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佐賀出身の明治の元勲・大隈重信の死去の際、「実業之日本」が哀悼号を出した。その復刻版を入手し読んでみた。同時代の人々が語った大隈は実に魅力的である。以下、人物像で興味を引いた部分を抜き書きしてみた。
----------------------------------------------- ・政党を組織して政党政治の端を開き、私立大学を創設して天下の人材を教育し、高所大所に立ち言論文章を以って時代の国民を指導し、啓発し、外客を延いて国民外交を行い、その国家社会に貢献した形式は顕職に就き政治を行うものと自ら異る所があったとするも勲業の顕著なること、何人も之を認めざるを得ないのである。 ・観察の奇警、趣味の該博、記憶の強固、思想の豊富、しかして意気の旺盛を以って縦横に演説し些の渋滞する所がない(実業の日本社長 増田義一) ・日比谷公園における国民葬は実に空前の盛儀で、諸名士を始め老若男女の告別式に臨んだもの無慮三十萬、殊に賽銭の雨を降らしたる(同上) ・偉大なる包容力、大胆して細心、元気旺盛精力絶倫、強大なる記憶力、吸収力と読書癖、勇敢的反発力、一世の大評論家(同上) ・大隈候の如きは容易に過去を語らぬ人で、始終何か前途を語って居る。(尾崎行雄) ・早稲田を出たものは、今や世界の各国に散布されておる。それらが手紙で知らせてくれるんである。これが我輩の知識の源である、と言って笑われた(総理 高橋是清) ・総理大臣も出来れば、大学の総長も出来、会社の社長も出来れば、新聞の主筆もできる(徳富蘇峰) ・十でよいところを十二までもやるという主義であった(矢野文雄) ・一面事務の人であって、しかも他面理想の人であった(同上) ・或は茶話会を開き或は園遊会を催して歓待して下さるので、外人は何れも喜色に溢れ、衷心から満足して帰るのが常であった(東京商工会議所会頭 藤山雷太) ・長時間に亘って、陛下のご下問に応答せられて居たように察せられた (正親町実正) ・大隈候の三名物「親に孝行であること」「腹を立てぬこと」「決して筆を取らぬこと」 ・とにもかくにも大隈は日本の名物じゃった。、、、大隈の死は、東京が浅草観音を失ったと同様じゃ(大石正巳) ・弱ったと言ったことを聞いたことがない。又疲れたなどと言ったこともないです。(夫人令兄 三枝守富) ・恐ろしいような、覇気満々たる当年の趣きは去って円満無碍の人となられた。、、心配を治す法がある。風呂に入る。、、それでも治らなければ、一杯飲んで直ぐに寝る、すると大抵治ってしまうといわれた。、、長上に対しては実に驚くほど敬虔の態度を以って接せられた。、、候は知識欲の非常に大なる人であった(市島謙吉) ・規則正しき生活をされた。夏ならば5時、冬ならば6時で、就眠時間も必ず9時半と定まって居った。、、候は常に体量を量られた。、、1時間乃至1時間半位庭園を散歩された。(医学博士 稲田龍吉) ・日本人にして候の如く表情し愛想を尽くした者は甚だ稀であった。 (浮田和民) ・大隈候の長生秘訣五訓。怒るな、愚痴をこぼすな、過去を顧みるな、望みを将来に置け、人の為に善を為せ(同上) ・演説は、、、生涯を通じて今日まで恐らく2万回にも上ろうということだ。、、大正2年の汽車演説を試みた際、横浜を降出しに実に一日二十回喋り続けた(嬌溢生) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/02/03 10:56:16 PM
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