真田君と小人たち。
Jリーグ創成期。企業母体を持たない0からのチームとしてスタートした清水エスパルスは当時決して強いチームではなく、GKの真田君と その前を全員守備で必死に護ろうとする選手たちがまるで白雪姫とそのドレスの裾にまとわりつく小人のように見えて友人たちとやんややんやと そう呼んでいた。身長は公称180。キーパーとしては「小柄」と言われる。今思えば、そんな真田君がとても大きく見えて他の選手を小人のようにとらえていたのだ。---------------------------------------------------我が家のテレビはいつも何かしらのスポーツがついていた。野球、サッカー、バレーボール、マラソン、ゴルフ・・・父が好きだったのだろう。その影響か、スポーツを観るのはいつの間にか私も大好きだった。1985年我が家の正月は、天皇杯サッカー、箱根駅伝、高校サッカーで始まる。その年私は冬休み前に、セブンティーンなる雑誌で高校サッカーの気になる男子特集的な記事を手に入れていた。今ならイケメン特集、といったところ。高校3年、進路の決定していた私には暇な正月で冬休み。その年の高校サッカーは、その雑誌を手にお目当ての選手をさがしながら初めて選手を意識してじっくりとサッカーを見ていた年だった。我が神奈川県代表鎌倉3回戦で、地元横浜の三ツ沢球技場で清商と当たった。今のようにJリーグもなかった時代、きれいに整備されたピッチもない冬枯れた芝生の球技場。そこにさらに雨が降り、ピッチはまるで田んぼのような有様。思うように動けない。ボールも転がらない。そんな中、清商はそれでもパスをつなぎ主将の江尻選手(現U-15日本代表コーチ)はドリブルを繰り広げ、見事なコーナーキックを披露する。これが同じ高校生なのか。あまりの技術・力量の違いに愕然とし泥まみれになりながら、ひたむきにゴールに向かう姿に熱くなる。サッカーの奥深さと魅力に 捕まった試合だ。鎌倉は負けた。しかし私は、江尻君と清商の虜になった。清商はそのまま勝ち進み、その年の優勝校となる。そのときのゴールを護ったのが真田君だった。その後、江尻君を追いかけて大学サッカーも観に行った。真田君との対決を見たくて、順大戦を好んだ。Jリーグが始まった。大学を卒業したらサッカーやめる、という噂だった江尻君もプロリーグ発足が決まって古河からプロ選手になる道にいた。名門とも言われた全日空にいた真田君は、フリューゲルスに残らず市民球団エスパルス地元清水から0のスタートを選んだ。当初は私も特にサポートするチームも決めず、江尻君のジェフ市原、真田君の清水エスパルスもよく観に行った。Jリーグ観戦が一番楽しかった無邪気な時代だ。オレンジのユニフォームに囲まれた真田君のグリーンのユニフォーム姿が今でも思い出せる。私のサッカー好き歴史創成期からいたひと。----------------------------------------------------7月に 元浦和レッズ監督森さんが亡くなった。Jリーグ創成期とレッズ人気を支えた一人であった。8月に 松田直樹が逝った。マリノスサポーターの心を掴み、Jリーグ人気と日本代表を支えた人の早すぎる死だった。9月 真田君も突然逝った。Jリーグ創成期を支えた人の 早すぎる死。43歳。私と同学年です・・・・