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カテゴリ:憂我なる<FRENCH LIFE>
【追悼】フランス・シャンソン界の大御所アンリ・サルヴァドール逝去 2008年2月13日、動脈瘤破裂の為パリの自宅で逝去。享年90歳。心よりご冥福をお祈り致します。遺作となってしまった2007年の「Reverence レヴェランス~音楽よ、ありがとう!」のリリース後、9月に最後の来日公演を行い、12月にはパリで現役最後を告げるコンサートを開いていた。 ”フランスの国民的エンタティナー! フランス・シャンソン界の長老、巨匠アンリ・サルバドール89歳!” 粋、伊達、色男、ダンディ、ヒップ…。いまもなを艶やかな“声”!アンリ・サルヴァドールは太陽のような人。「ひゃーひゃっひゃっひゃっ」笑いで幸福を振り撒くおフランスの花咲爺! 世界でいちばんハッピーでラブリーでチャーミングなじいちゃん歌手! フランスの国民的歌手、アンリ・サルヴァドールは1917年7月18 日、ブラジルの北隣フランス領ギアナ・カイエンヌに生まれの89歳の現役歌手。その歌声は常に甘美で、軽やかで、しかしながらしっかりと聴き手の心をつかんで離さない。父親はスペイン系フランス人でフランスの収税官吏、母親は現地人のグァドループ人という、クレオ-ル(混血)として生まれる。7歳のときに一家揃ってパリへ移住。それを知るとなるほど、彼の音楽から感じられる大らかなラテンの血とパリの洗練の融合ぶりに納得させられるものがある。 11歳のとき、デューク・ エリントンとルイ・アームストロングに夢中になり、若くしてドラムとギターをマスター。16歳にしてキャバレーで初舞台を決めた後は、ジミーズ・バーのレギュラー・メンバーにプロの道に入る。アンリはここでジャズヴォーカルを歌いながら、持ち時間のなかにスケッチ(寸劇)を挟むことを思いつく。(例えば、彼の笑い芸のレパートリーの一つ「ジン」は、アメリカ人のアナウンサーがジンを飲んで、どんどん酔っぱらっていくにしたがって、ろれつが廻らなくなる様子を演じたもの。客席の方に向かって吐き出すという絶品芸。) そしてここで、あのギターの名手ジャンゴ・ラインハルト(1910年生まれのジプシー・ギタリスト。)と出会い、雷に打たれたような衝撃を受ける。すぐさま、独学でジャンゴ・ラインハルトのギタ-奏法(ポジション・コードプログレッション・ハーモニーetc)を盗みまくってその奏法をマスターした。彼のグループへ誘われたこともあったという。 『リゴロ』 個性派ぞろいのフランス音楽界で異彩を放つ国民的歌手,アンリ・サルヴァドール。彼が若かりしころに発表した迷曲・珍曲集。冗談なのかマジなのか!?エスプリをはるかに通り越したラブリーな笑いが満載。「リゴロ/Rigolo」たは「滑稽」とか、「オモシロ」という意味。フランス本国でも未CD化の多い"Disque Salvador"~"Rigolo"時代のレア曲をギッチリと詰め込んだ日本独自の編集によるコンピレーション・アルバム。 1941 兵役を終了、再び音楽の道へ 。レイ・ヴァンチュラの招聘を受けて彼のオーケストラにギタリストとして加入し、そのまま南米へのツアーに旅立つ。しかし、第二次世界大戦は激化し、ナチス・ドイツによるフランス占領の影響で、楽団は3年間もの間、南米に留まる事になった。その間に、アンリはマンボ・カリプソなどのラテンリズムを自分のものとしていった。1945 帰国 。そんな経緯でフランスへのサンバの紹介者となったのも彼だった……。 非常に多芸なサルヴァドールだけに、タップダンサー→歌手→作曲家→ギタリストと活躍の場は広いが、彼の作る曲、そして歌声はどれも一貫してロマンティックで慈愛に満ちている。ジャズの基本とボサ・ノヴァの清らかな色香が織り成す、どこか懐かしく深呼吸のできるサウンド。御年80歳を軽く超えていながら(だからこそ?)、惚れ惚れするほどの男っぷりで聴き手を抱擁してくれるのだから、嬉しいではありませんか。 1950年、パリのア・ベ・ゼ劇場でのレヴュー "Paris S'amuse"で出演中のある夜、アンリは最前列に座っていたうっとりするほど美しい白い服を着た女性に心惹かれる。彼女ジャクリーヌ・ガラバディアンは毎晩欠かさずやって来た。しかし、一向にサインを求めに楽屋を訪れる気配がない。一週間後、アンリはドアマンのフランソワに、彼女を楽屋に連れてくるよう頼んだ。二人きりになった時、アンリは言った。「あなたを32年間待っていたんですよ」。ジャクリーヌ・ガラバディアンとアンリは1950年1月24日に結婚をする。 1976年、四半世紀の長きに渡って公私共に苦楽を供にして来た最愛の妻、ジャクリーヌを亡くす。 『ジャズ! ベスト・オブ・バークレイ・イヤーズ』 オリジナル曲の大半を、当時交流の深かったボリスヴィアンが作詩している。 1946年当時のパリのダンス・ミュージックは、いわゆるニューオリンズ・スタイルのジャズで、戦後、パリの解放とともにアメリカ軍がどっと入ってきて、それと同時にアメリカのポップ・ソング/ダンス・ミュージックが流れ込み60年代はR&Bでもってダンスをしていた。アンリは歌手転向後の50年代中頃には詩人でアメリカのハードボイルド小説、SF、ジャズをこよなく愛するボリス・ヴィアンやミッシェル・ルグランらとコミカルなフランス産R&Rを作り、話題を集める。1956年に発表された、フランスで初めて”ロック・アンド・ロール”を冠した「ロック・アンド・ロール・モップス」を発表。バンド名は、ヘンリー・コーディング(アンリ・サルヴァドール)&ヒズ・オリジナル・ロック・アンド・ロールボーイズ!作詞のヴァーノン・シンクレアはボリスヴィアン、作曲のミグ・バイクはミッシェル・ルグラン。 ボリス・ヴィアンはその後も、フィリップス社で音楽ディレクターの職に就き、あからさまな反戦歌「脱走兵」をリリースし、放送禁止にされながらもヒットさせ、また自らも作曲・作詞、しまいにはアンリ・サルヴァドールとのデュオで自作のロックンロール「強烈往復ビンタ」をヒットさせ二人の本格的なコラボレーションが始まる。とにかくフランスにおけるジャズを語るにとってボリス・ヴィアンという存在をぬきにしては語れない。「きれいな女の子との恋愛・・それとニュー・オルリンズかデューク・エリントンの音楽だ。その他のものはみんな消えちまえばいい」(『うたかたの日々』より)という有名な言葉も、ヴィアンのジャズへの憧れを表している。彼はトランペット奏者としてジャズの支持し、またフランスにおいてジャズの鑑定人・紹介者として活発な活動を行なった。アメリカからやって来たジャズは当時最新先鋭なる思想、実存主義によく似合った。ディキシーランド・ジャズからビーパップ、さらにハードバップへと、モダンへの革命期をたどるジャズはフランスのパリ、サンジェルマンでその完熟を果たした。ジャズの持つフリーでヒッピーなパワーがナチスによるパリ占領やその解放のレジスタンスの精神とジャズのインプロヴィゼーションとが根源的に結びついた。 Boris Vian ボリス・ヴィアン (Boris Vian) 『人間、生活の心配がなければ創作するのはやさしいことだ。だが利子生活者でもない以上、精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるものではない。それがいやならほかの仕事をすることだ。しかしそうなるとまた、いろいろ不都合が出てくる。数種の職業を持っていると、アマチュアというレッテルがつく。だがしかし、その世間でいうところのアマチュアが、数種の職業においてそれぞれプロであるとこいうこともありえるのだ。』 ボリス・ヴィアン(1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの作家、詩人である。ヴィアンは1946年からの約十年間、当時フランスを代表するジャズ雑誌だった“JAZZ HOT”誌に無償で評論、ニュース記事、エッセイ等を書き続けた。セミプロのジャズトランペット奏者としても名をはせ、余技として歌手活動も行った。少女クロエの肺に睡蓮の花が咲いてしまう『日々の泡(L'Écume des Jours 曽根元吉訳)』(または『うたかたの日々』伊東守男訳)は、「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品」(レイモン・クノーの言葉)と言われて読み継がれている永遠の幻想青春小説、砂漠に鉄道を通す物語『北京の秋』は、ヴィアンによれば「北京」にも「秋」にも関係ないから『北京の秋(L'automne a Pekin)』というタイトルで、前衛的な作風の小説で知られる。1940年代後半に、脱走兵の黒人作家と称してヴァーノン・サリヴァンのペンネームで通俗的で暴力的なハードボイルド小説を執筆していたことでも有名である。ジャズ批評やアメリカ文学の紹介などの分野においても顕著な功績を残した。彼は400曲にものぼるシャンソンを残した。「Le Déserter/脱走兵」という反戦歌を歌って放送禁止になった。ヴィアン自身は、心臓疾患(心臓大動脈弁閉鎖不全症を抱えた病人であった。)のため徴兵を免れる。さすがにセルジュ・ゲンズブールの師匠である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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