤により坑道は閉塞され、救助は絶望的だった。


事故の背景となった古洞の存在

川底の陥没孔は30mある川幅の2/3もの大きさで、周囲に土のうを積むことで仮の防水工事が施した。陥没孔の深さは4m余りで、川底から3mほどの場所に炭層が出ており、孔の底から古洞が川底に広がっているのが認められた。
この古洞はかなり古く採掘されたものであるとされたものとされるが、川底直下まで掘った無謀さが仇になった。

また、川底陥没地点の周辺では、事故の数カ月前から地下に相次いで異変が起きていたことも分かった。
陥没孔から4mほど離れた民家の土間や庭先きに大きな穴があいて家がつぶれ、穴から火柱が上がり煙を吹いて石炭燃焼のにおいを放ったり、近所の十数戸の井戸水が温泉のように温かい湯となるなど、周辺の人々が深刻な不安を訴えていという。
これは古洞の中で火災が起こっているためと思われ、まだ消火方法について何らの方途も考えられていなかったという(倒壊した家屋の住人が自分の家の床下から石炭盗掘を行なったことが発覚した事件もあったとされる)。

当時筑豊の中小炭鉱で多数の死者を出した出水事故のほとんどは古洞から噴出した水によるものであった。豊州炭鉱の事故の原因は川水の流入というまったく前例のないものながら、川底陥没の原因となったのは、やはりこの所在の不明の古洞によるものだった。
戦災で古い記録が焼失したこともあり、過去の採掘跡や古洞の場所は把握できていないことが多かったという。また中小炭鉱では、石炭の景気変動で経営者が変わることが多く、採掘跡の引き継ぎが不完全であったこと、さらに筑豊一帯には盗掘による非合法の坑道跡が無数にあって監督官庁も把握できていなかったことも背景としてあった。

事故後、閉塞された坑道とは別坑道を掘削するなど懸命の救助が試みられたが見通しは立たず、通産省の勧告により救出は断念され、67名は現在も地底に眠ったままとなっている。
この事故により豊州炭鉱は閉山された。

発端は自然災害的な要素が強いが事故そのものは人災といっていいだろう。
自然を顧みない乱開発を行えば自然災害に対しての脆弱さが増すことは現代でも変わるものではないことは記憶にとどめておきたい。

豊洲炭鉱1960.jpg
<1950年5月国土地理院撮影の空中写真(KU601YZ C1-77)に見る豊洲炭鉱と中元寺川(地図・空中写真閲覧サービスより)>

豊洲炭鉱跡.jpg
<現在の豊洲炭鉱跡地。ボタ山は住宅地広場に転用されている。住宅地の中に慰霊碑が残る(地理院地図より)>





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Last updated  2016.03.06 14:24:19
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