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ちりんさんが「その酒本当にやめるべきなのか」を書いておられた。なかなか適切なとらえ方だし大いに共感できる点がある。酒とタバコという嗜好品は病気と密接に関わりを持っているのは厳然たる事実だし、健康を守るという点で考えれば医師という立場上ジャンジャン勧めていい、というものではない。
僕は仕事の成り行き上どうしてもアルコールに溺れた人たちを診る機会が多い。もちろんヘビースモーカーの肺癌や咽頭喉頭癌の患者さんなども診ることはあるのだが、余所の科でしっかり診てくれるようになっているので最後までおつきあいする、ということはあまりない。田舎だからなのか農作業の片手間に、あるいは雨が降って仕事ができない日などは朝から酒を飲んでいるという患者さんも少なくない。アルコール性肝炎ぐらいならまだしも肝硬変になり静脈瘤ができてくると吐血からくる出血性ショックで死んでしまうことだってある。しかも生活習慣に起因する病気だからよけいにやっかいだ。いままで毎日5合も飲んでいた患者さんがある日突然酒をやめるなど考えにくい。 医師としての重要な業務の一つに「予防」があり病気にかからないように指導するのが主な仕事となる。あるいは今ある病気をこれ以上悪化させないように、現状維持ができるように指導するのも広義の予防といえる。こうした医学を「予防医学」と呼ぶのだが、生活習慣や周辺の社会環境など身の回りにあるありふれた危険をいかに回避するかがポイントとなる。そのありふれた危険の中に先に挙げた酒やタバコも含まれるのだが、太古から人間がたしなんできた酒やタバコであるからだろうか社会から消えていくようにはとうてい思えない。 そして不思議なことに酒やタバコで体をダメにしてしまった患者さんはあまり後悔するような気配を感じさせない。むしろ「酒を飲みながら死にたい」とか「死ぬ前に(タバコを)吸えるだけ吸っておきたい」など医療者側からはとうてい肯定できないような答えが返ってきたりするのだ。僕は十分に可逆的な病態にある患者さんには禁酒・節酒や喫煙・節煙を勧めることとしている。でも酒好きな僕にすればこの勧め方もいささか怪しいものがある。いざ自分が同じように禁酒せざるを得なくなったような場合、いったいどうするのだろうかといつも自問しているからだ。そうした弱みをわかってあげられる、という点では酒もタバコもたしなまない清廉なドクターよりはまだ若干人間的なのかもしれない。 先日、酒好きの大腸癌の患者さんが入院してきた。まだ50歳なのだがすでに肝全体に転移しいわゆる末期の状態だった。痛みも激しくモルヒネでコントロールしていたが、呻吟や苦痛が激しくなり鎮痛だけでは全身状況を管理しきれなくなってしまった。持続鎮静を図ろうと家人や本人に「呻吟は消え、苦痛も感じなくなるが夢現の状態が続いているのできちんとした判断は不可能になるし会話も困難になるかもしれない」と説明し、鎮静作用を持つクスリを持続点滴することとした。その際、家族と本人が「じゃぁ飲めなくなる前に、吸えなくなる前にいっぱい飲んで吸ってきていいですか?」と希望された。僕は一も二もなく承知した。喫煙や飲酒は病院内では認められていなかったが、個室だったので婦長さんに特別に取りはからってもらって人生最後の飲酒と喫煙を終えた。病気はかなり進んでいたので飲めたり吸えたりした量はしれたものだったが、それでも患者さんは満足そうだった。その後鎮静を始めたら実に安らかな顔で1週間後に亡くなられた。病院の裏口からの帰り際に家族がこう言った。 「先生のおかげで好きだったお酒とタバコを楽しめました。主人も満足していると思います。前の病院ではあれもダメこれもダメでちょっと参っていたからよけいにうれしかったんだと思います。本当にありがとうございました」 ありがとう、といわれても患者さんは死んでしまった。でも酒やタバコでその死が満足に値するべきものであったのなら、ありふれた危険とされる酒もタバコもその人の人生の一部なんだ、と思い返した。危険を避けてばかりいてはつまらない。自分の人生に潜む危険とどうやってつきあっていくかが問われようとしているのかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004.11.18 17:06:22
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