山のトリビア:六甲山編1
さて、アルプスの高峰めぐりもいいけれど、ここらでぐっと視線をローカルに戻して、筆者の一番身近な山の謎にご案内いたしましょう。たぶん、前後2回ぐらい・・・いやもっと大連載になったりして(汗)ローカル、とはいうものの、この山の名前が読めない方は、日本人には珍しいかも・・・ 「六甲山」 ・・・はい、「ろっこうさん」です。神戸市街の背後、西は須磨海岸から東は宝塚まで、東西50kmにわたって屏風のように延々と連なる山脈。あまりよくご存じない方は、せいぜい夜景で有名な観光スポットぐらいのイメージしかお持ちでないかもしれませんが、これがどうして、登るとなると侮れない山なんですよ。山域がやたら広い上に地形も複雑で、家族向けのハイキングコースのすぐ隣に、熟練者向きの岩場や沢が顔を覗かせていたりして、バカにしているとエライ目にあう。・・・だいたい最近じゃアルプスといえども標高の半分ぐらいまでは交通機関で登るのが普通ですけど、歩いて六甲に登るとなったらまさしく平地から1,000m近く体を持ち上げなきゃならないんで・・・最近体力の衰えを痛感してる私としては、全身の勇気を奮い起こさねばなりません(汗)そんな奥の深い多彩な山ですから、明治以降、関西の若い山男たちにとって、この山は格好の修業の場となってきました。本邦ロッククライミングの草分け・RCC創設者の藤木九三氏、「単独行」の加藤文太郎氏(新田次郎氏の「孤高の人」で有名ですね)など、この山で育ち、巣立っていった多くの先人たちの足跡をたどって歩くのも、凡人登山家にとっては大きな楽しみでもありますね。山の写真より、山からの写真のほうが有名かも(汗)さて前置きはこのぐらいに・・・で、この「六甲山」という名ですが、江戸時代中期ぐらいまでは、例によって別の読み方だったようです。「むこうやま」なんですね。漢字は「武庫山」とも書かれました。その名前の起源というのがふるってまして、古代、大和や難波に都があったころ、彼ら都びとにとって、大阪湾をはさんだ対岸に横たわる「向こうの山」だったからだというのが定説です。山だけでなく、現在の阪神間、西宮・尼崎・宝塚などはかつて「武庫郡」と呼ばれてましたし、武庫川という川もあります。その武庫が転じて「兵庫」になった、というのは根拠がない俗説のようですけど・・・(汗)さて、語源はともかく、いまや誰知らぬ者もなくなったような「六甲山」の名称も、実は現代になって、ちょっと複雑な問題をかかえてるんです。・・・ではこの辺であとは次回。予想通り大連載になってきたぞ。ひょっとしたら今夜じゅうに続編UPするかも知れません。