「ジョージ・ジェンセンの時計」と「どこでもドア」
ずっと以前から、もうかれこれ20年くらい欲しいと思っているものがある。ジョージ・ジェンセンの時計。無駄のない、美しいフォルム。最低限のもの以外は排除してしまったデザインで、斜めから見たら時間も正確にはわからないだろう。なにせ、文字盤には針しかないのだから。いつも思っているわけではないけれど、いつかは手に入れたいと思うもののひとつだ。時計は好きなのだけれど、気に入るものがなかなか見つからない。どうも縁がないらしくて、たまに気に入ったものがあっても、無くしたり、傷つけたり、壊れやすかったり、ということが多い。私は基本的にあまり、物を無くしたり壊したりするほうではない。むしろ、どちらかというと物持ちがよすぎるほうなのだが、不思議と時計に関しては全くだめなのだ。昨日ある集まりで、畳デザイナーのイタリア人と知り合った。しばらく話していて、彼がとても素敵な時計をしているのに気がついた。全くシンプルなデザインなのだけど、大きさといい、薄さといい、全体のバランスがなんとも絶妙でとてもいい。そうなると、どうにも気になってしかたないので、「素敵な時計ですね。さっきからずっと気になっていました。」というと、メーカーかブランド名か、教えてくれたが、よく聞き取れない。2,3回聞いて、ようやくジョージ・ジェンセンだとわかった。なんと発音していたか忘れてしまったが、「ジョージ・ジェンセン」とは言わないらしい。40年くらい前のデザインのものだという。そこで、ずっと欲しいと思っている時計があることを話したら、どれだかすぐにわかってそれはVivianna Torunのデザインのものだね、と言う。続けて、Vivianna とは友人だった、数年前に亡くなってしまったけれど、とのこと。本当に驚いた。ジョージ・ジェンセンも、その時計も、ファンではあったけれど、デパートの特選売り場や直営ショップで見るだけのものだったのに、それをデザインした人の友人と話す機会があるなんて、思いもしなかった。遠く手の届かないところにあると思っているのも、それは思い込みに過ぎないのだろう。世界はやはりひとつに繋がっていて、「どこでもドア」みたいに開ければすぐそこは思い描いた世界へと通じているのだ。ただ、黙って待っていても向こうからドアはやってこない。自分の意思と努力でそこにドアをおいて、開けなければ繋がることはできないのだ。