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《櫻井ジャーナル》

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2016.01.16
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 安倍晋三など好戦派が導入を目論んでいる「国家緊急権」とは「クーデター権」にほかならない。アメリカ支配層の傀儡である一部の「エリート」が全権を握るための仕組みで、アメリカで行われていることを真似したのだろう。

 アメリカでは似た仕組みを使って憲法を麻痺させ、世界制覇を目指して侵略戦争を始めた。その準備は1980年代の前半から始まっているが、始動する引き金になったのは2001年9月11日の出来事。ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省(ペンタゴン)が攻撃されたのだが、そのショックを利用し、攻撃と無関係なアフガニスタンとイラクを先制攻撃したのが始まりだ。

 アメリカは1970年代の後半、ソ連と戦わせる目的でワッハーブ派で構成される戦闘集団を編成した。軍事訓練と武器/兵器の供給はアメリカが担当、司令官の人選はパキスタンの情報機関、資金はサウジアラビアが提供、イスラエルも協力していた。戦闘員の大半が信じているワッハーブ派という宗派はサウジアラビアの国教。そうしたプランを考えたのがズビグネフ・ブレジンスキーだ。1979年12月、ソ連軍はブレジンスキーの思惑通り、アフガニスタンへ侵攻してくる。

 こうして養成された戦闘員のリストを「アル・カイダ(データベース)」と呼ぶのだと2005年7月に指摘したのは1997年から2001年までイギリスの外相を務めたロビン・クック。なお、この事実を書いた翌月、クックは保養先のスコットランドで心臓発作に襲われて死亡してしまった。享年59歳。

 2001年9月11日以降、アル・カイダは「テロ」の象徴となり、国内のファシズム化と国外での軍事侵略を正当化する口実に使われることになった。そのアル・カイダ系武装集団LIFGとNATOが連携していることが発覚したのは2011年、リビアでムアンマル・アル・カダフィ体制が倒された際。LIFGのリーダーがその事実を認め、カダフィが惨殺された直後にはベンガジの裁判所にアル・カイダの旗が掲げられ、その様子を撮影した映像がすぐにYouTubeにアップロードされた。イギリスのデイリー・メール紙などもその事実を伝えている。その後、新しい「タグ」としてIS(ISIS、ISIL、ダーイッシュなどとも表記)が登場してくる。

 日米の支配層が国家緊急権を発動させたいと考えた場合、アル・カイダの仕組みを利用することも考えられる。傭兵を集め、「国家緊急事態」を演出できる。「9/11」のように都合良くクーデターの引き金になる出来事が起こるとは限らないが、そうした出来事を演出することは可能。柳条湖事件のように、偽旗作戦を実行するということだ。

 柳条湖事件とは、中国侵略を正当化するため、日本が仕組んだ偽旗作戦。1931年9月、独立守備歩兵第2大隊第3中隊付きの河本末守中尉が部下6名を連れて柳条湖へ向かい、今田新太郎大尉が用意した爆弾を南満州鉄道の線路に仕掛けて爆破(音だけだったとの説もある)、その爆破音を合図にして第3中隊長の川島正大尉は部下を率いて中国軍を攻撃して「満州事変」を始めたのだ。その後、約4カ月で中国東北部を占領している。

 日本のエリートが服従しているアメリカの支配層は他国を侵略し、自分たちに都合の良い体制へ作り替え、私腹を肥やしてきた。名誉勲章を2度授与された伝説的なアメリカ海兵隊の軍人、スメドリー・バトラーは1931年に退役した後、35年に『戦争は犯罪稼業』という本を出した。軍隊は支配層のために押し込み強盗を働き、用心棒として利権を守る存在だと主張しているが、全くその通りである。

 バトラーは1898年に16歳で軍隊へ入るが、その半年後、同年7月にはキューバで任務に就いている。その年の2月にアメリカ海軍のメーン号がハバナ港で爆沈するのだが、それをスペインによる破壊活動だとアメリカ側は主張、4月に戦争を始め、キューバだけでなくプエルトリコ、グアム、フィリピンを手に入れた。今では自作自演説が有力だ。つまり侵略を正当化するための偽旗作戦だった可能性が高い。

 バトラーが退役した翌年にはアメリカで大統領選挙があったのだが、大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働き、ウォール街を後ろ盾にしていたハーバート・フーバー大統領は再選されなかった。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。ルーズベルトは支配層の出身だが、巨大企業の活動を規制して労働者の権利を認めようとする一方、ファシズムや植民地に反対する姿勢を見せていた。

 この選挙結果に衝撃を受けたウォール街の大物たちはクーデターを企てる。この事実はバトラー少将と彼ら過剰を得て取材していたジャーナリストのポール・フレンチが議会で証言している。当然、その内容は公的な記録として残され、日本でも確認が可能だ。ルーズベルトは病気だと新聞を使って宣伝、在郷軍人会を動員して大統領の座から引きずり下ろしてファシズム政権を樹立させようとしていたという。

 軍隊で人望の厚いバトラーを抱き込まなければクーデターは成功しないと巨大資本は判断、彼に接近するのだが、拒絶される。「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」とカウンター・クーデターを宣言、内戦を覚悟するように伝えた。1934年の議会証言でバトラーはこの事実を証言している。

 このクーデターで中心的な役割を果たしたと言われているのがJPモルガン。その総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻の従兄弟であるジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として日本へ赴任している。グルーの妻、アリスは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代に日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と親しい関係を築いたという。

 グルーを駐日大使に任命したのはフーバーだったが、1933年にアメリカの大統領は政策が大きく違うルーズベルトへ交代する。状況がそのように変化したにもかかわらず、日本は中国侵略を進め、泥沼にはまり込んでいった。

 しかし、この侵略戦争で日本の支配層が負けたとは言い難い。略奪した財宝は行方不明のままで、最高責任者だけでなく、特高警察や思想検察の人脈は戦後も生き残って要職につき、新聞の責任も問われなかった。少なからぬ軍人や特務機関員がアメリカの下で働き始めている。

 日本が略奪した財宝は第2次世界大戦後、アメリカの一部支配層が回収したと見られている。「ナチ・ゴールド」と同じ構図だ。それに対し、侵略を受けたソ連や中国は疲弊、惨勝とも表現された。アメリカの支配層が戦争で甘い汁を吸ったことは間違いないが、おそらく、戦争に懲りていない日本の「エリート」も少なくない。その子ども、孫の世代になると、欲望だけが残っているようだ。そして「国家緊急権」が出て来た。





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最終更新日  2016.01.17 12:47:36



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