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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
《1946年元旦の詔書で、天皇は自身「現御神(あきつみかみ)」でない旨を言明し、みずからの神性ないし神格を否定した。このことも、右にのべられた8月革命を前提としてのみ、理解できる。8月革命によって、神権主義が否定されていたから、かような詔書が発せられることができたのである。もし、8月革命がなかったとしたら、かような詔書は、とうてい発せられることができなかったはずである》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、p. 386) 「此の世に人間の姿で現れた神」を「現御神」と呼ぶ。確かに、日本の歴史文化を体現される「天皇」はそのような御存在だと考えられる。天皇は、祈りを通して彼岸と此岸を繋ぐ祭祀王であり、彼岸と此岸の境界線に位置する境界人である。 天皇は、彼(あ)の世から見れば「神」であり、此の世から見れば「人間」である。肉眼を通して見れば「人間」であるが、心眼を通して見れば「神」である。勿論、このような話は1つの「虚構」(fiction)に過ぎない。が、此の世は、様々な「虚構」から成り立っている。「天皇」に「現御神」と見ることによって、そうである「かのように」(森鷗外)受け止めることによって、日本社会は円滑洒脱に回るのである。そういう文化を作り上げてきたのが日本という国なのだと思われる。 天皇は、謂(い)わば「半神半人」的存在である。したがって、「天皇は現御神だ」と宣(のたま)うのも、「天皇は現御神ではない」と宣うのも過言の誹(そし)りを免れないだろう。所謂(いわゆる)天皇の「人間宣言」は、陛下の御意思を鑑(かんが)みることなく、GHQによって強要されたものであろう。が、大御心(おおみこころ)は本来、耳ではなく心で聞くものである。 《明治憲法の定める憲法改正手続――その第73条によるもの――で、明治憲法の根本建前、すなわち、そのよって立っているところの原理的基礎を変えることは、できない。そうした可能性――法律的可能性――をみとめることは、法律論理的には、自殺を意味するからである。つまり、明治憲法第73条による改正手続で、明治意法の根本建前である神勅主権主義を廃して国民主権主義を採用するということは、法律的には、許されないと解すべきである。したがって、新憲法の施行とともに、日本の憲法の根本建前として、神勅主権主義が廃されて、国民主権主義が成立したという解釈は、正しくない》(同、p. 388) <法理的自殺>は許されないから「革命」と考えるというのは果たして筋の通る話なのであろうか。「革命」と考えて、すなわち、社会の継続性を断ち切って、「横車」を押そうとするのは、まさに「外道」の所業と呼ぶべきものなのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.07.19 21:00:08
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