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週末は田舎で野良仕事。

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2015年03月07日
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テーマ:家庭菜園(57179)

無事、修了証書を頂きますた ♪ 

ちと専門的になりますが、本日のレポート全文公開します。(画像データはコピペなのでカット)

 

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【明治維新期の神仏分離と秩父札所への影響】

私のレポートのテーマとして、日本宗教史に於ける最大の転機のみならず「日本人の精神史に根本的といっていいほどの大転換」とされる明治維新期の神仏分離令と、連動して全国的に展開された廃仏毀釈運動が秩父地方ではどのように展開され札所への影響はどの程度だったのかについて調べてみることにしました。

1 明治維新と神仏分離令
神仏分離令は別名、神仏判然令とも称されますが、ひとつにまとまった法令ではなく1868年(慶応四年→明治元年)からの王政復古・五箇条の御誓文発布・明治への改元といった明治維新の流れの中で段階的に施行された一連の諸法令を指します。別表をご参照ください。
とりわけ1868年3月の「僧職に対する還俗(げんぞく)(復職)命令」と「礼拝対象としての神仏分離命令」の衝撃は全国を揺るがし、それは強力な廃仏毀釈運動へと拡大していくことになりました。そこには王政復古を成し遂げた薩長政権による神道国教体制への指向が強く現れていました。
それまで仲良く同居・共存していた神と仏とはいきなり強制的に分離され、「権現(ごんげん)・牛頭(ごず)天王(てんのう)などの神号をもっている神社はその由緒を明らかにして改めること」「仏像を神体にしている神社は神体をとりかえること」が強制されました。
このため、例えば京都では祇園社は八坂神社に、石清水八幡は男山神社に、愛宕大権現は愛宕神社にという具合に慌ただしく改称を余儀なくされ、仏像・仏具類を破却したり払い下げたり、路傍の地蔵等の石像もこわし、一ヶ所に集めて石材として利用したとされます。数年にわたり展開された廃仏毀釈は、単なる寺社の名称変更や物理的な破壊活動にとどまらず、民衆レベルでの生活文化・風俗風習のすみずみに至るまでの大転換となりました。
その後も立て続けに発布された諸法令によって、それまで千年余にわたって日本社会の基底を支えてきた神仏習合の風習は、徹底的に解体されていきました。これにより仏教系諸宗派は大きな打撃を受けましたが、とりわけ秩父の札所観音霊場に大きなかかわりを持つ修験道は1872年の廃止令により解体を余儀なくされました。

2 地域別にみた神仏分離・廃仏毀釈
分離令の発布間もない1868年4月1日には廃仏毀釈運動の端緒とされる比叡山麓の「日吉(ひえ)山王社(さんのうしゃ)への襲撃事件」が発生しました。ここでは仏像・仏具・経典などが散々に破壊され焼き捨てられたとされ、首謀者は仏像の顔面に弓矢で射当て、快哉を叫んだとされています。
この事件を契機として廃仏毀釈運動はまたたく間に全国に波及していくことになります。
こうした暴力的実力行使のほかに、寺院・堂庵の廃止合併と上知(あげち)(領地の没収)、僧侶に対する還俗の強要・追放、離檀・神葬祭運動が繰り広げられました。
数年にわたる神仏分離・廃仏毀釈はその実行時期と並行して進められた廃藩置県に象徴される度々の行政の地区割り変更もあって複雑な展開でしたが、地方当局の裁量の自由も多少あったため、地方によって程度の大きな差が生じました。
ちなみに秩父地方における行政区分は、おおまかに云うと大宮郷はじめ荒川右岸は忍藩(おしはん)の支配下にあり、小鹿野、吉田などの荒川左岸は旗本領・藩領が入り混じっていましたがその後右岸は入間県→熊谷県→埼玉県、左岸は岩鼻県→群馬・前橋・入間各県に分割→熊谷県→埼玉県と短期間にめまぐるしく変遷し、最終的に現在の埼玉県が成立するのは明治九年(1876年)です。

3 埼玉県内での展開
埼玉県史によれば「埼玉県では、比較的穏便な神仏分離であったが、多少の紛糾もあり・・・」とされ、その一例として妻沼の聖天院(しょうでんいん)における禰宜(ねぎ)と住職との間の訴訟沙汰をあげているものの、「個別社寺は一様ではなく、形態上識別できるものでも未分離のまま残されている場合が多い」と典型的な例として、牛頭(ごず)天王社(てんのうしゃ)を祀る医王山八王寺(飯能の竹寺=当時、秩父郡南村)を挙げています。
個々の社寺について、過激な毀仏行為はとくに伝えられていないとしています。
その一方で、忍藩による神仏分離政策は「県内でもかなり厳しいものであった」と指摘し、また岩鼻県も「神葬祭の勧奨にみられるように、積極的に取り組んだと推測される。」としています。路傍の民間信仰の対象物(道祖神(どうそじん)・庚申塔(こうしんとう)・回国(かいこく)供養塔(くようとう)など)の撤去も広く行われたようです。

秩父三社と称される秩父神社・宝登山神社・三峰神社も、それぞれ大きな影響を受けました。
秩父神社は平安中期以来、神仏習合の妙見社(妙見宮)として知られていましたが、社号を妙見菩薩勧請以前の秩父神社に復し、妙見大菩薩は天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)と改称しました。宝登山神社は神号を宝登山大権現から宝登山大神に改め、別当玉泉寺の隠居が復職して神職となり、神社と寺院を分離して社地と寺院を区別し、寺院本堂の一部と客殿を社務所・宿坊として神社が借用することとしました。
三峰神社は本山派修験に所属し三峰大権現を本社、観音院を別当寺としていましたが、複雑な過程をたどり、最終的には観音院を廃寺し、建物は本地殿を本殿、仁王門を随身門と改称したりして神社に転用し、鐘楼も残され、仏像・仏具・仏画などは同社博物館に現存しています。

4 三十四札所への影響
 三番・常泉寺の観音堂は先に述べた妙見宮境内にあった蔵福寺の薬師堂でしたが、神仏分離により廃寺となったので、1870年(明治三年)に移築されたものです。
 四番・金昌寺は1873年(明治六年)に無住無檀であることから当時の熊谷県知事によって廃止され、山田村長の申請により建物・山林は光明寺に合併され、境内地及び墓地は地元共有または村有になりました。
 八番・西善寺では、札所観音が納められていた四間四方の根岸堂が廃仏毀釈によって破壊され、十一面観音菩薩は本堂に遷移されました。(西善寺HPより)
 十四番・長岳山正覚院の別当今宮坊は京都聖護院(しょうごいん)を本寺とする本山派修験の秩父における本拠で十か所の配下を擁していましたが、院主は修験道廃止に先立つ復飾令で神官となりました。現在、八大龍王宮(今宮神社)と隣接した観音堂の二か所に分れていますが、神仏習合の往時の影響を色濃く留めています。
 十五番・現在の秩父神社の敷地内にあった母巣山(ははそざん)蔵福寺が神仏分離により廃寺とされたため、地元民等の訴えにより現在の十五番・少林寺に観音堂を安置して十五番を引き継ぎました。この際、本尊の十一面観音菩薩と仏具が蔵福寺の本寺たる宮地の広見寺に一時預けられ、開帳仏は小鹿野の十輪寺に譲渡されたとされていますが、これはのちに札所の正当性をめぐる争いとなりました。いずれにせよ、此処は神仏分離の影響をまともに被った札所と云えます。
 十八番・神門山長生院及び二十八番・橋立寺は十四番別当・今宮坊の管理下にありましたが、修験道廃止により一時、無住持に。
 二十四番・明星院白山観音は廃止令により聖護院直末の別当明星院が廃され、白山権現社は白山神社に遷移されました。現札所二十四番の西南の丘陵中腹に現存しています。
 三十一番・鷲岩殿観音院は本山派の修験行者が守ってきた霊場でしたが、当時の別当・観法法印は還俗して村の指導者となり、札所は岩殿沢耕地持となりました。

札所観音への致命的な破壊活動の記録は残されていないものの、札所を管理する別当寺の多くが領地没収、離壇、神葬祭運動により衰退し、とりわけ修験道の行者が管理していた札所は大きな打撃を受けました。下表をご参照ください。



まとめ
以上見て来た通り、神仏分離と廃仏毀釈の影響は秩父札所にも及んでいました。それは全国的な規模と比較した場合、相対的には比較的穏便であったかもしれませんが、札所を守ってきた修験行者達は神職へと転向、或いは還俗・帰農を余儀なくされました。それ以外の札所も別当寺の衰退と神道国教化による巡礼者の減少によって大きな打撃を被りました。
こうした受難と戦争の時代を乗り越えて現在に至るまで、札所の多くが地元民の支えによって守られていることは、ひとつには秩父の人々の信仰心の篤さに因るところでありましょう。さらに云うなら、山岳信仰に始まり神と仏を区別せずに共に祀るというこの地のおおらかな伝統に培われてきたことこそが、秩父札所の最大の特色なのだろうと強く感じられました。
この間お世話頂いた千島壽先生並びに伝承館の皆さん、セミナー参加の皆さんにお礼申し上げます。

参考文献
秩父三十四札所考 河野善太郎(埼玉新聞社)1984年
神々の明治維新 安丸良夫(岩波書店)1979年
廃仏毀釈百年 佐伯恵達(鉱脈社)2003年改訂版
神仏分離の地方的展開 村田安穂(吉川弘文館)1999年
秩父札所の今昔(秩父札所の今昔刊行会)1968年
秩父札所 清水史郎(さきたま出版会)1998年
秩父の歴史 井上勝之助監修(郷土出版社)2001年
埼玉県史・通史編5 (埼玉県)1988年
秩父市誌 秩父市誌編纂委員会(秩父市)1962年
小鹿野町誌 小鹿野町誌編集委員会(小鹿野町)1976年
高篠村誌 高篠村誌編纂委員会(秩父市高篠公民館)1980年

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 いじょ。

持ち時間が7分間つーことでかなり原文の編集を余儀なくされた。上記は3分の1程度に凝縮している。原文は改めて7月にレポート集としてまとめられる。その時にでもまた公開しよう。 






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最終更新日  2015年03月07日 20時57分57秒
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