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カテゴリ:サ行の著作者(海外)の書評
だれからもすかれているジキル博士は、ある日、おそろしい薬をかんせいさせた。ひとりの人間のよい面と悪い面を分け、どちらにでも変身できる薬だ。だが、悪の顔を持つハイドになるたびに、いつしかもとの心が弱められて…。(「BOOK」データベースより)
■スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』(角川文庫、大谷利彦訳) ◎スティーヴンソンと吉田松陰 スティーヴンソンは、『宝島』(新潮文庫)と『ジーキル博士とハイド氏』(角川文庫)の著者です。この2作品は、いかなる強力な接着剤をもってしても、つながりません。幼いころに『宝島』と親しんだ読者の多くは『ジーキル博士とハイド氏』を、その延長線上にすえることはできないと思います。 『宝島』は「痛快世界の冒険文学・第6回配本」(1998年講談社、宗田理訳)で、成人してからも読んでいます。やはり『ジーキル博士とハイド氏』を想起させられるようなことはありませんでした。2つの作品があまりにも、かけ離れているためだろうと思います。 スティーヴンソンは、幼いころから病弱でした。エディンバラ大学工科に入学し、のちに法科に転籍しています。そのころ日本人留学生から教えられて、吉田松陰の思想にふれることになります。フランス旅行中に彼は、11歳年上のアメリカ人ファニー・オズボーンと知り合います。ファニーには2人の子供がいましたが、やがて彼女と結婚します。 『宝島』はファニーの連れ子・ロイドを楽しませるために、書かれたといわれています。この作品には、灯台技士であるスティーヴンソンの父親も関与しました。 ――中には上等な服が一着、その下に四分儀一個、小さなブリキ缶、たばこ、ぴかぴかに磨いたピストル二丁、銀ののべ棒一本、スペイン製の懐中時計、めずらしい形をした西インド諸島の貝がら……。(『宝島』より) 宝箱の中身を考えたのは、こどものおじいさんにあたるスティーヴンソンの父親だったのです。家族のなごやかな雰囲気を感じとることができる、エピソードだと思います。それゆえ『ジーキル博士とハイド氏』を書いたスティーヴンソンは、私にとって異次元の人に思えたのでしょう。 スティーヴンソンは吉田松陰を尊敬しており、吉田松陰についての文章も発表しています。よしだみどりに『知られざる「吉田松陰伝」』(祥伝社新書。本書の詳細は「標茶六三の文庫で読む400+α」で紹介)という著作があります。本書の副題には『宝島』のスティーヴンスンがなぜ?」とつけられています。そして「スティーヴンスン作『ヨシダ・トラジロウ』全訳」が所収されています。ちなみに「ヨシダ・トラジロウ」は、吉田松陰のことです。河上徹太郎も著作『吉田松陰』(講談社文芸文庫)のなかで、「R.L.スティブンソンに『ヨシダ・トラヂロウ』(補:吉田松陰のこと)という一文がある」(P53)からはじまる文章には15ページも費やされています。 ◎スティーヴンソンと夏目漱石 スティーヴンソンが、吉田松陰の思想にほれ込んだことは先にふれました。逆に日本人作家が、スティーヴンソンに影響を受けた例もあります。 夏目漱石(推薦作『吾輩は猫である』新潮文庫)は、『彼岸過迄』(新潮文庫)のなかで、スティーヴンソンを登場させています。「新アラビア夜話」に興味があったようです。イギリスに留学していたことのある夏目漱石だけに、ロンドンの裏通りは知りつくしていたのでしょう。『ジーキル博士とハイド氏』にも、夏目漱石が歩いた裏通りが描かれています。 ――敬太郎のこの傾向は、彼がまだ高等学校に居た時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜刺比(アラビ)亜(ア)物語という書物を読ました頃から段々頭を持ち上げ出したように思われる。(夏目漱石『彼岸過迄』新潮文庫P19より) 中島敦(推薦作『山月記』新潮文庫)は、「光と風と夢」(講談社文芸文庫)のなかに、スティーブンソンを登場させています。横浜高等女学校(現横浜学園)の教師だった中島敦は喘息治療のため、当時(1941年)日本の統治下だった南洋群島パラオに向かいます。スティーヴンソンがサモアで、療養生活をしていたのにならったものです。そのとき書いた作品が「光と風と夢」であり、主人公の名前もスティーヴンソンにしています。この作品は「青空文庫」でも読むことができます。 (以下「光と風と夢」の冒頭を「青空文庫」より引用) 一八八四年五月の或夜遅く、三十五歳のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血(かっけつ)に襲われた。駈付けた妻に向って、彼は紙切に鉛筆で斯(こ)う書いて見せた。「恐れることはない。之が死なら、楽なものだ。」血が口中を塞(ふさ)いで、口が利けなかったのである。(引用おわり) ナボコフ(推薦作『ロリータ』新潮文庫)の著作に『ナボコフの文学講義』(上下巻、河出文庫)があります。下巻では『ジーキル博士とハイド氏』について、およそ50ページの論評がなされています。本書の参考図書としてお薦めさせていただきます。 ◎2人の主役が登場する場面 『ジーキル博士とハイド氏』は、だれもがご存知のとおりの二重人格の話です。本書について的確な解説があります。それを紹介させていただきます。 ――小説は顕微鏡のようなものである。普通の人の目にははいりにくい人間や社会の秘密を拡大して見せてくれる。拡大するに際して、多少の無理や歪(ゆが)みはつきもので、それがあるからこそ、深刻な事実もこれは作り話なのだと安心して読むことができる。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの短編小説『ジーキル博士とハイド氏』は、すべての人間のなかにひそむ二重人格を、二人の人物にふりわけて誇大に描いてみせるが、こういう作り話が成り立つのは、たぶんだれでも悪の化身たるハイド氏になってみたいと思うことも時にはあるからにちがいない。(木原武一『要約世界文学全集1』新潮文庫) この小説の語り手は、弁護士アタスンです。アタスンは従弟のリチャード・エンフィールドから、奇妙な話を聞きます。リチャードはある日、通りで少女と小男が、激しくぶつかった場面に遭遇します。小男は少女を踏みつけ、そのまま立ち去ってしまいます。リチャードは男を捕まえます。男は平気な顔をして、慰謝料を払うといって、戸口に消えてしまいます。間もなく男は10ポンドと小切手をもってあらわれます。リチャードは当時を思い出しながら、つぎのように語ります。 ――小切手は持参人払いになっていて、サインがしてありました。その名前は、それが僕の話の要点になるのだけど、今ちょっと言うわけにはいかないんです。世間によく知られた、新聞などでもしじゅう見受ける名前ですね。(本文より) 慰謝料事件をめぐり、2人の会話はつづきます。アタスンがリチャードにつぎのように問いかけます。 「それにしても、一つだけ聞いておきたいんだがね。子供を踏みつけたやつの名前は何というんだい?」 「ううん。話したって別にかまわないだろうな。ハイドっていうんですよ」(本文より) 冒頭でまず、ハイドが登場します。その日の夕方、アタスンはゆううつな気分で帰宅します。アタスンには気がかりなことがあって、弁護士事務室へ行きました。 ――部屋へ入ると金庫の一番奥から、封筒に「ジーキル博士遺言状」と書かれた封筒を取り出し、腰かけて心配そうに内容を調べ始めた。(本文より) この段階で、ジーキル博士が登場します。つまり作品の冒頭では、ジーキル博士とハイド氏は別々の存在として語られているのです。 ハイドが差し出した小切手の差出人は、ジーキル博士でした。ジーキル博士は温厚で人徳があり、さまざまな肩書きをもった名士です。なぜハイドがジーキル博士の署名した小切手をもっていたのか。推理小説なら、そんな展開になるのでしょう。 ところがスティーヴンソンは、すぐに種明かしをしてしまいます。アタスンが預かっている遺言状の文面は、つぎのように説明されています。 ――ヘンリー・ジーキル死亡の際は、全財産を彼の「友人にしてかつ恩人たる、エドワード・ハイド氏に」譲渡すべきこと、ならびに、ジーキル博士の「失踪、または原因不明の不在が三ヶ月以上にわたる」ときは、前記エドワード・ハイド氏は、遅滞なく前記ヘンリー・ジーキルの財産を相続し、かつ博士の遺族に少額の支払いを行う以外は、一切の負担及び義務をまぬがれるべき趣旨が規定してあった。(本文より) 『ジーキル博士とハイド氏』の話が、善悪の二重人格ということを知らなければ、冒頭のこれらの場面はこんがらかったままになります。弁護士アタスンは、ジーキル博士の遺言状にあるハイドについてまったく知らないのです。それがリチャードの話で、一挙に結びついてしまいました。 このあたりの流れは、さすがに冒険小説を書くスティーブンソンらしいと思います。文庫本でわずかに126ページのストーリーです。最後の場面について、ほんのちょっぴり解説を引用しておきます。 ――ジーキルは表面は穏やかな紳士だが、内面は悪辣(あくらつ)な卑劣漢(ひれつかん)だった。彼は、人間がそもそも善悪二つの性格を持っている以上、それに対応する二つの独立した存在が一つの身体の中に宿るはずだと確信して実験を重ねた結果、自分がたとえ悪の支配する醜悪な姿へ変身しても、必ず元へ戻れるという薬を製造した。善人ジーキルは悪人ハイドとなり、良心の呵責(かしゃく)なしに悪事を重ねることができた。(金森誠也『世界の名作50選』PHP文庫) 岡部伊都子は、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』(朝日選書のなかで、つぎのように書いています。結びの警鐘とさせていただきます。 ――取り返しのつかない純粋悪のみと化して滅亡したジーキルに、自分の作りだした科学悪に支配されるようになった人間全体の破滅をみるのは、わたくしの思いすぎでしょうか。 (山本藤光:2009.11.16初稿、2015.03.22改稿) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年10月19日 15時00分25秒
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