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火の鳥(4(鳳凰編)) 奈良時代、俗に言う奈良の大仏建立を舞台に我王と茜丸の数奇な運命。 悩み苦しむ二人の男の人生が螺旋のごとく絡み合う。 ……と、オビの文句のように書いてみたが、またしても言葉が出ない。 我王の苦しみ、よくわかる(いや、なにも我王みたいな悪行は重ねちゃいないけどね)。 茜丸の変貌、人間として当たり前であり、醜いからこそ直視しなければならない人間の「本質」である。 「清く正しく生きましょう」だとか、「せっかくの人生なんだから楽しまなくちゃね」みたいな作品(小説でも漫画でも映画でも音楽でも)は基本的に嫌いである。 「人はこう生きねばならない」みたいな作品もちょっとダメかな。 この『鳳凰編』のように人間の醜い部分をさらけ出し、主人公が悩む、こういう作品が好き。 特に、その作品を作った人間にとっても答えが見つかっていない作品、判りやすく言うと、「人間の本質に対する作者の悩み、疑問、問いを惜しみなく読者・観客に曝け出す、または、叩き付ける」作品が好きなのだと、最近気が付いたのでアリマス。 この作品に輪廻について書かれていたが、まさしくこの『鳳凰編』の二人の主人公、我王と茜丸のその生き様・思考は生きながらの「輪廻」だと思われる。 話は戻るけど、どうしてこんなに良い子ちゃんの、つまりさっき言ったような「人生は清く明るく楽しみましょう」みたいな作品があるのかネ? あの偽善的な雰囲気は親しめない。 現実の人間は我王や茜丸のような人間ばかりであり、悩み苦しむのが人間なんだろう。 読み終えたあと、または観終わったあとの頭を岩で殴られたような(実際に殴られたことないからわかんないけど)衝撃を与えてくれるような作品の方が優れていると私は思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 10, 2005 11:29:13 PM
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