●代償的過保護
●代償的過保護(自分のために子どもを愛する) 過保護は過保護だが、親の支配欲を満たすためだけの過保護を、代償的過保護という。いわば過保護モドキの過保護のことになるが、外見上は、一般の過保護とは区別がつきにくい。 ふつう過保護には、そうするだけの理由、つまり心配の「種」がある。病気ばかりしていたから、子どもを運動面や食事面で過保護にするなど。しかし代償的過保護には、それがない。このタイプの親は、「親に甘えてくれる子どもがいい子ども」と、とらえる傾向がある。つまり子どもを管理する一方、子どもには依存心をもたせる。そして結果として、子どもを自分の支配化に置く。Tさんも、そんなタイプの母親だった。Tさんは、こう言った。 「息子(27歳)の結婚相手は、私が選んであげます。ヘンな女にくっつかれると、財産を食いつぶされますから」と。そして息子が好きになった女性との結婚に猛反対して、それをつぶしてしまった。今でも息子の帰宅がちょっとでも遅れたりすると、それをくどくどと叱っている。 Tさんが恐れているのは、子どもの自立だった。自立して自分から去っていくことだった。こんなこともあった。息子が高校三年生のときである。息子が県外の大学に進学したいと言ったのに対して、Tさんは、反対。そして私のところへ来て、こう頼んだ。「先生のところへ来週にでも息子をよこしますから、よく説得してやってください。先生の言うことなら聞きますから」と。そして帰り際に、「今日、私がここへ来たことは内緒にしておいてくださいよ」と。 このタイプの親に共通しているのは、他人に心を許さないこと。自分の子どもすら信じていない。言いかえると、自己中心性が強く、わがまま。その上、気が小さく、おくびょう。「自分」というものがあるようで、どこにもない。Tさんも、いつも世間体を気にしていた。「もっと自分の世界を広くしないと」と、私は言いかけたが、やめた。Tさんは、そのとき、私よりも一〇歳も年上だった。 かつてアメリカの教育者が、日本人の子育て法を観察して、こう批判した。「日本人は、自分の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無関心過ぎる」と。つまり子どもに依存心をもたせながら、平気でいる、と。その結果かもしれないが、同年齢の子どもを比較しても、アメリカ人の子どもは日本人の子どもよりも、一回りおとなびて見える。反対に日本人の子どもは、幼稚っぽい。概して甘えん坊が多い。あの成人式にしても、大半の女の子は、親のスネをかじって、美しい着物を着ているという。成人したという自覚すらない。キャーキャーと式場で騒ぐだけ。 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に帰結する。いろいろな考え方があると思うが、「子どもをよき家庭人として自立させる」ということであれば、こうした代償的過保護は、百害あって一利なし。子育ての大敵と考える。(以上、01年記「子育て雑談」)(はやし浩司 代償的過保護 代償的愛 真の愛)(付記) 同じような意味で、私は、よく「代償的愛」という言葉を使う。いわば愛もどきの愛。ニセの愛をいう。つまりは、親が自分の心のすき間(情緒不安、精神的欠陥)を埋めるために、子どもを自分の支配下において、溺愛することをいう。 これは一見、愛に見えるが、決して愛ではない。たとえて言うなら、ストーカーが見せる、身勝手な愛に似ている。相手の迷惑もかえりみず、その相手にしつこく、つきまとう。ストーカー行為を繰りかえす本人は、「愛しているから」と言うが、それは本来の愛とは、まったく異質のものである。 よくある例は、子どもの受験競争に狂奔する親。一見、子どものことを考えているようで、その実、子どものことは、何も、考えていない。だから代償的愛という。(はやし浩司 代償的愛 自分勝手な愛 身勝手な愛 溺愛 でき愛)