玉藻前玉藻前鳥羽上皇の寵妾である玉藻前についての話があります。 九尾の狐の話の時に出てきた玉藻の前のことです。 安倍泰親に見破られたという件が、安倍清明に関わりあるかは怪しいですが紹介します。 ここでは、泰親が安倍泰成となっています。 『たまものさうし』 玉藻前の正体は二尾の狐であったのです。 この狐は、天竺では班足王を祀る塚の神となり、彼をたぶらかして千人の王の首を切らせようとしました。 更に美人に化して、国王に近づき、その命を滅ぼしたのです。 狐は後に日本に渡り、仏法を破壊し、国王の命を奪い取って日本の主になろうと誓いました。 日本に到来した狐は、下野国那須野に住みました。 久寿元年(1154年)、鳥羽法皇の前に、一人の絶世の美女が現れ、たちまち法王の寵愛を一身に集めることになりました。 彼女は美しいだけでなく、内典、外典、仏法、管弦など世法、何事についても知らざる事はなく、 問われれば直ちに正確適切に質問のテーマを解き明かして、人々を賞嘆させました。 ある時、秋の名残を惜しみ、清涼殿で詩歌管弦の遊びがありました。 その折、法王の近くにいた彼女の身から光が放たれ、殿中を輝かせたのです。 かくして彼女は、玉藻前と呼ばれるようになりました。 ところが、このころから法王の健康に異常が生じました。 典薬頭は邪気だと言います。 更に陰陽頭=安倍泰成りに占わせると、 「詳しき事をば申さず。御大事出来さえ給ひぬと存じ候。早速に御祈祷を始められるべき」と警告した。 そこで南山北嶺、貴僧高僧、能化徳行の人々を召し、壇を並べて大法・秘法の限りを尽くしたが、些かの効験も示さなかった。 そこで泰成の進言に従い、泰山府君の祭りを行い、玉藻前を御幣取りの役に出させる事にしました。 一度は断った彼女は、鳥羽法皇のご平癒の為と説明され、御幣を取り、打ち振ると見えた瞬間、かき消すように失せました。 法王の悩みは次第に平癒しました。 玉藻前の命をとる為、公卿達は詮議をなし、弓矢の名手として、上総介と三浦介を選び、院宣で彼らを召しました。 両者及び手下の者が那須野に入ると、渺々たる荒野の中、大きな尾を持った狐が、生い茂る草むらの中から走り出しました。 武士たちは射止めようとしましたが、狐は巧みに矢をかいくぐり、姿を消したのです。 上総介・三浦介は、彼らの今の技術では、二尾の狐を仕留める事が出来ないと悟り、故郷に帰り策を練る事にしました。 なかでも三浦介は、狐に似る犬を走らせ、射止める練習に励みました。 ある夜三浦介の夢に、二十歳ほどの美人の女房が現れ、涙を流し、 「我既に願ひ満ちて、望みたりぬると思ふ所に、今汝に命失はれんずとす。然るべくは我を助けよ。 然らば子々孫々に至るまで、守り神になるべし」と嘆願しました。 三浦介は早速夜の明けぬ前から狩りを始めました。 丁度朝日が出る折、件の狐が野より山に向かって走り抜けようとしていました。 これを見た三浦介が放った矢は、狐の腰のつがいをすじかいに、脇腹に出て、狐はたまらず転倒しました。 殺された狐の執念は石となりました。 これが殺生石です。 殺された狐を持って上洛した三浦介は、那須野の狩りの様を再現させよと勅定を受け、赤い犬を走らせて射当てました。 これが犬追物の起源です。 なお、犬追物とは、鎌倉時代の武士が始めた犬を射的にするスポーツのことです。 狐の腹に仏舎利があり、これを鳥羽法皇に進上しました。 額には白い玉がありました。 昼夜照らす玉です。 この玉は三浦介の所有となりました。 尾先には赤白二本の針がふくまれていました。 これは上総介がもらい、赤針は氏寺に納めました。 狐は、うつぼ船に乗せて流されました。 それから時を経て、源翁和尚が那須野を通った時、道の辺に苔生した大石がありました。 和尚がその傍らで休息していると、美しい女房が来て、 「是は那須野原の殺生石とて、人間は申すに及ばず、鳥類畜類までも、さはるに命を取られぬといふことなし・・・ とくとく立ち去り給ふべし」と告げました。 和尚「この石は、なにゆえ殺生をばするぞや」 女房「昔、鳥羽の院の御時の、玉藻前の執心石となる」 女房は、自らの過去の悪行と石と化した経緯を源翁に告白しました。 和尚「あまりの悪念は、かへって善心の頼りぞかし。しからば衣鉢授くべし」 という訳で源翁が、石に向かい仏法を説くと、大石は微塵に砕け、石塊はたちまち成仏しました。 源翁は、そののち奥州会津郡墨川の万願寺に居留しました。 万願寺は佐原十郎義連の氏神であり、稲荷社が勧請されました。 その稲荷社は今も存するのです。 狐の生態 伝承の狐観 九尾の狐 安部清明と狐 稲荷と狐 鳥居と油揚げ 狐とダキニ天 |