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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2022.07.25
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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法

 しかるに、その後、太平洋戦局がますます苛烈となり、いわゆる南方の飛び石伝いの作戦によって、惨憺(さんたん)たる損害を蒙(こうむ)った連合軍は、この上、さらに本土決戦を行なって、日本を潰滅させ、無条件降伏をかちとるためには、スチムソン陸軍長官の計算によれば、5百万人を動員して、百万人の犠牲を覚悟しなければならぬことが、明瞭になったのである。いかにアメリカでも、人命尊重の手前、これではとうていその負担にたえられないと、統合参謀本部でも思い悩んでいる時、たまたま捕えられた高級俘虜(ふりょ)の供述で、日本は天皇の地位さえ安全なら、降伏する用意あることが判明したので、百万人の生命には代えられないと、無条件降伏方式を一擲(いってき)して有条件降伏方式に変更して、1945年7月26日のポツダム宣言を発したのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 85)

 本書執筆当時は、情報が限られていたから仕方がないことなのだが、実際は、米国側は、皇室が保全され安泰であるならば、詰まり、國體(こくたい)が護持さえするのであれば、降伏する用意があることはポツダム会談よりも半年も前から分かっていた。

《したがって、ポツダム会該で(無条件降伏の)最後通牒(つうちょう)(ultimatum)を発する7月26日から遡(さかのぼ)ること半年前から、日本側から講和の動きが示されていたし、2週間前にもロシアに対して明確にその意思が伝えられていたことがわかる。しかもそのことは解読された交信記録からトルーマン、バーンズ、スチムソンは知っていた。

 この事実は重要である。まず少なくともバーンズは日本からの講和の提案の事実をポツダムにやってくる以前から知っていたこと、スターリンは、ヤルタで秘密裏に約束された中国の領土を獲得するまでは、連合国と日本との戦いを終わらせたくなかったことがわかる。講和を求めるいくつかの動きの中で一貫しているのは皇室の保全であった。スチムソン長官はその条件でよいとずっと考えていた。彼がトルーマン大統領に宛てた長文の覚書の中に次のような一節がある。

〈現王室を立憲君主制の下で維持する可能性を排除しない、とする項目を付加すべきである。そうすれば日本は降伏を受諾する可能性が高まるだろう。〉》(ハーバート・フーバー『裏切られた自由(上)』(草思社)渡辺惣樹訳、p. 142

 米国が、「日本の無条件降伏」ではなく「日本軍の無条件降伏」という形の、謂わば妥協的講和を急いだ背景には、ソ連の動きが絡(から)んでいた。

《スティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第2項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した》(ウィキペディア「ポツダム宣言」)






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Last updated  2022.07.25 21:00:09
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