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《櫻井ジャーナル》

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2017.09.10
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クリストファー・ノーランが監督した映画「ダンケルク」が話題になっているようだ。タイトルから容易に推測できるが、フランスの港町ダンケルクから1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人が撤退した作戦を映画化したものだ。

第1次世界大戦の後にドイツは多額の賠償金支払いを強要され、領土を削られた。その際に東プロイセンが飛び地になり、さまざまな問題が生じる。その領土問題を解決するためにドイツはポーランドと交渉を続けていたが、イギリスを後ろ盾とするポーランドは強硬姿勢を崩さず、業を煮やしたドイツが1939年9月1日にポーランドへ軍事侵攻した。

それを見たイギリスとフランスがドイツに宣戦布告するが、この段階でドイツは大規模な戦争を想定していない。そこで半年ほど本格的な戦闘は行われず、イギリスやフランスも動かなかったので「奇妙な戦争」と呼ばれる状況になったわけだ。つまり、イギリス軍やフランス軍はドイツ軍の電撃作戦で敗北したわけではない。

当時、ポーランド軍を指揮していたブワディスワフ・シコルスキは筋金入りの反ソ連(反ロシア)派で、1939年9月30日にパリで亡命政権を作っている。翌年6月19日にシコルスキーはイギリスのウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束、亡命政権はロンドンへ移動する。

シコルスキーの側近のひとりだったユセフ・レッティンゲルは大戦の前からヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた。戦争が終わった後、1952年になるとレッティンゲルはオランダのベルンハルト(ユリアナ女王の夫)に接近、その人脈でアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながり、54年5月にビルダーバーグ・グループと呼ばれる組織を作っている。

アメリカがヨーロッパを支配するため、1948年にACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)が創設されているが、レッティンゲルはそのメンバー。その仲間にはウィンストン・チャーチル、OSS長官だったウィリアム・ドノバン、CIAに君臨するアレン・ダレスも含まれている。ビルダーバーグ・グループはその関連組織だ。

本ブログでは何度か指摘したが、チャーチルはドイツが1945年5月に降伏した直後、JPS(合同作戦本部)に対し、ソ連への軍事侵攻作戦を作成するように命令している。そして5月22日に提出されたのが「アンシンカブル作戦」。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

この作戦は参謀本部に拒否され、チャーチルは7月26日に下野するのだが、ソ連との戦いは続けている。翌年の3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切っている」と演説して冷戦の開幕を告げ、1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、​ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだ​と伝えられている。

ダンケルクの撤退後、ドイツ軍は1941年6月に東へ向かって進撃を開始する。バルバロッサ作戦だ。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、その一方でドイツ軍はカスピ海周辺の油田地帯へも軍隊を進める。そして1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。

ここでドイツの敗北は決定的になった。慌てた米英両国は1943年5月にワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。この上陸作戦の相手はドイツでなく、ソ連だったと言うべきだろう。ドイツとの戦闘を避け、ダンケルクで撤退して兵力を温存、ソ連との戦闘に備えたということになる。

バルバロッサ作戦の際、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動き。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいる。バルバロッサ作戦が開始されたのはその直後、6月のことだ。

スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後、アレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)






その後もアメリカの支配層はナチスの高官や協力者を逃走させ、匿い、雇用している。逃走にローマ教皇庁の一部が協力していたことは広く知られている。それだけでなく、アドルフ・ヒトラーが敗戦直前に死亡したことを示す証拠はなく、南アメリカで目撃されたとする話も語られてきた。アメリカ政府もそうした報告を受けている。





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最終更新日  2017.09.10 11:22:11



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