私は体調の悪いときに美しいものを見る贅沢をしたくなる。しかし最近は馴染みの丸善に行くのも気が重い。ある日檸檬を買った私は、その香りや色に刺激され、丸善の棚に檸檬一つを置いてくる。現実に傷つき病魔と闘いながら、繊細な感受性を表した表題作ほか、20の掌編を収録。(「BOOK」データベースより)
■梶井基次郎『檸檬』(新潮文庫)
◎果物屋と丸善
梶井基次郎『檸檬』(新潮文庫)は、詩情豊かで感性に満ちあふれた掌編です。中学校の教科書で読んで以来、何度も読み返しています。残念なことに今では、教科書からははずれてしまっているようですが。さらに大学時代は文章修業として、梶井作品のいくつかを原稿用紙に書き写していました。『檸檬』には20の掌編が収められています。表題作はあまりにも有名ですが、「Kの昇天」「愛撫」「交尾」も好きでした。
なかでも「交尾」が優れていると思いました。「交尾」も10枚くらいの小品ですが、梶井基次郎の真骨頂である自然描写がきわだっています。白猫や河鹿の交尾模様を、とりあげただけの作品です。心洗われるように、それを見守る「私」の心情がみごとに描かれています。
「檸檬」は原稿用紙で、わずか14枚に満たない掌編です。作品は1925(大正14)年、同人誌に発表されました。主人公の「私」は「えたいの知れない不吉な魂」を心のなかに宿した、京都の貧乏学生です。彼は「出来ることなら京都から逃げだして、だれ一人知らないような市へ行ってしまいたかった」と考えています。
そんな思いを心にもちつつ、「私」は1軒の果物屋で足をとめます。周囲の明るさからは、沈みこんだような暗い店でした。「私」は店頭で、自己主張している檸檬を発見します。眺め、とりあげ、「結局、私はそれを一つだけ買うことに」しました。その後の展開は、梶井基次郎独特の世界といえます。私の大好きな場面です。
――その(註:檸檬のこと)重さこそ常づね私が尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さは総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算してきた重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり……何がさて私は幸福だったのだ。(本文より)
それから「私」は今のように鬱屈した状態になる前、いちばん好きだった場所(書店・丸善)へと向かいます。そこには「赤や黄色のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロコロ趣味の浮模様を持った、琥珀色や翡翠(ひすい)色の香水壜」などが並んでいます。
それまでさいなまれていた、閉塞感が消えてゆきました。ひとつの檸檬に、浮揚感をおぼえているのです。「私」は画集の棚に立ち、ぺらぺらとめくります。そして画集を紡錘形に積み上げ、思い出したようにその頂に檸檬を乗せます。「私」が画集を紡錘形にしたのは、檸檬そのものの形を意識してのことです。「私」は色とりどりの画集を何度も積みなおし、最後に深い満足感を得ます。そして「それをそのままにしておいて私は、何食わぬ顔をして外へ出」ます。置き去られた檸檬は爆発を予感させました。
作品はここで終わります。はじめて『檸檬』を読んだときに、なんとも詩的で、余韻に満ち満ちた結末だと感心しました。梶井基次郎は五感を巧みにあやつり、内面と重ねてみせます。そのあたりに触れた文章を紹介します。
――「檸檬」を読み進んでいくうちに、頭のなかには無数の色や物の匂いが広がってきた。向日葵、カンナの恐ろしいくらいの鮮やかな色。ひなたの匂いのする布団や糊のきいた浴衣。花火の音と煙。びいどろのおはじきの味。檸檬の何ともいえない、さわやかな甘酸っぱいにおい、(群ようこ『ちくま日本文学028・梶井基次郎』ちくま文庫の解説より)
◎短篇小説とは何か
前記『ちくま日本文学』(全40巻、ちくま文庫)の「028梶井基次郎」には、28の小品が収載されています。さらに『梶井基次郎全集・全一巻』(ちくま文庫)には57の小品がならんでいます。梶井基次郎の短篇小説はいいな、というのが完全読破したときの実感です。
ところがある日、丸谷才一『梨のつぶて』(晶文社)を読んでいて、つぎのような文章に行く手を阻まれました。
――梶井の作品は、散文詩でも短篇小説でもない。それはむしろスケッチとでも呼ぶべきものだ。(『梨のつぶて』晶文社より)
短篇小説とはなにか。まずは書棚から、つぎの本をひっぱりだしてきました。
・阿刀田高:短編小説より愛をこめて(新潮文庫)
・阿刀田高:短編小説のレシピ(集英社新書)
・阿刀田高:海外短編のテクニック(集英社新書)
・阿部昭:短編小説礼讃(岩波新書)
・国文学解釈と鑑賞1978.4:短篇小説の魅力
・筒井康隆:短篇小説講義(岩波新書)
黄色く変色したページをくくっていて、つぎの文章にであいました。孫引きですが引用しておきます。
――梶井の文学は小説ではない。(略)小説という文学形式は、想像力、構想力、といった精神の働きのうへに成立するものである。しかし梶井の方法は想像力を拒否する。彼は純粋に視覚力であることを志望する。(「国文学。解釈と鑑賞」1978年4月号「短篇小説への招待」源高根より孫引きしました)
短篇小説の定義に、確固たるものはありません。「新明解国語辞典」(三省堂)ですら「短く完結しているもの」とそっけない解釈になっています。いろいろ読みあさってみて、私は阿部昭のつぎの文章に胸をなでおろしました。
――短編小説とは何か、というようなことはまず省略したい。短篇小説の定義とか、その発生や変遷の歴史とかいったことは、とても私の手には負えない。定義は知らないが、私は短編と呼ばれるものを愛好し、自分もそんなものを書きたいと思って多少書いてきたにすぎない。読者も大方はそうであろう。そこで、短篇小説とは御存知の通りのものである、としておく。(阿部昭『短編小説礼讃』岩波新書)
というわけで、あまり深入りせずに書き進めてゆきます。
当時梶井基次郎は、リアリズムの散文家・志賀直哉や幻想的感覚の詩人ボードレールを尊重していました(「新潮日本文学小事典」を参考にしました)。その影響がどこにあらわれているのか、私には知る術もありません。ただただ、感服。カフェの窓際の席で、レモンティを飲みながら読みたい作品、それが梶井基次郎の代表作『檸檬』なのです。
(山本藤光:2012.12.08初稿、2014.08.17改稿)