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カリスマクリエイターの、たとえば無茶な要求やスタッフを徹夜させてこだわった、といった話は作品がいいものであると「美談」にされますが、それってブラック企業の社長が違法な残業や過酷労働をさせた結果、業績が良い、ってのと同じことであることを常に意識したい。
シンゴジラの庵野秀明監督の過去のエピソードがそういう形で美談化されることにものすごく違和感を感じる。「クリエイターは作品がすべて」というのは、あくまで観客側の視点、金を出して楽しむ側の損得勘定であって、たとえば自分が働いている人は「お客様のために給料半分、休日なし、一日16時間労働」も肯定できるか?という話。 個人の制作物であるならいくらでも過酷な状況に納得できるかもしれない。けど、それに他人が巻き込まれた場合、被害者になる。また、この手のカリスマクリエイターの暴走が「いい作品のために」人権を無視することはよくあって。 また、何より怖いのはこの手の話は伝説化、神格化し、後に手法とか考え方として肯定され、カリスマにあこがれる凡人にすら「宮崎駿はこうだった、庵野秀明はこうだった」というように正当化される。まるで「徹夜をしないといいものが作れない」のように。 だから、こういう話を美談にしちゃいけない。きっちりスタッフの労働環境を守り、それでいて評価の高い作品や仕事をする人は世の中にはちゃんと存在する。そういう人がエキセントリックなブラック企業的美談の陰に隠れがちなのが怖い話です。 映画の面白さと、かかわった人の労働環境は別の話。自分の業界(ゲーム業界)でも、カリスマクリエイターの求める過剰なノルマやクオリティーに応えるために無理をして体を壊して仕事を辞めた人、自殺した人、失踪した人の話をたびたび聞く。しかし、そのカリスマクリエイターは雑誌のインタビューでそのあたりを「スタッフの情熱」という言葉で美化していたり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.09.03 13:10:28
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