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2012.08.22
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カテゴリ:カテゴリ未分類

 220px-Old-Nomugi-road[1].jpg     220px-Mine_and_Tatsujiro_in_Nomugitoge[1].jpg

 峠に群生する隈笹が十年に一度、麦の穂に似た実を付けることがあり、土地の人に「野麦」と呼ばれていたことによる。凶作の時にはこの実を採って団子にし、飢えをしのぎました。

また、小説によれば、就労先で妊娠し、厳しい峠越えの最中に子どもを流産する工女も少なくなかった。故に野産み峠となり、野麦峠となっとともいわれています。


製糸工場を支えた飛騨のおしんたち

明治~大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った野麦街道の難所、標高1672mの野麦峠。かつて13歳前後の娘達が列をなしてこの峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かいました。

故郷へ帰る年の暮れには、雪の降り積もる険しい道中で、郷里の親に会うことも出来ず死んでいった娘たちも数多いのです。

 nomugi2[1].jpg

この峠には「お助け茶屋」と呼ばれる茶屋があり、旅人は疲れた体を休め、クマザサの生い茂る峠を信州へ、飛騨へと下っていきました。

ノンフィクション「ああ野麦峠」で知られ、女工哀史を語るうえで悲しい物語を秘めた所なのです。

 明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として働きに行きました。そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。

2月も半ばを過ぎると、信州へ働きに行く古川周辺の娘達は古川の八ツ三旅館に1泊し、次の日高山で、あちこちの村々から集まってきた人達と一緒になりました。

宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組などの岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張り提灯が立ち、娘を送ってきた親と子の別れがいつまでも続きました。



     






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Last updated  2012.08.22 13:40:52
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