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39年前、つまり1973年の9月11日に南米のチリでオーグスト・ピノチェトを中心とする軍人によるクーデターがあり、サルバドール・アジェンデ政権が倒された。クーデターを仕掛けたのはアメリカのリチャード・ニクソン政権であり、指揮していたのは大統領補佐官を務めていたヘンリー・キッシンジャーだ。
ほかの南米諸国と同じように、チリもアメリカの巨大資本に支配される国だった。アナコンダやケネコットのような鉱山会社やペプシ・コーラ、ITT、チェース・マンハッタン銀行などの植民地とも言える状態だったのである。 ところが、1970年9月に予定されていた大統領選挙で社会党のサルバドール・アジェンデが当選する可能性が高まり、アメリカの支配層は慌てる。そこで1969年12月にアメリカ政府はアジェンデの当選を阻止するための作戦を練り始めるのだが、その中心にいた人物がNSC(国家安全保障会議)で秘密工作を指揮していたキッシンジャー。 実際に選挙でアジェンデが勝利すると、ニクソン大統領はキッシンジャー補佐官のほか、リチャード・ヘルムズCIA長官、ジョン・ミッチェル司法長官と協議、経済制裁や外交的な圧力だけでなく、軍事クーデターを準備することが決まり、CIAが動き始める。 CIAが先ず行ったことはクーデターを実行する軍人の選定。その過程でチリ軍のレネ・シュネイデル参謀総長は選挙結果を尊重すべきだと考えていることがわかり、まず参謀総長の排除から始めることになる。 1970年10月19日、クーデター派はシュネイデル参謀総長を襲撃したものの、暗殺には失敗してしまう。そこで22日に再度襲撃、このときに参謀総長は致命傷を負い、25日に死亡した。 その一方、アメリカの金融機関だけでなくIBRD(国際復興開発銀行)、つまり世界銀行もチリに対する融資を止めてしまい、1972年9月には労働組合にストライキを実行させて社会不安を煽った。チリに限らず、労働組合がCIAの手先として動くケースは少なくない。 1972年10月にアジェンデ大統領は非常事態を宣言、そして翌年の9月11日にピノチェトがクーデターを成功させ、独裁者として君臨することになる。ソ連時代の東ヨーロッパで「民主化勢力」とされていた人びとはこのクーデターを民主化勢力が独裁者を倒した革命だとしていたが、「西側」では民主的プロセスを経て成立した政権をアメリカは暴力的に破壊したと認識され、アメリカに対する評価を大きく損なうことになった。 クーデター後、ピノチェト政権はアジェンデ政権の主要閣僚やクーデターに反対した軍人を抹殺する作戦を展開する。例えば、1974年9月には陸軍総司令官/国防相だったカルロス・プラッツ将軍が亡命先のアルゼンチンで暗殺され、76年9月にはオルランド・レテリエル元外務大臣がアメリカのワシントンDCで殺されている。レテリエル暗殺計画を事前にCIAは知っていたと疑われているが、そのときのCIA長官がジョージ・H・W・ブッシュである。 こうした要人の暗殺だけでなく、クーデター後にピノチェト政権は数万人を拘束、最初の3カ月間に数千人が殺されたと言われている。その中にはアメリカの巨大資本にとって邪魔だと判断された人びとも含まれていた。 そしてチリに入ってきたのが「シカゴ・ボーイズ」とも呼ばれているミルトン・フリードマンの弟子たち。反対勢力が粛清された環境の中、「新自由主義経済」を導入、「公営企業の私有化」と「債務の社会化」を推進した。チリの通貨であるペソを過大に評価(ドル安)することで贅沢品が流入、一見すると経済が活性化されたように見えたのだが、国内の製造業は崩壊し、チリ経済は破綻した。結局、富は一部に集中して国民の45パーセントが「極度に貧困」か「貧困」という状態になったのである。 こうした経済状況を肯定的にとらえ、イギリスのマーガレット・サッチャー首相に売り込んだのがフリードマンの師、フリードリッヒ・フォン・ハイエクだ。ピノチェトの軍事クーデターは経済クーデターでもあった。その波はイギリスからアメリカ、日本、中国、ロシアへと広がっていく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.09.10 23:06:28
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