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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年02月08日
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カテゴリ:育児問題
あんたさ、英語教育に反対してよ!
おめでたママ(失敗危険度★★★★★)

●「どうやって補充するか」
 自分の子どものことがまったくわかっていない親というのは、多い。わかっていないと言っても、それが度を超えている。先日もある母親から電話がかかってきた。受話器をとると、「どうしても相談したいことがある」と言ったので、会うことにした。見知らぬ人だった。で、会うと、こう言った。「今度、学習内容が三割削減されるというではありませんか。親としてどうやって補充したらよいでしょうか」と。その母親はこう言った。

「うちの子のように、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子どもから、その上、三割も内容が減らされたら、どうしたらいいのですか?」と。その母親は「(三割も学習量が減ったら)ますます学力がさがる」と考えたようだ。しかしもしそうなら、つまり「ついていくだけでも精一杯」という状態なら、三割削減されたことを、まっさきに喜ばねばならないはずである。それをその母親は、「どうやって補充するか」と。私は頭の中で、脳細胞がショートして火花を散らすのを感じた。

●英語教育は日本語をだめにする?
 同じような例だが、こんな相談も。「今度うちの小学校でも英語教育が始まったが、今、英語なんか教えてもらったら、うちの子(小三男児)の日本語がおかしくなってしまう。英語教育には反対してほしい」と。こう書くと、まともな日本語で母親が話したかのように思う人がいるかもしれないが、実際にはこうだ。「今度、英語ね、ほら、小学校で、英語。ありゃ、うちの子に、必要ないって。あんな英語やらやあ、さあ、かえって日本語、ダメになるさ。あんたさ、評論家ならさ、反対してよ」と。日本語すらまともに話せない母親が、子どもの国語力を心配するから、おかしい。

●この子には、力があるはずです
 が、子どもの受験のことになると、ほとんどの親は自分の姿を見失う。数年前だが、一人の中学生(中一男子)が、両親に連れられて私のところにやってきた。両親は、ていねいだが、こう言った。「この子には、力があるはずです。今までB教室といういいかげんな塾へ行っていたので、力が落ちてしまった。ついては、先生に任せるから、どうしてもS高校へ入れてほしい」と。

S高校といえば、この静岡県でも偏差値が最上位の進学高校である。そこで私は一時間だけその中学生をみてみることにした。が、すわって数分もしないうちに、鉛筆で爪をほじり始めた。視線があったときだけ、何となく頭をかかえて、勉強しているフリはするものの、まったくはかどらない。明らかに親の過関心と過干渉が、子どものやる気を奪ってしまっていた。私は隣の部屋に待たせていた両親を呼んで、「あとで返事をする」と言って、その場は逃げた。

●「はっきり言ったらどうだ」
 数日置いて、私はていねいな手紙を書いた。「今は、時間的に余裕もないから、希望には添えない」という内容の手紙だった。が、その直後、案の定、父親から猛烈な怒りの電話が入った。父親は電話口の向こうでこう怒鳴った。「お前は、うちの子は、S高校は無理だと思っているのか。失敬ではないか。無理なら無理と、はっきり言ったらどうだ」と。

●デパートの販売拒否
 本当にこのタイプの親は、つきあいにくい。どこをどうつついても、ああでもない、こうでもないとつっかかってくる。公立の、つまり税金で動いている学校ですら、選抜試験をするではないか。私のような、まったく私立の、一円も税金の恩恵を受けていない教室が、どうしてある程度の選抜をしてはいけないのか。

ほとんど親がそうだが、私が入会を断ったりすると、まるでデパートで販売拒否にでもあったかのように、怒りだす。気持ちはわからないわけではないが、つまりは、それだけ私たちは「下」に見られている。しかし昔からこう言うではないか。『一寸の虫にも五分の魂』と。そういうふうにしか見られていないとわかったとたん、私たちだって、教える気はうせる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

学校の先生が許せない!
自分を知る、子どもを知る(失敗危険度★★★★)

●汝自身を知れ
 自分を知ることはむずかしい。スパルタの七賢人の一人、キロンも、『汝自身を知れ』という有名な言葉を残している。つまり自分のことを知るのはそれほどむずかしい。理由はいくつかあるが、それはさておき、自分の子どものことを知るのは、さらにむずかしい。

 一般論として賢い人には、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは賢い人が見えない。もっと言えば、賢い人からは愚かな人がよく見えるが、愚かな人からは賢い人が見えない。かなり心配な人(失礼!)でも、自分が愚かだと思っている人はまずいない。さらにタチの悪いことに、愚かな親には、自分の子どもの能力がわからない。これが多くの悲喜劇のモトとなる。

●「ちゃんと九九はできます」
 学校の先生に、「どうしてうちの子(小四男子)は算数ができないのでしょう」と相談した母親がいた。その子どもはまだ掛け算の九九すら、じゅうぶんに覚えていなかった。そこで先生が、「掛け算の九九をもう一度復習してください」と言うと、「ちゃんと九九はできます」と。掛け算の九九をソラで言えるということと、それを応用して割り算に利用するということの間には、大きなへだたりがある。が、その母親にはそれがわからない。九九がソラで言えれば、それで掛け算をマスターしたと思っている。子どもに説明する以上に、このタイプの親に説明するのはたいへんだ。その先生はこう言った。

 「親にどうしてうちの子は勉強ができないかと聞かれると、自分の責任を追及されているようで、つらい」と。私もその気持ちはよく理解できる。

●神経質な家庭環境が原因 
が、能力の問題は、まだこうして簡単にわかるが、心の問題となるとそうはいかない。ある日、一人の母親が私のところへきてこう言った。「うちの子(小一男子)が、おもらししたのを皆が笑った」というのだ。母親は「先生も一緒に笑ったというが、私は許せない」と。だから「学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、その子どもにはかなり強いチック(神経性の筋肉のけいれん)もみられた。その子どもがおもらしをしたことも問題だが、もっと大きな問題は、ではなぜもらしたかということ。なぜ「トイレへ行ってきます」と言えなかったのかということだ。もらしたことにしても、チックにしても、神経質な家庭環境が原因であることが多い。

●ギスギスでは教育はできない
学校という場だから、ときにはハメをはずして先生や子どもも笑うときがあるだろう。いちいちそんなこまかいことを気にしていたら、先生も子どもも、授業などできなくなってしまう。また笑った、笑われたという問題にしても、子どもというのはそういうふうにキズだらけになりながら成長する。むしろそうした神経質な親の態度こそが、もろもろの症状の原因とも考えられる。が、その親にはわからない。表面的な事件だけをとらえて、それをことさらおおげさに問題にする。

●子どもを知るのが子育ての基本
 まず子どもを知る。それが子育ての基本。もっと言えば子どもを育てるということは、子どもを知るということ。しかし実際には、子どもを知ることは、子育てそのものよりも、ずっとむずかしい。たとえば「あなた」という人にしても、あなたはすべてを知っているつもりかもしれないが、実際には、知らない部分のほうがはるかに多い。「知らない部分のほうが多い」という事実すら、気がついていない人のほうが多い。

人というのは、自らがより賢くなってはじめて、それまでの愚かさに気がつく。だから今、あなたが愚かであるとしても、それを恥じることはないが、しかし、より賢くなる努力だけはやめてはいけない。やめたとたん、あなたはその愚かな人になる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った
汝(なんじ)自身を知れ(失敗危険度★★★★)

●自分を知ることの難しさ
自分を知ることは本当にむずかしい。この私も、五〇歳を過ぎたころから、やっと自分の姿がおぼろげながらわかるようになった。表面的な行動はともかくも、内面的な行動派、「私」というより、「私の中の私」に支配されている。そしてその「私の中の私」、つまり自分は、「私」が思うより、はるかに複雑で、いろいろな過去に密接に結びついている。

●「ぼくは何も悪くなかった」
 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

●問題の本質は?
ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

●自分であって自分でない部分
話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。





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最終更新日  2009年02月08日 19時31分04秒
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