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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
そうして根本的にあいいれないスパルタと事を構え、双方とも各ギリシャ連邦の支援を受けて紀元前431年から404年まで27年間交戦した。たまたま不運にも、アテネ城中に悪疫流行し、大政治家ぺリクレスをはじめ、大局の見える指導者あいついで斃(たお)れたため、人心は萎靡(いび)沈滞し、今日あって明日を思わぬ軽佻浮薄に陥り、アテネ精神ほ挫け去り、ついにスパルタの名将リサンドルのために、405年全艦隊を殲滅(せんめつ)され、翌年完全に降伏した。 かねてアテネを憎んでいたスパルタの同盟国コリントやテーべなどは 「アテネ市を破壊して牧場とせよ」と唱えたが、リサンドルは、他日コリントや、テーべに備えるため、アテネを滅ぼさず、スパルタの保護国として存置せんと、スパルタびいきの貴族党30人を選んで新憲法起草委員に挙げた。これがいわゆる30チラニスであるが、この人々は憲法起草前、国家を危うくする者をまず除かねはならぬといって、多くの名士を死刑に処したり追放したりして、私怨(しえん)はらし、またはその財産を没収して、横暴をきわめたので、チラニスは、暴主の代名詞と化した。英語のタイラント(暴君)は実にここから出たのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 66-67) GHQ占領下の「A級戦犯」の処刑、戦争協力者の公職追放と同じである。まさに、tyrantマッカーサーである。 そこでテーべに逃れていたトラシブロスら民主党員は、スパルタ専横(せんおう)に憤(いきどお)っているテーべ人の同情を得て、紀元前404年不意にたって、アテネの港ピレウスを攻め取ったので、30チラニスは、恐れて付近のエレウシス市に走り、巨魁(きょかい)のクリチアスは敗死した。リサンドルは、最初、チラニスを援助しようとしたが、チラニスの専横を憎む者の多いのと、コリントやテーべの態度をおもんばかって、温和貴族党を懐柔して大赦令(アムネステー)を発し、チラニスとその部下とをことごとく抹殺した。 アテネは、直ちに旧憲法を復活させ、そして賎民跋扈の弊害が、国を亡ぼしたことに鑑(かんが)みて、民会出席日当制を廃し、また民会の決議があっても、憲法に背いたものは無効にすること等、復活した憲法の大改正を施した。しかし時すでに遅く、アテネの人心は極度に堕落し、軽佻放逸となり、再び往時の如き高潔雄大の風を見ることができなかった。 されば文学にはまじめな悲劇が歓迎されず、神も人も、玉も石もすべて嘲笑の対象とするアリストファネスの喜劇がさかんにもてはやされ、彫刻には、フィジアス(パルテノン神殿の女神アテナの製作者)のような高雅雄偉な大作は出ず、プラクシテレス以下の繊巧綺麗な表情に富んだ製作物がさかんに起こり、哲学には、ソフィスト派(詭弁学者派)が一流の堅白同異の弁をふるって、世人の注意をひき、これに反対した大聖ソクラテスは、かえって邪説を唱えるものとして罪に問われ、紀元前399年に毒殺された。これは固有の憲法の復活が適時に行なわれなかったため、遂に国が亡びた(同、pp. 67-68) このアテネの堕落の惨状は、テレビが軽薄な「お笑い」に占拠され、SHSがただ耳目を集めようとする奇天烈(きてれつ)な投稿に溢れている今の日本と変わらない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.07.08 21:00:09
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