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私家版 さいたまの石仏

私家版 さいたまの石仏

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☆いたやま☆

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自転車とカメラが趣味で、気軽に写真を撮っています。
お地蔵様や庚申塔などの石仏にはまってしまいました。

さいたま市の石仏探しの参考書として
「石の文化財-浦和の石造物」浦和市教育委員会
「郷土の石佛 写生行脚一期一会」酒井 正

私家版さいたまの石仏のホームページ版は
http://saita-seki.jimdo.com/

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2015.09.05
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カテゴリ:和光市の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら

今日も和光市白子の石仏です。

地福寺 和光市白子2-18-1

DSC_0722.jpg

市場から白子川沿いに10分ほど歩き、東上線を越えたあたりが「白子宿」になる。
江戸と川越を結ぶ街道が通り、この地域では最もにぎやかな町場だったらしい。
線路を越えてすぐ細い道を右に入り、線路に沿って少し歩くと地福寺の前に出る。
山門の左手前に石塔が並んでいた。

DSC_0762.jpg

右端に大きな寺導。右側面に「関東百八地蔵第七番札所」と彫られている。
平成17年、宿の石材店が寄贈したもの。

DSC_0728.jpg

その隣 地蔵菩薩立像 宝永5(1708)右手に錫杖、左手に宝珠をもっている。
台の正面 武州新倉郡白子村とあり12人の名前を刻む。その左脇に年号。

DSC_0729.jpg

蓮台の下にはっきりと三猿が彫られていた。銘文こそ見当たらないものの
やはり地蔵菩薩を主尊とした庚申塔ということになるのだろう。

DSC_0731.jpg

その左 阿弥陀如来立像 元文5(1740)上部に梵字「キリーク」を彫る。像の表面は
風化が見られ、また手の先が欠けていて印の様子などは確認できなかった。

DSC_0733.jpg

塔の左側面に年号。その脇に新座郡白子村。右側面に「為惣御祈祷」と刻む。

DSC_0736.jpg

続いて 舗石供養塔 嘉永4(1851)全面に白カビが広がっている。

DSC_0735.jpg

塔の右側面に長い銘文。全体は読み解けないが、その中に「舗石」「敷石」などの
文字が見える。「舗石供養塔」は敷石を奉納した記念に立てたものと思われる。
左側面には年号。続いて願主 個人名が刻まれていた。

DSC_0737.jpg

左端 馬頭観音立像 合掌 二臂。風化が進み顔のあたりは一部崩落が見られる。
頭上には立派な馬頭を頂いているようだ。

DSC_0738.jpg

塔の右側面 願主 金五郎。左側面は隙間が狭く写真は撮れなかったが、武州新座郡
白子宿 馬持連中と刻まれていた。

DSC_0761.jpg

山門の右手前にはかなり大きな馬頭観音塔の文字塔が立っている。

DSC_0723.jpg

馬頭観音塔 嘉永3(1850)二段の台の上、正面に美しい字で「馬頭観世音」と彫る。
圧倒的なボリューム感だ。下の台の平らな部分にはたくさんの穴が穿たれていた。

DSC_0102.jpg

塔の両側面には文字は見当たらない。裏面には大きな字で年号が刻まれている。

DSC_0725.jpg

下の台の右側面 寄進とあり、當宿中 牛房 向山 新田 市場 城山 中と刻まれる。
さらに観音講とあり、六村の講員名、最後に惣連中と刻まれていた。

DSC_0726.jpg

左側面にも寄進とあり、下新倉村中、上新倉村中、膝折宿馬持中、大和田宿馬持中
中野宿馬持中、引又町馬持中、舘村馬持中、大井宿中、川越石原馬持中、橋戸村中
後安村中、成増村中と刻まれている。裏面はいい写真は撮れなかったが、下新倉村
石工名、當所馬持世話人として8名の名前、最後に願主名。白子宿の馬持世話人を
中心に近在の多くの村の人たちがこの馬頭観音塔の建立に関わったことがわかる。
川越街道によってこういった多くの村とのネットワークができていた、白子宿の
当時のそんな様子が見えてくるような気がした。





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Last updated  2015.09.05 20:09:53
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