綾瀬市の神社仏閣を巡る その8:神崎遺跡1/2
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に県道22号線・横浜伊勢原線の近くにある「神崎遺跡公園」内にある「神崎遺跡(かんざきいせき)」を訪ねた。綾瀬市吉岡3425-5。「神崎遺跡資料館」の前の駐車場に車を駐めて「神崎遺跡」の散策を開始する。「神崎遺跡資料館」入口。しかし「新型コロナウイルスの感染予防のため、2月7日(日)まで、臨時休館します。」と。そして3月8日(月)まで延長されているのだ。「綾瀬市 神埼遺跡資料館」パンフレット(1/2)「綾瀬市 神埼遺跡資料館」パンフレット(2/2)そして「神崎遺跡資料館」の後ろにある「神崎遺跡」に向かう。神崎遺跡は今から約1,800年前の弥生時代後期の環濠集落。環濠集落とは弥生時代特有の周囲に深い溝を巡らしたムラのこと。平成23年2月7日に市内で初めての国指定史跡になったとのことであるが、今までこの「神崎遺跡」については全く知らなかったのであった。「国指定史跡 神崎遺跡」案内板。「1 名称 史跡神崎遺跡 2 指定年月日 平成23年2月7日 3 指定理由 国家の成立にむけて日本列島が揺れ動く弥生時代に、東海地 方から関東地方へ200以上を人々が集団移住したことを示 す遺跡であること、及び、環濠集落全体がほぼ完全な形で残っ ていること。 4 遺跡の内容 弥生時代後期(約1 ,800年前)の環濠集落。集落の形は楕円形で、 規模は南北103m、東西65m、面積は約5 , 000m2。 環濠(周囲を巡る溝)は幅、深さともに約2mで、断面はV 字形。これまで実施した発掘調査は遺跡の一部で、確認できた 弥生時代の竪穴住居跡は18軒。 5 その他 史跡の隣接地に神崎遺跡資料館が平成28年5月に開館。 館内には出土遺物や環濠の復元模型が展示されているほか、 2階からは環濠集落を一望できる。「遺跡全体図(赤線内が指定範囲)」「神崎遺跡復元想像図(環濠の内側に竪穴住居がつくられている。」「神埼遺跡公園」案内板。「現在地」。「神崎遺跡公園神崎遺跡は平成元年に初めて発掘調査され、ここに弥生時代後期(今から約1800年前)の環濠集落があったことが明らかになリました。環濠集落は周囲に深い溝を巡らせたムラです。弥生時代特有のもので、各地から発見されていますが、当時、ムラ同士が緊張関係にあったことを示しています。さらに神崎遺跡の環濠集落は東海地方からの移住者によリつくられたこともわかり、日本の歴史を考えるのに必要な遺跡とされました。また、遺跡全体が良好な状態で保存されている点も高く評価され、平成23年2月に国史跡に指定を受け、遺跡公園として整備されました。これまでの発掘調査から、1 8軒以上の住居跡があることがわかっています。現在では住居跡や環濠は地中に保存されています。公園には全長270mにわたる環濠(ムラ周囲の溝)とこれまでに確認された住居跡の位置が表示されています。」発掘中の「神崎遺跡」全景。【https://www.city.ayase.kanagawa.jp/hp/page000029900/hpg000029895.htm】より「史跡 神崎遺跡」石碑とその先に「神崎遺跡」の復元された「竪穴住居」の姿が。「環濠」跡。「環濠弥生時代になると、日本列島にムラの周囲に溝を巡らした環濠集落が出現します。環濠集落は弥生時代特有のムラですが、環濠は攻撃から自分のムラを守るための防御施設と考えられています。集落間の争いの原因は、弥生時代になって使い始められた鉄製品が、国内で生産できない貴重な輸入品だったために、入手をめぐり、争いが多発したと言われています。しかし、関東地方では武器などの直接的証拠が見つかっていないため、住民が一致団結するために環濠をつくったという考えもあります。神崎遺跡の環濠は地点によって異なりますが、幅、深さともに2mほどで、断面はV字形ですので、外部からは容易に侵入できませんでした。なお、未調査部分に橋などの出入口施設があった可能性があります。神埼遺跡資料館には実物大の環濠復元模型が展示されています。」「環濠復元模型」展示。 【https://ojisanpo.blog.ss-blog.jp/2018-05-04】より「現在地」。復元された「竪穴住居」が2棟。「1号住居跡・2号住居跡」案内板。「現在地」。「1号住居跡と2号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。1号住居跡は4.6mx3.5mの隅が丸い長方形で、ほかの住居跡よりも小型です。炉跡は見つかりましたが、柱穴はありませんでした。2号住居跡は6.3mx5.4mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。出土遺物には神崎遺跡の住民の故郷であった東海地方に特徴的な「ブランテーグラス」と呼ばれる土器、使いみちがはっきりしない球形土製品、儀礼(まつりごと)に使われた銅鏃(銅製のやじり)が出土しています。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。「1号住居跡・2号住居跡」に近づいて。「1号住居跡」。「2号住居跡」。「入口」から内部を見る。「10号住居跡」案内板。「1 0号住居跡は平成25年の発掘調査で確認された竪穴住居跡です。神崎遺跡の主な調査は、平成元年の市史編集事業に伴う調査、平成22年の国史跡指定にむけての調査、平成25年の史跡整備による調査となります。平成25年の発掘調査は、それまでの調査では不明だった、環濠集落中央部の様子を確認することが目的でした。そのため、中央部を東西に横断する4m幅の発掘調査を実施し、発見されたのが10号住居跡です。この住居跡の発見により、中央部は広場ではなかったことがわかりました。平成22年以降の発掘調査では、住居跡が確認できた場合、掘り上げないで発掘を終了しています。したがって、IO号住居跡の規模は推定となりますが、7.5mx5.5mほどの隅が丸い長方形と思われます。」「現在地」。上空には海上自衛隊の飛行機が海上自衛隊 厚木航空基地から飛び立って行った。「3号、4号、5号、6号住居跡」案内板。「3号・4号・5号・6号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。3号住居跡は5.9mx4.8mの楕円形です。炉跡と4本の柱穴がありました。4号住居跡は6.3mx6.2mの隅が丸い方形です。炉跡と1 0本の柱穴が確認されました。一見、不整形に見えるのと、柱穴が他の住居跡より多いのは住居の建て替え(増築)のためです。5号住居跡は5.2mx4.7mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。6号住居跡は遺跡保護を優先としたため、住居跡の有無の確認にとどめました。そのため、規模は推定となりますが、5.5mx5.5mほどの隅が丸い方形と思われます。」「現在地」。「4号住居跡跡」横から「1号住居跡・2号住居跡」を見る。「土器捨て場」案内板。「平成元年の最初の発掘調査で、この周辺(南北約15m、東西約6m )から土器の破片が多量に集中して出土しました。一般に、多量の遺物が出土すると、住居などの建物跡が確認できることが多いのですが、ここからは発見されませんでした。出土した土器には完全な形のものはないため、破片を廃棄した場所と推定し、「土器捨て場」と呼んでいます。ここからは多量の土器の破片に混じり、鉄鎌も発見されました。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。」「現在地」。「土器捨て場」横から「1号住居跡・2号住居跡」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・