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受験参考書に「自由自在」という名称をつけたものがあった。今でも日本にあるのかどうか知らない。「自らに由(よ)って自ずから在る」。自分がかくあるのは他者に由来するのではなくて、自分自身に由来し、自分がかくあるのは他によって強制されたからではなくて、自分自身の意思によってある。そういうことだと思う。 ぼくはあまりにも芸能ネタを知らないので、ぼくを俗人ではなくて「仙人」とよぶ人がいる。仙境(または仙郷)とは仙人が住む清らかな里(郷)のことだという。(箱根の仙郷楼旅館にはしばらく行ってないなあ・・・ここの「仙郷」はうっとりする場所という意味であり、その通りである) この「自由自在」という境地は今味わっている。こういう境地を、外の空間ではなくて心のあり方として「仙境」と呼んではいけないだろうか?その要因の一つとして、まだまだ「自由自在」というに程遠いが、英語がそれに近づいているということもあるかもしれない。あるいはぼくの「関係力(相対性)経済学」が、いよいよ現代世界を読み解くキーとして意識されているのかもしれない。あるいは3.11以降ぼくが勉強したことで、今までの蒙が啓けたからかもしれない。 受験図書が「自由自在」とつけたのはまことに意味深い。ぼくも17,8歳の受験期に、ぼくの到達した数学のレベルで、この「自由自在」という境地を味わった。ぼくはどんな数学問題が出ても、確実に解けるという100点満点のレベルである。このレベルは40代初めまで続いていた。毎年の大学受験の数学の問題をぼくは試験監督の空き時間にすべて解いていた。その後、数学の内容が変わって、少しずつ手に負えない問題も出てきて、そんな競争は止めてしまったが。 上で、ぼくを「仙人」と呼んだ方は、いくらかぼくへの軽蔑の意味もあったのであるけど、ふと漏らしたことがある。「ひかるさんは 何でも一つのことから 自由に演繹できる人」と。あるいは「ひかるさんの言ったことをたどっていくといつも一つのところに行き着く」と。この「一つのところ」とは要素還元主義ではない。特定の思考方法を指している。この方は、学者でも知識人でもない。むしろそんなもの(論理的なもの)とは正反対にある方である。第6勘に優れていらっしゃる。まことに鋭い観察眼の持ち主である。 「仙人」は霞を食って生きているという。かくいうぼくは、小腸血栓の疑いで30日間飲まず食わず点滴で生きたことが2度ある。そのことを思い出す。栄養とカロリーは最低限点滴から摂っているので、生きていられるのだが、口からは水一滴たりとも摂取していない。口が渇くので歯磨きとか脱脂綿で口を潤す程度のことは許される。最初の1週間はほんとに死ぬかと思うくらい腹が減る。ふくよかなナースの顔がかぼちゃかアンパンに見えてくる。餓鬼道に堕ちたかと思う。だんだん腹が減らなくなる。入院の食事時間のときは布団を被っていたが、やがてその放送が平気になり、しまいには、食堂に他の患者と一緒行ったりする。彼らがおいしそうに食べているところをみるのが楽しい。それどころか匂いをかがせていただいたりする。それで満足する。散歩は決まって病院の売店で食べ物のコーナーをじっくり見ること、あるいは見舞い客の入っているレストランに行って、座って人々が食べているのを観察していること。人民がおいしそうに食べているのを見るのが何よりもシアワセに感じる。 これを「仙境」というのではないだろうか。 本を読んでいて、他人様の文章の一語一行一段落毎に自分のアイディアが浮かんできて、そのつど調べ物をしている。だから時間がかかってしょうがない。 どんどん認識が深まる。 「仙境」に到達するには、時間がかかる。考えが「自由自在」になるころには、身体が「自由自在」にならなくなっている。天は二物を与えざりき。 今朝もあるチャット部屋で、若いアラシ君に言われた。「おまえ キモイから死ね」と。ぼくは内心、部屋をめちゃめちゃ荒らしておいて「おまえ キモイ」もないもんだと思ったけど、笑いながら答えた「もうじき死ぬから待っててね」と。彼は「今すぐ死ね」という。「少しだけがまんしてね」とぼくはお願いした。彼(まさか彼女ではないだろう)は満足したのか黙って落ちていった。我慢強いいい子だ。 学校は休みなのだろうか? (画面をクリックしてみてください) 【写真:家に閉じこもることの多いぼくなので、ナンナさんが無理やりにぼくを散歩に連れ出す。驚くほどの美しい緑の樹;ニックはけっこうバドミントンが強い。かけっこではクラスでも速い方だという;前を歩く母子。たしかに同じDNAを共有しているなと思われる】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.09.17 09:33:29
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