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《櫻井ジャーナル》

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2013.08.12
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 1985年8月12日、羽田空港発、伊丹空港行きの日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落し、乗員乗客524名のうち520名が死亡した。この「事故」に対する日本政府の対応は東電福島第一原発事故と似た点がある。外部の支援を拒否、状況を悪化させたということだ。

 異常事態が発生したのは羽田空港を離陸した12分後の18時24分。コックピットから東京管制部へ羽田へ戻りたいので、2万2000フィートまで降下したいと連絡、すぐに「操縦不能」と伝えている。そして18時58分に墜落。

 この間、機内で急減圧が起こった可能性はきわめて低い。急減圧に伴って起こるはずの現象が報告されていないうえ、機長は酸素マスクをつけていないのである。JAL123便が飛行していた高度で急減圧が起こると、酸素マスクをつけていなければ数分で意識は朦朧としてくるという。

 ちなみに、その当時に出されていた運輸省航空局(現在は国土交通省航空局と気象庁)監修のAIM-JAPANには、2万フィートでは5から12分間で修正操作と回避操作を行う能力が失われ、間もなく失神してしまうと書かれていた。

 ところが、「事故調査報告書」は運輸省航空局に挑戦する。医学的常識や他の実験を否定し、急減圧があっても「人間に対して直ちに嫌悪感や苦痛を与えるものではない」と主張したのだ。事故調査で急減圧実験を担当したのは自衛隊の航空医学実験隊に所属していた小原甲一郎。医学常識と報告書の記述が相反することについて小原は説明していない。

 公式見解が主張するように隔壁が破壊されたなら急減圧になるはずで、急減圧がなかったとするならば、隔壁以外に墜落の原因があるということになる。墜落直前に撮影された航空機の写真を見ると尾翼が消えている。尾翼の約7割は回収されていないようだ。事故原因を探るためにも相模湾周辺の海底を念入りに調べる必要があるのだが、運輸省(現在の国土交通省)に調査する意思はない。

 この話に限らず、123便の墜落事件では奇妙なことが多く、例えば、早い段階で現地の住民から正確な墜落地点に関する情報が伝えられていたとも言われているが、救援隊が現場に到着したのは事件の翌日、13日の8時半頃だった。

 日本政府に対し、墜落地点を正確に知らせたのは住民に限らない。事件当日、123便のそばを飛行していたアメリカ軍の輸送機が墜落現場を特定、報告していたというのだ。

 この情報は事故の10年後、1995年8月に「星条旗」で報道された。C-130に乗っていたマイケル・アントヌッチが当時の状況を詳しく説明している。彼によると、日航機に異常が発生した当時、彼を乗せた米軍機は横田基地に向かって大島上空を飛行中で、日航機の管制に対する最初の緊急コールを聞く。

 18時40分のコールは叫び声のようで、尋常ではないと判断したクルーは横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図り、墜落地点を19時20分に特定、報告している。

 運輸省に捜索本部が設置されたのは19時45分なので、捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を把握していた可能性が高く、もし、救援隊が別の場所を探していたとするならば、誰かが意図的に発見を遅らせようとしていたとしか考えられない。

 米軍機が墜落現場に到着した直後、厚木基地から救援チームが現地に向かう。20時50分には救援チームのUH-1ヘリコプター(ヒューイ)が現地に到着、隊員を地上に降ろそうとしたのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されたという。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。

 命令を受けた後もアメリカ軍の部隊は現場にいたのだが、21時20分に航空機が現れたことから日本の救援部隊が到着したと判断、その場を離れている。ところが、日本の捜索隊が実際に墜落現場に到着したのは翌日の8時半。10時間以上、救援が遅れたことになるのだが、この遅れがなければ生存者も増えていたと言われている。

 星条旗紙の記事が出た時期、日本とアメリカは軍事問題で緊迫した場面があった。1994年に細川護煕政権の諮問機関「防衛問題懇談会」が「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書を発表したのだが、国防大学のスタッフだったマイケル・グリーンとパトリック・クローニンは日本が自立の道を歩き出そうとしていると反発したというのだ。

 そして1995年2月、ジョセフ・ナイ国防次官補は「東アジア戦略構想」(ナイ・レポート、あるいはナイ・イニシアティブ)を公表し、10万人規模の駐留アメリカ軍を維持するだけでなく、在日米軍基地の機能を強化、使用制限は緩和/撤廃されるという構想を示した。

 1996年4月に出された「日米安保共同宣言」によって日米安保の目的は「極東における国際の平和及び安全」から「アジア太平洋地域の平和と安全」に拡大し、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、そして99年の「周辺事態法」につながる。

 自衛隊が一気にアメリカ軍の戦略へ組み込まれていった、いわば傭兵化が進んだわけだが、その出発点に星条旗紙の記事がある。日本航空123便の墜落に自衛隊、あるいは日本政府の機関が関係し、何らかの責任があるとしたならば、アントヌッチの証言は日本の支配層を震え上がらせたことだろう。





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最終更新日  2013.08.13 13:48:06



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