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2016年08月22日
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カテゴリ:大川 充夫
ミツオーです。金沢で書いています。


さて、8月12日、笠松競馬所属の東川公則騎手が、地方通算2500勝を達成しました。


区切りの勝利まであと3勝としてこの日をむかえた東川騎手。
第5レース・第8レースでそれぞれ勝利をあげると、メインの重賞・くろゆり賞でサルバドールハクイに騎乗し、見事に優勝。

(くろゆり賞のゴールシーン サルバドールハクイで優勝し、通算2500勝到達。写真提供=岐阜県競馬組合)


1日3勝で一気に区切りに到達。しかも重賞勝利で決めるという、じつに男前な2500勝達成となりました。


「重賞勝ちで2500っていうのは、まったく偶然ですね。
ホント、聞くまで全然知らなかった。ねらったわけでもなくね。でもそうなってみたら、よかったなって思います。
でも自分では、『へえ~』みたいな感じ」


このサルバドールハクイによるくろゆり賞優勝は、熱心な笠松ファンのみなさんや笠松競馬関係者には、東川騎手の通算2500勝達成のほかにも大きな意味がありました。


じつは、笠松競馬所属の古馬による地元重賞制覇は、なんと丸2年ぶり。
2年前の、同じくろゆり賞をタッチデュールが勝って以来、笠松競馬の古馬重賞は、すべて遠征馬が勝っていたのです。


以前もご紹介しましたが、笠松競馬の重賞は、年齢限定の競走もふくめて、ほとんどが地方全国交流やエリア交流。
そうでない競走も名古屋からの遠征馬が強く、たとえば暮れの東海ゴールドカップなども、名古屋所属馬に勝たれる(あくまで笠松目線であることをご承知ください!)ことが続いていました。


年齢限定の重賞もふくめ、昨年(2015年)笠松競馬場でおこなわれた重賞は、すべて遠征馬が優勝。
今年に入って、3歳のハイジャとヘイハチハピネスが、それぞれゴールドジュニアとクイーンカップを勝ち、地元馬による重賞勝ちこそ果たしましたが、古馬による重賞勝ちはさらに久々のことでした。


「最近はね、笠松の馬のレベルが低いのかな?って思うことは、確かにある。
だからハクイ(サルバドールハクイ)が移籍してきたときには、
『お!けっこういい馬、まわってきたんじゃない?』
っていう思いはありましたね。


今回は、勝つか負けるかっていうのは、正直自信はなかったですけど、そこそこやれそうだという気持ちはありました」

(くろゆり賞 口取り。古馬重賞、久々の地元馬による優勝となった。写真提供=岐阜県競馬組合)



笠松競馬といえば、そのキャッチフレーズにもなっているとおり、


『名馬・名手の里』


であるわけです。
オグリキャップを持ちだすまでもなく、数多くの名馬と名手を輩出してきました。


その歴史をご自身の競馬キャリアと重ねてきた名手・東川騎手。
印象に残る馬をたずねると、やはり


「ミツアキタービンですね。
あれはねえ、強すぎました。スゴい馬だなっていうのは誰が見ても当たり前なんですけど、次元が違いましたね。
ボクの乗り馬の中では、突き抜けた存在です」


そのミツアキタービン、どんな馬だったのでしょうか?


「不思議な馬でしたね。
走る馬っていうのは、もっと跳びがよかったり機敏だったり、乗った感じで『これがいいんだ!』っていうのがあると思うんですけど、あの馬は普段からノソ~っと歩くイメージだったし、キャンターですごく跳びがいいのかっていうと、そういうこともなかったし。


ただ、欠点・悪いところもなかったですね。


自分の中では、あの馬は左回りが得意だったんだろうなと思っています。


最初の乗せてもらったのが、盛岡のダービーグランプリ(3着。当時G1)で。
ボク自身も左回りの経験がほどんとなかったんですけど、ボクが何もしなくても手前を上手にかえたんです。
右回りだとちょっと内にささるんですが、左回りで外に張るということもなかったし」


2004年のダイオライト記念で見事、ダートグレード制覇をはたしたミツアキタービンと東川騎手。


「気負うこともなく、力んで乗ったイメージもなくて。
ただ出て、行けたら前に行って競馬できればいいなあとしか考えてなくて。


2番手に行けたときには、いつもの競馬、こんな感じでいいや~、くらいな気持ちでした。


3コーナーでハミをかけたときに、馬がグーっと乗ってきて、松永幹夫さんが乗ってたカネツフルーヴが逃げてたんですが、あれに並びつけるような感じで行ったんですよ。


『あれ?勝つん?』


そんな感じ。並びかけたときには、


『勝つんじゃな~い?』


みたいな感じ。最後はもう無我夢中で追って、気がついたら後ろがえらい離れてた。
勝ってゴール過ぎたときには、


『オレ、とんでもない馬に乗せてもらってるんだな』


って思いました。こんな強い馬、オレが乗ってるんだって。
東川っていう騎手を覚えていただいたのは、ミツアキタービンという馬のおかげですね。
あの馬のおかげで、自分の中で気持ち的なこととか変わったと思います」


笠松を代表する名手の東川公則騎手は、しかし、積極的に騎手を目指してこの世界に入ったわけではないのだとか。


「お袋に、


『あんた、ギャンブルはやったらイカンよ』


って常々言われて育った。
中学生の夏休みに、親父の仕事を手伝いに行ったんですよ。親父は小さな土木関連の自営業をやってました。


出入りの運送屋さんが、ちょっとメシでも食いに行くか、って連れて行ってくれたお店で、調教師さんの奥さんに出会ったんです。
運送屋さんが冗談で、『コイツ騎手にどう?』なんて言ったんですね。そしたら奥さんが急にオレを持ちあげて、


『この子なら大丈夫だ~』


なんて言い出して。
オレはわけがわかんなくて。何が大丈夫なのかもわからないし。何?その騎手って?みたいな。
競馬という仕事があることすら知らなかった。


その方が関口浅男調教師の奥さんで、それが競馬との出会いでした。
このとき偶然お逢いしてなかったら、競馬界とは全く縁がなかったと思いますね」


騎手学校の試験を受けるのもしぶしぶだったという東川少年ですが、ギャンブルの好きなお父さまはたいそう乗り気で、熱心にすすめたそうです。


体力に自信のあった東川少年は、とにかく試験だけは受けることに。


「試験を受けたら偶然にも受かってしまって。
受かったことは率直にうれしかったですよ。何でもね、合格するってのはうれしいもんです。


でも学校に行ったら、全くと言っていいほどシロウトだったので、タイヘンでしたね。
馬のことを知らなさすぎて。作業も遅かったし。つらいっていうか、大変だっていう思いしかなかったなあ。
まるきり競馬ってものを知らなかったから。
それこそJRAっていうものも知らなかったし」


騎手学校からデビュー直後の新人騎手時代、とにかく無我夢中でやるしかなかった東川騎手を、関口調教師はたいへんかわいがってくれたそうです。
乗り馬を数多く用意してくれて、それはありがたく思いながらも、なかなか騎手という仕事に思い入れができなかったといいます。


「ボクねえ、騎手をがんばろうって決めたの、騎手になってからなんですよ。
あるとき調整ルームに、誰かが海外競馬のビデオを持ってきたんですね。何年のブリーダーズカップか知らないけど。
それを見て、


『何だ?これは?』


と。
こんな騎手がいるのかと衝撃を受けまして。アメリカの騎手が、あまりにもキレイなスタイルで乗ってるものだから。


『スゴい。オレもこんなふうになってみたい。オレにもこういうことができるのかな?』


っていうのが始まりで。
それで、もうちょっと騎手をがんばってみようと思ったんです」


見よう見まねで自分でアブミを詰めて乗ってみたり、木馬もなかったため、厩舎の柱に手綱をつけて持ち替えの訓練をしたり、とにかく工夫を始めました。
そんな東川騎手の支えとなったのが、ちょうど10年先輩のあの方。


「幸いなことに、デビュー前から安藤勝己さんにかわいがっていただいてまして、アドバイスを受けたり教えてくださったりしていたんです。


ボクが衝撃を受けて工夫するようになってからも、


『おお、これからの競馬はそういうのがいいかもしれないぞ』


とか言ってくださって。
当時は昔の競馬が主流でしたから。アブミが長くて足を振るような乗り方ね。だから、周囲からは、


『そんなんで馬を追えるわけねえだろ。馬が動くわけねえだろ』


って言われたんですが、アンカツさんは『いい』って言ってくれた。
ちょっとずつ結果が出ると、すごく楽しくなってきてね」


東川騎手は、今年がデビュー30年目のシーズンです。
これまでを振り返って、


「もともと、ボク自身が上手いと思って今までやってきたわけじゃないんです。
ただ上手くなりたいっていう気持ちでやってきてるだけで。だから、まだまだだなあと思って毎日乗ってます。
乗せてもらえたら、よし、チャンスがあったら何とかしたいな、と思うだけで。
『オレなら勝てる』とか思って乗ったことは、ないな。


ほかのひとのことは、考えたことがないですね。自分のことで必死でね。
みなさまが言うほど、ボクはすごくないと思ってますから、自分のことは。


欲を言えば、常に上にいたいなと。どうせやってる以上はね。
笠松でやってるなら笠松で、上のほうにいたいなと。若い子、勢いありますけど負けたくないと思いますね。


山口勲くんは同い年だから、あれだけの数字残してがんばってるのを見たら、まだまだ負けてられないなと思いますし励みになりますよね。


ボクより若くても、もっと勝ってるひとだっているし、それぞれなんですけど。
30年もやってますけど、これからも、もっともっとやりたい気持ちしかないです。


上に、的場さんってひともいますし。川原さんだったりね。川原さんはもともとボクの兄弟子でしたし、尊敬もしてますし。


あのひとたち、乗るスタイルを見ても若々しいじゃないですか。


乗り方がトシ食ったな、って言われないようにね。たとえ50歳になっても60歳になっても、現役バリバリだね!って言われるような騎手になりたいですね。


南関東に行ったときに、的場さんが風呂場に置いてある自転車を黙々とこいでトレーニングしてるのを見て、あれほどのひとが努力してみえるんだなって思って。
ボク、あんまり筋トレってしたことなかったんですよ。攻め馬で、馬乗りの筋肉はできると思ってた。
でも的場さんを見て、ちょっと鍛えようと思って筋トレするようになりました。筋肉って、年齢とともにたぶん落ちるんだろうなと思って。


若いころアメリカの騎手にあこがれた、あの気持ちにかえって、そういう乗り方をしたいなと」
30年目のベテラン・東川公則騎手は、昔のお話も面白いのですが、基本的にさまざまなことが未来志向。
経営の危ない時期・条件のきわめて苦しい時期をも経験し、今また浮上のきざしが見えてきた地方競馬・笠松競馬が、もっともっと良くなるところを現役の騎手として見続けたいという思いが、言葉のはしばしからうかがえました。


(父の日にお子さんから贈られたというTシャツを着て、2500勝記念ポーズ。こういうかわいいシャツが似合う人柄の方なのです)



とくに地元のファンの方々のあいだではよく知られていることですが、東川騎手はじつに気さくな方です。
自ら、


「オチャラケるほうだから、かわいがられる」


などと言いますが、本当にトークが軽妙。
表彰式やイベントなど、機会があったら、ぜひ東川騎手に声をかけてみてください。





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最終更新日  2016年08月22日 10時50分45秒
[大川 充夫] カテゴリの最新記事



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