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カテゴリ:正法誌No40
では、純粋で素直でなくてよいのか
信仰は純粋で素直でなくてはならない。 それは、正しいことと間違ったこと、良いことと悪いことをよく見極めて、間 違ったこと、悪いことは捨てて、正しいこと、良いことだけに純粋に素直になる ことである。 そうして、唯一の神、唯一の神理のみに純粋に素直になることである。 正しい信仰即ち正法を信ずる人が心得なければならないことは、なんの信仰をし ていない人でも知らず知らずのうちに自然に正法を実践している人も多いのであ るから、そういう人を見たら、その人を立派な人だと素直に認める心を持つこと である。 現在の日本の宗教指導者たちは、それぞれ自分の教団を愛するあまりに、自分の 教団の信仰をする人だけが正しい信仰をしている人で、他の教団の信仰をしてい る人たちは皆、間違った信仰をしていると説いているし、まして、なんの信仰も していない人たちに対しては、その人たちがどういう考えで、どんな生活をして いるかも考えずに「信仰を持たぬあわれな救われざる人々よ」という考え方しか ない。 こういうところに、正法を信ずる者と偽教を信ずる者との違いがはっきりと分か れるのである。 正法誌N040号 1981年 12月号より抜粋 【内容情報】(「BOOK」データベースより) 原始仏典の中にはブッダの生涯はほとんど記されていない。だが彼の死は、信徒にとって永久に忘れえぬ出来事だった。パーリ語本『大パリニッバーナ経』の中に、ブッダの死とその前後の事件が詠歎をこめて語られている。本書はこのパーリ語本を底本とし、サンスクリット本、漢訳本を参照して邦訳。巻末に周到詳細な注を付した。 【目次】(「BOOK」データベースより) 鷲の峰にて/修行僧たちに教える/旅に出る/パータリ村にて/コーティ村にて/ナーディカ村にて/商業都市ヴェーサーリー/遊女アンバパーリー/旅に病む-ベールヴァ村にて/命を捨てる決意〔ほか〕
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Last updated
2011.10.02 19:39:46
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