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山口小夜の不思議遊戯

山口小夜の不思議遊戯

ヒロの留学日記2001・起

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ヒロの留学日記2001─今マサチューセッツにいるんですけど─



 世がミレニアム・フィーバーの余韻にさめやらぬ折、僕はハーバード大学ビジネス・スクールに留学することになった。
 ハーバード大学の西側に位置している正門(ジョンストンゲート)をくぐると、まず、オールヤードと呼ばれる一角に入る。ここは縦が約百メートル、横が三百メートルくらいの細長い長方形のかたちをしている。一六三六年にハーバード大学が創設された当初からの建物が残されていて、学長室も正門のすぐ右手にあるマサチューセッツホールの中に入っているほか、四階建ての講義用のレンガ造りの建物が縦横に十三棟並んでいる。

 ここから広い道をまたいで、さらにキャンパスの中に入るとハーバードヤードだ。オールヤードとハーバードヤードを分ける境界はないが、道を挟んで真ん中には芝生におおわれた大きな庭があり、キャンパスを突っ切る道に沿って樹木がほぼ5メートルおきに規則正しく植えられている。両ヤードは合わせて横が三百メートルと縦が一キロの縦長の長方形の敷地に納まっていて、そのまわりは高さ3メートルほどの赤いレンガの塀で囲まれている。ここはちょっとした“城壁”ともいえる。

 ここがハーバード大学の中心部であり、図書館や講堂、教室棟、寄宿舎など計29棟と、大学の主要施設が集中している。図書館だけでも4ケ所あるほか、高い尖塔を持つ教会もあり、三十分ごとに鐘の音を響かせるなど、古くからの大学の趣を残している。ヤード内には学部の建物や学部生の寮があり、学生たちはそれぞれに庭に繰り出して本を読んでいたり、談笑していたりと、まさに大学構内といった雰囲気が漂っている。このヤードは主にハーバード大学の学部生用のものといっていい。
 
 ハーバード大学といっても、経済専門のビジネス・スクールや法律全般のロー・スクール、医学専門のメディカル・スクールといった大学院の施設は、このヤードの外にある。ロー・スクールはヤードから歩いて二,三分の位置にあるが、ビジネス・スクールやメディカル・スクールはバスで十~二十分かかるほど離れている。これらの大学院は敷地も広く、それぞれが日本の大学並みの設備と施設、学生数を抱えている。ハーバード大学に属しているとはいえ、まるで独立した大学機関といえるほどだ。

 ところで、僕の第二の学生生活はこの大学の名物教授で、著名なアジア問題研究者であるエズラ・ボーゲル教授の下で始まった。彼は20年前に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』というベストセラーで一躍有名になった学者で、現在は大学におけるアジア研究の中心的存在であるアジアセンターとフェアバンク・センター東アジア研究所の所長を兼務している。来年秋にはぢあがくを辞めて教職の第一線から退き、名誉教授的な身分で執筆活動に専念すると語っているだけに、僕は彼の学生としてはギリギリセーフだったわけである。

 さてここで唐突だが、もし自分が、とても憧れている大変有名な人にこれから電話をかけなくてはならない用事があるとしたら、どんな気持ちになるか考えていただきたい。
 その有名人とは当然面識もない。ただ唯一の接点は「君がやっている研究には、私も大変興味があります。研究所では一年を通して毎週セミナーを開いています。また、さまざまな研究会もありますので、私の指導のもと、ぜひ出席してください。留学に際して何か質問がありましたら、遠慮なくこちらへ電話をどうぞ」という手紙が届いたことだけだ。そして、自分はその手紙が届いた事実だけでも非常に恐縮しており、お電話なんてとてもとてもと思いつつ、どうしてもかけなければならない事情が出来てしまったりしたら…。

 さあ、少しはそのドキドキを実感していただけたであろうか。まだの方はもう一回真剣にその状況を思い浮かべてもらいたい。なぜならそのような状況が、病身の僕の身の上に起こったからである。これを読んでいるのが女子高生ならば、あなたが憧れてやまないジャニーズのメンバーのアドレスをひょんなことから知ってしまい、そのアドレスに初めてメールを送るようなものだと想像していただければよい。

 2000年秋のある日、僕は電話の前で握りこぶしに汗を溜めて孤独に静止していた。電話の横に一通の手紙が広げて置いてある。手紙の差出人の名前は、なんと『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者、エズラ・ボーゲルであった。
 「なんで!? なんであのおバカなヒロのところに、あの伝説の学者のボーゲルから手紙が届くわけ!?」と納得のいかない叫びが胸中を駆け巡る方も多かろう。実は図々しくもこの僕、留学が決まってすぐに、ボーゲル博士に指導教授になっていただけるよう、研究テーマである日米中三国関係の経済予想論文を彼のもとに送りつけていたのである。

 かつて学部生の頃、彼の著書は僕の人生に最高の示唆を与えてくれた。あの本を開けた瞬間こそ僕の人生の中で最もボーゲル氏に近寄れた瞬間であり、今後ボーゲル氏と接点を持つことなど当然あり得ないと思っていた。しかし、手元にあるこの手紙はまさしく彼が書いた本物だ。あの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の原稿と同じ文字なのだ。この文字を見ただけでも緊張や高揚でめまいがするのに、今からしようとする行為は電話なのだ。
 
 思えば、この目の前にある病院の個室備え付けの電話機ごときでも、手紙に記されている番号さえ正確に押せばボーゲル博士の家と直接つながり、会話まで出来る仕組みになっているというのだから不思議だ。鉄の塊で出来ている飛行機が、楽々と空を飛んでいくのと同じくらい不思議だ。
 そんな余計なことを考えつつ、電話のボタンを押し始めた。受話器の向こうで呼び出し音が鳴る。僕の仕業でボーゲル博士の家の電話が鳴っているのだ。実に不可思議。

 ベルの音が止み、誰かが電話に出た。
 「はい、ボーゲルです」
 若い男の声である。スティーブン・ボーゲルだっ! エズラ・ボーゲル教授の長男で、やはり日本の政治経済の専門家であるスティーブン・ボーゲル助教授! きっと将来、彼も父と肩を並べる大学者になる道が約束されているのであろう。
 僕は思いがけないスティーブン氏の登場にうろたえつつも、つい「スティーブンさんですね、お父様のご著書とともにあなたの論文も読ませていただきましたっ」等、自分の名前も名乗らずに図々しい調子でしゃべり始めてしまったため、スティーブン氏に一気に怪しげな第一印象を与えてしまった。
 スティーブン氏は受話器の向こうに存在する奇怪な相手に「どちら様ですか」としっかり聞き直し、僕が「あ、アヤジ・カザハヤと申しますが…」と答えるや、即「あっ、父ですね、ちょっとお待ちください」と言ったあと、保留ボタンを押したので、受話器から音楽が流れはじめた。マスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナ。楓が「世界一美しい」と賛美していた曲だ。

 マスカーニの曲に出会うことは滅多にない。偶然にちょっとびっくりしながらも、僕が見ず知らずのボーゲル邸の保留音のセンスにいたく感動しているところへ、急に音楽が止み、「ハロー、私ですが」という、あの方のお声が響いてきた。
 大神ゼウス降臨。鳴り渡れカヴァレリア・ルスティカーナよ。楓よ、ありがとう。本当にボーゲル博士と僕が話せる日が来ようとは、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を手にしたあの日の僕に、どうにかしてこの事を教えてあげることはできぬものか。
 
 入院が長引いてしまい、留学が遅れる事情を懸命に説明する僕に、教授はこう優しく返事を返してくれた。
 「アヤジ、経済は机上の算術ではありません。人間がよりよく生きてゆくために活動する、あるいはあがいている現象を、総じて我々は経済と呼ぶのです。あなたも人間として苦悩の日々にあるなら、その時に自分が何を気づき、何を考えたか、よく心に留めておきなさい。身をもって知ったその経験が、あなたの人間探究の場である経済研究の上で実を結ぶ時がいつかきっと来るでしょう。その時、あなたの考察は誰にも為し得ない真実であり、決して人生不在の空論ではないことに、あなたは自分自身で気づくことになるのです」
 僕は感激と緊張と高揚のあまり、息が詰まり泣けてきてしまった。受話器を持たない方の手で涙を拭きながら、日本男児としてのなけなしのプライドをかき集め、泣いていることをさとられまいと歯を食いしばりながら話を聞いていた。

 受話器を置いたあと、しばし放心状態となった。電話をしようという決意から電話をかけ終わるまでの一時間あまり、僕の精神状態は大変な激動であった。

 ようやくスタート地点に話は戻るが、このような経験を経て、世間がミレニアムの騒動を繰り広げる中、僕は米国留学のため三ヶ月遅れで離日したのである。
 僕はハーバード大学に着くと、すぐにボーゲル教授にご挨拶にうかがった。ボーゲル教授は身長178センチの僕が見上げるほどの上背があり、その上無駄な贅肉がまったくないといっていいほどの痩身だった。服装はブレザーとスラックス、ネクタイに黒の革靴。このスタイルと、いつでも笑顔を絶やさない表情からしても、あまり飾らない学究一筋、学者のなかでも最も学者らしいタイプという印象がうかがい知ることができる。

 最初の面談では、僕はボーゲル教授と握手すると、型通りの挨拶から始め、留学が遅れたことの失礼を詫びた。ボーゲル教授は、僕のそのつまらん挨拶を打ち切るように、
 「ところでアヤジ、君はいくつだね? ふむ、一九七一年生まれということは、二十八というところかね。では、君がどこで生まれてどうやってここまで来たのか、その過程で何を考え何を思ったのか、できるだけ詳しく私に話してみたまえ」と指示した。どこの馬の骨とも牛の骨ともわからない一人の日本人に過ぎない僕の半生を、この場でボーゲル教授に語り尽くせ、と仰るのだ。

 当惑しながらも、一九七一年七月十六日に東京都千代田区で生まれてこの方の次第を、しどろもどろに語った。思えば、自分のことを他人に語るのに、僕はなんと不慣れであったことか! 僕が話しているその間にも、何かのいきさつについて曖昧にしようとすればするほど、その言葉のニュアンスをボーゲル教授は鋭く見抜き、質問を繰り返して僕自身にもクリアにさせたのだった。そんなこんなの質疑応答は、実に五時間にも及んだ。家庭生活のこと、学校生活のこと、社会に出てからのこと、誰とは言わんが、恋人や友人のひとりひとりについてさえも話題にのぼった。わりと詮索好きなお人なのかと思ったのだが、やっと出してもらえた紅茶をがぶ飲みして解放してもらって以来、これまでのところ、ボーゲル教授が二度と僕のプライベートについて尋ねてくることはない──。

 帰り際に「三ヶ月の遅れを取り戻すために、この一ヶ月、毎日論文のテーマをひとつずつ考えて、助手に報告するように」と申し渡され、僕はボーゲル教授の研究室を後にした。
 さて、そう言われたからには、今日から実行しなくてはならない。だが、論文のテーマなどというものは、ご承知のとおり、それが決まれば論文は八割がた書けたと言ってもいいほどにひねり出すのが難しいモノなのである。
 
 僕は三日坊主で終わる予感がした。まず、規則正しく一日一個の論文のテーマを考え出すという点で困難が生じている。また僕が修了すべきビジネス・スクールの経営学修士すなわちMBA(Master of Business Administration)修了のためにはA4二五〇枚程度の論文を一本出せばよいのであり、三十もの論文の題目を考える必要性はあまりないといえる。そのうえ僕の場合、立場的には客員研究員と同等の扱いを受けていたがため、ボーゲル教授が受け持っている大学院生向けのゼミを受講するほか、その道の大家のゼミをすべて受講し、さらに毎週月曜日と水曜日、二時間ずつのセミナーに出席することが義務付けられ、予定外の研究会やシンポジウムなども参加しなければならないために、三十本分の論文テーマ捻出など、考える前から無理な話なのだ。

 予想通り、テーマの考え蓄めは三日坊主となった。三日目までは何とか努力したが、四日目からは引越しや入国の準備に忙しくてそのままになり、論文題目の件は箇条書きにする前に途絶えた。
 そんなある日、助手のサラが突然、「ところで、論文の題目はしっかり考えているんでしょうね」と言い出したので、僕は慌てふためき、「うん、考えてるよ」と目を白黒させながら答えた。
 彼女は僕の目玉の動きに嘘を感じたらしく「ちょっとここに持ってきて見せてよ」と更に追及してきた。かなりピンチである。僕はものすごい速さで自室に戻り、机の上に放りだしてあるレポートに急いで主要国の経済成長に関する適当な数値を記入した。一ヶ月三十本の研究テーマを、一日一カ国にしぼって過去五十年間の経済成長と今後の経済予測について考察しようと目論んだのだ。急ぎながらも心の隅では、今日の日付以上に進んで記入してしまうなどといった最悪のドジだけは踏まないように注意を払っていた。
 子供の頃はたまった絵日記に嘘八百を並べ、大人になってからもまだこんなことをしている自分に進歩のなさを痛感したが、いい加減な本性がバレるよりマシである。僕は実のところ物凄くいい加減な人間なのだが、その反面、「あいつは物凄くしっかりしているんだよな」と思われるためにはどんな手段も選ばない男だ。昔も、そしてこれからも。

 適当に記入したレポートをサラに見せると「うん、やってるわね」とまんまとだまされてくれたので安心した。バレない嘘は、もはや僕の中では嘘ではない。
 次の日から、また題目の考え蓄めは途絶えたものの、時々思い出してはもっともらしいがシンクタンクできちんと調べればすぐにバレるようなデタラメな数値を書き込むという努力をしたため、一見すれば几帳面な人が書いたレポートのような体裁になった。このいい加減な行為は約一ヶ月間続いたが、一ヶ月も続けるとインチキとはいえ満足感が湧いてきた。怠け者の自分が、よくぞここまでテーマとなる公式を捻出したものだと感心し、こんなに立派にやり遂げたのだからもうそろそろやめにしても良いと感じ始めていた。インチキも、しばらく続けてみれば本物になるものなのだ。
 そのような具合で、論文テーマのことは一ヶ月目を境にスッパリ忘れることにした。助手のサラも既にこの件に関しては信用しているらしく、何も言わなくなっていた。

 これまでの僕のしがないサラリーマン人生の中での唯一の救いは、アイディアに詰まってヒマを持て余したりすることが全くないことである。事実、僕は日本での職場において、週イチで企画書を出すというペースで仕事をしていたが、これは自分の自覚とは別に、周囲からは驚異的なものに思われていた。誰が呼び始めたか「アイディア王子」とも呼ばれていた。“王子”と呼ばれるには少々「とう」が立っているようにも思えるが、とにかくそんな僕は留学してからも、インチキとはいえ、ハーバードの助手をも欺く論文テーマの数々をわずか三十分で考え出せたことを誇りとし、自分を“素晴らしきアイディアマン”と思い込んでいた。

 一ヶ月が経ったある日、ボーゲル教授から「三十項目作ったテーマのひとつひとつに、考察を付けて提出せよ」とのお達しが来た。やはり一ヵ月後が期限だという。僕は全然慄かなかった。一ヶ月という期日に対しても絶対的な自信を持っていた。このアイディア王子の僕に書けない企画書などあるはずがない、とタカをくくるほど、東アジアの経済予測に関する僕の自信は並大抵のものではなかったのだ。
 ところが、考えがまとまらないという事態がやはり発生した。まず、その日の考察が書き終らなかった。僕は少し不安になったが、まだ明日への希望は捨てていなかった。明日は今日の分もまとめて大量にアイディアが出るだろうと思ったのである。そして、なんとあきれたことに、次の日もいい加減な進め方をしたのだ。アイディアが出なかったことなどなかったことにして、ただひたすら図書館にこもって見るものすべて目新しく映る資料を読みまくり、またもレポートに手を出さなかった。それでも「書けるさ」と事態を甘く見ていたのである。

 一週間が過ぎても、一個の題目の考察も終えられなかった。もともと週イチのペースで企画書を出していた者にとって、このペースが守られなかったという事態は重大かつ深刻である。これも今までの運の良さに甘んじ、教授の下で学ぶ学生という立場も忘れて勝手な読書に没頭し、そんな行いをしてもまだ反省をせずにレポート提出に関して絶対の自信を持っているなどという、ふとどき千万な態度に天誅が下ったのだ。

 僕は自室の机に向かったまま、頭から血の気が引いてゆくのを感じていた。たしか学生がレポートに行き詰ったら大変なことになるのだ。自分の考えを表現できない学生は授業でも置いていかれて、劣等生の烙印を押されてしまう。特にレポートなど、その出来が目にも明らかな事物の場合、成績が下位の学生は査問委員会に呼び出されて、今度も成績が向上する見込みがないと判断されれば、なんと、すぐさま放校処分になるのだ。最短の学生で二週間。僕の留学する三ヶ月前にも、やはりひとりのアメリカ人学生がそういう憂き目に遭ったと聞く。放校処分になる以前に、授業についていけない、というにわかには信じがたい理由で自殺する学生が年に数人出るという学校である。このビジネス・スクールが「資本主義のウェストポイント(陸軍士官学校)」と呼ばれる所以である。

 実に八〇パーセント以上もの学生が、一時期大なり小なりノイローゼ気味になると聞いて、びっくりして飛雁に報告すると、「みんながなるなら別にそんな大したことじゃないではないか」と彼なりに気遣ってくれたのはいいが、実はその八〇パーセント全員が皆揃って大変な目に遭っているという。実名付きで、今日は誰それが急性胃潰瘍および精神になんらかの異常をきたして病院に担ぎ込まれたとか、ビジネス・スクールの窓は突発的な自殺防止のために外側には開かないようになっているとか、現在進行形で語られるソーゼツな噂は枚挙にいとまがない。

 僕もその様なノイローゼ学生の仲間入りをしてしまうのであろうか。“アイディア王子”のこの僕が。そんなことは王子のプライドにかけても許さぬ。なんとしても今日こそは今日の日付の分までのレポートを成し遂げなくてはならん。この一週間に図書館で貯めた知識を一気に放出するのだ。二週目にもつれ込んだりしたら取り返しがつかなくなるであろう。どうしても今日、いや、今すぐにこの部屋で決着をつけるべきである。

 そのような強い意志が僕を貫き、本格的にレポートと戦う姿勢に入った。こうなったら置時計を裏返し、両手をPCの上に置き、脳にありったけの血液を終結させるのだ。と、実行しようとした寸前で、僕の血液の中には栄養だけでなく毒素も存在していることを思い出した。「おっと危ない危ない。徹夜で無理したりしたら、せっかく良くなった体調をまた崩してしまうかもしれない」そう思い、実行を中断した。
 僕は全力を出せない……。こうなると血の中に溜まっている頑固な毒素の方が圧倒的に有利である。悔しいことこの上ない。全力が出せたら、決して山積みのレポートなどに負けはしないのに。体調という大きなハンディを課せられた今、勝利の女神は僕の方から遠ざかるべく歩き出したのだ。

 僕は自分の体調をだましだまし少しずつ頑張る作戦をとった。これなら、なんとなく身体も無理することに慣れてきて、最終的にはいつも通り完徹を繰り返しても平気かもしれないと思ったのだ。
 だが、僕はその夜のところは七〇パーセントの力までしか無理することができなかった。百パーセントの全力でPCに向かうのはどうしても怖いのである。まずは、時間を忘れてしまう懸念がある。時間を忘れるということは、投薬の時間も忘れてしまうということだ。とはいえしかし、七〇パーセントの力では、一気にレポートを何本も書き上げるまでの実力はない。七〇パーセントなりに頑張ったものの、明け方までに一本の半分を書き上げるのが精一杯であった。

 「うーーーーん」僕は頭を抱えた。このデンでいくと一日で一本。あと二十九本。すでに一週間が過ぎている。これはなかなか厳しい状況である。この苦境から早く脱出しなくてはなるまい。そこで考え方の方向を変えてみた。七〇パーセントの力で一晩、つまり五時間でここまで書けたのなら、続けて七〇パーセントで試してみる価値はある。頑張れ、緋路よ。レポートなどに負けてたまるか。相手は“紙”だ。緋路は人間だ。人間が紙に負けるはずがない。

 僕は人としての誇りをかけて、翌日に再度七〇パーセントをやってみた。七〇パーセントといえども、今の僕の体調からすればそれなりに無理は必要である。快適な温度に保たれている室内だというのに、手には汗が、額にも汗が、そして脾臓という爆弾を抱えている左脇腹は、やや引き攣る感じを覚えていた。
 二日目の七〇パーセントで、レポートの行数はまた少し進んだ。このペースでいけば、目的の三十本に近づける感じがする。三日目も七〇パーセントに挑戦した。が、三日目ともなると劇的な進展はもはや感じられなかった。七〇パーセントの力では一日一本が限界なのだ。この先に量産するには、それ以上の力が必要なのである。しかし、体調のことを思うと七〇パーセントまでしか僕は無理をする勇気がない。

 体のあちこちに鈍痛を感じながら二十本書き終えたところで、この先どうすべきか対策を練った。そして、イチかバチか、楓の秘伝である『無理とは努力のニセモノだ』を使ってみることにした。どうせニセモノ、というかインチキな題名の下に成立しているレポートなのである。無理がどうニセモノだろうが、この格言を活用しない手はない。

 このコツはうまく説明できるものではないが、簡単に言えば意識的に自分は生身の人間ではなく“機械”なのだと思い込み、今為すべき事へ一気に力を集中させるのである。機械なのだから、もちろん一切の休養は考えない。エネルギー補給はするが、リラックスなどはもってのほか、ノッてくると排泄さえも必要ないくらい、機械化に没頭するのだ。が、言うは易し行うは難しとはこのことであり、マネをしてもうまくゆかぬ人が多いだろう。自分の体の仕組みは本人が一番良く知っているのだから、みなさんも土壇場で自分自身にいったいどのような力が出るのか、折りに触れて研究することをお勧めする。

 この秘伝の技により、その日以降、駄文どもが延々とPC内部に貯蓄され始めた。もはや文章と外界を隔てているものはプリンターだけだ。“この勝負、もらったぁ!”という感あり。「おーしっ」と思わず気合いが入る。すでに期日までに十日を切っているが、あと一息でこんな時間の無駄使いとはおさらばだ。
 「これで決めてやる」と心の中で叫び、再度秘伝の技を使った。これを使っている間は時間の観念など吹き飛んでしまう。僕はその日からは一時たりとも休まずにPCに向かい続けた。今、力を抜いたら、眠気を感じるのと同時に思考も止まってしまう危険がある。文章を一節たりとも滞らせてはならない。今はわずかな前進も貴重な時だ。どんなに辛くとも、いかにこの無理が努力のニセモノであろうとも、最終的には実を結ぶのである。
 
 しかし、長丁場の無理にやはり体調がついてこなかった。体温は四〇度を超えた。なんという強情な病気であろうか。二十五歳までは結構健康だった僕の病気の歴史の中で、こんなにも強情な奴は稀である。治りかけているというのに、ここまで強情を張るとはいったいどういうつもりであろうか。まったく往生際の悪い病気だ。こんなときにいくら強情を張ろうと、遅かれ早かれ近日中にたっちゃんや飛雁に根治される運命には逆らえまい。これをこの病の奴はわからないのだ。ものわかりの悪いものは人でも病でも始末が悪い。

 僕はそれでも秘伝の技を使い続けたが、もはや頭の血管が切れそうになってきた。椅子に座りっぱなしなので腰も痛い。そして何より、全身が非常に疲労している。徹夜をしてもう二日、そういえば飲まず食わずなので、トイレにも立っていない。腎不全になりたくなければ、これ以上この戦いを続行するのは不可能だ。
 僕はレポートの本数を追い詰めておきながら、戦いの一時中断を決意した。一刻も早く机から離れてしばらく眠りたかった。
 そう思い、今まで力を入れ続けていた肩の力を抜いた。この脱力により、体は戦いの休止を悟るであろう。僕の体よ、しばし束の間の夢を見るがよい。
 
 ところが、とんでもないことが判明した。肩の力を抜いても、思考が奥に引っ込まないのである。こんなことがあろうか。思考と体は文字通り一心同体のような行動をとるのが普通ではないか。体の休息と同時に思考も停止するというのが正しい体と心の間柄のはずだ。それなのに、思考は奥へ引っ込むどころかビクとも動かず前頭葉および海馬に居るままである。しかも、体の力を抜いたとたん、この休まない思考は僕の体調に非常な不快感を与えたのだ。この不快感は言葉では伝えにくいのだが、あえて言うならば“鳴りっぱなしのサイレン”とでも言おうか。

 とにかくこの思考は黙ろうともせず、眠ろうともせず、とことん脳内に居座るつもりなのである。最悪の状態になってしまった。僕は自分が欲していたはずの“アイディアを出す機械さまさま”のわがままにより休息もできないことになった。支配者は僕のはずなのに、なぜ思考が僕を束縛するのか。もしかしたら、このまま眠らない思考が休みたい健康の邪魔をして睡眠さえとれなくなり、アイディア王子は脳内からアイディアを取り出す術を得られないまま、沸騰した頭をパンクさせて死んでしまうかもしれない。それはアイディア王子にとって最も屈辱的な死に様である。
 
 飛雁にトランキを打ってもらう可能性も考えたが、僕はどうもあの「眠らされる」感覚が嫌なのだ。全身麻酔をかけられた経験のある人には理解してもらえるだろうか。普通、眠りたいと思って眠るのが睡眠ならば、眠りたくない、あるいは眠れないのに眠らされることは、僕にとっては「恐怖」にほかならない感覚なのだ。往年にTV放映されていた『ウルトラマン』のオープニングの画面に出てくるようなどろどろの中に引きずり込まれていくような感覚──これにどうしても慣れることができない。生来いいかげんなのに、どういうわけかヘンなところに生真面目な僕は、眠らされた後もさんざっぱら「僕は誰なのか、どこから生まれ、どこに行くのか」みたいな死を直前にしたゴーギャンのごとき思考に沈み込むことになる。毎回、鎮静剤には悪夢を見るのだ。

 熱を出した頭を氷で冷やそうかなどと考えていると、携帯の呼び出し音が鳴った。英が僕を呼んでいる。論文マシーンになってから三日、申し訳ないが携帯の着信は無視させていただいていたが、この時はふらふらと手が伸びた。あのまったりとした関西弁を聞いてみたくなった。
 「なぁなぁ、おれやんか──」
 馴染んだ声に安堵したその瞬間、急に意識が薄れていくような気分になり、不覚にもそのまま深い眠りに落ちてしまった。
 アラスカだかどこだかにいて、白ワシかなんかを捕獲してワシントン条約に違反しようとしていた英が、その場はさておき僕の元にすっ飛んできてくれたことはありがたいやら痛み入るやら。

 ともかく、三十本のレポートは指定の期日までに提出された。
 その折の視界では到底運転すべきではなかった僕をゼミのクラスメートが車に乗せ、ボーゲル教授の自宅まで連れて行ってくれた。玄関先で、僕はあたかも卒論提出最終日の学生のような形相をしていたのだろう。バスローブ姿でお出ましになった教授は少し驚いて、「このぶんでは、本当に君は仕上げたようだね」という一言を下さった。
 なにそれーっ、である。
 それならばあのお達しはただのジョークだったのだろうか。いやいや、そうだとしてもボーゲル教授を恨みはしない。きっと僕のリスニング能力がまだまだ足りなかったのだ。実のところ、それ以前にも複数の友人から「それは教授の希望的観測だよ」と指摘されてはいたのだが、物事の権威というものを信じやすい日本人体質の僕は、今回においてもまんまとその騙しのテクに完敗したのであった。さあみんな、僕を笑うがよい。

 ともかくも出し終えたと同時に、頭周辺から腰、足まで、信じ難い軽快さが広がった。なんであれ、もう僕は自由なのだ。頭の中にはひとつのアイディアも残っていないが、それらはたった今、彼らの安住の地であるボーゲル博士の机の上にすべて放出してやった。僕は放校処分に堕ちることなく、アイディア王子の座を死守したのだ。
 僕は“ボーゲル教授の洗礼”ともいうべき今回の事件を教訓とし、今後決して学究の成果において焦るまいと心に誓った。この留学中、何よりもまず優先すべきは、他者への劣等感の芽生えの防止である。不規則な生活による病状悪化防止などは二の次だ。貧血なんて何でもない。一番恐ろしいのは、自分の知力体力に対しての焦りである。自分の中の焦燥感がその本領を発揮した時こそ、人は真の恐怖と絶望を体験することになろう。

 「俺はねぇ、バブルの頃は死ぬかと思ったくらい辛かったよ。MBAなんて日本人でも200人しか修了してないステータスのある資格だしさ、講演講演の連続で、もう死ぬかと思ったよ。だけど外交官候補だからやりこなさなきゃならなかったし、誰も助けちゃくれないしさ、もう地獄だよ。きみは幸せだね。バブル崩壊後でさ、ホント良かったね」と将来的には外務省の次官にも上り詰めようという、文字通りのエリート官僚のA君は言った。
 僕なりに留学初期の頃は辛かったのだという話は今書いたばかりだ。あの辛い時期を自分なりにクリアし、今のこの平穏な日常にようやくたどり着いたのである。彼がどんなに辛かったのか僕には知るよしもないように、僕の辛かったことも彼にはわかるまい。

 レポートを一行書いてはため息をつき、また一行を書くというような通常では考えられないほどの遅いペースに自分を責めながら、今、自分は一体何の意味があってこんな苦労をしているのだろうと考えることもあった。身体の整備不良により、生きているだけで疲労困憊の人生に、一体何の意味があるのだろう。だいたい、自分がいま必死に製作しているレポートは、ほんとうに社会から欲されるものなのだろうか。
 というように、次々と自分自身や自分の仕事について疑問が湧き、ついにある日、プラットホームで電車待ちをしていた時、ホームにすべり込んでくる電車に向かって、ふらふらっと吸い込まれそうになってしまった。そのときはなぜか突然、「膝カックン」をくらったみたいに足に力が入らなくなって前のめりに片膝をつくような格好になり、それで我に返って事なきを得た。今思えば、あのときが僕の半生において最大に危なかった瞬間だったのかもしれない。
 
 このようなアブナイ精神状態に陥ったからといって、僕は決して自殺したいと思ったわけではない。それなのに、ついふらふらと迫りくる電車に向かって歩き出していた。そんなことがあってからは、突然の行動が制御できない自分が怖くなって、ホームで電車を待つ際は必ず柱なりベンチなりに手をかけて、身体が離れていかないようにしっかりと掴まるようにしていた。この奇妙な対処法は、それからもしばらく続いた。
 僕は今後、自殺を完遂した人に「なぜ」と問いかけることは絶対にしないだろう。なぜならば、僕は理解できるからだ。自殺したいと思ったわけではないのに、真の疲労と苦痛を受けた場合、身体は永遠にそれを手放す方向に動いてしまうこともあり得るということを。僕がそれを回避できたのは、心の強さなどではなく、単なる運によるものなのだろう。


 
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