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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年02月08日
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カテゴリ:育児問題
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一緒に学校へ抗議に行ってほしい!
親の身勝手(失敗危険度★★★★)

●「しっかりめんどうをみろ」
 三〇人もいれば、いろいろな生徒がいる。たとえあなたの子どもに問題がないとしても、多いか少ないかと言えば、問題のある子どものほうが多いに決まっている。中には親ですら、手に負えない子どももいる。そういう子どもを三〇人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はない。もっと言えば、あなたという親から見れば、先生とあなたの関係は一対一かもしれないが、先生のほうから見れば、一対三〇になる。たとえばあなたは「一〇分くらいの相談ならいいだろう」と思って電話をするかもしれないが、三〇人ともなると、それだけで計五時間となる。五時間である! が、親にはそれがわからない。どの親も、「私だけ」と思って行動する。あるいは自分や自分の子どものことしか考えない。こんなことがあった。

●一〇〇%完ぺきな授業はない
 ある日一人の母親が血相を変えて私の家にやってきた。そしてこう言った。「今日、学校で席決めのとき、先生が『好きなどうし並んでもよい』と言ったという。ウチの子(小二男児)のように、友だちがいない子どもはどうしたらいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。これから学校へ抗議に行くので、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断った。

すべての子どもに対して満点の指導など、実際には不可能だ。九〇%の子どもによかれと思ってしても、残りの一〇%の子どもにはそうでないときもある。たまには自分の子どもが、その一〇%に入るときもある。そういうことでいちいち目くじらを立てていたら、学校の先生だって指導ができなくなる。

●本当の問題
 学校や学校の先生に対して完ぺきさを求める親というのは、それだけで依存心の強い人とみる。もし教育は親がするもの、その責任は親がとるものという考えがもう少し徹底すれば、こうした過関心は、少しはやわらぐはず。このタイプの親は、「何とかせよ」と学校や学校の先生に迫ることはあっても、その責任は自分にあるとは思わない。席決めを問題にした親にしても、先生の発言よりも、むしろその子どもに友だちがいないことこそ問題にすべきではないのか。「なぜ友だちがいないのか?」と。また友だちがいないからといって、それは先生の責任ではない。子ども自身が自分で、「ぼくには好きな子がいない」とでも言えば、それはそれでわかるが、そうでなければ、先生にそこまで把握することは不可能。家へ帰ってから子どもが親に、「ぼくには友だちがいない」と訴えたとしても、それは子ども自身の問題と考えてよい。

 子どものことに関心をもつのは、それはしかたないことだが、しかしそれが過関心になり、こまかいことが気になり始めたら、心の病気の初期症状と思ったらよい。ほうっておけば、あなたは育児ノイローゼになって、自らの心を狂わすことになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただより高いものはない
親のエゴ、親の計算(失敗危険度★★)

●身内や親戚は教えない
 昔から『ただより高いものはない』という。教育の世界ほどそうで、とくに受験勉強のような「危険物」は、割り切ってプロに任せたほうがよい。実のところ、私も若いころ、受験塾の講師もしたことがあるが、身内や親戚、あるいは親しい知人の子どもについては、引き受けなかった。理由はいくつかある。

 まず受験勉強ほど、その子どものプライバシーに切り込むものはない。学校での成績を知るということは、そういうことをいう。つぎに成績があがればよいが、そうでなければ、たいていは人間関係そのものまでおかしくなる。ばあいによっては、うらまれる。さらに身内や親類となると、そこに「甘え」が生じ、この甘えが、金銭関係をルーズにする。私も一度だけ、遠い親戚の子ども(小二のときから中二まで)預かったことがある。F君という男の子だった。

●F君との出会い
 F君が最初に私のところにやってきたのは、小学一年生のときのことだ。今でいう学習障害児と言ってもよいような子どもだった。女房の遠い親戚にあたる子どもだったので、頼まれるまま引き受けた。いや、本来なら親戚の子どもは引き受けないのだが、母親は私の熱心なファンだと言った。それで引き受けた。

●月謝は半額
 で、親戚ということで、月謝は当初から半額だった。正確には、当時八〇〇〇円の月謝(一クラス五人程度、週一回)の半額の四〇〇〇円だった。が、そういう子だったから、半年もしないうちに、母親から「週二回みてほしい」と言ってきた。そこで私は時間を何とかつくり、週二回、教えることにした。しかし効果はほとんどなかった。こうなると、私のほうが立場が悪くなる。物価もそれなりに上昇したが、F君だけは月謝を据え置いた。いや、何度か断りたいと思ったが、親戚ということで、それもできなかった。その状態が三年、四年とつづいた。で、いよいよ中学というとき、思うような結果が出せなかったので、私のほうから申し出て、週三回にしてもらった。もちろんふやした分は、ただである。母親は感謝したが、しかしそれも最初だけだった。

●通常の月謝で……
 こうして計算してみると、すでにそのころ月謝は、通常の四分の一以下になっていた。が、それでも何とかF君との人間関係はつづいた。が、私を激怒させる事件が起きた。何とF君が、同じ教室で、数歳年下の子どもをいじめていたのである。そのいじめ方については、ここに書く必要はないと思う。が、その事件を目撃して、私はF君への思いが消えた。(今から思うと、F君も犠牲者だったのかもしれない。毎週三回も、いやいやながら私の家に足を運んでいたのだから……。)

で、ある日、母親に、通常の月謝にしてほしいと申し出た。いや、その直前に、たまたま母親のほうから、週三回を、さらに週四回にしてほしいという申し出があった。私は、「通常の月謝で教えさせていただけるなら、引き受ける」というようなことを言った。が、この言葉がどういうわけだか、母親を怒らせた。F君の母親は、「それなら結構です」と言って、そのまま私の教室を去っていった。

 何とも割り切れない別れ方だったが、以後、そのF君の母親もF君も、いっさい音信はない。葬儀の席か何かで会ったことがあるが、母親は私には視線を合わせようともしなかった。

●無料の受験特訓
 もう一つ、こんなこともあった。

私はほんの数年前まで、高校を受験する受験生については無料で教えていた。受験指導はあくまでも「指導」であって、教育とは異質のものと考えていたからだ。方法はこうだ。

 この静岡県では、中学三年が、受験期としてたいへん重要な意味をもつ。だからその時期を迎えた子どもは、毎年七月から一一月まで、毎晩七時ごろから一一時ごろまで教えた。教えたといっても、つきっきりで指導したわけではない。ときどき生徒の様子をうかがい、わからないところだけを教えた。

しかしこの方法を長い間つづけていると、どこからか情報がもれて、その教室を目的に私のところへやってくる生徒がふえ始めた。最初のころこそ、気前よく迎えていたが、それが四人、五人となると、さすがの私も負担に思い始めた。が、ある夜こんなことがあった。

●無料レッスンを請求した子ども
 そろそろ七月という暑い初夏の夜だった。その年は何かとあわただしく、七月からの無料学習(私は受験特訓と呼んでいたが)、その日程の調整がつかなかった。中学三年生はそのとき、五人ほどいた。うち一人だけが幼児教室のOBで、残りは中学三年生になってから、入ってきた生徒だった。私は週一回、二時間という教室でそれまで教えていた。その夜のことだ。

 帰りまぎわになって、一人の中学生がこう言った。「今年はいつから受験特訓を始めてくれるのですか?」と。私は驚いた。私は一度も、私のほうからそういう連絡をした覚えはない。あくまでも私の好意であって、それをするかしないかは、私が決めるものだとばかり思っていた。そこで、「始める? ……どうして?」と聞くと、その中学生はこう言った。「お母さんが聞いてこいと言った」と。

●ガラガラと音とをたてて……
 とたん、私の中からやる気がガラガラと音をたてて崩れていくのを感じた。この生徒たちは、(無料の!)受験特訓を目的に、中学三年になってあわてて私のところへきたのだ。しかし毎晩、四~五時間の指導を、半年近くもする受験塾がどこにあるだろうか。そのとき生徒五人から手にしていた月謝を合計しても、学生による家庭教師代より少ない。私は思わず、「今年は忙しいからな……」と言ったのだが、もう一人の中学生も、不機嫌な顔をしていた。見ると「約束が違う」というような表情だった。

 私はその年は七月になっても、受験特訓を始めなかった。八月になっても、受験特訓を始めなかった。が、九月になると、その中の三人が私の教室をやめると言い出した。しかたないことだ。もともとそういう生徒だった。

 で、九月になった。私は二人の生徒だけで、一一月まで受験特訓をした。一一月というのは、最後の校内模試が終わる月であった。内申書の成績はこの試験を最後に決まる。静岡県では、当時は、この内申書でほとんどが入学先の高校が決まるしくみになっていた。
 その翌年から、私は受験特訓をやめた。おかげで生徒は、一人もいなくなったが……。

●受験勉強はしごき
 受験指導というが、子どもの側からみると、「しごき」以外の何ものでもない。子どもの側で考えてみれば、それがわかる。勉強がしたくて勉強する子どもなど、いない。偏差値はどうだった、順位はどうだった、希望校はどこにするとやっているうちに、子どもの心はどんどんと離れていく。だからいくら教える側が犠牲的精神をふるいたたせても、率直に言えば、親に感謝されることはあっても、子どもに感謝されることは、まずない。受験勉強というのは、もともとそういうもの。「教育」という名前を使う人もいるが、ここに書いたように、受験指導は「指導」であって、教育ではない。もともと豊かな人間関係が育つ土壌など、どこにもない。

●受験勉強はプロに任す
 長い前置きになったが、そこで本論。中に子どもの受験勉強を、親類や知人に頼む人がいる。そのほうが安いだろうとか、ていねいにみてもらえるだろうとか考えてそうする。しかし実際には、冒頭に書いたように、ただより高いものはない。相手がプロなら、成績がさがれば、「クビ!」と言うこともできるが、親類や知人ではそういうわけにもいかない。ズルズルと指導してもらっているうちに、あっという間に受験期は過ぎてしまう。そんなわけで教訓。受験勉強は、多少お金を出しても、その道のプロに任せたほうがよい。結局はそのほうが安全だし、長い目で見て、安あがりになる。





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最終更新日  2009年02月08日 19時23分14秒
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