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カテゴリ:サ行の著作者(海外)の書評
かねてから、心の底では王位を望んでいたスコットランドの武将マクベスは、荒野で出会った三人の魔女の奇怪な予言と激しく意志的な夫人の教唆により野心を実行に移していく。王ダンカンを自分の城で暗殺し王位を奪ったマクベスは、その王位を失うことへの不安から次々と血に染まった手で罪を重ねていく……。シェイクスピア四大悲劇中でも最も密度の高い凝集力をもつ作品である。(アマゾン内容紹介より)
■シェイクスピア『マクベス』(新潮文庫、福田恆存訳) ◎魔女と亡霊 「山本藤光の文庫で読む500+α」掲載にあたり、シェイクスピアの4大悲劇(『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』いずれも新潮文庫)のどれを選ぶかに迷いました。最終的に『ハムレット』と『マクベス』のどちらかにしょうと、2冊の再読を試みました。 わかりやすさの点で、『マクベス』をとりあげることにしました。 少しだけストーリーを追いかけてみましょう。 雷鳴と稲妻のなかを、3人の魔女が登場します。マクベスに会うといいかわします。(第1幕第1場) 舞台は転じて、王軍の陣営になります。スコットランド王のダンカンと息子(王子)マルコム、ドヌルベインおよび貴族・レノクスらがそろっています。そこに傷ついた隊長が帰還してきます。マクベスの活躍があり、戦に勝利したむねを報告します。(第1幕第2場) ふたたび荒地と雷鳴。3人の魔女が登場します。そこへマクベスとバンクォーがやってきます。魔女は2人に、つぎのような予言をあたえます。「マクベスが次の国王になる」「パンクォーの死後に子孫が国王になる」(第1幕第3場) ストーリーを追うのは、このあたりにします。魔女の予言を現実のものにしたい。だから現実を変えなければならない。マクベスは悪妻にそそのかされ、ダンカン国王とバンクォーを暗殺し、予言を塗り替えようとします。 このあたりの展開について、木下順二は著作のなかでわかりやすく説明してくれています。私は読み流していました。3人の魔女のせりふに、注目する必要がありました。 第1の魔女「おめでとうマクベス! グラームズの領主よ!」 第2の魔女「おめでとうマクベス! コードーの領主よ!」 第3の魔女「将来王になるひとマクベス、おめでとう!」 第1の魔女は、マクベスが領主である地名・グラームズといいます。第2の魔女がいった地名・コードーには、りっぱな別の領主がいます。ところがダンカン王からの使いがきて、戦勝のほうびとして「あなたはコードーの領主になる」と伝えます。いとも簡単に魔女の予言が的中し、マクベスの心は第3の魔女の予言にゆすぶられます。その後の展開を理解するうえで、ここはきちんとおさえておくべきです。(木下順二『劇的とは』岩波新書を参考にしました) さらに私は木下順二のつぎの指摘に、自分の読書力の甘さをしらされたのです。第1幕第1場のラストで、3人の魔女は声をそろえてこういいます。 ――きれいは穢(きた)ない。穢いはきれい。さあ、飛んで行こう。霧のなか、汚れた空をかいくぐり。(霧の中に消える)(本文P10、福田恆存訳より) 木下順二によると、「Fair is foul,and foul is fair.」(きれいは穢ない。穢いはきれい)は、「人間の世界でフェアなものは魔女の世界ではファウルである。人間の世界でファウルなものは魔女の世界ではフェアである。要するに人間と魔女とは価値観が逆だと奇妙なことを合唱するのです。そういう不思議な呪文を三人の魔女が合唱し、それが観客に印象づけられます。そしてこの〈一の一〉はそれだけの十二行で終ります。」(木下順二『劇的とは』岩波新書)ということでした。 『マクベス』は、シェイクスピアの4大悲劇のなかでいちばん短いものです。ストーリーもわかりやすく、この作品から読みはじめるのが好ましいと思います。 ◎鬼気迫るマクベス夫人のせりふ 『マクベス』の読みどころは、マクベスの妻の激しい気性が表出する場面です。マクベスは魔女の予言に心を動かされ、妻に暗殺をたきつけられます。そんな場面をひろってみます。以下マクベス夫人語録です。すべてが夫・マクベスに向けられたものです。 ――考えていらっしゃるご自分と、思いきった行動をなさるご自分と、その二つが一緒になるのを恐れておいでなのですね?(本文P31より) ――私は子供に乳を飲ませたことがある、自分の乳を吸われるいとおしさは知っています。でも、その気になれば、笑みかけてくるその子の柔らかい歯ぐきから乳首を引ったくり、脳みそを抉りだしても見せましょう、さっきのあなたのように、一旦こうと誓ったからには。(本文P32) ――あいつたちの短剣は、あそこに出しておいた、見つからぬはずはない。あのときの寝顔が死んだ父に似てさえいなかったら、自分でやってしまったのだけれど。(本文P37より) ――腑甲斐のない! 短剣をおよこしなさい。眠っている人間や死人は人形同然。(本文P39より) ――あの二人の命だって、やはり自然からの借りもの、いつまで続くものでもございますまい。(本文P60より) 『ハムレット』と『マクベス』は、コインの裏と表のような作品です。クルクルとまわっていると、そこから魔女と亡霊があらわれます。『ハムレット』は、叔父によって王位を略奪された王子が主人公です。いっぽう『マクベス』は、それとはまったく裏腹な作品です。前者が王位を「奪われた」主人公の作品であり、後者は王位を「奪った」作品なのです。 マクベス夫人のせりふを、長々と紹介しました。平坦なものがたりに、くさびを打ち込むような役割を担っているのが、これらのせりふなのです。棋士が妙手をうつときの石音のように、活字のなかから響き渡るせりふには鬼気迫るものがあります。 ◎シェイクスピアをさらに楽しむ シェイクスピアの4大悲劇を読んでからおさらいのために、ラム(松本恵子訳)『シェイクスピア物語』(新潮文庫)を開きました。この著作は1877年にイギリスで出版されたものです。著者のラム姉弟が、「少年少女のために、シェイクスピア研究の助けをしたいと希望して」書いたものです。 少し訳文が古めかしいのですが、戯曲をものがたりにしてあるので行間がわかりやすくなっています。この著作は、岩波文庫や岩波ジュニア文庫にもなっています。 さらに『マクベス』(新潮文庫)の翻訳者である福田恆存には、『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)という著作があります。詳細についてはふれませんが、シェイクスピアについての興味深い話が展開されています。一部だけ紹介しておきます。、 ――作品を詩人がおのれの姿を映す鏡と見なすのが浪漫派流の近代的解釈であるとすれば、「千万の心をもった」偉大なる個性というのも、同様の解釈から発し、それを押しひろげたものにすぎない。シェイクスピアは生きた人間が動きまわる姿を愛し、それを作品に写しとったのである。劇詩人としての才能を除いては、かれは一個の凡庸人だったに相違ない。(福田恆存『人間・この劇的なるもの』新潮文庫P63より) また、清水義範『普及版・世界文学全集・第1期』(集英社文庫)のなかに、腹をかかえて笑ってしまうシェイクスピア論が所収されています。 これらの参考図書を読んで、シェイクスピアの偉大さを再認識させられました。わかりにくかった「せりふまわし」が、すとんと腑に落ちたのです。シェイクスピアは、当初あまり評価の高くない作家だったようです。私も関連図書を読むまでは、同じ評価でした。 ――面白みはあるけれど、主流ではない、未開で野蛮な、無知蒙昧の時代が生み出した、型破りで規則にそぐわない作家、しかしながら、不思議な魅力はあるというような評価を受けていた。けっして、最上級の古典と認められていたわけではないのです。(安西徹雄「古典と教養のルネサンス」:『カフェ古典新訳文庫(1)』光文社古典新訳文庫別冊P99より) 『ハムレット』については、「+α」としていずれ紹介させていただきます。 (山本藤光:2010.03.20初稿、2014.09.05改稿) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年10月17日 10時04分48秒
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