カテゴリ:カテゴリ未分類
普段、日記をサボりがちなんで、少しずつ小出しにすればいいものを、どうも一気に書ききってしまわないと気がすまないところは、MIDIの場合と全然変わらないのですが(爆)・・・
・・・さて、十字架から降ろされたイエスの遺体を囲んで嘆く人々を描いた図も、古来から数多く描かれてきました。いわゆる「ピエタ」です。ピエタといえば、だれでも真っ先に思い浮かべるのはミケランジェロの彫刻で、イエスの遺体を膝に横たえて静かに祈る聖母マリアの像でしょうが、もちろん昔から絵画の重要な主題でもありました。しかも登場人物は決してイエスと聖母だけとは限りません。前期ルネサンスの巨匠、ボッティチェリの「ピエタ」を見ましょうか。大きな画像を探したんですが見つからなくて、少し見づらいですが・・・ いかがでしょう。中央でイエスを抱えたまま失神するのが聖母マリア、左背後から支えているのが使徒ヨハネです。この絵ではこの二人が中心になっているのは御覧のとおりですが・・・聖書を読む限り、十字架の前?でイエスから声をかけられて以後、聖母マリアは全然聖書に姿をみせていません。埋葬の場はもちろん、その後わが子のお墓参りにも一度も行ってないらしい(汗)ですから、本来イエスの遺体を抱く聖母マリアという構図は、聖書に忠実である限り絶対に成立しないのですね。ところがこうした絵や、とりわけミケランジェロのあのすばらしい彫像(画像は次回お見せしましょうね)から受ける先入観で、「ピエタ」でイエスを抱いている女性といえば、それは聖母マリアであると、私たちは無条件に考えてしまうのでしょう。 では、本来イエスの死を看取り、埋葬に付き添ったはずのマリア・マグダレーナは、この絵のどこにいるのでしょうか? はい、おわかりですね。絵の右下・・・構図からすれば主役を聖母に譲っていますが、なんとイエスの死に顔に顔を寄せ、まるで頬ずりでもしているようではありませんか。その行動という点では、まるで彼女のほうが主役であり、聖母とヨハネは単にマグダレーナの存在をあまり目立たせないために、いわばカモフラージュとして置かれているようにさえ見えてきます。 中世はもちろん、ルネサンス華やかなころといっても、一般市民は聖書そのものにふれる機会はなかったでしょう。その内容は教会で聖職者の説話に語られるのを聞くだけだったと思います。印刷術は発明されていたとはいえ、高価な聖書に直接手を触れて読むことができたのは、一部の有識者・富裕層に限られていたはずです。(パトロンのもとで教養を磨いた画家たちも、聖書をひもとくことはできたでしょう) そして心ある読者なら、マリア・マグダレーナという女性が、イエスと特別な関係にあったことと気づいたにちがいありません。 心ある読者、といったのは、イエスを教会の説く「神の子」としてではなく、「偉大ではあるけれど、ひとりの人間」の行動の記録として、自由な立場で無心に読むことができた人、という意味ですが・・・イエスの埋葬を見届け、その後も墓を守って遺体を清め続けるという、通常の師弟の関係とは思えない彼女の献身ぶり、そしてついに、聖書中最大の奇跡であり、全キリスト教の教義の中心というべきイエスの復活にその証人として立ち会ったという、その存在感の大きさは、たとえその詳しい素性もそれまでの行動も明らかにされないといえ、イエスその人に次ぐほど大きいはずです。画家たちのイメージのなかで、イエスの最も近くにいるべき人として、彼女の姿があったということは当然ではないでしょうか? さて、ここまで書けば、最初にダ・ヴィンチが「最後の晩餐」にマグダレーナの姿を暗号として描き込む必要などなかったはずだ、といった意味はおわかりいただけると思います。ただ付け加えるなら、ヨハネの姿をより女性的に描いて、そこにマグダレーナのイメージをダブらせようとした、ということはありうるかも知れません。そして通常ヨハネのことと解釈されている「最愛の弟子」という称号が、本来与えられるべき人は誰であったかを示そうとした、ということも(十字架の上からイエスが呼びかけたという「愛する弟子」が実は誰のことだったか、を含めて)・・・ さて、いよいよクライマックスが近づいて来たようですね。今日中にできたらもう一段進めたいですが・・・(汗) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.11.14 00:29:34
コメント(0) | コメントを書く |
|