■小説「どん底塾の3人」056最終回:夢の共有
海老原浩二は、日本橋の百貨店へと転職した。長い新人研修を終えた彼は、久し振りに定食屋どん底に顔を見せた。
「おお、きたか。ピカピカの外商さん」
厨房から顔を出し、亀さんが声をかけた。うれしそうでもあり、驚いているような顔でもあった。そこにいたのは、清潔感が漂う別人のような海老原だったのだ。
2階から大きな足音が降りてくる。株式会社仕出弁当鶴亀屋の社長・加納百合子だった。加納は、亀さんの2階の1室を事務所として借りていた。
「久し振り、元気そうじゃないの」
固い握手が交わされる。加納は海老原の顔が、精悍になってきたと感じた。
「社長業の方は、どうですか?」
「どうにかなりそう。それよりも、雑誌社から取材があったわよ。ラーメン特集で、うちの袋ラーメンを取り上げるんだって」
「それはすごい。きっと行列ができる店になりますよ」
「よし、今日は少し早いが閉店だ。海老原の就職祝いを、しなくっちゃな」
前掛けで手を拭いながら、亀さんは海老原の肩を乱暴に叩く。
「間もなく、大河内さんもきます。亀さんに大事な報告があるって言っていました」
厨房から料理を運んでいるところに、大河内が顔を見せた。入ってくるなり、彼は亀さんに飛びつく。
「やりました。先月はダントツのトップでした。これも一重に、亀さんのお蔭です。ありがとうございます」
大河内の瞳から、大粒の涙がこぼれた。亀さんが、やさしく肩を叩く。
「おれの顧客リストが役立ったのか?」
「いいえ、あれには手を出しません。あれは心の支えであり、大切な宝物です。あのリストがあるから、がんばれたんです」
「おまえたちは、たくましくなった。そんなおまえたちに、ひとつだけ告白しておかなければならない。おれは女房と別居中だ。2人の息子も、女房と暮らしている。仕事バリバリ、家でゴロゴロのツケだから仕方がない。
でも、おまえたちとつきあっているうちに、これではダメだと思った。近いうちにおれは、家族を迎えに行こうと思っている」
3人が顔を見合わせ、頷き合っている。大河内が代表して告げた。
「夢は分かち合うものです。そして、対(つい)はつなぐものです。亀さんが、そう教えてくれました。わたしたちからも、亀さんにプレゼントがあります。家族のみなさん、どうぞ降りてきてください」
2階から、複数の足音が降りてくる。亀さんは肩を揺らして、もう泣いている。
(完)