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《櫻井ジャーナル》

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2014.01.12
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 アメリカ陸軍が沖縄(名護、首里、石川/うるま市など)で生物兵器の実験を1961年から62年にかけて少なくとも十数回にわたって実施したと共同通信が伝えている。カビの一種である「いもち病菌」をさまざまな条件で水田に散布し、その効果を確認していたという。

 東アジアから東南アジアにかけて広く栽培されている稲。約6000万人を養えるだけの稲にダメージをあたることが目的だが、1960年代初頭の段階でアメリカは東/東南アジアでの戦争を見通していたということになるだろう。(1945年の段階で朝鮮半島とインドシナ半島での戦争を想定していた可能性が高いことは、本ブログですでに指摘している。)

 勿論、アメリカ軍は1950年代に朝鮮半島で戦争している。日本では北からの奇襲攻撃ということになっているが、少なくとも、そう決めつけているのは日本くらいだ。いわゆる「開戦」の2日前から韓国空軍は北側を空爆、地上軍は海州を占領し、ダグラス・マッカーサーに同行していた歴史家のジョン・ガンサーによると、朝鮮半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだったと言われているなど、アメリカ/韓国が仕掛けたことを示す情報もあるからだ。

 実は、朝鮮戦争の前からアメリカの破壊工作部隊(ジェドバラのグループ。OPCを経てCIAの計画局/作戦局で活動)は中国で戦争を始めている。つまり、第2次世界大戦が終結した直後、中国で国民党軍を支援し、国民党の体制を樹立させようとしていたのだ。

 しかし、1949年1月に人民解放軍が北京へ無血入城、その年の10月には中華人民共和国が成立する。その翌年の6月に朝鮮戦争が勃発した。

 そうした中、1951年4月にCIA(すでにOPCはCIAの内部に潜り込んでいた)は約2000名の国民党軍を率いて中国領内に軍事侵攻したが押し返され、52年8月の軍事侵攻も人民解放軍の反撃で失敗に終わった。朝鮮戦争が停戦になるのは1953年7月のことである。

 翌年の1月になると、ジョン・フォスター・ダレス国務長官がベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案、CIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成して6月には団長のエドワード・ランズデールがサイゴン(現在のホーチミン市)へ入っている。この胡散臭い人物については別の機会に書くことにして、今回は割愛する。

 ジャーナリストのジョン・ミッチェルによると、朝鮮戦争が休戦になった翌年、SMMが活動を開始した1954年にアメリカは水素爆弾を搭載したF100戦闘爆撃機を沖縄の嘉手納空軍基地に派遣、その後、次々に核兵器が沖縄へ持ち込まれ、1962年には核ミサイル発射場が稼働、8基のメース・ミサイルが発射管に装填された。このミサイルは大戦中にドイツ軍が使ったV-1ロケットの後継で、ミサイルに取り付けられた核弾頭は広島に投下された爆弾の75倍以上の破壊力を持っていたという。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1957年初頭にアメリカ軍はソ連に対する先制核攻撃の準備を開始、1961年の夏、軍の好戦派は大統領に就任して半年ほどのジョン・F・ケネディ大統領に対し、1963年の後半にソ連を核攻撃するという計画を説明したという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMを準備できるということだった。

 ケネディ大統領はこうした計画に反対しているが、そうした絡みからキューバを装って破壊活動を繰り返し、旅客機撃墜を演出する「ノースウッズ作戦」が考えられたわけだ。キューバの「テロ」に対する報復という形でキューバへアメリカ軍が直接、軍事侵攻するという計画だったが、これもケネディ大統領に潰されたようだ。そして1963年11月に大統領は暗殺される。

 今回、共同通信が伝えた生物兵器の実験は、そうした軍事的緊張の中で実施された。この時期、化学兵器のエージェント・オレンジも沖縄へ運び込まれている。これが北太平洋にあるジョンストン島へ移動されたのは1972年のことだったという。





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最終更新日  2014.01.13 13:20:40



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