JEWEL
日記・グルメ・小説のこと711
読書・TV・映画記録2699
連載小説:Ti Amo115
連載小説:VALENTI151
連載小説:茨の家43
連載小説:翠の光34
連載小説:双つの鏡219
完結済小説:桜人70
完結済小説:白昼夢57
完結済小説:炎の月160
完結済小説:月光花401
完結済小説:金襴の蝶68
完結済小説:鬼と胡蝶26
完結済小説:暁の鳳凰84
完結済小説:金魚花火170
完結済小説:狼と少年46
完結済小説:翡翠の君56
完結済小説:胡蝶の唄40
完結済小説:琥珀の血脈137
完結済小説:螺旋の果て246
完結済小説:紅き月の標221
火宵の月 二次創作小説7
連載小説:蒼き炎(ほむら)60
連載小説:茨~Rose~姫87
完結済小説:黒衣の貴婦人103
完結済小説:lunatic tears290
完結済小説:わたしの彼は・・73
連載小説:蒼き天使の子守唄63
連載小説:麗しき狼たちの夜221
完結済小説:金の狼 紅の天使91
完結済小説:孤高の皇子と歌姫154
完結済小説:愛の欠片を探して140
完結済小説:最後のひとしずく46
連載小説:蒼の騎士 紫紺の姫君54
完結済小説:金の鐘を鳴らして35
連載小説:紅蓮の涙~鬼姫物語~152
連載小説:狼たちの歌 淡き蝶の夢15
薄桜鬼 腐向け二次創作小説:鬼嫁物語8
薔薇王転生パラレル小説 巡る星の果て20
完結済小説:玻璃(はり)の中で95
完結済小説:宿命の皇子 暁の紋章262
完結済小説:美しい二人~修羅の枷~64
完結済小説:碧き炎(ほむら)を抱いて125
連載小説:皇女、その名はアレクサンドラ63
完結済小説:蒼―lovers―玉(サファイア)300
完結済小説:白銀之華(しのがねのはな)202
完結済小説:薔薇と十字架~2人の天使~135
完結済小説:儚き世界の調べ~幼狐の末裔~172
天上の愛 地上の恋 二次創作小説:時の螺旋7
進撃の巨人 腐向け二次創作小説:一輪花70
天上の愛 地上の恋 二次創作小説:蒼き翼11
薄桜鬼 平安パラレル二次創作小説:鬼の寵妃10
薄桜鬼 花街パラレル 二次創作小説:竜胆と桜10
火宵の月 マフィアパラレル二次創作小説:愛の華1
薄桜鬼 現代パラレル二次創作小説:誠食堂ものがたり8
薄桜鬼 和風ファンタジー二次創作小説:淡雪の如く6
火宵の月腐向け転生パラレル二次創作小説:月と太陽8
火宵の月 人魚パラレル二次創作小説:蒼き血の契り0
黒執事 火宵の月パラレル二次創作小説:愛しの蒼玉1
天上の愛 地上の恋 昼ドラパラレル二次創作小説:秘密10
黒執事 現代転生パラレル二次創作小説:君って・・3
FLESH&BLOOD 二次創作小説:Rewrite The Stars6
PEACEMAKER鐵 二次創作小説:幸せのクローバー9
黒執事 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:碧の花嫁4
火宵の月 BLOOD+パラレル二次創作小説:炎の月の子守唄1
火宵の月 芸能界転生パラレル二次創作小説:愛の華、咲く頃2
火宵の月 ハーレクインパラレル二次創作小説:運命の花嫁0
火宵の月 帝国オメガバースパラレル二次創作小説:炎の后0
黒執事 フィギュアスケートパラレル二次創作小説:満天5
薄桜鬼 昼ドラオメガバースパラレル二次創作小説:羅刹の檻10
黒執事 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧の騎士2
薄桜鬼ハリポタパラレル二次創作小説:その愛は、魔法にも似て5
薄桜鬼 現代妖パラレル二次創作小説:幸せを呼ぶクッキー8
黒執事 転生パラレル二次創作小説:あなたに出会わなければ5
薄桜鬼 現代ハーレクインパラレル二次創作小説:甘い恋の魔法7
薄桜鬼異民族ファンタジー風パラレル二次創作小説:贄の花嫁12
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:幸せの魔法をあなたに3
火宵の月 転生オメガバースパラレル 二次創作小説:その花の名は10
黒執事 異民族ファンタジーパラレル二次創作小説:海の花嫁1
PEACEMAKER鐵 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:蒼い華14
YOI火宵の月パロ二次創作小説:蒼き月は真紅の太陽の愛を乞う2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の巫女0
火宵の月 韓流時代劇ファンタジーパラレル 二次創作小説:華夜18
火宵の月 昼ドラ大奥風パラレル二次創作小説:茨の海に咲く華2
火宵の月 転生航空風パラレル二次創作小説:青い龍の背に乗って2
火宵の月×呪術廻戦 クロスオーバーパラレル二次創作小説:踊1
火宵の月×薔薇王の葬列 クロスオーバー二次創作小説:薔薇と月0
金カム×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:優しい炎0
火宵の月×魔道祖師 クロスオーバー二次創作小説:椿と白木蓮0
薔薇王韓流時代劇パラレル 二次創作小説:白い華、紅い月10
火宵の月 遊郭転生昼ドラパラレル二次創作小説:不死鳥の花嫁1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:それを愛と呼ぶなら1
FLESH&BLOOD 千と千尋の神隠しパラレル二次創作小説:天津風5
鬼滅の刃×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:麗しき華1
薄桜鬼腐向け西洋風ファンタジーパラレル二次創作小説:瓦礫の聖母13
薄桜鬼 ハーレクイン風昼ドラパラレル 二次小説:紫の瞳の人魚姫20
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黄金の楽園0
火宵の月 昼ドラ転生パラレル二次創作小説:Ti Amo~愛の軌跡~0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳳凰の系譜0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳥籠の花嫁0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:蒼き竜の花嫁0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:月の国、炎の国1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧き竜と炎の姫君0
コナン×薄桜鬼クロスオーバー二次創作小説:土方さんと安室さん6
薄桜鬼×火宵の月 平安パラレルクロスオーバー二次創作小説:火喰鳥6
ツイステ×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:闇の鏡と陰陽師4
陰陽師×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:君は僕に似ている2
黒執事×ツイステ 現代パラレルクロスオーバー二次創作小説:戀セヨ人魚2
黒執事×薔薇王中世パラレルクロスオーバー二次創作小説:薔薇と駒鳥27
火宵の月 転生昼ドラパラレル二次創作小説:それは、ワルツのように1
薄桜鬼×刀剣乱舞 腐向けクロスオーバー二次創作小説:輪廻の砂時計9
F&B×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:海賊と陰陽師1
火宵の月×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想いを繋ぐ紅玉54
バチ官腐向け時代物パラレル二次創作小説:運命の花嫁~Famme Fatale~6
火宵の月 昼ドラハーレクイン風ファンタジーパラレル二次創作小説:夢の華0
火宵の月 現代ファンタジーパラレル二次創作小説:朧月の祈り~progress~1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:ガラスの靴なんて、いらない2
黒執事×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:悪魔と陰陽師1
火宵の月 吸血鬼オメガバースパラレル二次創作小説:炎の中に咲く華1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黎明を告げる巫女0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:光の皇子闇の娘0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:闇の巫女炎の神子0
火宵の月 戦国風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:泥中に咲く1
火宵の月 和風ファンタジーパラレル二次創作小説:紅の花嫁~妖狐異譚~2
火宵の月 地獄先生ぬ~べ~パラレル二次創作小説:誰かの心臓になれたなら2
PEACEMEKER鐵 ファンタジーパラレル二次創作小説:勿忘草が咲く丘で8
FLESH&BLOOD ハーレクイン風パラレル二次創作小説:翠の瞳に恋して20
天官賜福×火宵の月 旅館昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:炎の宿1
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:花びらの轍0
火宵の月 異世界ファンタジーロマンスパラレル二次創作小説:月下の恋人達1
火宵の月 異世界軍事風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:奈落の花1
FLESH&BLOOD ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の花嫁と金髪の悪魔6
名探偵コナン腐向け火宵の月パラレル二次創作小説:蒼き焔~運命の恋~1
火宵の月 千と千尋の神隠し風パラレル二次創作小説:われてもすえに・・0
薄桜鬼腐向け転生刑事パラレル二次創作小説 :警視庁の姫!!~螺旋の輪廻~15
FLESH&BLOOD ハーレクイロマンスパラレル二次創作小説:愛の炎に抱かれて10
PEACEMAKER鐵 オメガバースパラレル二次創作小説:愛しい人へ、ありがとう8
FLESH&BLOOD 現代転生パラレル二次創作小説:◇マリーゴールドに恋して◇2
火宵の月×天愛クロスオーバーパラレル二次創作小説:翼がなくてもーvestigeー0
黒執事 昼ドラ風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:君の神様になりたい4
薄桜鬼腐向け転生愛憎劇パラレル二次創作小説:鬼哭琴抄(きこくきんしょう)10
火宵の月×ハリー・ポッタークロスオーバーパラレル二次創作小説:闇を照らす光0
火宵の月 現代転生フィギュアスケートパラレル二次創作小説:もう一度、始めよう1
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:愛の螺旋の果て0
火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風パラレル二次創作小説:愛の名の下に0
火宵の月 和風転生シンデレラファンタジーパラレル二次創作小説:炎の月に抱かれて1
火宵の月×刀剣乱舞転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:たゆたえども沈まず1
相棒×名探偵コナン×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:名探偵と陰陽師0
火宵の月×薄桜鬼 和風ファンタジークロスオーバーパラレル二次創作小説:百合と鳳凰2
火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風昼ドラパラレル二次創作小説:砂塵の彼方0
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わたしが高校生の頃に書いた二次小説を恥ずかしながら、ブログにUPいたします。火宵の月で平安パラレルです。異母兄妹の有匡様と、火月ちゃんの物語です。作者様・出版社様とは一切関係ありません。何せわたしが高校生の頃に書いたものなので、少しイタイ文章になっているかもしれませんので、そこは突っ込まないでくださいw色々と捏造設定ありです、苦手な方はご注意ください。何でも許せる方のみ、お読みください。時は平安。『源氏物語』、『枕草子』などの女流文学が盛んになり、宮廷で文学サロンが開かれ、京都が最も華やかだった頃。陰陽道の大家・土御門家では、毎夜、管弦の宴が開かれていた。「ほら、御覧になって、有匡様よ。」「凛々しいお顔ねぇ。」「和琴を弾くお姿がなんともお美しいこと。」御簾越しに囁かれる女達の声に、有匡はウンザリしていた。土御門家の嫡男・有匡は、現在27歳。11代目当主・有仁(ありひと)と妖狐スウリヤとの間に生まれ、京一の陰陽師としてその名を轟かせている。演奏が終わり、有匡は周囲のざわめきから遠ざかるため、北の庭へと行った。(全く嫌になる。褒めそやすと思えば狐の子と蔑む・・宴などくだらない。)有匡は庭にある桜の木に寄りかかった。この桜の木は父・有仁が植えたものだ。有仁は宇治で綾香という女と出会い、女児を1人もうけた。悋気の強いスウリヤと比べて優しかった綾香に対して有仁は惹かれてゆき、宇治へと毎日通う程であった。綾香の邸に植えられた桜を見て、有仁はその美しさに感動し、この京の邸へと植えたのであった。愛人の存在を知りスウリヤは毎日綾香への呪詛を行った。やがて綾香は女児を産んだ。その女児は今15歳で、母親と母方の祖母と共に宇治で細々と暮らしているという。(名は、なんといったかな・・)フワリと、木の陰から長い金髪が見え、桜色のうちぎを着た少女が現れた。「火月様、有匡様を驚かせてしまってはいけませんよ!」火月の乳母らしき年配の女性が少女に声をかけた。(火月だと?宇治で暮らしていたのではなかったのか?)「有匡様、お久しゅうございます。」火月の乳母が有匡に深々と一礼した。「お兄様、お会いしたかった!」そう言うと火月は有匡に抱きついた。12年振りの再会であった。(宇治で暮らしている火月が、何故ここに?)有匡は火月に抱きつかれながら疑問に思った。「火月、来たか。」有仁が娘を愛おしそうに見ながら言った。「お父様!」火月は有仁に抱きついた。「旦那様、これからお世話になります。」火月の乳母が有仁に頭を下げた。翌朝。「実は綾香とその母君が先日病で亡くなったという知らせがあった。宇治の邸は綾香の死後すぐに売り払われ、他に身寄りがない火月を私が呼び寄せたのだ。」有仁は一族が集まる朝食の席で火月がここに来るようになった経緯を説明した。「あなた、何もこの子を引き取ることはないじゃありませんか。こんな子、野垂れ死ねば良いのですわ。」スウリヤは眉を顰めて火月を上から下までジロリと見ながら不快感を露わにする。愛人の子など、本妻である彼女にとって目障り以外の何物でもない。有匡は火月の方をチラッと見やった。流れる金色の髪は美しく、紅玉のような紅く澄んだ瞳は涙で潤んでいる。「母上、何もそこまで言うことはないではありませんか。火月は腹違いとはいえ、父上の御子なのですよ。」有匡はすかさず火月を庇った。「有匡、あなたまでそんなことを。私は認めませぬぞ。あの忌々しい女の子が我が邸の廊下を歩くなど・・考えても虫酸が走るわ。」そう言うとスウリヤは自室へと去っていった。有仁は妻の口の悪さにあきれながら、火月に優しく言った。「ここは宇治の邸と思っていればいいのだよ。有匡もいることだし、判らないことはなんでも有匡に聞けば良いのだから。」こうして、火月は有匡と同じ一つ屋根の下で暮らすこととなった。スウリヤの火月に対する風当たりはきつかったが、火月が苛められるたびに有匡が庇ってくれた。12年という長い歳月のせいか、初め有匡と火月はぎこちなかったが、有匡が火月の苦手な和琴を教えるたびに段々親しくなっていった。ある日。有匡が火月に和琴を教えているところへ、火月の乳母・寿子(としこ)がやって来た。「火月様に会いたいとおっしゃるお方がお見えですわ。」「私が出よう。」有匡は火月に会いたいという男がどんな奴が見に行くことにした。寝殿では1人の若い男が落ち着かなさげに周りをキョロキョロと見ている。この男は宮中で何かと仲間を引き連れ騒いでいる右大臣の息子だ。「火月の兄ですが、妹に何か御用か?」有匡に一瞥された男は、ビクリと身を震わせながら言った。「こ、これを火月様にお渡しください。」男は有匡に文を渡すと逃げるように去っていった。有匡は男の文を見た。『あなた様の光り輝く金髪は、私の心を捉えて離れません。どうぞ私の妻となって下さい。』有匡は文を破り捨てた。土御門家には、毎日10人位の貴公子達がやってくる。彼らのお目当ては火月である。火月は今年で15。流れるような美しい金の髪、紅玉のような澄んだ瞳、象牙色の肌ー輝くばかりに美しい火月に、京中の貴公子達は争うように火月に結婚を申し込んだ。中には唐渡りの衣や、南国の珊瑚など、高価な贈り物をする貴公子もいた。だが、火月は貴公子達の求婚を全て断った。ある日、有仁が求婚を断り続ける火月に対して尋ねた。「なぜ、結婚しないのだ?心に決めた相手でもいるのか?」すると火月は真剣な顔つきでこう答えた。「私が一生添い遂げたい相手は有匡お兄様だけですわ。」火月はいつしか有匡に恋心を抱き、結婚まで考えるようになった。有匡も、日に日に美しくなる火月を見て彼女を抱きたいという炎のような衝動に駆られるも、それを氷のように冷たい理性で抑える毎日だった。貴公子達は諦めず、最終的には5人の貴公子達が火月に求婚し続けた。「まるで、『竹取物語』のようですわね。」寿子が御簾越しで笑いながら有匡に言った。5人の貴公子の中には、あの右大臣の息子がいた。「火月さま、私の妻になってくだされば、金銀財宝の山をあなたに差し上げましょう。」1人目の、豪商として名の高い父を持つ貴公子が言った。「私、金銀財宝には興味がありませんの。」2人目は気品漂う貴公子。「火月様、私はあなたのために毎日歌をお詠み致しましょう。」「私、歌は自分で詠めますわ。」3人目は性欲ムンムンな貴公子。「火月様、私の子どもを産んでくだされっ!賑やかな家庭をつくりましょうぞ!」火月は露骨に嫌な顔をして言った。「私、まだ子どものことなど考えておりませんの。」4人目は管弦をこよなく愛する貴公子。「火月様、私と2人で愛の音を奏でましょうぞ。」「あなた以外の方ならよろしいですわ。」そして5人目ー「火月様、あなた様のお噂を聞き、ここまで参りました。けれども参る度にあなた様の兄上様に追い返されるばかり・・」有匡はキッと右大臣の息子をねめつけた。「火月様、あなた様の美しい金色の髪を私の指に絡ませ、その匂いを嗅ぎたいのです。どうぞ御簾を上げてください。一度でもいいからあなた様のお顔を拝見したい。」そう言うと右大臣の息子は御簾に近寄った。「私、強引な方は大嫌いですわ。」「まあそう言わずに。」右大臣の息子は火月の足首を掴み引きずり出そうとする。それをすかさず下男達が止め、邸へと叩き出した。「みんな頭が空っぽな男ばかり。お兄様だけが私の婿にふさわしいかたですわ。」そう言うと、火月はサラサラと衣擦れの音をさせて、部屋の奥へと引っ込んだ。火月が京の土御門邸に来てから1週間が経った。貴公子達の求婚を全て断った火月は、琴を弾いたりと悠々と毎日を過ごしていた。そんな火月を見た有匡の叔父は、あることを思いつく。ある日の夜、一族揃っての食事の席で、有匡の叔父は嬉しそうに火月に言った。「火月、お前は入内することになったぞ。」ザワッと辺りがざわめいた。スウリヤは微笑みながら言った。「まあなんてことでしょう。お荷物だったこの子が入内するなんて。」やっと愛人の子と暮らすことがなくなると知ったスウリヤは喜色満面だ。「火月よ!お前の美しい姿に帝は心を奪われるであろう。必ずや男の子を生み、土御門家を繁栄させるのだ!」それを聞いた火月は逃げるように部屋へと帰ってしまった。寿子も慌てて後を追う。火月の入内の話は本人の意思など無視してどんどん進んでいき、スウリヤが土御門家の名に恥じぬようにと、豪華な調度品や衣を支度する始末だ。有仁はそんな妻の様子を苦々しく見ていた。スウリヤは綾香と似ている火月を入内させることで厄介払いできると思っているらしく、いままでの冷たい態度はどこへやら、手のひらを返すように火月に優しくなった。(なんて女だろう、私はこの女と結婚したのが間違いだったのか・・)有匡もそんな母を見て吐き気がしてならなかった。母と叔父は愛人の子である火月が邪魔だから、入内をさせようと思いついたのだ。(母上はなんて冷たい女だろう。これでは火月が可哀想だ。)そして入内前夜。家の者が寝静まった真夜中、火月は眠れず、有匡の部屋へと向かった。有匡は日頃の激務で疲れているのかぐっすりと寝ていた。「お兄様。」火月は有匡の寝所に潜り込んだ。人の気配を感じた有匡は起きた。「火月か、もう子の刻を過ぎてるぞ。」「お兄様、抱いてください。」そう言うと火月は有匡を押し倒した。「何バカなこと言ってる、お前は帝の元に・・」「入内などしたくない!」火月は泣き叫びながら言った。「私が生涯添い遂げたい相手はお兄様だけ!抱いてお兄様!抱いて私を激しく壊して!!」火月の一言で有匡の理性が一気に崩れ落ちた。有匡と火月は互いの衣を引き裂き、激しく貪り合った。翌朝、火月は牛車に乗る前に、有匡に微笑んでこう言った。「お兄様の肌のぬくもりを、私は一生忘れません。」火月は御所へと向かった。これから待ち受けている運命を知らずに。火月は桜の舞う頃に入内した。彼女は麗景殿の女御の女房として仕えることとなった。「よろしくお願いいたします。」火月は主人となる女御に頭を下げた。すると女御は、火月を品定めするような目つきで見ながら言った。「あなたね。愛人の子のくせに、豪華なお道具類をお持ちになっている方は。」火月の顔が一瞬、こわばった。「主の私より目立たないでちょうだい。いいわね。」そう言うと女御は立ち去っていった。「火月様・・」寿子は青ざめて立ちつくしている火月の肩を優しく支えた。それから麗景殿の女御は火月に辛くあたった。何かと言うと、「愛人の子のくせに」とあからさまに罵り、仲間外れにする。火月は次第に鬱状態となり、食事を摂ることもままならなくなった。そんなある夜。帝が麗景殿へとやって来た。火月ははしゃぐ女御の隅で隠れていた。「あの子は?」帝は隅に座っている火月に興味を抱いた。「数日前に入内した娘ですのよ。陰陽道の大家・土御門家の愛人の子だとか・・」麗景殿の女御の話など、帝は聞いてもいなかった。ただ、火月の美しさに魅せられていた。それから火月の元に、帝から大量の美しい衣が贈られた。そして帝は、火月に麗景殿を与え、主であった麗景殿の女御を清涼殿から遠い桐壺へと追いやった。火月は一夜にして、宮仕えの身から、麗景殿の主となった。帝は暇さえあれば麗景殿に入り浸る程の寵愛ぶりであった。土御門家からはスウリヤから皇子を生めとの催促の手紙が毎日来た。火月は後宮の女達が欲する帝の寵愛を受けながらも、心穏やかではなかった。いつも彼女の心を占めているのは、有匡だけだった。火月が麗景殿の女御となって、3日も過ぎた頃。麗景殿に仕える女房達は主である火月には口をきかなかった。女房達は前の主である桐壺の女御を慕っており、新しく麗景殿の主となった火月のことは決して認めようとしなかった。「桐壺の女御様はおかわいそうに。あの女の口添えで帝に麗景殿から追い出されるなんて。」「赤眼の化け猫が帝に取り入るなど、ああ恐ろしい。」「たいした家柄でもないくせに。」「あの土御門家の愛人の子だからって、なんて図々しいんでしょう・・」今日も女房達は火月の悪口を言っている。彼女たちの陰口を火月は御簾越しに聞きながら目元に涙を溜めていた。(僕が何をしたっていうの?なんで僕がこんなに責められなくきゃいけないの?)「火月の悪口言うな、ブス共!!」あまりの女房達の陰口のひどさに、火月の女童(めのわらわ)の禍蛇が怒鳴った。「てめぇらネチネチ悪口言う暇あるんだったら手動かせよな!!」女房達は慌てて衣擦れの音を響かせながらそれぞれの仕事に戻った。「ったく、嫌な奴ら。火月も言い返したらいいじゃん。」フンと鼻を鳴らしながら禍蛇が言った。「でも、僕が梅壺の女御様をここから追い出したのは事実だから・・」そう言うと火月は几帳の陰に引っ込んでしまった。「火月・・」その時、御簾越しに何かが投げられた。火月は几帳から出て、叫んだ。「キャァァァッ!」それは、腐敗した犬の死骸だった。辺り一面に強烈な腐臭が漂う。「出てこいよ、火月に文句あるなら直接言えばいいだろ、この卑怯者!!」袖口で口元を覆いながら禍蛇が叫んだ。「禍蛇、いいよもう・・」火月がいきり立つ禍蛇をなだめた。「僕がいけないんだ・・だから黙って耐えないと・・」犬の死骸は毎日投げ込まれた。そして、火月が夜清涼殿に出向くたびに、廊下に針や汚物を撒かれたりした。火月が廊下を歩くたびに、女達は檜扇で口元を隠して陰口を叩いた。(僕がいけないんだ・・我慢しなきゃ・・)陰湿な嫌がらせに、火月は黙って耐えた。次第にストレスから火月は鬱になっていった。そんなある日。桐壺の女御が麗景殿にやって来た。「いい気分でしょうね、いつも帝のお傍にいられて。」「ええ、お陰様で・・」「人を追い出してまで帝の愛を独り占めにしようとなさるなんて、なんて恐ろしい方なのかしら。」「そんな、追い出すなんて・・」「あら、追い出したではないの。私を清涼殿から遠い処へと追いやって、さぞかしご満足でしょう?」桐壺の女御の言葉の一句一句が刃となって火月の胸に突き刺さる。「ふん、帝もこんな赤眼の化け猫のどこを好いてなさるのかしら。全く物好きでいらっしゃること。」「何だとこのクソババア!」禍蛇が桐壺の女御に墨を投げつけた。墨は桐壺の女御の衣を黒く汚した。「まあ、何て口が悪い女童でしょう・・主の躾がなってないのね。」「・・申し訳ございません。」「主は赤眼の化け猫、女童は躾のなってない山猿・・全く、これじゃあ麗景殿の行く末が思いやられるわね。」そう言うと桐壺の女御は言いたいことを言うとさっさと帰っていった。火月は涙を堪えて、衣を裂けんばかりに握り締めていた。女房達のこれみよがしな笑い声が、麗景殿に響いた。桐壺の女御の火月に対するいじめはますますひどくなる一方で、火月は自分の部屋に引きこもり寝込んでしまった。(もう嫌・・宇治のお母様の邸に戻りたい・・このままお母様の元へ召されたい・・)後宮の人間関係の複雑さ、そして女達の陰湿さに、火月は嫌気がさし、自殺まで考えるようになった。(火月様、おかわいそうに、あんなにやつれられて・・綾香様がお亡くなりになった後、私の実家の越後で暮らした方がよかったのでは・・こんなに火月様が苦しむとは思いませんでした・・全てはこの乳母のせい・・火月様お許しを・・)乳母の寿子は火月を京の土御門家に身を寄せずに、実家の越後で暮らした方がよかったのではと、日に日に弱っていく火月を見ながら自責の念に苛まれた。そんなある日。麗景殿に弘徽殿(こきでん)の女御と、藤壺の女御が火月の見舞いにやって来た。弘徽殿の女御は後宮の中ではご意見番として一目置かれている存在で、今年27歳である。15歳の時に入内し、後宮内のことは知り尽くしている。竹を割ったような性格で、思うことははっきりと口にする。帝からは後宮の管理を任されているほど頼りにされている。一方藤壺の女御は火月と1日早く入内した13歳の少女。幼い頃から病弱で、物静かな性格だ。だが琴や琵琶が得意で、帝は彼女の奏でる楽の音に心地よく耳を澄ませる程だ。「まあ弘徽殿の女御様、藤壺の女御様・・わざわざお越しいただき、ありがとうございます。」寿子は2人の女御に深々と頭を下げた。「頭をお上げになって。火月様は桐壺の女御様にいじめられ寝込んでいらっしゃるとか・・」そう言うと弘徽殿の女御は火月の部屋へと入っていった。藤壺の女御も後に続いた。「麗景殿女御・火月様ですわね?はじめまして、私は弘徽殿の女御・絢子(あやこ)と申します。」寝込んでいた火月は起きあがり、深々と頭を下げた。「こちらこそ初めまして、麗景殿の女御・火月と申します。こんな見苦しいお姿をお見せして、申し訳ありません・・」すると弘徽殿の女御は火月に優しく微笑んだ。「いいえ、こちらこそ突然訪ねて来たんですもの。失礼なのはこちらですわ。」弘徽殿の女御の後ろに控えていた藤壺の女御が火月に頭を下げた。「初めまして火月様。私は藤壺の女御・鞠子(まりこ)と申します。」そう言うと藤壺の女御は火月に頭を下げた。火月も藤壺の女御に頭を下げた。「ところで火月様、桐壺の女御様があなたに辛くあたっているという噂を耳に致しましたわ。」弘徽殿の女御がお見舞いとして持ってきた水仙を活けながら言った。「ええ・・あの方は私と会うたびに赤眼の化け猫と罵り、度々私の元を訪れては私を罵り・・」火月はいままで溜め込んできた思いを一気に吐き出した。「それだけではありません・・腐敗した犬の死骸を毎日投げ込まれたり、夜に帝の元へ行く度に廊下に針や汚物を撒かれたり、私が通る度に皆が陰口を叩き・・ここの女房達は毎日私の悪口を言い、休まる暇がございません。何故僕がこんな目に遭わなきゃいけないんです?何も桐壺の女御様を悪く言ったわけじゃない。桐壺の女御様に嫌がらせしたわけでもない。なのに何で女御様は僕をいじめるんです?どうして僕を目の敵にするんです?言いたいことがあったら陰でネチネチといじめないで堂々と僕に言えばいいじゃないですか!それにみんなも酷すぎるよ、桐壺の女御様が恐いからって僕をいじめて!みんな、みんな、大っ嫌いっ!」弘徽殿の女御と藤壺の女御は火月の愚痴をただ静かに聞いていた。「もう死にたいよ・・僕はこの世にいらない存在なんだ、僕が死んでも誰も悲しまない。死んだお母様の元に行きたいよ・・」「・・辛かったのですね、いままで溜め込んで溜め込んで・・これからは私たちがあなたを支えますからね。」「火月様、私が箏の音であなたを慰めますわ。私にできる唯一のことですけど、火月様のためになるのなら・・」弘徽殿の女御に赤ん坊のように優しく抱かれながら、火月は言った。「みなさん、ありがとう・・私、今幸せですわ・・私を気にかけて下さる方がいることがわかって・・こんな私ですけれど、私を支えてくださいまし。」弘徽殿の女御は火月を力強く抱きしめて言った。「これからは嫌なことがあってももう我慢なさらないで。遠慮なさらず、私たちに吐き出してください。」火月は弘徽殿の女御と藤壺の女御は、唯一無二の親友となった。弘徽殿の女御と藤壺の女御と仲良くなった火月は、以前の明るさを取り戻し、桐壺の女御のいじめも影を潜めていった。だが、火月の心は晴れなかった。入内前夜に、有匡と肌を交えたことが未だに忘れられないのだ。有匡の荒い息遣い、熱い手の感触、そして体内で感じた熱い兄の体液・・火月はいつしか自分を慰める日々を送っていた。乳母の寿子は有匡に文を書いた。5月になり、夏の匂いが感じられる頃。有匡が御所に参内した。彼は京を守る陰陽師として、帝から信頼され、毎日御所へと参内していた。その日の夜、有匡は麗景殿の女御から失せ物探しを依頼され、麗景殿へと赴いた。「有匡様よ。」「まあなんと凛々しいお顔。」「なんという神々しさでしょう・・」「ずるいわよ、私にも見せて。」麗景殿の女房達は京一の陰陽師の顔見たさに、御簾に殺到していた。(お兄様・・)火月は有匡の顔を見て、体が熱くなった。「女御様、どのような失せ物をお探しでしょうか?」有匡の形の良い唇が、火月の前で動く。火月は堪らず、御簾から出た。「女御様、なりません!」周りの女房の制止を振り切り、火月は有匡を押し倒した。「女御様、何を・・」「お兄様の意地悪!他人行儀な物言いはお止めになって!」それから寿子の計らいにより、女房達はそれぞれの部屋へと帰っていった。「お兄様、激しく私を壊して!!早く抱いて!!」有匡は火月の唇を貪り、激しく抱いた。この夜を機に、有匡と火月の運命の歯車は狂い始めていく・・。有匡は火月を抱いた。翌朝、火月は満足げに微笑んだ。「私の失せ物は、お兄様の愛。まだ見つかりませんの。」それから、有匡は火月に「失せ物探し」を依頼され、毎晩麗景殿に赴くようになった。「麗景殿の女御が、そなたを好いていると聞く。火月はうい女じゃ。優しくしてやってくれ。」「はい、主上(おかみ)。」毎晩麗景殿で、有匡は火月を激しく抱いた。火月は兄に抱かれるたびに悦びの声を上げた。(有匡様が火月様をあんなに好いていらっしゃるとは・・でももし主上にバレたら・・)几帳越しに聞こえてくる2人の喘ぎ声を聞きながら、寿子は不安な気持ちに駆られた。一方、火月を疎ましく思っている桐壺の女御は法師を呼び寄せた。「お前に頼みがあるの。」法師・文観は期待に瞳を潤ませていた。「麗景殿女御・火月を呪殺してちょうだい。主上を奪ったあの女に、地獄の苦しみを味あわせてやるのよ。」「御意。」有匡と火月の関係は、後宮中が知るところとなった。それは、桐壺の女御にも伝わった。(しめたわ。これをネタにしてあの女を京から追い出せる。)早速桐壺の女御は主上に有匡と火月の関係を報告した。しかしー「そなたは火月に嫉妬してるのじゃ。有匡が火月と通じおっているはずがなかろう。」帝はそう言って一笑に付した。弘徽殿の女御が、火月を心配して麗景殿にやってきた。「あなたは主上に愛されているではないの。何故有匡様なんかと・・」「僕は入内する気なんて初めからなかったんです。」火月は口元を檜扇で隠しながら言った。「僕は昔からお兄様のことが好きだった・・12年ぶりに再会して、ご成人したお兄様を見て恋心を抱きました。土御門家で優しくしてくれるお兄様のことが好きになってしまった。しまいには・・お兄様の妻になりたいと思い始めたんです。絢子様、僕はお兄様に毎夜抱かれて、幸せなんです。主上は素晴らしい御方だし、優しい御方です。でも、僕はお兄様じゃなきゃだめなんです。お兄様じゃないと、僕は・・」「そう。あなたはそんなに有匡様を想っていらっしゃるのね。」弘徽殿の女御はそう言って帰っていった。翌日。火月はここ最近、体調がすぐれなかった。「火月様、お食事ですよ。」「ありがとう、寿子。」そう言って火月は食事に手を伸ばそうとした。突然激しい吐き気に襲われ、火月は両手で口元を覆った。「火月様、もしや・・」妊娠3ヶ月に入っていた。(なんということ・・お兄様の子が・・僕のお腹に・・)火月懐妊の報せを受け、帝は大層喜んだという。桐壺の女御は、火月が帝の子を妊娠したことを知り、ますます彼女に対する憎しみを募らせた。(男子を産ませてはならぬ!)文観と桐壺の女御は毎日護摩壇に立ち、火月に呪詛をかけた。一方有匡は火月が妊娠したと知り、罪に震えた。(なんということだ・・私は、妹を犯した・・)腹違いであっても、血族間との結婚は許されない。火月に宿っている胎児は間違いなく有匡の子だ。(なんとかして火月に産ませないよう、説得せねば。)生まれてくる胎児は不義の子だ。不義密通の罪は重い。末代まで苦しむことになるくらいなら、早めに処置をしなければ。有匡は直ちに麗景殿へと向かった。同じ頃、火月はスウリヤからの豪華な祝いの品に困惑していた。土御門家では塵芥のように火月を扱っていたのに、帝の子を妊娠してくれてありがとうと、礼の文まで添えられている。『あなたが帝に見初められるのはあなたと会った時からわかっていましたよ。必ず元気な男の子を産むのですよ。』つまり、お腹の子が男の子だったら、土御門家は外戚として栄える。スウリヤは火月のことなどどうでもよく、家の利益しか頭にないのだ。(お義母様は私を土御門家を栄えるための道具として入内させたのだわ。)「有匡様がお見えになりましたよ。」有匡は手に何か薬を持っていた。「お兄様、私を祝いに来てくださったの?」火月は喜びに期待を膨らませた。だが、有匡が口にしたのは意外な言葉だった。「鬼灯(ほおずき)の根を粉末にしたものだ。飲め。」つまり堕胎しろと言っているのだ。有匡が祝福してくれるものと思っていた火月はその場で凍りついた。「お兄様、どうしてそんなことおっしゃるの?」「不義密通の罪で土御門家が汚名を着せられるし、何より不義の子として生まれてくる子が一生苦しむよりは堕胎した方がいいだろう。帝の子と偽るよりも、いつかはバレるのだから。」(土御門家、土御門家って・・・お義母様やお兄様は家のことしか考えないの?私のことなどどうでもいいの?)火月は有匡から堕胎薬をひったくり、庭に投げ捨てた。「何をするんだ!」「私は産みますからね!」火月は大声で叫んだ。「何よ、不義の子だから産んではいけないというの?家のことしか考えてないの?私は妊娠を知ったとき、嬉しくて天にも昇る気持ちだったのに・・お兄様は母親となる私の気持ちを奪おうというの?あんな世間体のことしか考えてない腐った家のために、この子を殺そうと思ったの?そんなの自分勝手よ!この子だって生まれる権利はあるのよ!お兄様、怖いんでしょう?この子が生まれて今の地位が脅かされるのを恐れてるんでしょう?地位なんてくそくらえよ!この子の父親はお兄様、あなたなのよ!世間体のことしか考えられないの?私のことなんかどうでもいいの?この子は要らない子だから、殺してもいいって思ってるの?最低よ!この子は今私の子宮で生きてるの!10月10日を過ごして、私たちの前に姿を現すのを楽しみにしてるのよ!胎児だって人間よ、物じゃないわ!」火月のあまりの剣幕に、有匡はたじろいだ。「自分勝手なのはお前の方だ!生まれてきた子が親が犯した罪で一生苦しむのを想像したことがあるか?親戚に罵られ、通りを歩いてると石を投げられる姿を想像したことがあるか?すぐに堕ろせ!望まれない子を産んだって、お前は幸せになれない!」そう言うと有匡は火月の手を引っ張った。「嫌よ、放してよ!私はこの子を産むわ!幸せになれなくたっていい!この子が望まれない子だって、どうしてわかるのよ?それはお兄様がこの子が邪魔だから堕ろそうとしてるんでしょう?絶対に、私はこの子を産みますからね!!」そう言うと、火月は蹲った。「火月様、どうなさいました?」「赤ちゃんが・・赤ちゃんが・・」火月は流産しかかっていた。「不義の子だと一生罵られて生きるよりは、今ここで死んだ方が楽かもしれん。」有匡の余りの無責任さに火月は激昂した。「何よ、無責任だわ!私とセックスしたのはお兄様じゃない!父親としての自覚を持ってよ!!」火月は激痛に呻きながら叫んだ。「火月様あまり興奮なさるとお腹のややに障りますわ。」結局流産は免れた。だが火月は有匡に対して不信感を露わにしていた。(私は絶対にこの子を産むわ!!)火月は既に母としての自覚を持ち始めていた。12月。京には雪が降り、都の美しさを一層際だたせていた。麗景殿では臨月の火月が愛おしそうに下腹部を撫でていた。「火月様、寒さはおややに障りますから、暖かい処へ。」寿子はそう言って、火鉢の置いてあるところへ火月を連れて行った。あれから有匡と火月は一度も会っていない。火月は自分の都合で一方的に堕胎を勧める有匡に腹を立てていたのだ。「火月、大丈夫?辛くない?」禍蛇が火月の下腹部をさすりながら言った。「大丈夫だよ。最近よく蹴ってくるけど・・・あっ、また」火月はそう言って立ち上がろうとした。その時。バシャッ火月の足下から湯がしたたり落ちた。「うそ、予定日はまだ先なのに・・」しばらくして激しい陣痛が火月を襲った。有匡は火月の安産の加持祈祷のため、御所に参内した。既に護摩壇が焚かれ、法師達が経を唱えている。有匡は護摩壇を焚くと、無心に祭文を唱え始めた。一方、麗景殿では、火月が陣痛に呻いていた。「痛い、痛い!」寿子が優しく火月の額に滴る汗を拭う。弘徽殿の女御と藤壺の女御が駆けつけてきた。「火月様、お気を確かに。」弘徽殿の女御は火月の手を力強く握った。「大丈夫ですわ、元気な御子が生まれますわ。」藤壺の女御は火月を励ました。桐壺の女御は死産を願って文観と加持祈祷をしていた。(産ませてやるものか。あんな化け猫に、帝の子を産ませてなるものか!)(痛い・・いつまで続くの?)火月の前に、死んだはずの綾香が現れた。「お母様、どうして?」綾香は優しく微笑み、火月の手を握った。「頑張るのよ。私はいつでも見守ってますからね。」そう言うと綾香は消えていった。「お母様、待って!!」それから4日間、火月は陣痛に呻いた。「あぁ、痛いっ!あぁぁぁっっ!!」「頭が見えてきましたよ!あともうちょっとですよ!!」「あぁ~っっ!!」オギャア、オギャア、オギャア激しく吹雪の舞う中で、難産の末1人の男の子がこの世に生を受けた。「皇子様のご誕生ー!」「火月様、おめでとうございます。」「赤ちゃんを見せて。」寿子が火月に赤ん坊を手渡した。「なんて可愛らしいんでしょう・・」火月は赤ん坊に乳を含ませながら言った。有匡は火月が無事男児を出産したと知り、安堵のため息をついた。後日、有匡によって赤ん坊の名前は「有輝(ゆうき)」と名付けられた。後の光武帝である。「おのれぇぇぇ!!」桐壺の女御は怒り狂った。桐壺の女御の父・右大臣源実時は、左大臣である土御門家の姪・火月が皇子を生んだことにより、これまで宮廷を牛耳っていたのが逆転、大臣へと出世した身が閑職へとおいやられた。実時は太宰府の地方官として左遷され、崩れ落ちる寸前のあばら屋を住居に与えられた。(おのれ・・土御門・・許せぬ・・末代まで呪うてやる・・)実時はろくな食事を口にすることもできず、渇きと飢えに苦しんだ末誰にも看取られず死んだ。父の訃報を聞いた桐壺の女御は、火月に対して激しい憎しみが湧いた。毎日火月への呪詛を欠かさず行った。その効果が出たのか、生まれてまだ5日も経っていない有輝が、流行病にかかった。高熱を発し、体が激しく痙攣する。有匡は加持祈祷を8日間飲まず食わずで行った。有輝は一命を取り留めた。(おのれ!)やがて後宮内に噂が流れた。『有輝親王が流行病にかかったのは桐壺の女御が呪詛をしたからだ。』桐壺の女御はバレるはずがないとタカをくくっていた。しかし、弘徽殿の女御に護摩壇を焚いているところを見られてしまう。帝は謀反をしたとして桐壺の女御を鬼界島へと流罪にした。(私がこんな目に遭うのは、あの忌々しい化け猫のせい・・あの女さえいなければ父上も惨めに死ぬこともなかったわ。それに有匡・・あの陰陽師め。狐の子のくせに・・。死んでも許さぬ。末代まで祟ってやる・・)桐壺の女御は、父・実時と同じ末路を辿り、浜辺で野垂れ死んだ。この父娘の深い恨みは、土御門家の子孫を苦しめることになる。有輝はすくすくと母の愛情を受けて成長し、3歳になった。目がクリクリとして、艶やかな黒髪は稚児の輪にしていた。「なんだか有匡様の小さい頃にそっくりですわね。」一時期京の土御門家で有匡の乳母をしていた寿子は、有輝の頭を撫でながら言った。火月は一瞬、体がこわばった。「え、ええ、そうね・・」(寿子は知っているのだわ。有輝が帝の子ではなく、僕とお兄様との間に出来た子だと・・)「火月様、どうかなさいました?」寿子が心配そうに火月の顔をのぞき込む。「いいえ、大丈夫よ。」そこへ有匡がやって来た。「あら、お兄様。」「御袴着の儀の日程を知らせに来た。4日後だ。」有匡はそう言うと、立ち去ろうとした。「父様ー。」有輝がそう言って、有匡の直衣の裾にまとわりついた。一瞬、気まずい沈黙が麗景殿に流れる。「いやぁね、この子ったら。有輝、あなたの父様は主上でしょう?」火月はそう言って有輝を有匡から引き離そうとした。「ううん、違うよ。有匡様が僕の父様だもん。」「いい加減になさい!」有匡の足下にしがみついて離さない有輝を、火月は怒鳴って無理矢理引き離した。「やだぁ、僕父様と一緒にいたいのに。母様の意地悪!」 ギャァァッ先ほどまで寝ていた1歳の華月(かげつ)が、有輝の声で起きてしまった。「もう、あなたが騒ぐから妹が起きたじゃない。あっちへ行ってなさい!」有輝は有匡の方へと走っていった。「僕これから父様と暮らすもんね、母様の意地悪!」火月は麗景殿で寝る暇もなく子育てに身をすり減らしていた。3歳の有輝はちょうど反抗期だ。妹の世話にかかりきりの火月に有輝はわざと火月を困らせて関心を惹こうとする。火月は有輝を怒鳴りつけるばかりだ。(もう嫌・・いつまでこんな生活続くの?)火月は育児ノイローゼにかかっていた。土御門家に帰ることはしなかった。仮にしても、スウリヤが邪魔者扱いするだけだから。有輝は有匡と土御門家に帰っていった。(兄様に育児の大変さを知ってもらわないと。)「父様、父様、遊ぼうよー」どこへ行っても自分の後をついてくる有輝を、有匡はうっとうしそうに見つめた。子守は苦手だ。しかも自分のことを父と呼ぶ有輝に、腹を立てた。「私は忙しいんだ。」有匡は有輝に冷たく言い放ち、突き放した。「有匡、たまには有輝と遊んでやれ。さあ有輝、じいじと遊ぼう。」有仁は有輝を抱きかかえて、自室へと連れて行った。(やれやれ・・)有匡は父と楽しく遊ぶ有輝を見ながら、頭を抱えた。火月が有輝を出産した後、有匡は麗景殿へと赴いた。有輝を抱いたとき、父親の実感が湧いた。一生この子を守っていこうと、胸に誓った。腹違いの兄と妹との間に生まれた不義の子であるということを、一生隠しとおしていこうと。自分を父と呼ぶ有輝が嬉しかった。けれどもその前に、自分たちの秘密がバレることを恐れて、有輝に冷たくした。それは有輝を世間の荒波から守るために仕方ないことだった。1年前に生まれた華月も火月との間に出来た子だ。(どこまで私たちは罪を犯すのだろうか・・)有匡はそう思いながら自室へと入っていった。4日後。有輝親王の御袴着の儀が盛大に行われた。外戚の土御門家が幅をきかせて大陸渡りの陶磁器など、高価な品々を帝に献上した。儀式が滞りなく終わり、宴となった。「火月、久しいな。元気で何よりだ。」御所に招待された有仁が火月の顔を御簾越しにみながら言った。「有輝のやんちゃぶりに私、手を焼いておりますのよ。何かと私を困らせるし、いたずらはするし・・」火月は日頃の不満を有仁にぶつけた。「まあそんなに根詰めるな。子どもは育つのが早い。」有仁はそう言うと去っていった。有匡は宴の最中に有仁に呼び出された。「父上、お話とは?」人目につかない、御所の入口近くで有仁は有匡に言った。「有輝はお前の子か?」「はい。」有仁は有匡の言葉を聞くと静かに目を閉じた。「火月との子だな。お前達が互いに惹かれ合っていることは火月が入内する前からわかっていた。しかし有輝がこれを知ったらどうなるか・・」「あの子には秘密にしてください。」有匡はそう言うと馬で土御門家に戻っていった。(有輝はいずれ己の出生の秘密を知るときが来るだろう。それまで私が有輝を守らねば。)有仁はそう決意し、闇空を見た。赤い月が、出ていた。土御門家当主・有仁の北の方・スウリヤは、愛人の娘・火月が皇子を生んだことで連日浮かれていた。今年3歳の有輝をスウリヤは目に入れても痛くないほど可愛がった。やがてスウリヤは有輝を自分の元で育てようと思うようになった。(あの憎い女の娘に私の大切な皇子の育児ができるわけがない。私が皇子を育てなければ。)早速スウリヤは麗景殿に文を出した。『たまには土御門家に帰ってきなさい。あなたのお顔を久しく見ていないので寂しいわ。』火月は有輝を連れて土御門家に帰ってきた。「有輝、こちらへおいで。」スウリヤは唐菓子で有輝を火月の元から引き離した。「かわいいこと、これからはずっとこの邸で暮らしましょうねぇ。」「お義母様、何を言ってらっしゃるんです?」火月はスウリヤの策略がわかり、慌ててスウリヤから有輝を引き離した。だがスウリヤは有輝を火月から奪った。「これから有輝は私が育てます。皇子は母方の家で育てるしきたりでしょう?」「でもお義母様、有輝は私の・・」「お黙りなさい!!」スウリヤはそう言って、火月を思い切り突き飛ばした。火月は池に落ちた。「お前はもう役目を終えたのよ。皇子を生んだお前にはもう用はないわ。さっさとお帰り!」スウリヤは乗馬用の鞭で火月を打ち据えながら言った。「有輝は私の子です!返して!!」「お前、最近育児に疲れているんだって?有輝がここで暮らせば下の子の育児に専念できるでしょう?」スウリヤは泥で作った団子を火月の口に押し込ませながら言った。「お前はあの憎い女の娘!お前は目障りなのよ!この家にとっても、私にとっても!そして、有匡にとってもね!」「お兄様が?」「そうよ、お前はいらない存在なの!だから御所へお帰り!!」スウリヤは猟犬を火月にけしかけながら言った。「いやぁぁっ!有輝を返してぇ!」「しつこい子だね!さっさと邸の外へ出しておしまい!!」火月は使用人に邸の外へと放り投げられた。「お前にはもうこの家の敷居はまたがせないよ!」全身傷だらけになりながら、火月は御所へと帰っていった。「火月様、どうなさったんです?あちこち傷だらけ!」寿子は全身傷だらけで帰ってきた火月を見て叫んだ。「お・・義・・母・・様・・が・・有・・輝・・を・・」そう言うと火月は、寿子の胸元に崩れ落ちた。「火月様、しっかりあそばして!」火月は全身傷だらけで、膿んでいる傷口が数カ所もあった。高熱を発し、火月は愛おしい息子の名を、何度も何度も呼び続けた。弘徽殿女御が、中宮火月が全身傷だらけになり、高熱を発して苦しんでいると、有匡に文を書いた。文を読んだ有匡は、火月の頭からつま先までの傷痕に、思わず目をそらしそうになった。(ひどいことを・・一体誰がこんなことを・・)有匡は火月の手を握った。「有・・輝・・」火月はうっすらと目を開け、息子の名を呼んだ。「有・・輝・・私・・の・・愛・・し・・い・・子・・お・・義・・母・・様・・な・・ん・・か・・に・・渡・・さ・・な・・い・・」そう言うと火月は意識を失った。「有匡様、どちらへ?」怒りで全身が沸騰しそうになりながら、有匡は土御門家へと向かった。土御門家の庭では、有輝が蹴鞠をして遊んでいた。「まあ有輝は蹴鞠が上手ねぇ。主上も幼少の頃蹴鞠が上手であらせられたとか・・やはりこれも血筋なのねぇ・・。」スウリヤが目を細めて蹴鞠に興じる孫の姿を見ていた。そこへ、怒りで真っ赤になった有匡がやって来た。「あ、父様ー!」有輝は有匡に飛びついた。有匡は有輝に微笑みかけ、有輝を抱き上げた。「お母様の処に帰りたいか?」「うん、お母様元気にしてる?」「今ちょっと病気で寝込んでいるけど、有輝が来たらお母様は元気になるよ。」「じゃあ、お母様の処に帰る。ここより御所の方がいいや。」「いまからお母様の処に帰ろう。」有匡はそう言って有輝を連れて馬に乗ろうとした。「お待ちなさい!有輝は私が育てるの!あの女に渡しませんよ!」スウリヤは足を踏みならして有匡に迫った。有匡はスウリヤを見据えながら言った。「猟犬をけしかけ火月を傷つけたのはあなたですね、母上。」スウリヤはビクッと全身を震わせた。「な、何故それを?」スウリヤの顔に焦りの表情が浮かんだ。「母上、有輝は皇子であり、あなたにとっては可愛い初孫・・傍においておきたいのはわかります・・でも母親から引き離すのは、あまりにも残酷すぎます。しかもあなたは、皇子を産んだお前はもういらない存在だと火月に言い放った。愛人の子だからとあなたはいままで火月に冷たくしてきた。それが入内したら急に火月に優しくして、挙げ句の果てには皇子を産んだ火月を罵り邸から野良犬のように追い出した。なんという女だ、あなたは。己の権力に執着し、火月から息子を取り上げて・・あなたのような欲の深い女から生まれてきたことが恥ずかしい!」スウリヤは呆然と有匡を見つめた。「私はこの家を栄えさせるためにやったことよ。だからあの女の娘をこの家に・・」「もういい!苦しい言い訳など聞きたくない!!」有匡はスウリヤに怒鳴り、馬に乗った。「待って、有匡!母をおいていかないで!」「あなたは私の母ではない。」スウリヤはその場で凍り付いた。「お前など・・地獄に堕ちればいい・・」蹄の音が土御門邸の門に響いた。スウリヤはいつまでも有匡が去った門を見つめていた。『お前など・・地獄に堕ちればいい・・』腹を痛めて産んだ息子が自分に言い放った一言。この家に嫁いできてから10年近く。有仁の愛を独占したいあまりに、スウリヤはワガママになっていった。やがて有仁はそんな彼女に愛想を尽かし、宇治の愛人の元へと行ってしまった。『お前みたいな女、うんざりだ。』愛人が出来たことに激しく責め立てるスウリヤに、有仁はそう言い放った。(私はあなたの愛が欲しかったのに)夫との関係が冷えきり、息子・有匡に愛情を注いだ。だが、愛人の娘・火月と親しくなっていく有匡を見るとスウリヤは腸が煮えくりかえった。(綾香・・どこまで私を苦しめれば気が済むのよ)火月に辛くあたったのは、最愛の息子を夫のように愛人の娘にとられたくなかったから。激しい憎しみがスウリヤの心を支配し、鬼となった。(お前さえいなければ、私は有仁様の愛情を一心に浴びれたのよ!)そして、火月を邸から追い出し、有輝を取り上げた。だが、息子に愛想を尽かされた。手塩をかけて31年間育てた息子に。(私はこれから何を支えに生きていけばいいの?夫には愛想を尽かされ、息子にまで・・私は一体何を・・)スウリヤは部屋の隅に置いてあった懐剣に目を留めた。これは有仁が昔、正妻の証としてスウリヤに贈った物だ。スウリヤはためらいもなく懐剣を自分の首筋にあてた。土御門家はスウリヤの喪に服していた。スウリヤは息子に絶縁を言い渡され、懐剣で自害したのだ。有仁が首筋を血まみれにして床を這うスウリヤを見つけた。「一体どうしたんだ?」有仁の問いにはスウリヤは答えず、床を這うばかりだった。スウリヤはやっとのところで庭に降り、白い塀に最後の力を振り絞って血文字を書いた。『一生お前を呪ってやる』それは有匡にむけてのものであったのか、火月のものであったのかは、本人以外わからない。血文字は後世になっても消えることなく、白い塀にまがまがしく残っている。火月はスウリヤが自害したことを知り、気絶しそうになった。と同時に、鋭い憎しみの籠もった視線を感じた。だが有匡が来ると、その視線は消え失せた。(お義母様・・)スウリヤは死んでもなお、火月を憎んでいるのだ。火月は3人目の子を宿した。妊娠中、幾度か流産の危機に瀕した。スウリヤの呪いだと、火月は思った。元気な男の子が産まれたが、その子は何度か大病を患った。火月は麗景殿でも土御門家でもスウリヤの影におびえる毎日を送った。スウリヤの死から16年。有輝は19となり、元服し、光武帝に即位した。若い帝を助けるため、有匡が宰相となった。有匡はもう48。定年が近づいていたが、残りの人生は、我が子のために尽くそうと決意した。そして、有輝に出生の真実を明かすことを決意した。穏やかな夏の日。「母上、お話とはなんでしょうか?」麗景殿に火月から呼び出された有輝は、重苦しい雰囲気を感じていた。「お前に、話さなければならないことがあります。」火月は御簾をまくり、有匡と有輝の前に来た。「お前は帝の子ではないの・・お前と妹、弟たちは、ここにいる有匡様と私との間の子なのよ。」有輝は火月の言葉を信じられなかった。(嘘だ・・僕が・・不義の子・・)「有輝!」有輝は御所から飛び出した。嘘だ。有匡様が、僕の父上・・こんなの夢だ、夢だ!悪い夢だ、覚めてくれ・・有輝が行方知れずとなってから3日間。帝が消えた御所は上から下まで大騒ぎだ。「何故主上は消えたのだ!有匡殿、あなた様がついていながら!」有匡は大臣達の責めにただひたすら耐えていた。「私が探しに行きます。」馬を走らせて7日、有匡は有輝に関する手がかりも何もえられず、苛立っていた。(どこにいる・・有輝?)宇治に着いた有匡は、道行く人に有輝のことを尋ねた。だが、何の情報も得られなかった。宇治のまちはずれに朽ち果てた邸があった。有匡には見覚えがあった。その邸は昔、火月が暮らしていた処だ。邸は火月の母・綾香が亡くなった後人手に渡ったが、邸の所有者は都に住み、宇治の邸は歳月とともに哀れな姿となっていった。有匡は邸にはそぐわない白馬がいることがわかった。(あれは有輝の愛馬だ。)有匡は邸の中を慎重に進んだ。有輝は母屋の、火月が産まれた部屋にいた。美しい調度品が飾られた部屋は、今はその跡形もなく崩れ落そうなほど朽ち果てていた。「ここで母上が産まれたのですね。」有輝は独り言のように有匡に言った。「私は幼い頃、あなたを父と呼びました。あのときは子ども心に冗談で言いましたが、まさか実の父親だなんて・・」「有輝・・」有匡は有輝の肩を優しく抱いた。「母上は何故、私を産んだのです?私に一生不義の子である苦しみを背負わせるためですか?」「いや、違う。」有匡は有輝を見据えて言った。「火月は私を愛していた。私も火月を愛していた。だからお前が産まれた。私は火月の妊娠を知ったとき、私はお前が不義の子だと一生苦しむよりは、お前の命を絶つことが最善の方法だと火月に言った。だが火月は、母となる覚悟を決めていた。名聞よりも、子の命を選んだのだ。火月はお前に苦しみを背負わせようとして産んだわけじゃない。愛する人との結晶を産みたかったのだ。」「けれど、何故・・何故いままで黙っていたのです?」「それはお前が物事をわかる時期になってから話そうと思ったからだ。」有匡は愛おしいそうに有輝を見つめて言った。「有輝、私はお前を愛している。私の血の分けた分身、そして火月との愛の結晶として。不義の子という負い目を背負わせてしまったことは申し訳ない。だが自分はいらない存在だと思うな。出生にとらわれるな。ただ、私と火月がお前を愛していることだけはわかって欲しい。」「わかりました、父上。」有匡と有輝は御所へと帰っていった。それから、火月は有輝に全てをうち明けたあと、出家し、宇治の尼寺に入った。有匡は陰陽師を引退しようと思っていた。いままで必死に築いてきた地位。だがもうそれにはもう固執しない。それより大切なものを見つけたから。「父上。」有輝の声で、有匡は微笑みながら振り向いた。「有輝、どうだ、国事は?」「順調です。父上、体の具合はいかがですか?」有匡は去年の秋から、胸を病んでいる。「大丈夫だ、滋養のある物を食べてるからな。」「そうですか。」それが親子の交わした最後の会話だった。その夜、有匡は急に喀血し、倒れた。「父上、父上!」3日間意識不明だった有匡は、有輝の声で目を開けた。「有・・輝・・私・・は・・お・・前・・に・・す・・ま・・な・・い・・こ・・と・・を・・し・・た・・許・・し・・て・・く・・れ・・」「父上、何を・・」「お・・前・・に・・償・・い・・き・・れ・・ぬ・・罪・・を・・負・・わ・・せ・・て・・し・・ま・・っ・・た・・こ・・の・・父・・を・・恨・・ん・・で・・く・・れ・・」「いいえ父上、恨むなど!私は父上の子に生まれて良かった!父上の子であることを誇りに思っております!」「そ・・う・・か・・」そう言うと有匡は微笑んで、ゆっくりと瞳を閉じた。「父上?父上ー!」1年後。有匡の墓に、有輝が1人、佇んでいた。「父上、私は父上の子であることを誇りに思っております。」桜の花びらが、有輝を優しく包み込んだ。にほんブログ村
2024.03.16
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※BGMと共にお楽しみください。「火宵の月」二次小説です。作者様・出版社様とは一切関係ありません。二次創作・BLが嫌いな方はご注意ください。「わたしが、陰陽寮に?」「ああ、そうだ。今しがた、京の土御門家から文が来た。」 梅雨が過ぎ、蒸し暑さを感じるようになった夏の昼下がり、土御門仁(つちみかどじん)は、父・有匡(ありまさ)に呼び出されて彼の自室へと向かうと、彼から上洛するよう言われた。一瞬動揺した後、仁はずいと身を乗り出し、父を問い詰めた。「何故、わたしが上洛しなければならないのですか、父上?土御門家とは、母上と結婚した時に絶縁されたと、そうおっしゃいましたよね!?」「ああ、そのつもりだったが、向こうは人を使って密かにわたし達の生活を調べていたらしいのだ。」有匡はそう言って嘆息すると、握り潰してくしゃくしゃになった土御門家からの文を仁に手渡した。 そこには直ちに仁を上洛させ、陰陽寮に入寮させるようにとの旨が書かれてあった。「一体あちらは何を考えているのでしょうか?」「それはわからぬ。ただ、このまま返事をせずに居ると悪い方へと事が進むかもしれぬ。」「それは・・」「母上と雛(すう)のことは心配するな。」「ですが父上・・」「くどいぞ、仁。これはもう決まった事なのだ。」尚も仁が有匡に抗議しようとすると、彼はそっと仁の肩を叩いた。「わかりました。父上がそうおっしゃっておられるのなら、わたしは従うしかありませんね・・」 悔しさの余り唇を噛み締めながら、仁はそう呟いて俯いた。「仁、お父様と何を話していたの?」「姉上・・」 有匡の部屋から出た仁は、サラサラという衣擦れの音とともに姉の雛がやってきたことに気づいた。双子の姉である彼女は、母・火月譲りの金髪紅眼の美しい容姿の持ち主ではあるが、外見は母親似であるのに対して、性格は父親である有匡に似ていた。「その様子だと、お父様に何か言われたようね?」「ええ。」「どうせ土御門家があなたに上洛せよという文が届いたのでしょう?あちらの主の体調が芳しからないというから、何か含むところがありそうね。」「姉上のおっしゃる通りです。」「まぁ、あなたが留守の間、わたしがこの家を守るから心配要らないわ。」雛はそっと仁の手を握ると、彼に微笑んだ。 姉とともに自室に戻った仁は、衣紋掛けに見慣れぬ直衣が掛けられていることに気づいた。「先程土御門家から届きました。」父の式神である種香がそう言うと、仁を見た。「・・僕の趣味じゃないな。」「どうやら有匡様が駄目なら、仁様に家督をお譲りする気になったのかもしれませんね?」「それはどうかな、向こうとは絶縁したって思っているんだから、こっちは。」 上洛するまでの間、仁は土御門家がどんな手を使って有匡に自分の上洛を迫ったのかが気になり、眠れぬ夜を過ごした。「行ってらっしゃいませ、仁様。」「仁、くれぐれも身体には気を付けるのですよ。」「わかりました、母上。それでは、行って参ります。」出立の日の朝、姉と母に見送られ、仁は上洛する事になった。「有匡様も薄情よねぇ、息子の見送りにも顔を出さないなんて。」「殿もお辛いんじゃないんの?だからわざと仕事を入れてさっさと職場に向かわれたんだと思うわ。」「まぁ、そうかもねぇ・・」式神達はそんな囁きを交わしながら、家事に取りかかった。「仁、よう来たな。さぁ、近う寄れ。」「は・・」 上洛した仁は、土御門家当主と対面した。有匡の養父である彼は、自分の義祖父に当たる人物なのだが、何故か仁は彼に対して不信の感情しか抱けないでいた。「そなたをここに呼んだのは他でもない、土御門家を再興する望みをお前に託す為じゃ。」「そんな大それたことをわたくしが出来る筈がございません。元服したとて、わたくしはまだまだ半人前ですから。」なるべく当たり障りのない言葉を選びつつ、仁はそう言って義祖父を見つめると、彼は少し落胆したかのような表情を浮かべていた。「おお、そのような事を言うでない。わしはそなたの父、有匡に絶縁を言い渡されて以来、生きるのが嫌になったことがあった。有仁(ありひと)の時もそうであった・・」「ご自分のご都合のよいように解釈されては困ります。祖父が死んだのは、あなた方の所為でしょう?」 土御門家前当主であり、有匡の実父である有仁は、帝を惑わした妖狐・スウリヤと逃げ、土御門家を勘当された挙句、土御門家の追手によって無残な最期を遂げた事を仁は知っていた。「父上が駄目ならば、わたくしに土御門家の家督を譲ろうとお思いになられていることでしょうが、わたくしはこの家を継ぐ気などさらさらありません。」今まで義祖父を傷つけぬよう、下手に出ていた仁だったが、いい加減彼との噛み合わない会話をしてきてもうどうにでもなれと思ったのだった。「この際はっきり申し上げますが、わたくしはもうあなた方とは親族でも何でもありません。父がこの家で暮らしていた時、あなた方が父にどのような仕打ちをなさったか、お忘れか?」仁がそう言って義祖父を睨み付けると、彼はヒィッと叫んで身を竦めた。「わたくしも狐の子ですゆえ、いつ何時あなた方の寝首を掻き切るかもしれませぬ。それでも良いというのならば・・」老い先短い老人を脅迫するような真似はしたくなかったが、祖父や父の事を有耶無耶にしようとするこの男が仁は許せずにいた。「もうよい、そなたの気持ちは解った。じゃが京に居る間、我が家に滞在してはくれぬか?」「いいでしょう。ですがあなた方とは顔を合わせたくはありませんので、別邸で過ごすことに致しましょう。」一緒に暮らすことだけでも有り難いと思え―そんな負の感情を言葉の端々に滲ませながら仁がそう言うと、先ほどまで沈んでいた義祖父の顔がパァッと輝いたように見えた。「何をしておる、別邸を整えよ!」「は、はい!」仁が別邸に住むとわかった途端、彼はテキパキと家人達にそう命じ始めた。(まったく、何て爺なんだ・・父上が絶縁したくなったのも、解る気がするな・・) 別邸と本邸を隔てる渡殿を歩いていた仁はそう思いながら、深い溜息を吐いた。その時、向こうから自分と同い年の少年が数人やって来た。どうやら一族の厄介者の息子である自分の姿を見ようと来たらしく、彼らは仁と目が合うなり、意地の悪い笑みを口元に湛(たた)えていた。「お前があの有匡の息子か?」「薄気味の悪い顔をしているな、流石あの狐の子と血を分けた息子らしい。」「呪力はどうかな?まぁ、似ているのは顔だけだと思うがね。」初対面だというのに、彼らは仁にそんな事を言いながら無遠慮な視線を投げつけて来た。「わたくしの顔をとやかく言う前に、一度ご自分の顔を鏡でご覧になられてはいかがです?性根が腐りきった醜い顔をしておられますよ?まぁ、あなた方の顔は元から大層残念なものですけれどね。」 背後で彼らが何か喚いている声が聞こえたが、仁はそれを無視してそこから去っていった。別邸で眠れぬ夜を過ごした仁は、そのまま陰陽寮へと入寮することとなった。「貴殿が、あの土御門有匡殿のご子息か?」「はい、これからお世話になります。」 入寮早々、彼は陰陽頭(おんみょうのかみ)・賀茂忠光(かものただみつ)に挨拶に行った。遥か平安の御世、陰陽道の大家として名を馳せた賀茂家の出身だけあり、彼は何処かこの世を達観しているような賢い顔立ちをしていた。「君の噂は聞いているよ。何でも、父上にもひけをとらぬほどの実力だとか?」「いいえ、わたしはまだまだ父の足元にも及びません。」「そう謙遜するんじゃないよ。それよりも、鎌倉に居る父君に宜しくお伝えしてくれ。」「はい、わかりました。」「では、わたしについてきなさい。君にとって陰陽寮は初めてだろう?今日の内に全体を把握しておいた方がいい。」「わかりました。」「では早速、案内するよ。」 陰陽寮のトップである忠光の後ろについて歩く仁の姿を、好奇心を剥き出しにした他の学生達(がくしょうたち)の視線が突き刺さった。突然やって来た、東国(かまくら)から来た新入りが、何故忠光と歩いているのか皆興味があるらしく、仁は行く先々で声を掛けられた。「お前、忠光様と一体どんな関係なんだ?」「わたしは大した者ではありませんので、どうかお気にならさぬよう。」そう言って暦生(れきしょう)の一人に微笑んだ仁であったが、はいそうですかと彼らが納得する筈がなく、あっという間に暦生達に仁は取り囲まれてしまった。「どうせお前、親のコネで入ったんだろ?さもなきゃ、名高い陰陽寮に田舎者が入れるわけないもんな?」暦生の一人が冷笑交じりでそう言うと、仁の前に出て来た。「ほう?それならば貴殿は、どのようにして陰陽寮に入ったのですか?まさか、親の縁故で入ったとは言えませんよねぇ?」陰陽寮に入る学生達は、天賦の才がある者も居るのだが、その大半は親の口添え、つまり縁故で入ってきた者が殆どだった。「ふん、そんな筈ないだろう?俺は才能を買われてここに入ったんだ!お前のような田舎者とは違う!」「ならば、その才能とやらをとくと拝見致しましょう。」そう言った仁は、近くにあった暦を自分の手元に引き寄せた。「この暦で、吉凶を占ってくださいませ。常日頃緻密な計算をされる貴殿なら、このような物は朝飯前でしょう?」「クソ、俺を馬鹿にするな!」仁の軽い挑発を受けた暦生は、仲間達が見守る中作業に取り掛かったものの、数秒もしない内に根を上げた。「お前もやってみろ!」「やらずとも、もう占えましたから。」仁はスラスラと、暦で吉凶を占い始めた。「ここは、西北に災いありと出ております。」「ふん、なかなかやるじゃないか。ならばこれを作ってみろ!」負け惜しみなのかどうかわからないが、暦生は未完成の暦を仁に押し付けると、そそくさと部屋から出てしまった。これが新人いびりというものか―仁は苦笑しつつも、暦作りに取り掛かった。「仁、そんな所で何をしているんだ?」「先程先輩方から仕事を任されました。」「全く、新人を来た早々いびるなど・・後で君に仕事を押しつけた者達を呼び出して叱らなければ・・」「いえ、もう出来あがりましたから。それよりも忠光様、どうやらわたしは彼らに良い刺激を与えたようです。」「そ、そうか・・」忠光は仁の言葉を受け少し面食らったが、そのまま彼に背を向けて部屋から去っていった。 新入りでありながら、仁は陰陽寮の学生達に一目置かれる存在となった。幼い頃から父・有匡に陰陽道の何たるかを叩き込まれ、厳しい鍛錬を重ねて来た甲斐があり、難解な講義にもついていけた。「先日の試験が発表された。最下位の者は追試を受けることになっているから、心してそれに臨むように。」忠光がそう言って講堂から出て行くと、学生達は我先にと試験結果が張りだされている場所へと殺到した。 仁はつま先立ちになりながらも、自分の名を必死に探した。そして一番上に自分の名が出ている事を確認し、彼は安堵のため息を吐いてその場から離れた。「なぁ、土御門仁って何者なんだ?」「さぁな。何でも、父親の土御門有匡殿は宮中に居た頃色々と噂になった大物だそうだ。」「土御門といえば・・確か昔陰陽頭を務めていたのも、土御門姓の者だったよな?」「やっぱり、血は争えないんだろうなぁ。」学生達が試験の結果について―正確に言えば仁について話していると、一人の学生が彼らの元へとやって来た。「血統が何だっていうんだ?親が偉大な人物でも、その仁って奴が凄いっていう訳じゃないだろう?」「それは・・」「つまらないことで騒ぐなよ、馬鹿らしい。」その学生は鬱陶しげに前髪を掻きあげると、蒼い双眸で周囲を睥睨(へいげい)した。「何が天才だよ、馬鹿らしい・・」周囲には聞こえぬ低い声でそう呟いた彼は、簀子縁(すのこのえん)を歩いてくる仁を見るなりさっと立ち上がり部屋から出ていった。「お前が、土御門仁か?」「はい、そうですが・・あなたはどちらさまでしょうか?」「ふぅん・・どんな奴かと思ったら、余りパッとしない顔だな。」「おや、どうやらあなた様はご自分のご容姿にさぞや自信がおありのようですね?」初対面の相手に“パッとしない”と言われ、黙って引き下がる仁ではなかった。咄嗟にそんな言葉をその学生に返すと、彼は怒りで顔を赤く染めた。「真雅(ただまさ)、そこで何をしている?」「忠光様・・」仁と睨み合っていた学生は忠光の姿を見るなり、慌てて彼にひれ伏した。「どうして仁をあんな目で睨みつけていたんだ?」「いえ・・」「すまないね、仁。この者にはわたしからよく言い聞かせておくから、今回はわたしに免じて許してやってくれないだろうか?」「わたしは別に構いませんよ?」「そうか、ありがとう。真雅、来なさい!」「ですが忠光様・・」「黙ってわたしの後について来なさい、真雅!」まるで見えない鞭に打たれたかのように、その学生はビクリと身を震わせると、慌てて忠光の後を追いかけていった。「真雅、お前が仁に対して良からぬ感情を抱いていることはわかる。だが、少し分別というものを身につけないといけないよ?」「ですが、あいつの父上は・・」「親同士の関係がどうであれ、お前達がいがみ合う理由はない筈だ、そうだろう?」忠光にそう言われ、真雅は唇を噛み締めながら俯いた。「わかればいいんだ。さぁ、もう仕事に戻りなさい。」「これで、失礼致します。」 真雅は忠光の部屋を出ると、苛立ち紛れに近くの柱を拳で殴った。 仁が陰陽寮に入寮して数日後、鎌倉に居る父から文が届いた。そこには体調を崩さぬようにとだけ書かれていた。いかにも父らしく、そっけない文だったが、それでも仁にとっては嬉しかった。「仁様、何やらご機嫌ですわね?」「そうかな?」仁の式神・涼香(すずか)がそう言って彼の肩越しから有匡からの文を覗き見ると、彼女は溜息を吐いた。「そっけない文ですわね。」「まぁ、別にいいんじゃない?逆に長ったらしい文を書かれたら嫌だよ。」「そうですわね。それよりも仁様、今日はご出仕ならさないのですか?」「うん・・試験がまたあるから、勉強しないと。」「実技はもう終わったのでは?」「今度は小論文の試験なんだ。実技は出来るんだけど、小論文は苦手なんだよね。」「余り無理なさらないでくださいね。」「わかった。」 朝食を食べ終えた仁は、すぐさま自室で試験勉強に取りかかった。 元は有匡所有の別邸には数人の使用人達の他には誰もおらず、ひっきりなしに来客が訪れる本邸とは違って静かだった。周りに雑音がしなくて勉強に集中できた甲斐があったのかどうかわからないが、仁は小論文の試験でも満点を取った。「君は優秀だね。実技だけでなく小論文も得意とは。やはりあの父君の子だけである。」「いえ、わたしは努力してそれが報われただけです。」そう言って仁が謙遜すると、陰陽博士(おんみょうのはかせ)である賀茂輝義(かものてるよし)は苦笑しつつ彼の肩を叩いた。「そんな事を言うな。君の実力は君自身がわかっていることじゃないか?」「まぁ、それはそうですけれど・・」輝義と仁の会話を、真雅(みつまさ)は柱の陰から聞いていた。(どうして、あいつの顔を見ると苛々するんだろう?) 初めて顔を合わせた時から、何故か真雅は仁の事が嫌いになった。何故彼を嫌うのか、自分でも解らない。それはひとえに、父・文観と彼の父・有匡との確執が原因なのかもしれない。文観は有匡のことを嫌い、有匡も文観の事を嫌っていた。だが、有匡の妹・神官(シャマン)が文観の妻となったので、親戚同士となった二人はあからさまに好悪の感情をぶつけ合うことはないものの、親戚づきあいは皆無に等しかった。親同士の仲が悪いと、当然それは子ども達にも悪影響を及ぼす。一度も顔を合わせた事がない従兄弟達に対して、真雅はいつの間にか彼らに悪感情を抱いていたのだった。「どうしたんだ、真雅?」「父上・・」何者かに肩を叩かれて真雅が振り向くと、そこには墨染の衣の上に金襴(きんらん)の袈裟を掛けた帝の護持僧(ごじそう)である父・文観の姿があった。「あれが、有匡殿の息子か?」「ええ。父親に似て優秀で、それでいて憎らしい顔をしております。」「そんな事を言うんじゃない、真雅。宮中で不用意な発言を控えるように。」「はい、父上。」真雅は、そう言うと俯いた。「人の事を気にするよりも、勉学に励むがいい。陰陽寮に入った以上、志を高く持ってくれよ?」 文観は我が子を励ますかのように、そっと真雅の肩を叩いた。「歌会、ですか?」「ああ。何でも、雲居の御息所(みやすんどころ)様が最近気欝(きうつ)なご様子でいらっしゃる姫君様をお励ましになろうとお思いになって今宵開くんだとか。」「へぇ・・雲居の御息所様がそんな事を・・」雲居の御息所の名は、仁は何度か宮中でその名を聞いたことがあった。かつて東宮妃(とうぐうひ)として後宮で権勢を振るうも、政敵の娘である中宮の讒言(ざんげん)により宮中から追い出され、今は姫君と実家で暮らしているという。「仁はどうするんだ?」「歌会ですか?お恥ずかしながら、余り歌を詠むのが得意ではないので遠慮させていただきます。」仁がそう言って歌会を欠席する旨を忠光に伝えようとした時、衣擦れの音とともに一人の童子が講堂に姿を現した。「土御門仁様は、おられますか?」「わたしですが・・」「これを、雲居の御息所様から預かって参りました。」そう言うと童子は、梅の枝に巻きつけた文を仁に手渡した。「ありがとう。」文には、是非今宵の歌会に出席して欲しいという旨が書かれていた。「どうやら、出席しなければならないようだね?」「はい・・」そう言った仁の声は、少し沈んでいた。「雲居の御息所様の歌会に?」「うん。歌を詠むのが苦手なのに、歌会なんて・・人前で恥をかくのは嫌だよ。」 帰宅した仁はそう涼香に愚痴をこぼすと、彼女はそっと仁の肩を叩いてこう言った。「大丈夫ですよ。雲居の御息所様はそんなに意地の悪いお方ではありませんから。」「そうだといいんだけど・・」 その日の夜、雲居の御息所邸で、歌会が開かれた。「皆様、今宵は来てくださってありがとう。」そう言って客人達に挨拶した雲居の御息所は、五十路(いそじ)であるのに東宮妃であった頃から変わらぬ美貌を保っており、艶やかな雰囲気を纏っていた。「あなたが、土御門仁様ね?」「はい、お初にお目にかかります。実はわたくし、歌を詠むのが苦手でして・・なので、このような場に呼ばれることにいささか驚きを感じております。」恐縮した様子で仁がそう言って雲居の御息所を見ると、彼女は口元を袙扇(あこめおうぎ)で覆い、クスクスと笑った。「そんなに緊張なさることはないわ。わたくしだって、初めは歌を詠むのが苦手でしたのよ。人には得手、不得手があるのが当り前ですわ。」「そう・・ですね・・」「さてと、ご挨拶もこれまでにして、歌会を始めましょうか?」雲居の御息所はそう言って後ろに控えていた女房に目配せすると、彼女は衣擦れの音を立てながら寝殿から出て行った。 雲居の御息所にフォローされつつも、仁は苦手な歌を何首か詠んだ。「いい歌だこと。」「そうでしょうか、余りにも味気のない歌ではありませんか?」「そんなことはないわ。歌はその人が心から詠うものですわ。」「そうですか・・」 歌会が終わり、仁は少しリラックスしたような表情を浮かべながら牛車に乗り込んだ。「そのご様子だと、上手くいかれたようですね?」「うん。雲居の御息所様は、お優しい方だったよ。」「あの方は菩薩の生まれ変わりのようなお方ですからね。お風呂のご用意が出来ましたよ。」 湯船に浸かりながら、雲居の御息所の姫君が歌会に居なかったことを、仁はふと思い出した。彼女は、何かを隠している―「姫様、入りますよ?」「気分が優れないの、入って来ないで!」 歌会が終わった後、雲居の御息所(みやすんどころ)邸にある彼女の娘である菫(すみれ)の君の部屋へと女房が向かうと、彼女は頑なにそう言って彼女を部屋の中に入れようとはしなかった。「では、薬師(くすし)をお呼びいたしましょうか?」「いらないわ、少し横になればよくなるんだから、放っておいてよ!」「わかりました・・」これ以上菫の君の機嫌を損ねるようなことはしたくないと思った彼女は、衣擦れの音を立てながら主の部屋の前から辞した。 その御簾の奥―御帳台(みちょうだい)の中で、菫の君は激しく咳き込みながら寝返りを打っていた。こんな咳が出るようになったのは、あの男から文を貰った所為だ。菫の君は、数日前に自分の元へと訪れた男の顔を思い出そうとしたが、咳と高熱の所為で思い出せないでいた。一体何故、自分がこんな病に罹ってしまったのか、彼女自身解らずにいた。「まぁ、姫の気分が優れないですって?薬師は呼んだの?」「いえ・・少し横になれば良くなるからと、薬師を呼ぶのを拒まれて・・」「何を言っているの、早く薬師を呼びなさい!」「は、はい・・」女房は慌てて御息所に頭を下げると、そそくさと部屋から出て行った。 数日後、菫の君と似たような症状を患っている三条家の姫君が家族に看取られながら、静かに息を引き取った。「一体、どういうことになっているんだ?立て続けに謎の病で貴族の姫達が亡くなるとは!」「それが主上(おかみ)、わたくしにも理由が解りませぬ。」「ええい、そなたそれでも賀茂家の次期当主か!良いか、これは何者かが姫達に呪詛を掛けているに違いない!早うその者を突き止めるのじゃ!」「は、はぁ・・」忠光は帝と謁見した後、すぐさま陰陽寮の者を全員集めた。「皆も謎の病について色々と聞いているであろうが、これは何者かが姫君達に強力な呪詛を掛けたに違いないというのが、主上からのお言葉である。一刻も早く、呪詛をした者を突き止め、被害を最小限に食い止めよ!」「はい!」謎の病が姫君達の命を次々と奪ってゆく中で、菫の君の容態は徐々に悪化の一途を辿っていった。「姫の様子は?」「快方に向かうどころか、意識が混濁しております。」「何としたことじゃ、薬師でさえ姫の病を治せぬとは・・」「御息所様、そうお嘆きにならずに。陰陽寮の者が病の原因を調査しておりますし・・」「陰陽師か・・一度、姫の病を診て貰えばよいな?」「ええ。では早速、賀茂家に文を・・」「いや、賀茂家は信用ならぬ。他の陰陽師を呼んで参れ。」雲居の御息所は、そう言って口端を歪めて笑った。その笑みは、ゾッとするほど恐ろしかった。「仁様、雲居の御息所様から文が届いております。」「雲居の御息所様から?」 翌朝、出仕しようとしている仁の元に、雲居の御息所の使者が文を届けに来た。「雲居の御息所様は何と?」「御息所様の姫君―菫の君様が謎の病に罹られているらしい。わたしに、診て貰いたいと・・」「まぁ、何だか怪しいですわね。そのような依頼ならば、普通は陰陽頭様に頼むべきであるのに・・」これは何かの罠かもしれない―仁はそう思うと恐怖に戦慄(わなな)いた。「御息所様、土御門仁が参りました。」「そうか、通せ。」「はい。」女房が仁の来訪を告げた時、雲居の御息所は先程まで読んでいた経典から顔を上げた。「よく来てくれましたね、仁様。」「お久しぶりです、御息所様。」「まぁ、そう固くならずに楽にして頂戴。あなたを今日ここへ呼び出したのは、わかるわよね?」「はい・・菫の君様のことですね?」「ええ。娘はあの病に・・数人の姫達を奪った病に罹っているの。薬師に診せても原因が判らない。だから、あなたのお力を借りようと思ってお招きしたのです。」「わたしのような未熟者にお任せするよりも、陰陽頭(おんみょうのかみ)様にお頼みした方が宜しいのでは?」「いいえ、彼は駄目。わたくしは、彼が信用できないのよ。」そう言った貴婦人の顔からは、忠光への嫌悪感に満ちていた。一体彼女と忠光とは、どのような関係なのだろうか―仁がそんな疑問を抱き始めていると、御息所付の女房数人が突然、仁に向かって深々と頭を下げた。「どうかお願い致します、姫様の命を救ってくださいませ!」「お願い致します!」「あ、あの・・わたしは・・」「あなた達、おやめなさい。仁様が困っているではないの。」「ですが・・」「わかりました、お引き受け致しましょう。」この依頼を引き受けるしか、仁にとって残された道はなかった。「それでは、早速姫様にお会いしたいのですが・・」「ええ。こちらですわ。」 菫の君付の女房に案内され、彼女の部屋へと向かった仁は、御簾の外から不穏な何者かの空気を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。「どうかなさいましたか?」「いえ・・」「姫様、土御門仁様が来られましたよ。」「・・入って。」「失礼致します、菫の君様。」 仁が御簾の奥に潜む姫君へと向かって深々と頭を下げると、部屋の中へと入った。すると、魚の内臓が腐ったような臭いが部屋中に満ちていることに彼は気づいた。「姫様、顔をお見せください。」「嫌よ、今のわたくしの顔を誰にも見られたくないのよ!」「そう言わずに、お顔を・・」「嫌だと言ってるの!」激しく仁と揉み合った所為で、菫の君が羽織っていた袿(うちぎ)の袖が仁の目に当たってしまった。「ごめんなさい・・大丈夫?」「いいえ。」痛みに顔をしかめながら仁が菫の君を見ると、彼女の顔の右半分が、魚の鱗のようなものに覆われていた。「見ないで・・見ないで!」「姫様、どうか落ち着いてください。」「どうして、どうしてわたくしだけがこんな目に遭うの!?一体わたくしが何をしたというのよぉ!」そう叫んだ菫の君は、嗚咽して顔を両手で覆い隠した。「わたくしが必ず、姫様の病を治してさしあげます。ですから、わたくしに時間を下さい。」 仁は菫の君が罹っている病の原因を突き止めようと、病で亡くなった姫君達の家を訪れた。「わたくしに話とは何かな?」「実は申し上げにくいことなのですが・・姫君様のご遺体をわたくしに調べさせては頂けないでしょうか?」「その必要が何処にあるというのだ?」「実は・・雲居の御息所(みやすんどころ)様の姫君様も、同じ病に罹られているのです。その姫君様の顔は、魚の鱗のようなものに覆われておりました。」「我が娘が同じ病に罹ったのなら、その鱗とやらが顔に残っていると?」「はい。その確認の為に是非ともお力をお貸しいただきたく思います。」仁はそう言うと、深々と貴族に向かって頭を下げた。「娘の遺体を調べることは許したが、わたしはまだそなたを完全に信用はしておらん。」「わかりました。では一旦、外へと出て頂けないでしょうか?」仁の言葉に貴族は少しムッとした表情を浮かべたものの、大人しく娘の部屋から出ていった。 彼はそっと御帳台の中に入り祭文を唱えると、姫君に向かって一礼した。彼女の顔には、菫の君のように魚の鱗のようなものがない。だが、彼女の両手の爪が割れている事に仁は気づいた。「大臣(おとど)、ここ数日の間、姫君に何者かが訪れたことはございませんでしたか?」「ああ、そういえば播磨(はりま)からやって来たという女人が、恋を叶えるという貝殻を姫に売っていたな。」「それを、見せていただけませんか?」「これじゃ。」貴族はそう言うと、金箔に塗られた貝殻を仁に手渡した。一見何の変哲もない貝殻のように見えたが、今回の病にはこの貝殻が絡んでいるのではないかと、仁はにらんだ。「暫くこれを預かっても構いませんか?」「どうせもう使わぬ物ゆえ、好きに持っていくといい。」そう言った貴族の顔には、仁への嫌悪感が滲み出ていた。「では、これで失礼致します。」貴族の邸を辞した仁は、寄り道もせずに帰宅するなり、自室で貝殻を調べた。「あら、これは確か・・」「涼香、これを知っているの?」「ええ。近頃、宮中の女房達の間で恋の運気が上がると話題になっているものですわ。本邸の女房達も、こぞってこれを買い求めておりました。」「そうか・・実はね、病で死んだ姫君の一人がこの貝殻を持っていたんだよ。もしかすると、病の原因はこの貝殻にあるんじゃないかと・・」「貝殻に呪詛が掛けられていると?」「そうかもしれないね。明日、これを忠光様にお見せしようと思うんだ。わたし一人の手では負えないかもしれないから・・」「その方が宜しいですわ、仁様。それに、鎌倉のお父上様にも文を出された方が宜しいのでは?」「まずは明日、忠光様に貝殻をお見せしてから、父上に文を出そうと思う。明日はやることが沢山あるから、もう寝るよ。」「お休みなさいませ。」「お休み。」 仁は烏帽子を脱いで結っていた髪を下ろすと、夜着に着替えて御帳台の中へと入ってすぐに眠った。 その頃、宇治のとある貴族の別邸で、一人の女が護摩壇の前で何かを唱えていた。炎に照らされた白皙の美貌は、かつて宮中で権勢を誇っていた頃から全く衰えていなかった。それどころか、日に日にその美貌が輝いているように見えた。「お方様、お薬をお持ちいたしました。」「ありがとう。」女房が差し出した薬湯を雲居の御息所は受け取ると、一気にそれを飲み干した。「あの者はどう動いておる?」「それが、少々厄介なことになりました。」「厄介なことだと?」眉間に皺を寄せながら、雲居の御息所は女房を睨んだ。「実は、あの者が例の貝殻を見つけたようでございます。」「何だと?そなた、あれを全て処分せよと命じたであろう!」「申し訳ございませぬ、御息所様!すぐさま処分しようと思いましたが、間に合わず・・」「まぁ、過ぎたことはどうでもよい。それよりも、姫には早う病を治すよう、あの者に伝えておけ。三条の姫君達は死んだが、何としても姫には生きて貰わねばならぬ・・入内を控えている身なのだからな。」「・・御意。」雲居の御息所は再び護摩壇の方へと向き直ると、中宮付の女房の名が書かれた藁人形を炎の中へと放り込んだ。「慌てふためいた中宮の顔が早う見たいものじゃ・・恐怖に戦(おのの)くあの女の顔は、さぞやみものであろうの。」 雲居の御息所はそう呟くと、口端を上げて笑った。護摩壇の炎に照らされた彼女の頭には、禍々しい二本の角が生えていた。「今度は、中宮様付の女房が二人、病で死んだらしいぞ?」「何ということだ・・御息所の姫君様の容態が芳しからない時に・・一体どういうことになっているんだ・・」雲居の御息所が今回の病の原因を作った張本人であることを知らぬ者達は、ただひたすら病に怯える日々を送っていた。そんな中、仁は忠光に例の貝殻を見せた。「これは?」「三条の姫君様が、死に間際に握り締めていたものです。何でも、宮中の女房達の間で人気があるものだとか。」「そうか・・呪い物の類は、呪詛の道具ともなりうることがあるからな。それを見せてみろ。」「はい・・」仁がそう言って貝殻を忠光に手渡そうとした時、突然貝殻が震え始めた。(何だ?)仁がじっと貝殻を見つめていると、震えだした貝殻の口から瘴気のような紫の煙が出て来た。「どうした?」「瘴気のようなものが、貝の口から・・」「それを吸いこむな!今すぐこの場から出ろ!」忠光の言葉を従い、仁はただちに部屋から出た。「一体あれは何なんだ?」「わたしにもわかりません・・しかし、あれが今回の病を引き起こした原因だとすれば・・」「三条の姫君達の他に、あの貝殻を持っている姫達の身にも同じことが起きる、ということだな?」「ええ。」仁は紫の煙がもうもうと先程まで忠光と居た部屋を包み込む様を黙って見ていた。 一方弘徽殿(こきでん)では、主である中宮が恐怖に顔を引き攣らせながら、病に倒れた女房達が次々と死んでいくさまを見ていた。「一体、何が起きているのじゃ・・」彼女は、そっと目立たない下腹部を擦った。 帝との愛の結晶が、そこに宿っていた。「中宮様が、ご懐妊だと?」「はい。」中宮付の女房・宣旨(せんじ)はそう言うと、忠光を見た。「それは、おめでとうございます。」「ですが中宮様は、今回の事で心底怯えております。女房達の災難がいつかご自分の身に降りかかるのではないのかと・・」宣旨は溜息を吐いて忠光を見ると、彼の手を握った。「どうか、中宮様をお助けくださいませ。」「わかりました。それよりも宣旨様、その手をお離しくださいませ。何処で誰が見ているのかわかりませぬゆえ。」「これは、失礼致しました!」我に返った宣旨は、握っていた手を離した。「それよりも忠光殿、貴殿の所には大変優秀な学生が居られるとか。」「土御門仁のことですか?彼は幼少の頃から父親に陰陽道とは何たるかを厳しく叩き込まれたようです。難解な講義もすぐに理解し、試験ではいつも満点を取っておりますよ。」「そうですか・・もしや、その学生の父君とは、土御門有匡殿とは?」「ええ、そうですが・・それが何か?」「いいえ、何でもありませぬ。それよりも忠光様、くれぐれも中宮様のことを頼みましたぞ。」「承(うけたまわ)りました。」 忠光が弘徽殿から辞した後、宣旨は人気のない場所へと向かうと、そこで待っていた一人の女房に文を渡した。「これを、あの方へ。」「わかりました。」「くれぐれも、人目につかぬように。」「では、わたくしはこれで失礼致します。」女房はそう言うと、サラサラと衣擦れの音を立てながらその場から去っていった。「こんな所にいたのかえ、宣旨?急に居なくなるから心配したではないか?」「申し訳ありませぬ、中宮様。外の空気が吸いたくなりまして・・」「そうか。それよりも今度(こたび)の件、忠光殿は承諾してくれたであろうな?」「はい。それよりも中宮様、そろそろ日が落ちて参りました。冷たい風はお身体に障ります故、どうかお部屋にお戻りくださいませ。」「わかった。」部屋へと戻る中宮の背中を、宣旨は何処か冷めた目で見つめていた。「中宮様、薬湯をお持ちいたしました。」「ありがとう。」中宮はそう言うと、薬湯に口をつけたものの、すぐに顔を顰(しか)めてしまった。「悪阻がお酷いのですか?」「ああ。この前まで食べられた物が、急に食べられなくなった。だがこの子が生まれるまでの辛抱じゃ。」「そうでございますとも。さぁ、もう一口お飲みくだされ。」「わかった・・」(その薬湯を早く飲み干してくださいませ、中宮様。あの方の為にも・・) 雲居の御息所邸では、菫の君が病から快復し、それを祝う為の宴が開かれていた。「姫や、よう生きてくれた。」「お母様が加持祈祷をしてくださったお蔭ですわ。」「礼を言うのではわたくしではない、あの陰陽師に申すがよい。」「陰陽師とは・・わたくしの所に来て下さった、あの方?」「そうじゃ。あの者のお蔭で、そなたはもうすぐ入内できるのだから。」笑顔でそう言う雲居の御息所とは対照的に、菫の君の顔は暗く沈んでいた。「なぁ、聞いたか?」「中宮様がご懐妊されたとか・・」「この時期に・・」 陰陽寮に出仕した仁は、学生(がくしょう)達の噂話から中宮がご懐妊されたことを知った。「仁、ちょっと来てくれないか?」「はい・・」忠光とともに講堂を後にする仁をチラチラと見ながら、学生達は何やらひそひそと囁きを交わしていた。「どうしたんだ?」「最近あいつ、陰陽頭様に呼び出されているなと思って。やっぱり、父親が高名な陰陽師だと、待遇も違うのかな?」「そんなことはないだろう。俺だって、父親は帝の護持僧だが、一度も特別扱いなどされたことはない。」真雅(みつまさ)が不機嫌な顔をしながらそう言うと、学生達は一斉にバツの悪そうな顔をしてそそくさとその場から去っていった。(全く、下らない・・)何かにつけて権力者の機嫌を取ろうとする学生達の態度に、真雅は心底うんざりしていた。彼らは互いに切磋琢磨(せっさたくま)しようともせず、他人の粗探しをしては足の引っ張り合いをしている。陰陽師にとって一番大切なものは、優秀な能力を持っていることと、そして名家の出身であること。優秀な能力があり、尚且つ名家出身である真雅と仁の存在は、実力も家柄も劣っている他の学生達にとっては脅威そのものであった。 陰陽寮に入寮して以来、真雅は一度も他の学生達と腹を割って話したことなどなかった。一方仁はというと、初めは他の学生達とぎこちない様子だったものの、次第に打ち解けてきているようで、数人の学生達に囲まれて談笑する姿を何度か目にすることがあった。自分にはあって、彼にはないものは何なのだろう―真雅がそう思いながら簀子縁(すのこのえん)を歩いていると、突如後宮の方―正確に言えば弘徽殿の方から悲鳴が聞こえた。「忠光様、弘徽殿の方から悲鳴が・・」「まさか、中宮様の身に何か・・仁、真雅、ついて来い!」「はい!」 忠光とともに仁と真雅が弘徽殿へと向かうと、そこには大量の血を吐きながら床に倒れ伏している女房の姿があった。「一体何があったのですか?」「ちゅ、中宮様の為に作られた薬湯を毒味した者が、急に苦しまれて・・」中宮付の女房が泣きながら忠光にそう訴えると、彼は宣旨が混乱に乗じて弘徽殿から出て行くところを見た。「暫し、お待ちくださいませ。」慌てて忠光は宣旨の後を追ったが、彼女はまるで煙のように姿を消してしまった。「クソッ、逃がしたか・・」「宣旨よ、あの忌々しい陰陽頭には捕まらなかったか?」「はい、御息所様。それよりも、例の薬湯は毎日中宮様に飲ませております。」「そうか。このまま順調に計画を進めれば、わたくしたちの復讐は完了する。くれぐれも気を引き締めるように。」「御意。」(ふふ、面白くなってきたわ・・あとはあの目障りな陰陽師どもを片付けるだけね。) 蝋燭(ろうそく)な仄かな明りに照らされた美しい貴婦人の横顔は、禍々しく見えた。「中宮様、薬湯をお飲み下さいませ。」「あんなことがあったというのに、飲めるものか!」 毒味役の女房が死んだ日の夜、宣旨(せんじ)が平然とした様子で自分に薬湯を差し出すのを見た中宮は、そう叫ぶと宣旨の手から薬湯を払いのけた。「この薬湯には、毒など入っておりませぬ。」「じゃが・・」「あの者はたまたま運が悪かったのでございます。いずれ国母となられる中宮様に毒を盛るような者が、この後宮に居(お)りましょうか?」「そ、それは・・」「ご安心なされませ、中宮様。わたくしがあなた様と腹の御子を我が命を掛けてお守り致します。」「宣旨・・」もしや自分に毒を盛り、殺そうとしたのは宣旨ではないかと一瞬彼女を疑った中宮は、己の猜疑心を恥じた。「そなたさえいれば、妾も腹の子も無事じゃ。」「そうでございますとも、中宮様。さぁ、薬湯をお飲み下さいませ、腹の御子の為にも。」「わかった。」宣旨に騙されているとは知らずに、中宮は安堵の表情を浮かべながら薬湯を飲み干した。「あの女房の死因がわかったぞ。」「死因が?」「ああ、あの女房が死ぬ直前に毒味した薬湯だが・・あれにはトリカブトの毒が入っていた。」「トリカブトの毒が・・やはり、あの薬湯に何者かが毒を入れたと考えて宜しいのですね?」「ああ。中宮様付の女房の誰かが、薬湯に毒を盛っていたと考えていい。しかし、その犯人を突き止めるのは少々時間がかかるな。」 忠光の部屋で、弘徽殿での事件の詳細を聞いた仁は、彼の言葉を受けて唸った。「事件が起きたのは男子禁制の後宮ですからね。始終見張りを置くのは難しいでしょうし、今は皆、例の病の事で出払っておりますし・・どうすれば・・」「最も効果的な方法は、陰陽寮の誰かが後宮に潜入し、犯人を突き止める事だ。」そう言った忠光の視線は、何故か仁に注がれていた。「あの、もしかしてそれをわたしにやれと?」「お前はまだ宮中に入って日が浅いし、お前の事を知っているのは中宮様と宣旨様だけだ。それに、女装しても余り違和感がないだろう。」「そうですけれど・・」いくら事件を解決する為とはいえ、女装して後宮に潜入するのは少し気がひけた。「忠光様がおゆきになれば宜しいのでは?」「生憎だが、わたしは後宮の女人達に顔を知られてしまっているからな。」「そうですか・・このまま手をこまねいていても仕方がありませんね。」「では、やってくれるか?」「はい。必ずや犯人を突き止めて参ります。」そう言ったものの、自分にこんな大役が務まるのだろうかと、仁は不安で堪らなかった。「まぁ、後宮に潜入捜査を?」「うん、事の成り行きでわたしが行く事になった。でも、不安だなぁ・・」「そうおっしゃらずに、仁様。仁様ほどの美貌をお持ちならば、きっと帝の目にも留まりましょう。」何処か嬉しそうな口ぶりでそう言った涼香の目は、きらきらと輝いていた。「仕事だから仕方ないだろうけど・・父上にもしこの事が知れたらどうなるか・・」「お父上様もご理解して下さいますわ。」 数日後、仁は忠光とともに弘徽殿へと向かった。「そなたが、後宮に潜入するという旨は、忠光から聞いておる。」 中宮はそう言ってじろりと仁の顔をじっと見つめた。「あの、中宮様?」「そなたほどの美貌ならば、男だと露見するのは難しいだろう。そうは思わぬか、宣旨?」「ええ。近々入内される雲居の御息所様の姫君よりも、お美しい方ですしね。」「あの、菫の君様が入内なさるのですか?」自分と面識がある菫の君が入内すると聞き、仁は少しうろたえた。「ええ、何でもあの病から無事全快されたようで、雲居の御息所様が主上に文で娘が入内する旨をしたためになられたようじゃ。」「そうですか・・」「何か、引っかかることでも?」「いえ、ございません。」「そなたが男と知っているのは、妾と宣旨のみ。くれぐれも男だと露見せぬよう、気を付けよ。妾からの話は以上じゃ。」「では、失礼致します。」忠光とともに中宮に深々と頭を下げた仁は、忠光と別れて宣旨とともに支度部屋へと入った。「烏帽子を脱ぎなされ。」「ですが・・」 髪を結い、烏帽子を被ることは宮中に居る時の身だしなみとされ、髪を下ろし烏帽子を被らずに出仕すると、“はしたない”と非難されてしまうことくらい、仁は知っていた。「ここは女人達が住まう後宮ですぞ。男であるそなたが女人に化けるには、まず烏帽子を脱いで髪を下ろすことから始めるのじゃ。」「はい・・」不承ながらも仕事の為だと割り切った仁は、烏帽子を脱いで結いあげた髪を下ろした。「ほう、見事な髪をしておる。烏の濡れ羽の如き艶やかな髪じゃ。」仁の髪を櫛で丁寧に梳きながら、宣旨は彼に賛辞の言葉を送った。「ありがとうございます。」この場でどう返したらよいのかわからず、仁は素直にそう言って宣旨を見た。「まぁ、髪の美しさだけでは後宮では生き残れぬ。女人が最も必要とするのは知性じゃ。その事を肝に銘じておくがよい。」「わかりました、宣旨様。」「さてと、髪は下ろしたが、直衣姿では皆の前ではそなたを紹介出来ぬ故、それを脱いで貰おうか?」「は、はぁ・・」仁はこれも仕事の為だと割り切って羞恥に耐えて宣旨の前で直衣を脱いだ。「そなたには紅が似合う故、紅を中心に色を襲(かさね)ると良いな。」宣旨は終始上機嫌な様子で、仁が着る装束の色を次々と決めていった。仁は彼女にされるがまま、壮麗な女房装束(にょうぼうしょうぞく)を纏って中宮と彼女に仕える女房達の前に顔を見せることになった。女物の衣は動きにくい上に、袴の裾が長い為に上手く捌く事が出来ず、仁は数歩進むだけでも苦労した。「中宮様、その者が新しく入った女房ですか?」 中宮の右隣に控えていた一人の女房が、そう言ってジロリと仁を睨みつけた。「お初にお目にかかります、淡路様。相模(さがみ)と申します。」予め後宮に潜入する為に用意した名でそう仁がその女房に挨拶すると、彼女は少し面白くなさそうな様子で鼻を鳴らした。「中宮様が是非にとそなたをこの弘徽殿へと入れたが、中宮様に気に入られたからといって天狗になるでないぞ!」「はい、肝に銘じます。」こうして仁は、弘徽殿で“相模の方”として中宮に仕えることになった。今回の事件の犯人を突き止める為に女装して後宮に潜入した仁であったが、中宮付の女房・淡路の方に何故か目をつけられてしまい、彼は何かと彼女から雑用を押しつけられて調査どころではなくなっていた。(一体淡路の方は、わたしの何処が気に食わないんだろう・・)縫物をしながら、仁は溜息を吐いて淡路の方が自分に対して何故冷淡な態度を取るのかがわからずにいた。「どうしたの、何か考え事でも?」そう自分に声を掛けて来たのは、中宮の左隣に控えていた伊勢の方という女房だった。「わたくし、淡路の方に何か失礼な事でもなさったのでしょうか?何やらあの方、わたくしに対してだけ態度が違うので・・」「恐らく、あの方と仲違いされた妹御と良く似ていらっしゃるから、あなたに厳しくされるのでしょう。」「まぁ・・」そんな理不尽な理由でいじめられたら堪らないと仁は思ったが、そんな気持ちはおくびにも出さずに伊勢の方にある事を尋ねた。「伊勢の方様は、こちらに勤めて長いのでしょう?」「ええ。中宮様が入内された頃から勤めているから・・7年位になるかしら?」「まぁ、そんなに・・では、宣旨様のことは良くご存知で?」「あの方は確か、わたくしの後に弘徽殿に入って来たのよ。何でも、訳有りだとかで・・」「訳有りですって?」宣旨が何故弘徽殿に入ったのかを伊勢の方に聞こうとした仁だったが、間が悪いところに淡路の方が部屋に入って来た。「ちゃんと仕事はやっているようね?」「はい、淡路の方様。」「まぁ、新入りにしてはなかなかの出来だこと。」仁が縫いあげた物をひとつずつ手に取りながら、淡路の方はそう言って彼を睨んだ。「今宵、中宮様が管弦の宴を開かれます。腕に覚えのある者は来なさい。」「はい、承知致しました。」「わたくしが居ないからといって、怠けるのではありませんよ!」淡路の方は去り際にジロリと再度仁を睨み付け、衣擦れの音ともに部屋から出て行った。「不機嫌な様子ですね・・何かあったのでしょうか?」「気にすることはないわ。それよりも、もう仕事は終わったのでしょう?」「ええ。」「では急いで中宮様の元に行かなくては。淡路の方様から聞いたでしょう?」「ですがわたしは、宴に出るつもりはございません。」「あらあなた、そんな事をしてはますます淡路の方様からにらまれてしまうわよ?」 何だか訳が判らずに仁が伊勢の方とともに中宮の元へと向かうと、そこには数人の女房達が彼女の前に集まっていた。「あら、相模の方様も宴にお出になられるの?」「ええ・・淡路の方様が是非にと推してくださったので。」横目で憤怒の表情を浮かべる淡路の方をチラリと見つつも、仁は同僚の女房にそう言って笑った。「何をお弾きになるの?今回の宴では琵琶や和琴(わごん)、箏、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)の奏者がそれぞれ選ばれるのよ。」「わたくし、余りわからなくて・・」仁は父・有匡の影響で幼い頃から和琴を嗜(たしな)んでいたので、和琴を弾くつもりでいたのだが、淡路の方が何を弾くのかがわからないので、同僚には曖昧な返事をしておいた。「まぁ、そうなの。淡路の方は箏を弾かれるのだそうよ。」「そう、じゃぁあの方に被らないようにしなければね。」淡路の方が弾く楽器が和琴ではないと知り、仁はほっと胸を撫で下ろした。 雅やかな楽の音が弘徽殿(こきでん)に響き渡った。仁が和琴を弾いていると、一人の女童が彼の元へとやって来た。「相模(さがみ)の方様、淡路の方様がお呼びです。」「わかりました、すぐ参りますとあの方にお伝えして。」「かしこまりました。」一体淡路の方が自分に何の用だろうと思いながら、仁は彼女の元へと向かった。 その途中、簀子縁(すのこのえん)を挟んだ向かいの部屋から誰かが言い争うような声が聞こえた。「わたくしは、嫌だと申し上げた筈でしょう!」「何故わたしの言う事を聞いてくれぬのだ!」どうやら、恋人同士の別れ話が縺(もつ)れているらしく、御簾の奥から啜り泣く女と、それを怒鳴りつける男の声が聞こえた。だが仁は、淡路の方の機嫌を損ねてはいけないと思い、そそくさとその場から離れた。「淡路の方様、わたくしに何かご用でしょうか?」「あなた、和琴をお弾きになられるんですってね?」「はい・・それが何か?」「随分と中宮様に目をかけられているようだけれど、何か中宮様に心付けでも差し上げたのかしら?」「いいえ、そんなことはしておりません。」「ふぅん、怪しいものだわ。まぁ、いずれあなたの化けの皮を剥がして差し上げますから、そのおつもりで居てくださいな。」何か含みを持たせたような口調でそう言うと、淡路の方は勝手に仁を呼びつけておいてさっさと奥の方へと引っ込んでいった。(何だよ、あの態度・・あの女、絶対に周りから嫌われてるよな!)淡路の方に呼びつけられ、貴重な練習時間が減ってしまったことに苛立ちながら仁が自室へと戻ると、和琴の前には見慣れぬ男が座っていた。「もし、わたくしに何かご用でしょうか?」仁がそう言って男に声を掛けたが、彼は振り向きもせずに和琴を奏でている。「わたくしに何かご用でいらっしゃらないのなら・・」「あるに決まっているだろう、馬鹿。」男は突然和琴を奏でるのを止め、ゆっくりと仁の方へと振り向いた。 男―眉間に皺を寄せながら、大陰陽師・土御門有匡は仁を睨みつけた。「ち、父上・・これはですね、深い事情がありまして・・」「全く陰陽頭め、人の息子をこき使いおって。まぁ、奴にパシリにされていることにも気づかぬお前もお前だが。」「あの、父上は何故京に?鎌倉にいらしていたのではないのですか?」「涼香からお前の事を聞いてな、丁度休暇を取りたかったし、会いに来たまでのことだ。」(嘘だ。)父は有能である故に多忙で、何日も職場に泊まり込んで家に戻らない日があり、それが土御門家では当たり前であった。それなのに、ただ息子に会いに来たという理由だけで休暇を取るだろうか。「あの父上、ひとつお聞きしても・・」「おやまぁ、珍しい。誰かと思うたら有匡殿ではないか?」 御簾の向こうから声がしたかと思うと、賀茂忠光が有匡に微笑みながら部屋に入って来た。「わざわざ息子の顔を見に休暇を取られたとか?」「違う。お前が息子をこき使うのを黙って見ていられなくなっただけだ。」「それは心外だな、有匡殿。君のご子息は大変優秀だよ。何せ、今回の病の原因が宮中で流行っている貝殻にあると指摘したからねぇ。」「貝殻?」有匡がそう言って忠光を睨むと、彼は笑みを崩さずに次の言葉を継いだ。「都では最近、原因不明の病で貴族の姫君達が数人亡くなってね。それと、中宮様付の女房も数人死んだ。被害者たちの共通点は、最近恋愛の運気があるという貝殻を死に間際に握り締めていたこと。」「本当なのか、仁?その貝殻が、今回の事件の原因だと?」「はい、父上。例の貝殻を三条家から預かっておりましたが、急に貝殻から紫の煙が・・」「紫の煙か・・忠光様、その貝殻は今どちらに?」「わたしの部屋に保管してあるよ。」「そうですか。では、今から案内して頂けないでしょうか?」「え・・わたしは仁を訪ねてここに来たんだが・・」「息子はまだ勤務中ですよ?」そう言って有匡は忠光に向かってニッコリと笑ったが、目は全く笑っていなかった。「そうだな。仁、くれぐれも油断するなよ?」「はい、忠光様・・」「では、参りましょうか?」有匡は忠光の腕を掴むと、半ば彼を引き摺るようなかたちで部屋から出て行った。「あなた、土御門有匡様と親しいの?」彼らと入れ違いに部屋へと入って来た女房が、そう言って仁に詰め寄って来た。「はい・・彼は遠縁の伯父でして。」「まぁ、有匡様とご親戚だなんて羨ましいわ。」女房は嬉しそうに目を細めると、仁の手を握った。「ねぇ、お願いがあるのだけれど、いいかしら?」「お願い、でございますか?」「そうよ、あなたにしか頼めないことなの。」その夜、仁は溜息を吐きながら淡路の方の元へと向かった。中宮主催の管弦の宴に出る奏者を、宣旨と中宮が選出することになり、仁達は急遽淡路の方の部屋に呼ばれたのだった。「中宮様はまだおいでにはならないのですか?」「ええ。それよりもあなた、和琴が弾けるそうね?」「はい・・」「言っておくけれど、和琴は信濃の方が上手いのよ。」淡路の方は余程仁の事が気に食わないのか、自分が懇意にしている女房の名を出してわざと彼のやる気を削ぐような発言をした。「そうでございましたか。それでは、負けるわけには参りませんね。」「ま・・」まさか仁が反論するとは思わなかったのか、彼の言葉を聞いた淡路の方は怒りで顔を赤く染めた。彼女が仁に言い返そうとした時に中宮が宣旨とともに部屋に現れたので、彼女は悔しさの余り唇を噛み締めた後、仁を睨みつけてそっぽを向いた。「さぁ、皆集まったところだから始めようか。」「はい、中宮様。」琵琶、箏、龍笛、笙(しょう)の奏者たちが一人ずつその腕前を中宮に披露した。そして最後に和琴の奏者たちが呼ばれ、仁は信濃の方に負けてなるものかと、日頃の特訓の成果を見せた。「和琴の奏者二人は、甲乙つけがたい腕前だった。だが、その中で一人選ぶとすれば、妾は相模の方を選びたいと思う。」淡路の方が憎悪の視線を自分に送っているのを感じた仁だったが、彼はそれを無視して中宮に深々と頭を下げた。「有り難き幸せにございます、中宮様。」「皆、主上の前で素晴らしい演奏を見せるがよい。妾も楽しみにしておるぞ。」中宮はそう言うと、宣旨と共に部屋から出て行った。「この痴れ者が!お前があんな新入りに負けてどうするのです!」「申し訳ございません、淡路の方様・・」 管弦の宴で仁に負けた信濃の方に待っていたものは、淡路の方からの激しい打擲(ちょうちゃく)と罵倒だった。「そなたほどの腕の者が、何故負けたのじゃ!」「わたくしが至らなかった所為でございます。なにとぞ・・なにとぞお許しくださいませ!」信濃の方は怒り狂う淡路の方の前に、ただ彼女に対して許しを乞うしかなかった。「許さぬ、許さぬぞ・・わたくしを差し置いて主上の寵愛を受けようなどと・・」そう呟いた淡路の方の目は、禍々しい光を放っていた。「それで、お話とは何ですか?」 一方、陰陽寮では忠光はそう言うと有匡を見た。「貝殻を、見せてはいただけませんか?」「申し訳ありませんが、それは出来ません。実はあの貝殻には、禍々しい瘴気を放っているのです。」「そうですか。では、見ない訳にはいきませんね。」有匡はそう言うと、忠光を睨んだ。彼が簡単に諦めないとわかった忠光は、渋々と貝殻がしまってある箱を有匡の前に差し出した。「どうぞ、お調べください。」「ありがとうございます。」有匡は祭文を唱えると、貝殻を手に取った。すると彼の脳裏に、恋に破れた一人の女が己の血で貝殻に何かを書いている姿が浮かんだ。“憎い、憎い・・”ヒシヒシと、女の恨みつらみが伝わって来た。「何か、わかりましたか?」「ええ。この貝殻は恋に破れた女の怨念が宿っております。何故、このような禍々しい呪物が宮中に出回ったのですか?」「それが、わたしにもわからぬのです。亡くなられた三条家の姫君の元に、播磨から来たという女人がその貝殻を姫に手渡したそうです。」「その女人が、今回の事件と関係しているのかもしれませんな。」「何としてでも、その女人を捕えねば・・」 有匡と忠光の会話を、一羽の烏(からす)が木に止まって聞いていた。 やがて烏は翼を羽ばたかせると、主の元へと帰っていった。「お帰り。」女はそう言って烏の頭をそっと撫でると、烏は嬉しそうにカァッと鳴いた。「そうか、その様子だと良い事があったようだな?」女はまるで烏の言葉を解しているようで、笑顔を浮かべながら烏にそう聞いた。すると烏はまた鳴いた。「・・あの男が、京に?」先程まで笑みを浮かべていた女の顔が、突如歪んだ。烏は不安げに首を傾けると、女の肩に止まった。「大丈夫だ。そなたを驚かせてしまったな。」女はそう言うと、烏の頭を撫でた。「さぁ、腹が減っただろう。中へと入ろう。」衣擦れの音を立てながら、女は烏とともに部屋の中へと入った。「姫様・・」「その呼び方は止めよ。」年老いた女房は女の言葉を聞いて項垂れた。女はかつて、後宮で華やかな生活を送っていた。帝にも目を掛けられ、彼の妃となった。だが女は、それを快く思わぬ恋敵に嵌められ、親子ともども都から追い出されて、このような辺鄙(へんぴ)なところに邸を構えて暮らしている。どのくらい、長い歳月が経ったのだろうか。その間に父は無念を抱えながら亡くなり、自分もこのような場所で生を終えるしかない。昔は自分に仕えていた女房達も、一人、また一人と自分の元へと去ってゆき、今は乳母だけが残ってかいがいしく仕えてくれている。こんな筈ではなかったのに。こんな、惨めな生活を送る為に自分は生まれてきたのか。何も自分は悪くはないというのに、何故自分だけがこんな目に?(全ては、あの女の所為だ・・)女の脳裏に、自分を陥れた恋敵の顔が浮かんだ。今自分の暮らしぶりを彼女が見たら、狂喜乱舞することだろう。だが、このまま終われるものか。あの女を地獄へと道連れにするまで、復讐は止(や)めない。「笑っていられるのは今の内だ。」女は虚空に向かってそう言うと、血走った眼で闇を見つめた。 一方、弘徽殿(こきでん)では、中宮主催の管弦の宴に向けての準備が慌ただしく行われていた。「相模様。」「おはようございます。」先輩女房に声を掛けられた仁は、そう彼女に挨拶すると深々と頭を下げた。「ねぇ、有匡様には例のことをお願いして下さったの?」「それが、まだなのよ。」「もう、早くしてくださらないと困るわね!」彼女は少し苛立った様子で仁にそう言うと、彼に背を向けて何処かへと行ってしまった。 先日、仁は彼女に、“有匡様と自分との仲を取り持って欲しい”と頼まれたのだった。それを口実に、有匡に会わせて欲しいと言われ、仁は彼女にどう言うべきかどうか迷っていた。有匡が妻帯者であることを伏せている所為か、よく女達からの文を貰う事があった。眉目秀麗で、大陰陽師である有匡に恋焦がれる女人は多いだろう。自分に仲を取り持つよう仁に頼んだ女房も、その一人かもしれない。「相模様、まだこんな所に居たの?宴の準備を早めに行わないと・・」「今、参ります!」我に返った仁は、そそくさと伊勢の方とともに中宮の部屋へと向かった。「中宮様、遅くなってしまいまして申し訳ございません。」「よい。宴の時間にはまだ早い。」そう言った中宮は、少し疲れた様子で仁と伊勢の方を見た。「お顔の色が優れませぬが・・」「いつものことだ、案ずるな。」「ですが・・」「暫く奥で休んでくる。その間、準備を頼むぞ。」「かしこまりました、中宮様。」 この時、仁は中宮の様子が少しおかしかったことに全く気づかなかった。 最近、妙に身体が重く感じて、中宮は動くのも億劫(おっくう)で仕方がなかった。「中宮様、薬湯でございます。」「ありがとう・・」宣旨から渡された薬湯を飲み干すと、中宮はその身体を横たえた。「余り無理はなさらぬ方が宜しいですよ?特にこの時期は。」「わかっておる。」少しずつ瞼が重くなり、中宮はいつの間にか眠ってしまった。「さてと、これで大丈夫ね・・」誰にも聞こえぬような低い声で宣旨はそう呟くと、薬湯が入っていた器を片付けた。 宴の時刻となっても、主催者である中宮が全くその姿を見せない事に不審を抱いた伊勢の方が中宮の部屋へと向かうと、そこは不気味なほどに静まり返っていた。「中宮様、主上がもうすぐお渡りになられます。」彼女がそう言いながら中宮の姿を探すと、彼女は寝所で倒れていた。「中宮様、どうされたのですか!?」伊勢の方が蒼褪めている中宮の身体を揺さ振ると、彼女は自分の手に生温いものに触れた気がした。慌てて自分の手を見ると、赤くねばついた血がついていた。彼女は思わず悲鳴を上げた。「今のは・・」「中宮様の寝所からだわ!」伊勢の方の悲鳴を聞きつけた女房達が中宮の寝所へと向かうと、そこには恐怖で震える伊勢の方と、蒼褪めたまま動かない中宮の姿があった。「一体何が起きたのだ!?」「わたくしが中宮様のお部屋に入った時に、中宮様は既にこのようなお姿でたおられておりました。」恐怖で震えながらも、伊勢の方は宣旨に対して自分が駆けつけた時の状況を説明した。「薬師を呼べ、宴は中止せよ!」「はい!」 中宮が倒れたことで、後宮はもとより宮中全体が騒然となった。「おい、中宮様が倒れられたとは本当なのか?」「ああ・・」「腹の御子は、大丈夫なのか?」殿上人達は中宮とその腹の子の身を案じていた。「残念ながら、御子は流れてしまいました。」「そうか・・」薬師からの報告を聞いた帝は、彼に下がるよう命じた。中宮との間に今まで子が出来ず、今回の妊娠を彼女と喜んだのはほんの数ヶ月前のことだったというのに、何故このような事になってしまったのだろうか。「中宮はどうしておる?」「それが・・まだ意識が戻られておりません。」「何と・・」何処まで不幸は続くのだろうか―帝は溜息を吐きながら扇を握り締めた。「そうか、中宮の御子が流れたか・・」「はい、御息所様。薬湯に鬼灯(ほおずき)の根を粉末にして混ぜておいてよかったですわ。」「あの女も、御子の元にいってくれれば尚良いのだがな。」自分の企てが着実に進んでいることに満足した雲居の御息所はそう言うと高笑いした。(これで、わたくしの復讐はもうすぐ完了する!)やっとあの女に復讐できるのかと思うと、彼女は嬉しくて仕方がなかった。 中宮が流産し、未だ生死の境を彷徨っている事実に弘徽殿(こきでん)は大騒ぎとなった。「中宮様はこのまま亡くなられてしまわれるなんてこと、ないわよねぇ?」「馬鹿な事を言うんじゃないわよ!」「そうよ、縁起でもない!」主なき弘徽殿では、中宮の容態について様々な憶測が飛び交っていた。それほどまでに、女房達は中宮の容態を案じていたのであった。だが中宮の身に降りかかった不幸を喜んでいる者達が居た。「中宮はまだ目覚めぬとな?」「はい。」「でかかしたぞ、宣旨。これで我が家も安泰じゃ。」「有難うございます、御息所様。」(漸く我が家に春がめぐってくるとはのう・・)「お母様・・」「どうしたのじゃ、姫?」「中宮様のご容態が芳しからない中で、どうして笑っていられるの?」「何を言う。姫よ、今までわたくし達があの女からどのような仕打ちを受けたか忘れたのか?」「忘れる筈がございません、お母様。」「その恨みを晴らす時が来ているのじゃ。姫よ、中宮亡き後はこの家を頼みましたぞ。」「はい、お母様・・」そう言った菫の君の顔は、暗く沈んでいた。 数日後、彼女は豪華な調度品と衣装を持ち入内した。「これまた、豪華な衣だこと・・」「雲居の御息所様の姫君様が入内されるなど・・少し不謹慎ではないか?」「中宮様があのような時に限って・・」菫の君が入内する様子を見ていた市井の人々はそう言いながら眉をひそめていたが、雲居の御息所は彼らの声など完全に無視していた。寧ろ、娘の入内を豪勢にして何が悪いと開き直っていたのだった。「菫の君様がご入内されたそうよ。」「まぁ、この時期に?」「まるで嫌がらせのようではなくて?」「完全に嫌がらせよ。御息所様は中宮様に深い恨みを抱いておられたようだから。」弘徽殿の女房達は菫の君の入内について様々な事を言い合いながら仕事をしていた。「相模様、あの・・」「伊勢様、中宮様のご容態に変化はございましたか?」また例の女房が笑顔で仁に近寄って来たので、彼は咄嗟に伊勢の方の方へと向かった。「中宮様のご容態は未だに芳しくないわ。やはり、あの貝殻の所為かしら?」「あの貝殻と申しますと、巷で流行っているというあの貝殻のことでございますか?」「ええ。これから、弘徽殿はどうなってしまうのでしょう?」「それは、天に任せるしかありませんわ。」仁は伊勢の方に、そんな慰めの言葉しか掛けられなかった。その夜、中宮の容態が急変し、彼女は一度も意識が戻らぬまま亡くなった。「中宮様、何故このような事に・・」 宣旨は主の死に悲しみに暮れる振りをしながら、内心ほくそ笑んでいた。(これで邪魔者は居なくなった。) 中宮の死は、敵側の人間を大いに歓喜させ、中宮を慕う者たちを大いに悲しませた。帝は、中宮の死を嘆き悲しみ、彼女の喪が明けるまで妃を迎えないことを決めた。「余が妃と思うたのは中宮ただ一人。」この帝の言葉は、雲居の御息所を大いにやきもきさせた。「主上は妃を迎えぬと、そうおっしゃられたのか?」「はい、御息所様。」「何のために娘を入内させたと思うておるのじゃ!あの女に勝てたと思うておったのに、とんだ計算違いだったわ!」雲居の御息所は怒りの余り、近くにあった脇息を床に叩きつけた。「ええい、あの女め、死した後も妾の邪魔をするつもりか・・」「御息所様、どうお気を鎮めてくださいませ・・」「まだ、終わりではない・・」「そうですわ。」宣旨は怒り狂う主を前にして、そう言うしかほかになかった。「雲居の御息所が、動き出したようですね。」「ああ。中宮様の件で、密かにあの方が動いていたとはな。」 陰陽寮では、忠光と有匡が向かい合って座りながらそんなことを話していた。例の貝殻で二人が探りを入れてみたところ、中宮に貝殻を贈った者が雲居の御息所であることを突き止めた。そして彼女がかつて、中宮と帝の寵愛を巡って醜い争いを繰り広げていたことも。「雲居の御息所は、今回の事件に深く絡んでいると言ってもよいですね。彼女は中宮様を深く恨んでいる。」「ああ。もう彼女は鬼と化しているかもしれません。」「人は負の感情を抱き続けると鬼となる・・雲居の御息所の場合は、中宮様に対する強い憎悪、嫉妬、恨みの念を抱いていた。ですがわたしは、彼女の他にも動いている者が居るとにらんでおります。」「他の者、とは?」「以前仁が三条家に訪れた“播磨から来た女人”のことが、どうもひっかかっておりましてね。もしやその女人と雲居の御息所が手を組んでいるのではないのかと・・」「それも考えられますね。今は慎重に動くべきです。」「そうですね。」有匡はそう言うと、仁は今弘徽殿でどうしているのだろうかと彼の身を案じた。「相模様、どうしてわたくしを避けるんですの?」「あら、わたくしそのようなことなさったかしら?」簀子縁(すのこのえん)を歩いていると、仁は例の女房に出くわしてしまった。「有匡様にはいつ・・」「申し訳ないけれど、有匡様には北の方様がおられるのですよ?」「まぁ、北の方様が?それは本当なの?」「ええ・・あくまでも噂ですけれど、有匡様は大層北の方様を愛されておいでだとか。」少し脚色しつつも、仁は彼女に有匡が妻帯者であることをにおわせた。まぁ、あながち嘘ではないが。「そう・・わたくし、急用を思い出したのでこれで失礼するわ。」仁の話を聞き終えた女房は、落胆した様子でその場から去っていった。これで彼女に付纏われずに済む―そう思いながら仁が安堵のため息を吐いていると、誰かに肩を叩かれた。「あなた、あの時の・・」「菫の君様・・」仁が振り向くと、そこには雲居の御息所の娘・菫の君が蒼褪めた顔をして立っていた。「どうしてあなたが、男子禁制の後宮に居るの?」「それは、申し上げられません。では、これで失礼致します。」 背後で菫の君に声を掛けられたが、仁はそれを無視して伊勢の方の元へと向かった。「伊勢の方様、今宜しいでしょうか?」 仁が御簾の前で伊勢の方にそう声を掛けたが、中から返事がなかった。どうしたのだろうかと彼が訝しがりながら御簾をそっと捲ると、部屋の奥で彼女が直衣姿の男と口論している姿が見えた。「ですから、わたくしはもうあなた様の事を・・」「何故、わかってくれぬのだ!」そう怒鳴った男の声に、仁は何処かで聞いた覚えがあった。あれは確か、淡路の方の元へと向かう途中で聞いたものと同じ男の声だ。「伊勢の方様?」仁がもう一度伊勢の方に声を掛けると、奥から衣擦れの音が聞こえたかと思うと、男が御簾を乱暴に捲って部屋から出て来た。 咄嗟に仁は扇で顔を隠したが、男はジロリと彼を睨み付け、その場から去っていった。「伊勢の方様、今の方は・・」「お願い、この事は何も言わないで。」そう言った彼女の顔は、何かに怯えているようだった。「ええ、何も言いませんわ。」「あの方は、以前お付き合いしていらした方なのよ。けれど、もうわたくしはあの人と終わりにしたいのよ。」聞いてもいないのに、伊勢の方は仁に自分の恋愛事情を語り始めた。「あの方とは幼馴染でね、いずれは親同士が結婚させるつもりでいたのだけれど・・あの方には想い人がいらっしゃったのよ。」「想い人、でございますか?」「ええ。その想い人というのは、雲居の御息所(みやすんどころ)様なのよ。」「まぁ・・」「あの方には勝てやしないわ、悔しいけれど。」伊勢の方は、心底悔しそうに唇を噛み締めると俯いた。 一方、播磨の朽ち果てた邸に住んでいる女は、烏と年老いた乳母を引き連れて上洛した。「姫様、一体どちらへ向かわれるのですか?」「雲居の御息所様の元じゃ。」「まぁ・・かつての東宮妃様の元へ?」「心配するでない、御息所様はわたくしを歓迎して下さる。」 雲居の御息所邸についた女達は、邸の主に歓迎された。「長旅のところ、お疲れでございましょう。さぁ、たんと召し上がってくださいませ。」「ありがとうございます。」女は微笑みながら、雲居の御息所が注いだ酒を猪口に受け、それを一気に飲み干した。「そなたのお蔭で、わたくしの積年の恨みが晴らせた。礼を言うぞ。」「礼なぞ要りませぬ。わたくしはただ、当然のことをしたまでです。」「中宮が死に、我が姫が帝の目に留まれば、没落寸前の我が家もかつての光を取り戻すことじゃろう。その為には、そなたの力が必要なのじゃ。」「わかっておりますとも、御息所様。」「これからも、宜しく頼むぞ。」 雲居の御息所と女は、固く手を握り合った。「御息所様、よろしいのですか、あのような者を信用して?」「よいに決まっておる。あの女のお蔭で、中宮は死んだ。このまま計画を中止する事はならんぞ。」「はい・・」「後は、姫がどのようにして帝の心を捉えるかじゃ・・」 母の期待を受けながら入内した菫の君は、弘徽殿で孤立していた。 中宮を殺害したのは雲居の御息所ではないのかという噂が囁かれるようになったのは、帝が中宮の死後初めて弘徽殿に渡った時からであった。 その日、中宮主催で開かれる筈だった管弦の宴を、菫の君が開くこととなった。 仁達は素晴らしい演奏を帝の前で披露し、彼を感動させた。「まるで天女達が舞い降りて余の心を慰めたかのような美しき音色であった。」「そうでございましょう、主上。これらの者達は、わたくしが選んだ優秀な者たちばかりですから。」奏者達を選出したのは中宮であるというのに、さも自分が選んだというような口ぶりで帝に話している菫の君に対し、その場に居た者達が不快さから眉を顰めた。「何なのです、あの方は?」「まるで、ご自分の手柄のように振る舞っておいでではありませんか?」「あの御息所の姫君様ですもの、狡猾なところは母親に似ておりますわねぇ・・」宴の件で、菫の君はすっかり女房達に嫌われてしまった。宮中で行われる行事の準備で菫の君が声を掛けても、その場に居た女房達は無視して別の仕事をしていたり、雑談をしていたりしていた。特に、中宮に対して親身に仕えていた淡路の方は、新しく主となろうとする菫の君の事を認めようともせず、同僚達と結託して菫の君を弘徽殿から追い出そうとしていた。 日に日に孤立を深めてゆく菫の君は、部屋に引きこもりがちとなり、ブツブツと独りごとを言うようになっていった。「相模様、あなたあの方とお知り合いなの?」「菫の君様とですか?いいえ、あの方とは初めてお会いしたばかりですわ。」以前菫の君とは御息所邸で会っていたのだが、それをわざわざ伊勢の方に知らせるつもりはないだろうと思い、仁は咄嗟に嘘を吐いた。「あの方、いつまで弘徽殿にいらっしゃるおつもりなのかしら?ご自分が嫌われていることに気づいていらっしゃらないようだけど。」 普段穏やかで他人を悪く言わない伊勢の方の口からそんな辛辣な言葉が出て来るとは思わなかった仁は、思わず彼女の顔を見てしまった。「なぁに、どうしたの?」「いいえ。それよりも、最近陰陽寮から連絡はございましたか?」「ええ。忠光様の使いの方から、文を預かっているわ。」「ありがとうございます。」伊勢の方から文を受け取った仁は、彼女の部屋から辞して人気のない場所へと向かい、忠光からの文を読んだ。 そこには、今回の事件に雲居の御息所が絡んでいること、その背後には貝殻を貴族の姫君達に渡した“播磨から来た女人”が居ることなどが書かれていた。(事件の黒幕は、雲居の御息所様ではない?)「相模様、こちらにいらしたのね?随分探したのよ?」「あ、淡路の方様・・」仁は淡路の方に見つからぬよう、さっと忠光の文を衣の下に押し込んだ。「わたくしに何かご用でしょうか?」「ええ、実はね、あなたにお会いしたいという方がわたくしの部屋で待っているのよ、一緒に来てくださらないこと?」「わかりました・・」わざわざ自分に会いたいというのは、どんな人物だろう―そう思いながら仁は淡路の方の部屋に入ったのだが、そこには誰も居ない。「淡路の方様、これは・・」「まさか、こんな簡単な手に引っ掛かるとはね。あの陰陽師の息子だと聞いていて恐れていたけれど・・随分と間抜けだこと。」そう言った淡路の方の声は、何処かしゃがれていた。「そやつが、あの陰陽師の子か?」「はい、御息所様。」淡路の方は女に恭しくそう言って彼女に頭を下げると、仁を女の前に突き出した。 その女は、雲居の御息所だった。だが仁が以前会った雲居の御息所とひとつ違うところは、彼女の額から二本の角が突き出ているところだった。「あなたは・・」「御息所様は鬼となって、あの忌々しい中宮を腹の子もろとも始末した。あとは、中宮に与(くみ)する者を殺すだけです。」淡々とした口調でそう言った淡路の方の横顔が、酷く冷たく見えた。「そうか。では、貴様には死んで貰わねばならぬな。」「お待ちください、御息所様は一体何を考えておいでなのですか!?中宮様亡き今、あなたの望みはもう叶えられた筈でしょう!」仁がそう御息所に問い詰めると、彼女はジロリと仁を睨みつけた。「そなたは何もわかっておらぬ。わたくしがあの女からどのような仕打ちを受けたのか・・死してなお、帝の心を引き留めるあの女が許せぬ!」御息所が叫んだ瞬間、周囲の空気が激しく振動したのを感じた。結界を張っていなければ、衝撃波に身を引き裂かれそうだった。「そなたなどにわたくしの邪魔はさせぬ。死ね!」御息所はすっと仁に向かって手を伸ばすと、その首を片手で絞めあげた。酸素を求めて喘いだ仁は、御息所の手を振り払おうとしたが、鋭い爪で手を引っ掻かれて痛みに呻いた。「おのれ、小癪(こしゃく)な!」「やめろ!」その時、誰かが雲居の御息所を仁から引き離した。「そなた・・」「わたしの息子に手を出そうとするとは、恐れ知らずの鬼女だな。」有匡はジロリと御息所を睨み付けると、彼女に向かって祭文を唱えた。「やめろ・・」目に見えない何かに縛りつけられ、御息所は苦しげに呻いてもがいた。「何故邪魔をする、土御門有匡!わたくし達は今まで苦労したと思っておる!」「黙れ、鬼を相手にする時間など無駄だ!」淡路の方の言葉を一蹴した有匡は、護符を放った。「ぎゃぁぁ~!」護符を額に喰らった淡路の方は、全身を炎で焼かれ、苦しみながら死んだ。「おのれ、よくも淡路を!」本性を露わにした雲居の御息所は、牙を剥いて有匡に襲い掛かった。だが、その牙が有匡に届く前に、彼が放った式神がその身を引き裂いた。「おのれぇ・・」有匡を憎々しげに睨みつけながら、雲居の御息所は灰と化して消えていった。「父上・・」「これで終わったな、何もかも・・」「はい・・」有匡と仁がその部屋から出て行こうとした時、一振りの太刀が有匡の肩先を掠めた。「父上、大丈夫ですか!」「まだ終わらぬ・・終わってはおらぬぞ!」半狂乱になった宣旨は、太刀を振り回しながら有匡達の方へと突進してきた。「父上に手を出すな!」仁はそう叫ぶと、宣旨に向かって祭文を唱えた。すると彼女は、炎に巻かれて息絶えた。「良くやったな。」「連れて参りましたぞ、例の者を。」 淡路の方が部屋の奥へと向かってそう呼びかけた時、黒い影がゆらりと蠢(うごめ)いたかと思うと、一人の女が仁の前に姿を現した。 宮中での中宮呪殺事件から数日後、有匡と仁は京の土御門家を後にして鎌倉へと戻った。「ただいま。」「お帰りなさい、仁。長旅ご苦労様。」「ありがとうございます、姉上。」仁はそう言うと、数ヶ月振りに会った姉に対して頭を下げた。「聞いたわよ、あなた、今回の事件を見事解決したんですって?」「そんな・・大したことないよ。」「まぁ、そんなに謙遜することじゃないでしょう?あなたもこれで立派な陰陽師ね。」「もう、姉上ったら。」雛と仁が談笑している姿を、有匡は横目でチラリと見ながら笑った。「先生、あの子達はあっという間に大きくなりましたね。」「ああ。仁はわたしのお蔭で逞しくなったようだな。」「まぁ、先生のスパルタ教育の賜物でしょうね、今回の事件を仁が解決したのは。女装して後宮に潜入するなんて思ってもみませんでしたけど。」「わたしの助けが要らなくなる時期も近い、ということだな。」「そうですね。けれど、これからどうするんですか?」「どうするって?」「陰陽寮の忠光様から先程文が来ましたけど、忠光様は仁の事を大変気に入っておられるようですよ?」「・・見せてみろ。」火月から文を渡された有匡がそれに目を通すと、そこには仁の事を高く評価しているという旨が書かれていた。「あいつがもし陰陽寮に居たいというならば、反対する理由があるまい。」「随分と甘くなりましたね、先生。昔は外に出ようとした仁をこっぴどく叱りつけていたのに。」「あいつだってもう小さな子どもじゃないんだ。本人の好きにさせた方がいい。」 その夜、有匡は仁に忠光からの文を見せた。「忠光様が、こんな文を・・」「どうする?お前が陰陽寮に居たいというのならば、わたしは止めぬ。好きにしろ。」「この話、喜んで引き受けようと思います。」「そうか。また、寂しくなるな。」有匡はそう言うとフッと笑った。 数ヶ月後、仁は再び上洛する事となった。「向こうで頑張ってきなさいね、仁。」「はい、姉上、母上。」「お父様ならまた何処かに行ってしまったわ。全く、困ったものだわ。」雛がそう言って嘆息すると、仁はクスクスと笑った。「それじゃぁ、行って参ります!」「体調を崩さないでね!」「必ず手紙を頂戴ね!」牛車が見えなくなるまで、雛と火月は仁に手を振った。「これからまた、忙しくなりますわね。」「ああ。」「忠光様のご期待に応えなければなりませんね、仁様?」「そんなにプレッシャーかけないでよ、涼香。」仁が困惑したような表情を浮かべながら涼香を見ると、彼女はクスクスと笑った。~完~にほんブログ村
2024.03.06
画像は、てんぱる様からお借りしました。「火宵の月」の二次創作小説です。作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。色々と捏造設定ありです、苦手な方はご注意ください。「そなたが、土御門有匡か。」仕事を終わらせ、後宮にいる火月の元を訪ねようとした有匡は、雄仁の部下に呼ばれ、彼の部屋を訪れた。「はい、雄仁様。」「面を上げよ。」有匡が顔を上げると、そこには凛々しくも雅な雰囲気を纏った青年の姿があった。「女と見紛うごとき美貌じゃ。執権がお前を離さぬのは解る気がするのう。」「戯言をおっしゃいますな。それで、ご用件は?」「用は、東宮を失脚させてはくれぬか?」「東宮様を・・ですか?」「そうじゃ。生母の身分が高い故、あやつは無能な癖に東宮の地位を与えられておる。乳兄弟の光成が居らねば着替えも満足に出来ぬ奴が東宮など、笑止!」雄仁はそう言うと、扇子を閉じた。「恐れながら雄仁様、わたくしは東宮様たっての願いによりこの宮中に戻りました次第でございます。」「ふん、そなたは奴の味方をするのか。まぁよいであろう。いずれは痛い目を見るであろうの。もうよい、下がれ。」「は・・」雄仁の元から下がった有匡は、溜息を吐いた。どうやら自分が思っていた以上に、宮中では東宮派と雄仁派と二つの派閥に別れて、生き馬の目を抜く闘争が繰り広げられているようだ。政の世界でも凄まじいのだから、後宮ではさぞや弘徽殿女御が幅を利かせているのだろう。そう思うと有匡は火月の事が心配になり、後宮へと向かう足が自然と急ぎ足になった。「火月様、東宮様から文が。」「東宮様から?」火月が自室で子ども達と寛いでいると、東宮付の女房がそう言って文箱を火月に差しだした。東宮からの文は、昨夜の無礼を詫びる旨とともに、今宵の宴に来て欲しいと書かれてあった。「東宮様からの文には、何て?」「宴に来て欲しいって。どうお返事すればいいのかなぁ?」「今朝あんな事があったからねぇ、遠慮しないと。」「そうそう、弘徽殿女御様に目をつけられたら困るし。」種香と小里はそう言ったが、東宮の事が気に掛かり、火月は彼の宴に出席する事にした。「なに、東宮様が宴を?」「はい。如何なさいますか、女御様?」「決まっておる。妾も宴を開く。まぁ今はどちらの宴に出るか、宮中の者は皆決めておろうな。」「そうでしょうとも。」弘徽殿女御は、意地の悪い笑みを口元に浮かべた。「ねぇ、東宮様の宴に出ちゃって大丈夫なの、火月ちゃん?これで弘徽殿女御様に目の敵にでもされたら・・」「大丈夫だって、少し顔を出すだけだから。でも一人だと心配だから、お姉さんたちにもついて来て欲しいんだけど。」「ま、北の方様のお願いとあっては断れないわね。」火月は種香と小里とともに東宮殿へと向かうと、途中で雄仁に会った。「これは、雄仁様・・」火月はさっと扇子で顔を隠したが、雄仁はジロリと彼女を見た。「そなたが、土御門有匡の妻か?」「はい、火月と申します。」「そうか。東宮の宴に出るとは、物好きな女子よの。せいぜい木偶の坊に媚でも売るがよい。」高笑いしながら去っていく雄仁を、種香達はあきれ顔で見送った。「態度でかいわねぇ、あのガキ。」「どうせ親の七光りでしょ。」「あんなの気にしなくてもいいわよ。」「そうだね・・」火月が東宮殿で催される宴に出席すると、そこには誰も居なかった。「火月よ、来てくれたのか。」「他の方々はどちらに?」「皆義母上の宴に出ておる。木偶の坊の我よりも、義母上の宴の方が面白うて良いのだろう。」そう言った東宮の顔は、今にも泣きだしそうだった。「そんな事はございませんよ、東宮様。」「火月よ、そなたも我の我が儘に振り回されてうんざりしておるのだろう?どうせ我は誰からも見捨てられた存在なのじゃ。」東宮は盃に酒をなみなみと注ぎ、それを一気に飲み干した。「まぁ東宮様、そんなに飲まれてはお体に障ります。」「良いのだ、我が死んでも誰も悲しむ者など居らぬ。」「いい加減になされませ、東宮様!」不意に下座に控えていた光成が突然階を駆け上がると、東宮の頬を打った。「わたしが居るではありませぬか!何故そのような悲しいことをおっしゃられるのです!」「光成・・」「死ぬなどと・・死ぬなどともう二度とおっしゃらないでください!」「済まぬ、そなたの気持ちも考えずに。」光成はそっと東宮の手を握った。「光成、そなたは我の側に居てくれるか?」「ええ、居りますとも。」光成と東宮の姿を、火月は笑顔で見ていた。「では東宮様、僭越ながらわたくしが和琴を披露致しましょう。」火月はそう言うと、和琴を弾き始めた。「いやいや、盛況ですなぁ。」「まぁ、今を時めく弘徽殿女御様の御子・雄仁様が開く宴とあっては、断る者など誰も居りますまい。」「さぁ、どうでしょう。この華やかな場に、あの陰陽師の姿がないですよ。」公達達は、そう囁き合いながら扇子の陰で笑った。「あの陰陽師の姿が見えぬな?」「申し訳ございませぬ女御様、あの者は突然急用が出来たとかで・・」「ふん、生意気な男よ。あくまで東宮側に与するか。頭の切れる男と思うておったが、妾の見当違いだったようじゃ。」弘徽殿女御はそう言うと、篝火に誘われて自分の元へとやって来た蛾を指で潰した。「あの者・・光成と申したか?東宮の味方はあの者だけじゃ。」「はい女御様、光成は東宮様と乳兄弟ゆえ、東宮様に対する献身ぶりは・・」「あの者、妾の側に引き込まねばのう。」「女御様?」弘徽殿女御の女房・茜が主を見ると、彼女は口端を歪めて笑った。「東宮を・・あの忌々しい木偶の坊を宮中から追い出すには、奴を孤立無援にすることじゃ。」(一体何をお考えなのかしら?良からぬ事が起きなければよいけれど・・)火月が爪弾く和琴の音色に誘われ、有匡が東宮殿へと向かうと、そこには笑顔を浮かべている東宮の姿があった。「あ、先生。」「昔と比べて随分上手くなったものだな。」「酷い。昔の音色の事は忘れてください!」「済まなかった。それよりも、東宮様の笑顔は初めて見たな。」有匡はそう言って、夫婦のように仲良く寄り添う東宮と光成の姿を見た。「光成様がいらっしゃるから、東宮様は安心されているのでしょう。東宮様にとって、彼はなくてはならぬ方なのでしょうね。」「そうだな。人は独りでは生きてゆけぬ。わたしはお前と出逢う前、独りで生きてゆけると思っていたが、それは間違いだったようだ。」有匡はそっと火月を抱き締めると、彼女の唇を塞いだ。「お前と会えて良かった。」「僕もですよ、先生。」月明かりの下、二組の恋人達は穏やかな時間を過ごしていた。 1334年初夏。火月は元気な男児を無事出産した。「良く頑張ったな、ありがとう。」産室に入って来た有匡は、そう言うと妻の腕に抱かれている赤子を見つめた。「無事に産まれてくれて良かったです。雛と仁も兄弟が増えて嬉しいって。」「これで鎌倉に帰れたら、もっと良いのだが。」有匡の言葉に、火月は顔を曇らせた。東宮によって宮中での暮らしが始まって半年が過ぎたが、鎌倉に戻る目処はついていない。「父上!」仁が産室に入ってくるなり、有匡に抱きついた。「どうした、仁。今まで何処に行ってたんだ?」「東宮様の所へ行ってました。東宮様は歌や笛を教えてくださいました。」「そうか。」半年前、塞ぎこんでいた東宮は、今や仁に笛や歌を教えるようになった。東宮は仁の事を実の弟のように可愛がり、仁もまた東宮を兄のように慕っていた。「途中、雄仁様にお会いいたしました。お母君の威光を笠に着て、相変わらずの威張りようでした。」「こら仁、そんな事を言うな。」有匡はそう言うと、仁の頭を小突いた。陰謀渦巻く宮中に於いて、軽はずみな発言は命取りだ。「申し訳ありません。ですが父上、宮中は堅苦しくて息が詰まります。」「もうしばらくの辛抱だ。」有匡は仁の頭を撫でながら、弘徽殿女御がどんな手を打ってくるのかを考えていた。「先程廊下で会うた子ども、仁といったか。聡い瞳をしておったな。」雄仁(ひろひと)はそう言って気だるそうに脇息に凭れかかった。「有匡の長男、仁の事でございますか。あの少年、父親に似て洞察力が鋭いところがございます。流石元陰陽頭(おんみょうのかみ)を祖父に持つと・・」「今、何と申した?」「いえ、ただの戯言です。どうぞ捨て置いてくださりませ。」「申してみよ。そなたの胸に留めておくには勿体ない。」雄仁はそう言うと、臣下の公達を見た。突然雄仁から宴に招かれ、有匡は嫌な予感しかしなかったが、誘いを断ることもできずに宴に出ると、集まっていた公達達が一斉に彼を見た。「有匡よ、来てくれて嬉しいぞ。」「雄仁様、本日はお招きいただきありがとうございます。」有匡がそう言って雄仁に頭を下げると、彼はにやりと笑った。「此度の若君の誕生、祝いを申すぞ。そなたの息子であるから、さぞや聡い子に育つであろうな。」「ありがたきお言葉にございます。」「そなたの父君・有仁(ありひと)も、聡い息子を持って誇りに思うておったことだろうな。」雄仁の口から有匡の父・有仁の名が出た途端、場の空気が瞬時に凍りついた。「何でも陰陽頭を務めておった、大変優秀な男だとか。そなたの優秀(きれもの)ぶりはきっと父親似であるのだろうな。」有匡は頭を下げたまま、唇をぎりりと噛み締めた。宴に自分を呼んだのは、公然の場で自分を辱める為だ。自分にとって一番突かれたくない弱点を突いてまで、雄仁は己が優位である事を示したいのだ。そんな幼稚な嫌がらせに付き合っていられるほど、暇ではない。「お言葉ですが雄仁様、あなた様の良く回る舌とその傲岸不遜な態度、まさに母君様譲りであらせられまするな。」有匡の言葉を受け、雄仁の顔がみるみる怒りで赤くなった。「腹違いといえども兄である東宮様を蔑ろにし、このような場で一介の陰陽師であるわたくしを辱めるとは、それはどなた様の入れ知恵でございますか?あぁ、そのような所は母親似なのでしょうな。」有匡がそう言葉を切ると、膳が派手にひっくり返る音がした。「そなた、黙って聞いておればぬけぬけと!」漸く有匡が顔を上げると、雄仁(ひろひと)は怒りで身体を震わせ、拳を握りしめていた。「何をおっしゃいますか、わたくしはあなた様におっしゃられた事を言い返したまでのこと。ではこれで失礼を。」有匡はそう言って雄仁に背を向けて歩き出すと、背後から彼の怒鳴り声と皿が割れる派手な音が聞こえた。「雄仁様、気をお鎮めくださいませ!」「あの陰陽師の戯言など、聞き流せばよいのです!」重臣たちが宥めても、雄仁の怒りはなかなか収まらなかった。「おのれ有匡、許さぬ!」雄仁は怒りで顔を歪ませ、有匡への憎しみを募らせた。雄仁が開く宴の席で有匡が暴言を吐いたことは、瞬く間に宮中に広がった。「これからどうなることやら、あの雄仁様を怒らせるとは。」「全く・・」「家族ともども追放されかねませんわね。」女達はひそひそと囁きを交わしながら、ちらちらと火月を見た。「気にすることないわよ、火月ちゃん。あのクソガキが殿を挑発したんだから、やり返されて当然よ。」「そうそう。弘徽殿女御様譲りだものねぇ、あの性格は。」種香と小里がそう言いながら針仕事をしていると、仁が部屋に入って来た。「母上~!」「どうしたの、仁?」仁の目の上には、引っ掻き傷があった。「雄仁様が、僕のことを櫛で引っ掻いた!」「まぁ、何ですって?」「あのガキ、殿では飽き足らず、仁ちゃんまで!ちょっとあたし抗議に行ってくるわ!」小里がそう言って鼻息を荒くしながら部屋を出ようとしたが、火月が彼女を止めた。「僕が雄仁様にお会いするよ。仁も連れてね。」「大丈夫なの、火月ちゃん?殿は今播磨へ出張中なのに、もし何かあったら・・」「大丈夫。」火月はそう言って仁の手をひき、雄仁の元へと向かった。「雄仁様は体調がすぐれず、誰にもお会いしとうないと申しておる。」火月が息子を連れて雄仁の寝所へと向かうと、雄仁付の女房がそう居丈高な口調で彼女達を追い払おうとした。「息子の顔を櫛で引っ掻いておいて、体調が優れぬとは・・雄仁様はひきょう者でございますね。」「何だと?そなた今何と申した!」「自分よりも弱い者を虐げる癖に、自分が何か言われると逃げるのですか、雄仁様は?そのような臆病者に、帝など務まりますものか。」火月がそう言葉を切ると、女房は憤怒の表情を浮かべて腕を振り上げた。「やめよ。」御簾が乱暴に上げられ、雄仁が彼女の手を掴んだ。「ですが雄仁様・・」「俺は臆病者ではない。そなたも有匡と同じように母の威光を笠に着ていると思っているようだが、俺はそんなことは微塵も思うてはおらぬ。」「そうですか?では何故息子に手を上げたのです?」火月の真紅の双眸が、怒りで滾った。たとえどんな理由が彼にあるとしても、息子に手を上げたことは許されないし、一生許さない。「それは、そやつが俺を馬鹿にしたからだ。」「馬鹿にしてはおりませぬ。ただ真実を申し上げたまでです。」雄仁の言葉を聞いた仁はそう反論し、彼を睨んだ。「真実?俺の悪口を言った癖に、それが真実だと申すのか?」雄仁の眦が上がり、美しい彼の顔が怒りで険しくなった。「一体何を言ったの、仁?わたしにも話してごらん。」火月はそう言って腰を屈めて息子を見ると、彼は次の言葉を継ぐために口を開いた。「雄仁様が、東宮様を馬鹿にしたのです。」仁の話によると、彼がいつものように東宮から和歌を習っていると、偶然そこへ雄仁が通りかかったという。「木偶の坊でも歌を詠めるとは、意外だな。」腹違いの兄に対して雄仁(ひろひと)はそう言って鼻で笑うと、数人の取り巻き達は東宮をせせら笑った。実の兄同様に慕っている東宮を馬鹿にされ、仁は思わず今まで溜まっていた鬱憤を雄仁に対して爆発させてしまった。「あなたのような方が、品性下劣で強欲な卑しい生まれの母君様に似ておいでだとは、良く解りました。あなたが帝になられたら、この国は崩壊いたしますな!」母親と自分を愚弄され、雄仁は怒りの余りそばにあった柘植の櫛を掴み、それで仁の顔を引っ掻いた。「確かに、息子はあなた様に礼を欠いてしまわれたことは謝りましょう。ですが、無抵抗の息子の顔を傷つけるなど、許されぬ事はありません!」火月がそう叫んで雄仁を睨み付けると、一歩彼の前に進み出て彼の頬を平手で打った。「何をする、貴様!」「これで済んで良かったとお思いになされませ!夫にはこの事をご報告いたしますゆえ!」そこから火月はどうやって自分の部屋に戻ったのか、覚えていない。それほどまでに、怒りで全身の血液が沸騰しそうだったのだ。「母上、僕は大丈夫ですから。」柘植の櫛を握り締めている母が今何を思っているのかを察した仁がそう声を掛けると、彼女は仁を抱き締めた。「仁、痛かったでしょう?良く我慢したね。」「嫌な相手には涙は見せませぬ。怒りも致しませぬ。そうすると相手の思う壺ですから。」恐らく有匡から言い聞かせられたのだろうか、仁はそう言った後涙で瞳を潤ませた。「父上には仁がとてもいい事をしたと伝えておくから、もう休みなさい。」「はい、おやすみなさいませ、母上。」仁が寝所へと下がった後、火月は種香達に昼間の事を報告した。「んまぁ、そんな事で仁ちゃんを殴ったの?ったく、精神年齢が低いわね!」「火月ちゃんは悪くないわよ。全くあのクソガキ、一度締めてやろうかしら!」二人が怒り心頭でそう話していると、有匡が帰ってくる気配がした。「殿、お帰りなさいませ。」「どうした、何かあったのか?」播磨からの出張から有匡が帰ると、種香達が火月と雄仁との事を報告してきた。「火月は今どうしている?」「火月ちゃんなら部屋で休んでますわ。あのクソガキ、一体誰に似たのやら!」「仁様、クソガキに暴力を振るわれても泣かなかったそうですわ。殿に似て強い子ですわね。」「そうか・・」式神からの報告を受けた後、有匡は仁の部屋へと向かった。御帳台の中で眠る彼の目には、涙が滲んでいた。そしてその目の近くには、櫛で引っ掻かれた赤い痕がまだ残っていた。痛くて堪らなかっただろうに、泣くのを我慢した息子が有匡は愛おしかった。彼がそっと仁の髪を梳くと、彼は低い声で唸って目を開けた。「起こしたな。」「父上、お帰りなさいませ。父上にご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」「謝るな。わたしはお前を誇りに思うぞ、仁。」「ありがとうございます。」「このままだと痕が残るから、わたしが治してやる。」有匡はそう言うと、呪を唱えて仁の傷口に手を翳した。「これで良くなった。さぁ、お休み。」「お休みなさい、父上。」仁が隣ですやすやと寝息を立て始めているのを眺めながら、弘徽殿女御と雄仁親子との全面対決は避けられないと思った。翌朝、東宮の乳兄弟・光成は突然弘徽殿女御に呼ばれて後宮へと向かうと、そこには雄仁が居た。「お話とは何でござりましょうか、女御様?」「そなた、妾の側につかぬか?」女御の言葉を受け、光成は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。「女御様、今なんと仰せに・・」「東宮を切り、妾と手を組めと申しておる。光成よ、やがてはこの雄仁(ひろひと)が日の本を統べる帝となろう。その日まで、そなたの力を貸して欲しいということじゃ。」「ですが、女御様、わたくしは・・」「何故お前はそうも東宮様に義理だてする?」弘徽殿女御はそう言うと、御簾を上げて光成の前に腰を下ろした。「乳兄弟として、わたくしは東宮様をお守りするお役目がございます。東宮様の味方は、わたくししかおりませぬ。」「素晴らしい兄弟愛じゃ。だがこの世で情だけでは渡ってはいけぬ。確かそなたには、姉が藤壺女御に仕えておろう?」「左様でございますが・・何故そのような事を?」光成の姉・雪子が仕える藤壺女御は、弘徽殿女御と後宮内の権力を二分していた。藤壺女御には現在息子が二人おり、二人とも雄仁に負けず劣らず優秀な皇子達である。「妾を邪魔立てする者は生かしてはおけぬ。光成よ、これを姉の元へ届けて参れ。」弘徽殿女御がそう言ってすっと光成の手に握らせたのは、薬だった。「これは?」「毎日、これを皇子達に飲ませるようそなたの姉に伝えよ。」「では、わたくしはこれで失礼致しまする。」「必ず伝えるのじゃぞ。」弘徽殿女御は去って行く光成に対して念を押すと、雄仁の方へと向き直った。「あ、光成様!」廊下の向こうから溌剌とした声が聞こえたかと思うと、有匡の長男・仁が光成に駆け寄ってきた。「おはようございます。何か弘徽殿女御様から東宮様の悪口を言われましたか?」「そなたは弘徽殿女御様の事がお嫌いか?」「嫌いでございます。父上や母上も、今回の事でお二人を嫌うております。」そう言った仁は、まっすぐな瞳で光成を見た。「光成様、もしや弘徽殿女御様に東宮様を切れと仰せになられたのでございますか?」いくら平然を装っていても、仁には光成の変化が判ったらしい。「ああ。だがわたしがお仕えするは東宮様のみ。」「それを聞いて安心いたしました。光成様、それは?」光成が弘徽殿女御から渡された薬を見た仁は、何か嫌な予感がした。「東宮様のお身体が優れぬゆえ、特別に薬師に作らせた薬だそうだ。」「光成様、その薬、僕に渡してくださいませぬか?何だか嫌な予感がするのです。」「仁、それをどうするつもりだ?」「父上にお見せいたします。まだ子どもです故、薬の事は判りませぬので。」「そうか。有匡殿に宜しく伝えよ。」光成はそう言うと、仁に薬を渡した。「ではこれにて失礼致します。」仁は光成に頭を下げると、父の職場である陰陽寮へと向かった。陰陽寮では、有匡がいつものように仕事をしていると、梨壷女御付の童がやって来て、彼に文を渡した。「これは?」「女御様に頼まれましてございます。すぐに梨壷へおいでなされませ。」「解った。」梨壷女御は後宮の権力争いとは無縁の筈だ。その彼女が何故、陰陽師である自分を呼んだのかー有匡はそう思いながら、梨壷へと向かった。「お呼びでございますか、女御様?」「そなたが土御門有匡か。」御簾越しに見える梨壷女御の顔は、少し強張っていた。「最近、弘徽殿女御が良からぬ事を企んでおるらしい。」「良からぬこと、でございますか?」有匡がそう言って梨壷女御を見ると、彼女は静かに頷いた。「父上、ここに居られましたか。」梨壷女御と有匡が同時に振り向くと、そこには仁が立っていた。「仁、どうした?」「先程光成様にお会いして、この薬を弘徽殿女御様から渡されたと。」仁はそう言うと、有匡に薬を渡した。「それは、唐渡りの毒薬じゃ。」梨壷女御が薬を見て声を上げた。「左様でございますか、女御様?だとすれば、何故このような物騒なものを弘徽殿女御様がお持ちに?」「決まっておろう。自分にとって目障りな藤壺女御とその皇子達を殺す為だ。」「何と・・」強欲な弘徽殿女御がいかにも考えそうな事だが、何の罪もない幼子にまで手を掛けようとするとは。我が子を帝位に就かせる為に、どこまで彼女は己の手を穢せば気が済むのだろうか。「光成様は何と?」「弘徽殿女御様からお誘いをお受けしたそうですが、断ったそうです。父上、何だか嫌な予感が致します。」仁はそう言うと、有匡に抱きついた。「もし弘徽殿女御様のつまらぬ野望に僕達が巻き込まれでもしたら・・」「心配するな、そんな事はさせない。」彼女が何を企んでいるのかは知らないが、妻と子ども達を守らねばー有匡は我が子を抱き締めながら、新たに決意を固めた。一方、火月は三人目の子・匡仁(まさひと)に乳をやっていると、そこへ藤壺女御の一の皇子・昌成(まさなり)がやって来た。「これは一の宮様、何かご用でございますか?」火月がそう言うと、昌成は彼女の乳を吸っている匡仁をじっと見つめていた。「赤子は女の乳を飲んで大きくなるのか?」「左様でございます。昌成様も、お母君の乳をお飲みになられて成長なさったのですよ。」「わたしは乳母(めのと)の乳を飲んで育った。母上はわたしや惟人(これひと)に余り関心がないのだ。」昌成の言葉に、火月は藤壺女御が二人の息子達に関心を寄せていないことを知り、胸が痛んだ。「そんな事はございませんよ。母親なら我が子が可愛くて仕方がないものでございます。女御様は色々とお忙しいのですよ。」「そうか・・」長男・仁と数歳しか違わず、次期帝と名高い昌成であったが、9歳の少年は母親の愛情に飢えていた。「お母様!」「まぁ、雛(すう)、それはなぁに?」娘の手に握られている牡丹を見て、火月は彼女に声を掛けた。「匡仁とお母様に持って来たの。」「まぁ綺麗だこと。ありがとう。」楽しく語らう火月と雛を、昌成は羨ましそうに見ていた。「昌成様、こちらは娘の雛と申します。雛、こちらは昌成様ですよ、ご挨拶なさい。」「初めまして、雛と申します。」そう言って自分に挨拶した金髪紅眼の美しい少女に、一目で昌成は心を奪われた。「昌成、何処におる?」「母上が呼んでおるから、もう行かねば。またな、火月。」昌成が火月の部屋から出て母の元へと向かうと、そこには仏頂面の彼女が御簾の向こうに座っていた。「弘徽殿女御め、ふざけた事を。我が子を差し出せとは・・」「落ち着かれませ、女御様。あの女の戯言など真に受けてはなりませぬ。」そう言って母を宥める女御の言葉に、自分がいつの間にか権力闘争に巻き込まれていることに昌成は漸く気づいた。その夜、梨壷女御が突如目の痛みを訴え、そのまま病に倒れた。陰陽師や高僧達の加持祈祷のかいなく、病に倒れた梨壷女御は数日後に没した。宮中が梨壷女御の喪に服している頃、陰陽寮にひとつの知らせが届いた。それは、京にある廃屋で梨壷女御の名が刻まれた人形が発見されたとのものであった。「これには呪詛の痕跡がある。梨壷女御様は、何者に呪い殺されたのだ!」「何と・・」ざわめく同僚達を尻目に、有匡は淡々と仕事をしていた。この事件に弘徽殿女御が一枚かんでいると、彼は睨んでいた。「そうか、あの女が死んだか。」「はい、女御様。あとは藤壺女御様方を始末するだけでございます。」「そうじゃな・・慎重に動けよ。」「はい。」女房からの報告を受け、弘徽殿女御は檜扇の陰で笑みを浮かべていた。「これからどうなるのやら。今回の件はきっとあの女の仕業に違いないわ。」「もしかすると、今度は女御様の身が危ないかも・・」藤壺女御達に仕える女房達は、梨壷女御の一件で戦々恐々としていた。そんな緊迫した空気を感じ取ったのか、仁や雛は火月の傍から離れようとはしなかった。「母上、これからどうなるのでしょうか?」「さぁ、解らない。二人とも、余り遠くに行ってはいけませんよ。」「わかりました。」火月達は弘徽殿女御が梨壷女御呪殺に絡んでいると思いながらも日々をすごていると、季節は初夏から梅雨へと移り変わろうとしていた。湿度が高い中、連日雨が降り続け、宮中では体調不良を訴える者が相次いだ。「全く、暑いったらありゃしない。夏物の衣をはやめに用意しといて良かったわね。」「ええ。」種香達が衣替えに忙しく動いていると、外から衣擦れの音が聞こえた。「誰かしらねぇ、こんなクソ忙しい時に。」「帝のお越しです。」「えっ!」突然帝が後宮を訪れたので、女達はあたふたしながら彼を迎えた。「まぁこれは主上、お忙しいと聞きましたがどのようなご用で・・」「この局に火月という女房はおるか?」藤壺女御が帝を出迎えると、彼はそう言って藤壺女御を見た。「火月でございますか?暫くお待ちくださいませ、呼んで参ります。」藤壺女御は帝に背を向け、火月の部屋へと入って来た。「火月、帝がお呼びじゃ。」「え?」有無を言わさず藤壺女御に手を掴まれ、火月は帝の元に連れて行かれた。「お初にお目にかかれます。火月と申します。」「そなたが火月か。まこと、美しき金の髪をしておる。」帝はそう言うと、火月の金髪を一房掴んだ。「あの・・わたくしに何の用でございますか?」「梨壷女御が呪殺され、呪詛の人形が発見されたことは知っておろう?」「はい・・」「実はな、そなたが人形を埋めたところを見たと申す者がおってな。」「僕が、ですか?」火月の真紅の双眸が、驚きで大きく見開かれた。「まぁ主上、この者がそのような事をするなど思いませぬ。何かのお間違いではありませぬか!」藤壺女御はそう言うと、火月を庇った。「主上、その証人とやらは何処のどなたなのですか?即刻この場にお連れ下さいませ。」「いや・・それはその・・」彼女から詰問された途端、帝は奥歯に物が挟まったような言い方をした。「一体どなたなのです?さぁ、教えて下さりませ。」藤壺女御が問い詰めると、帝の目が泳ぎ始めた。「確たる証拠もなしにわたくしの女房をお疑いにならないでくださいませ。」「す、済まぬ・・」これ以上藤壺女御に責められたくなかったのか、帝は早々に藤壺から辞していった。「気をしっかり持て、火月。そなたが呪詛などする筈がない。」「はい、女御様。」頼もしい主を持って幸せだと、火月はこの時思った。梅雨が終わろうとしている頃、火月は体調を崩した。「大丈夫か、火月?」「大丈夫です。季節の変わり目だから風邪でもひいたんでしょう。」火月はそう言って夫を安心させようとした。「もしかしてお前、妊娠したか?」「そんな・・まだ匡仁が産まれて三ヶ月しか経っていないのに。」火月が気だるそうに御帳台から起き上がると、有匡は下腹に手をやった。そこには、生命の胎動は感じられなかった。「どうやら違ったようだ。」「何だ。早とちりし過ぎですよ、先生。」「そうだったな。火月、後で薬湯を種香に届けさせるからちゃんと飲むんだぞ?」「え~、あんな不味いの要りません!」火月が嫌そうに言うと、有匡は少しムッとした。「お前の為を思って言ってるんだ。」「解りました。飲めばいいんでしょ!」「お前なぁ~、何だその言い方は!」有匡と火月が夫婦喧嘩をしていると、几帳の陰からその様子を仁と雛が見ていた。「また始まったわね、父上と母上。」「そうですね。では姉上、僕は東宮様のところへ行って参ります。」仁はそう言うと、東宮殿へと向かった。同じ頃東宮殿では、東宮が光成が自分の下に来るのを待っていた。だが彼はいつまで経っても来る気配がなかった。(どうしたのだろう、光成は?)彼の事が心配になった光成は、彼が行きそうな所を探して回った。しかし、何処にも彼の姿はなかった。一体彼は何処に消えたのかー不安に駆られながら東宮が部屋へと戻ろうとした時、向こうの渡殿から数人の話し声が聞こえた。「今こそ、東宮様を廃嫡されるべき・・」「梨壷女御様の件も、東宮様が企んだことに違いない・・」「そうじゃ。」また誰かが自分の悪口を言っていると知り、東宮は早くその場から離れたかった。だが、公達の中に光成の姿がある事に気づいた彼は、驚きで目を見張った。「光成殿、そなたは如何致す?」「何をおっしゃっておられる。東宮様は呪詛などなさらぬ。」「そなた、弘徽殿女御に飼われておる犬の癖に、東宮様を庇うのか?」「それは誤解だ、わたしはあの女とは何も・・」光成がそう言った時、視線の端に驚愕の表情を浮かべた東宮の姿が映った。「東宮様・・」「寄るでない、裏切り者!」光成は東宮に近寄ると、彼は邪険に光成の手を払った。「そなただけは味方だと思うておったのに・・」「東宮様・・」「許さぬ、決して許さぬぞ、光成!」涙を瞳で滲ませながら、東宮は光成の頬を張った。「仁、東宮様の所へ行ったのではなかったのか?」「はい父上、ですが東宮様はお身体が優れぬと申されて・・光成様のお姿も見えませんでした。」「光成様が?」いつも陰に日向に東宮を支え、彼の傍に居る光成の姿が見えない事を知り、有匡は何かが起こると思った。彼の予感は的中し、光成の姿が宮中から消えた。「光成様が急に消えるなど・・一体何が?」「恐らく彼も弘徽殿女御様に取りいれられたのだろうよ。強欲な女ほど、恐ろしいものはない。」「全くだ。」やがて光成が消えたのは弘徽殿女御の指示であるという噂がまことしやかに流れ、自分の思惑通りに事が動いていることを知った弘徽殿女御は口元に悠然とした笑みを浮かべながら、雄仁と碁を打っていた。「次の手はどう打たれるのですか、母上?」「馬鹿もの、妾がそなたに教えるものか。」「そうおっしゃると思いましたよ。これで光成が宮中から追放されれば、我らの思う壷です。」「そうじゃな。」静かな部屋に、碁の打つ音が響いた。光成が消えてからというもの、体調を崩した東宮は食事も喉を通らず、ひたすら彼の無事を祈っていた。「東宮様、お気を確かに。必ず光成様は戻って参ります。」「そうだな・・」火月の励ましも、東宮は上の空で聞いていた。「何か一曲弾きましょう。」火月がそう言って和琴を部屋に取りに行こうと戻ったところ、そこには有匡が居た。「先生、どうされたんですか?」「その様子だと、すっかり良くなったようだな。」「ええ。でも東宮様は相変わらずで・・光成様もどちらにいらしているのか解らないし。あ、東宮様をお待たせしてあるので、僕は戻らないと。」「わたしも行こう。」有匡と火月が東宮殿へと向かうと、そこから数人の女房達の悲鳴が聞こえた。「雄仁様、どうか気をお鎮めに・・」「黙れ、この場で木偶の坊を叩き斬ってくれる!」太刀を東宮に向かって振り下ろそうとした雄仁の前に、火月が立ち塞がった。「おやめ下さいませ、雄仁様!」「黙れ!」雄仁が太刀を振り下ろし、辺りに血しぶきが飛び散った。「火月、無事か!」有匡は血相を変えて火月の元へと駆け寄ると、彼女は無事だった。雄仁の方を見ると、彼は自分の刃を受けた光成を前に呆然としていた。「光成、光成!」御簾が乱暴に捲られ、東宮が背に刃を受けたままの光成の元へと駆け寄った。「東宮様・・お許しを・・わたしは・・」「光成、しっかりしろ!」「光成、死ぬでないぞ!」東宮は光成の身体を揺さ振りながら、必死に彼に呼びかけていた。「誰か、薬師を之へ!」「はい、東宮様!」雄仁が刃傷沙汰を起こしたと知り、宮中は俄かに蜂の巣をつついたかのような騒ぎとなった。「お前は一体何てことをしてくれたのじゃ!」「申し訳ありませぬ、母上。」弘徽殿女御から叱責を受け、雄仁は項垂れた。「これで光成が死んでみよ、今まで築き上げてきた妾の地位が、そなたの所為で水泡に帰すのじゃぞ!」「母上、わたしは・・」「もうよい、下がれ!」弘徽殿女御はそう言って雄仁を自分の部屋から追い払った。「あら、あれは・・」「雄仁様ではないの。」「何でも東宮様の従者を手にかけようとなさったとか。」「恐ろしいこと。」廊下を歩いていると、御簾の向こうから女達が囁き合う声が聞こえた。かつて「光る君」と呼ばれ、讃えられていた雄仁は、「異母兄を手に掛けた恐ろしい方」と呼ばれる事に成り、彼の周りからは徐々に人が離れていった。一方、雄仁の刃に倒れた光成の容態は、余り芳しくなかった。「光成、しっかりせい!まだ我を残して死ぬでない!」東宮は寝る間も惜しまず光成の看病をしていたが、やがて無理が祟り彼も倒れてしまった。「東宮様、後はわたくしどもにお任せを。」「頼むぞ、有匡。」有匡が光成の部屋に入ると、そこは血の臭いで満ちていた。彼が受けた傷は肺まで届いており、もしかしたらこのまま助からないかもしれない。「う・・」「光成殿、気がつかれたか?」「有匡・・殿?」光成は低く呻くと、そう言って有匡を見た。「わたしは、一体・・」「あなたは雄仁様の刃を受けたのですよ、憶えておられないのですか?」「そうでしたか・・」光成は苦しそうに息を吐くと、目を閉じた。「有匡殿、どうか東宮様をお守りください。」わたしの代わりに、と光成がそう言葉を継ごうとすると、有匡は光成の手を握った。「東宮様にはあなたしか居られません。」「そうですか・・では、まだ東宮様をお一人にはできませんね。」「この部屋には少し陰の気が満ちております故、浄化いたしましょう。」有匡は光成の部屋を浄化すると、少し彼の顔色が良くなったように見えた。「先生、光成様のご容態は・・」「余り良くない。雄仁様はどうしている?」「それが、何処に行ったのか解らないようで・・また子ども達に危害を加えられたらと思うと、心配で・・」「大丈夫だ、わたしがお前達を守ってやる。」有匡がそう言って火月を抱き締める姿を、雄仁は少し離れた場所から見ていた。「それにしても、雄仁様が宮中にて刃傷沙汰を起こすとは。聡いお方であったのに、残念ですな。」「左様、東宮様よりも帝の座に近い者だと思っておりましたのに・・」「いかがなさいますか、右大臣様?このままだと我らも無傷では済みませんよ。」とある貴族の邸で、三人の男達が口々にそう言いながら上座に座る男を見た。彼の名は上原金人、宮中で権勢を誇っている右大臣である。「暫く様子を見るのがよかろう。早まったことをすると災いとなる。」「そうでしょうなぁ。」「右大臣様がそうおっしゃられるのなら、我らも従いましょうぞ。」「堅いことはもう終いじゃ、宴を楽しめばよい。」金人がそう言って手拍子を打つと、数人の白拍子が部屋に入ってきた。(これから気を引き締めねばな・・雄仁様を何としても次の帝にする為ならば、手段は厭わぬ!)雄仁を時期帝にする為の策を練りながら、金人の脳裏にはあの憎たらしい陰陽師―土御門有匡の顔が浮かんだ。雄仁を帝にするためには、あの男を宮中から追い出さねばならない。宮中で刃傷沙汰を起こし、忽然と姿を消した雄仁(ひろひと)の行方を公達達はそれぞれ噂をしていたが、次期帝に近い彼が消えた今、誰が次期帝になるかということが、彼らは一番に関心を寄せていた。「雄仁様より次に優秀な者は、藤壺女御様の一の宮様であろう。」「それもそうじゃな。あの方な次の帝になっても申し分ない。」「いやいや、弟君も優秀と聞く。」有匡が陰陽寮へと向かっている時、数人の公達がひそひそと次期帝となる者について話し合っていた。主に彼らが取り上げるのは、藤壺女御の二人の皇子達で、東宮には最初から期待していないようだった。順に言えば東宮が次期帝になるのだが、帝も公達達も、彼の事を諦めている。(東宮様が何故幼子のように駄々を捏ねられたのか、解るような気がするな。)幼き頃から周囲から蔑ろにされ、愛情に飢えているからこそ、わざと駄々を捏ねて他人に関心を寄せて貰おうと思っていたのだろう。だがそれは逆効果で、周囲はますます東宮を蔑ろにするようになった。心を唯一通わせられるのは、乳兄弟である光成だけだったが、その彼も今は瀕死の重傷を負ってしまっている。(どうすればいいか・・)長年複雑に絡まり合った人間関係の糸を解すには、一日で出来ない事くらい有匡は解っているが、このままにしておくとますます悪化しそうである。彼がますます激化するであろう宮廷での権力闘争に頭を悩ませている時、右大臣から宴に招かれた。「そなたが、土御門有匡か。」今を時めく権力者とあってか、右大臣邸は陰陽道の大家である土御門邸よりも広く、宴の膳も華やかなものであった。「はい、土御門有匡でございます、右大臣様。」「そなた、あの東宮様のお側に仕えておるときく。そなたから見て、東宮様はどのようなお人じゃ?」「そうですね、東宮様は思慮深く、余り己の才能を人前でひけらかしてしたり顔をならさぬ方と存じます。」「ほう、そなたの見解では、東宮様はそのようなお方か。やれ無能だ、木偶の坊だと周囲は東宮様を蔑ろにされておられるが、違うやもしれぬな。」「は・・」一体彼は自分に何を聞き出したいのだろうかと、有匡は緊張した面持ちで右大臣を見た。「そなた、腕が良いと聞く。今後の事を占って貰えぬか?」「今ここで、でございますか?」「そうじゃ。出来ぬのか?」そう言って自分を見つめる右大臣と、周囲の視線は険しいものだった。「いいえ。右大臣様のお頼みとあらばいたしましょう。」有匡は呪を唱えると、精神を集中させた。目を閉じると、ある光景が浮かんだ。それは、東宮が帝として善政を敷く姿だった。「どうであった?帝には誰がなった?」「東宮様でございます。」有匡の言葉に、周りに居た者達がざわめき始めた。「そうか。もう下がってよいぞ。」「では失礼致します。」有匡が右大臣邸を辞すと、当の本人は数日前に邸に呼び寄せた男達の元へと向かった。「あの土御門有匡とやら、一筋縄ではいかぬ男のようじゃ。」「そうですね、余りボロを出さぬようにしなければ。」「雄仁様が見つかり次第、密かに計画を進めなければなりません。」四人は顔を見合わせると、それぞれ扇の陰で笑みを浮かべていた。雨の中宮中へと参内した有匡が東宮殿へと向かうと、そこには東宮が泣き腫らした目で彼を見た。「有匡、来てくれたか。」「東宮様、光成様は・・」「先程突然血を吐いて苦しみ出して・・薬師はあてにならぬからそなたを呼んだのだ。」東宮はそう言うと、有匡の手を握った。「有匡、我は不安で堪らぬ・・光成が、光成が!」「落ち着かれませ、東宮様。」有匡が光成の部屋に入ると、彼は蒼褪めた顔を有匡に向けた。「有匡殿、申し訳ない・・」「謝らないでください。東宮様が心配されておいでです。」「そうですか・・東宮様はいつもわたくしの傍におりましたから。東宮様のお母君が亡くなられてから、ずっと・・」光成はそう言うと、目を閉じた。脳裏に突然、東宮と出逢った日の事が浮かんだ。3歳の時に実母を亡くし、継母である弘徽殿女御に虐げられながら育った東宮は、深い孤独を抱えていた。そんな中、東宮の乳母である光成の母が、我が子同然に東宮を育てた。光成と東宮が出逢ったのは、母に連れられ初めて宮中へ上がった時だった。「光成、こちらの方が東宮様であらせられますよ。」母から紹介されたのは、艶やかな黒髪を下げ美豆良(みずら)に結った、何処か寂しそうな顔をした少年だった。「初めまして、東宮様。光成と申します。」「みつなり・・我と友達になってくれるか?」「はい、喜んで!」それから色々と悲しい事や辛い事、嬉しい事などがあったが、それを東宮と二人で乗り越えてきた。だがもうそれも、終わりなのかもしれない。「嫌じゃ、光成、我を置いて逝くな!」部屋に入って来た東宮は、涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。「申し訳ありません・・東宮様。もう、わたしは駄目です・・」「嫌じゃ!そんなの・・」「もしも生まれ変わったら・・今度はずっと、東宮様のお傍に・・」光成はそう言って東宮の頬へと手を伸ばすと、彼に微笑んだ。「やめろ、まるで別れの言葉のようではないか!」「東宮様、今までありがとうございました・・あなた様と会えて嬉しかった・・」徐々に視界が暗くなり、目の焦点が合わなくなってゆく。(駄目だ・・まだ・・)「光成、どうした、光成!?」「東宮様・・あなた様のことを・・愛して・・」やっとの思いで東宮に愛の言葉を紡ごうとした時、光成の意識はゆっくりと闇へと堕ちていった。自分の頬を擦っていた光成の手が急に動かなくなってしまったのを感じた東宮は、必死で彼の手を握った。「光成、何をしておる。起きよ。」東宮はそう言って笑うと、光成の身体を揺さ振った。だが、光成の目は二度と開く事はなかった。「嫌じゃ、光成!我を置いて逝くな!」「東宮様、落ち着かれませ!」光成の死に受け止められず、暴れ出す東宮を有匡は宥めた。「光成、光成ぃ・・」激しい雨の中、最愛の人に看取られて光成は静かに息を引き取った。「そうですか、光成様が・・」「あぁ、残念でならない。暫く東宮様をそっとしておいた方がよいだろう。」帰宅した有匡はそう妻に言うと、東宮の不安定な精神状態を心配していた。その頃現代では、高原家の者が“火月”を拉致してある場所へと集まっていた。そこは、高原家の祭壇が祀ってあるところであった。台の上には、火月が全身を荒縄で縛られていた。(一体どうなってんのよ!?)突然薬品を嗅がされて気絶し、目が覚めたら白装束の集団に囲まれ、自由を奪われていた。「これで、高原家は安泰です。」すっと祭壇の前にあの女性がやって来た。「あんた達、一体何を企んでいるの?」「企むなど、人聞きが悪い。わたくし達はあなた様の為を思って今こうして集まっているのです。」「何ですって?そんなの信じられる筈がないでしょう!」そう火月が喚くと、自分を拉致した男が火月の前に現れた。「お前は高原家の血を継ぐ唯一の娘。多喜子亡き今、お前が家の務めを果たしてもらわねば困るのだ。」「だからそれを教えろって言ってんでしょ!耳聞こえないのオッサン!」「黙れ!」苛立った男―高親は、そう叫ぶと火月の頬を打った。「これから儀式を始めるぞ。皆、持ち場につけ。」「はい、旦那様。」白装束の集団が一斉に移動し、呪を唱え始めた。火月はここから何とか逃げ出そうとしたが、荒縄が身体に食い込んで逃げられない。(ここから逃げないと・・)気持ちが焦るばかりで、動けば動くほど体力を消耗してしまう。今ここで暴れるよりも、大人しくしている振りをすれば、逃げる時の体力を保てる。そう思った火月は目を閉じた。「漸く大人しくなったか。」「ええ、旦那様。多喜子様とは大違いです。」高親の隣で、あの女性がそう言って笑った。集団が唱える呪が天井にまで響き、何かが祭壇の中から出て来るような気配を感じた。「後少しで、多喜子は甦る。」高親はそう言うと、一層声を張り上げて呪を唱えた。(多喜子って、あの船の中で殺された子?このおっさん、本気で彼女を甦らせようとしてる訳?)一体多喜子の魂を甦らせてどうするつもりなのか、火月は寝ている振りをして高親と女性の会話に耳を澄ませた。「この者は、いかがいたします?多喜子様の魂を移す器はありますが、この者の魂は・・」「捨てておけ、この娘は生まれてはならない子だったのだ。」平然とした口調で、殺人すら厭わない事を言う高親に、火月はゾッとした。「多喜子、出ておいで、またお父様と一緒に暮らそう。」祭壇の中に潜む何かに向かって、高親は先程とは打って変わって優しい声で呼びかけた。“お父・・様”祭壇の中から、少女のか細い声が聞こえた。その声の主が多喜子なのか確かめたくて、火月はそっと目を開けた。そこに立っていたのは、人間の形をしていない肉塊が立っていた。“お父様・・”自分の近くで女性が悲鳴を上げるのが判った。「来るな、化け物めぇ!」“お父様、お会いしたかった・・”生前多喜子のものであった肉塊は、ゆらりと高親に近づいたかと思うと、彼の頸動脈を噛み切った。血しぶきを上げて倒れる彼の姿を見て、集団はたちまちパニックに陥った。やがて誰かが篝火を倒し、部屋中に炎が瞬く間に広がった。炎が舐めるように床全体に広がり、パニックに陥った集団は出口へと殺到し、押し合いへしあいながら部屋から出て行った。火月は荒縄で身動きが取れず、死を覚悟した。(お母さん、お祖母ちゃん、ごめんなさい・・)彼女が涙を流した時、誰かが自分の身体を戒めている荒縄を切り裂いた。「大丈夫か?」「シキ、あんた何でここに?」「お前が突然居なくなったからここまで尾けてきた。さぁ、逃げるぞ!」彼とともに火月が出口へと向かおうとすると、あの女性が彼女の腕を掴んだ。「逃がしません!あなたはここでわたくし達と死ぬのです!」「離して!」火月は女性の手を振りほどこうとしたが、ビクともしない。シキが女性の顔面に蹴りを入れると、彼女は悲鳴を上げ火月の手を離した。「助かったわ、ありがとう。」「礼はいい。神を助けてくれた借りを返しただけだ。」「そう・・あの島の神様はどうなったの?」「俺達が神に対する感謝を忘れていることを恥じ、それを神に詫びて許しを乞うた。もうあの島は観光業から手を引くそうだ。」そう言ったシキの顔は、晴れやかなものだった。「それにしてもあの肉塊・・死んだ娘の魂だな?」「うん。船で殺されたあの女の子を生き返らせようとしたんだよ、あのおっさん。そんな事したって無駄なのに。」「そうだな。自然の摂理に反することは、やがて己の身に返ってくる。」火月とシキが長い廊下を暫く歩いていると、急に広い庭が二人の前に広がった。「どうやら、ここを抜けて外に出られるらしいな。」「そうだね。」二人が庭に足を踏み入れると、何処に隠れていたのか、黒服を着た男達が彼らに突進してきた。「その娘を渡せ!」「カゲツ、ここは俺に任せて逃げろ!」シキは背中に背負っていた槍で男達と交戦している姿を尻目に、火月は庭を抜け高原邸から脱出した。「くそ、何してる!相手は一人だぞ!」黒服の男がそう言って舌打ちすると、彼の顔面に槍の柄が食い込んだ。相手は五人だが、シキはそのうち三人を倒していた。残るはあと二人―汗で滑る手を槍の柄を握り締めたシキであったが、一瞬の油断で彼は右肩に被弾した。「くそっ・・」「今だ、殺れ!」二人の男達が一斉にシキへと襲い掛かった時、彼らの間に人影が割り込んできた。「何だ、貴様は?」「こいつも仲間だろう、殺せ!」男達が人影に向かって動こうとした時、人影が何かを彼らに向けた。「ぎゃぁぁ!」断末魔の叫び声が聞こえ、男達は血しぶきを上げて倒れた。「お前は誰だ?」「俺か?俺は雄仁(ひろひと)、帝の御子だ。」おどろに乱れた黒髪をなびかせながら、雄仁はそう言って血に濡れた太刀をシキの前に翳した。(こいつ、魔物の気配がする!)シキは痛む右肩を庇いながら、キッと雄仁を睨みつけた。一方、高原邸から逃げ出した火月は、長い坂道を下っていた。「火月ちゃん!」「叔母さん!」坂を下ると、叔母たちが火月の方へと駆け寄ってきた。「良かった、無事だったのね!」「心配掛けてごめんね、叔母さん。」「さぁ、帰りましょう。今日の夕飯はハンバーグよ。」そう言って聡子は、姪の肩に手を回し、彼女と共に車に乗り込んだ。高原邸の庭では、シキと雄仁(ひろひと)が睨み合って互いの間合いを取っていた。(こいつの全身から発せられる“気”・・魔物のものだ!)神が発していた魔物の瘴気と、雄仁が発しているものが同じだとシキは気づいた。「貴様は一体何者だ?」「煩い!」雄仁はそう叫ぶなり、シキに向かって太刀を振るった。彼の血しぶきが芝生を濡らした。「くそっ・・」右肩を負傷した今、全力を出せない。「もう終わりか?」雄仁は口端を歪めて笑うと、そう言ってシキとの間合いを詰めた。彼は雄仁の攻撃をかわしながら彼に向かっていったが、力の差は歴然としていた。シキは油断し、雄仁はそれを逃がさず、彼の手から槍を弾き飛ばした。「ここで死ね。」(くそっ、どうすれば・・)右肩の激痛に顔を顰めながら、シキは雄仁が自分に向かって剣を振りかざすのを見ていた。その時、風が唸る音が聞こえたかと思うと、雄仁の身体が大きく仰け反って芝生の上に倒れた。「一体何が・・」訳も解らず雄仁の遺体へとシキが近づくと、彼の胸には一本の矢が貫いていた。彼は誰が射ったのかと周囲を見渡したが、そこには誰も居なかった。「シキ、無事か!?」邸の中から声がしてシキが振り向くと、そこには祖父が自分の方へと駆けてくるところだった。「右肩を少しやられた。」「そうか。こいつはもう死んでいるな。わしと一緒に来い、シキ。」「あぁ、解った。」シキは雄仁の遺体をちらりと見ると、祖父と共に高原邸から去っていった。結局、雄仁は行方知れずのまま、遺体も発見されなかった。有匡は藤壺女御から鎌倉帰郷を許され、彼は妻子とともに京を後にした。「これからどうなるんでしょうか、先生?」「さぁな。雄仁様の失脚により、弘徽殿女御とその後ろ盾であった右大臣も大宰府に流罪となった。権力闘争が一段落した今、わたし達が出る幕ではなかろう。」「そうですね・・」「久しぶりに家族だんらんの休日を過ごせると思ったが、まさかこんな波乱尽くしのイベント満載とはな。おちおち休んでいられないな。」有匡はそう呟くと、溜息を吐いた。「まぁ、これから家でゆっくりできますからいいじゃないですか?」「それもそうだな。」有匡と火月は京を後にし、我が家のある鎌倉へと帰っていった。「あ~、疲れた。」「やっぱり我が家がいちばんよねぇ。」今日から戻った有匡一家は、鎌倉の自宅で旅の疲れを取っていた。「先生、ひとつお聞きしたいことがあるんですが・・」「何だ?」「僕と同じ顔をした女の子に会ったって言ってましたよね?どんな子だったんですか?」「同じ名なのは顔と名前だけだ。性格は全く違ったな。まぁ、もう二度と会うことはないだろうが。」有匡がそう言って妻に微笑むと、彼女は笑顔を彼に見せた。「もしかして、違う世界に先生と同じ顔した人が居たりして。」「まぁ、そうなったらおもしろいな。」有匡の脳裡に、もう一人の“火月”の顔が浮かんだ。彼女は無事に家族の元へと戻っただろうか。 2012年夏、鎌倉。火月は再び、鶴ヶ岡八幡宮へと来ていた。3年前、ここで憧れの陰陽師・土御門有匡と出会い、色々な冒険をした。だがそんなのはもう昔の事だ。(まさかまた、茂みの近くかどっかで倒れてたりして・・)火月はそう思いながら、きょろきょろとあたりを見渡すが、そこには誰も居なかった。あの後、彼女は叔母夫婦と正式に養子縁組をし、彼らの養女となった。今はあの家を出て東京のアパートで一人暮らしをしているが、月に数回は実家に帰っている。(明日から仕事かぁ~、嫌だなぁ・・)そう思いながら火月が溜息を吐き、石段を降りていると、途中で少年二人組とすれ違った。一人は精悍な顔つきをしたスポーツマンタイプで、もう一人は華奢な身体をした少年だった。初めて会ったというのに、火月は彼らを何処かで見たような気がした。(気の所為だな、きっと。)電車に揺られ、文庫本を火月が読んでいると、バッグの中にしまっていた携帯が鳴った。「もしもし?」『あ、火月?あのさぁ、今日は何か予定ある?』「ないけど、どうしたの?」『実はねぇ、合コンがあるんだけど、メンバーが足りないのよぉ、だから来てぇ~!』「え~、あたし今鎌倉から帰るとこ・・」『7時に赤坂のアッピアって所で待ってるから!』友人は一方的にそうしゃべると、火月の返事を待たずに通話を切り上げた。(ったくもう、勝手なんだから・・)火月は溜息を吐き、仕方なく合コンに参加する事にした。「火月、ここよ~!」友人に指定されたイタリアンレストランに着くと、彼女はそう言って火月に向かって手を振って来た。「皆さん、紹介します。あたしの友達の西田火月さんです。」「どうも宜しく・・」合コンのメンバーは、一流企業に勤めるエリート達だった。火月の他に自分を誘った友人達はそれぞれの相手と盛りあがっているが、彼女は少し居心地の悪さを感じていた。はっきり断るんだった―そう思いながら火月が適当な言い訳を考えている時、自分の前に座っている男と目が合った。「つまらないですよね?」「まぁ・・そうですけど・・」「メンバー合わせってだけで興味ないのに連れて来られるって、何だか嫌ですね。」「確かに。もうあの人達自分達の事に必死なんで、さっさと帰っちゃいます?」「そうですね。駅まで色々と話しましょうか?」火月はそう言うと、男性と共にレストランから出て行った。「自己紹介が遅れましたね。わたしは土御門義人(よしひと)と申します。」「変わった名前ですね。土御門っていうと、あの土御門有匡の・・」「ええ、直系の子孫です。残念ながら、力はありませんが。」そう言って土御門義人はクスリと笑った。その横顔が有匡に少し似ていると火月は思いながらも、彼と楽しく話しながら帰路に着いた。「ではまた。」「さようなら。」まさか有匡の子孫に会うだなんて思いもしなかったが、彼となら上手くやっていけそうだ―火月はそう思いながらホーム滑り込んだ電車に乗り込んだ。暫く電車に揺られていると、義人からメールが来た。『明日、会えますか?』彼女はそのメールに“イエス”とすぐに返事を打った。―完―にほんブログ村
画像は、てんぱる様からお借りしました。「火宵の月」の二次創作小説です。作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。色々と捏造設定ありです、苦手な方はご注意ください。「何だ、今のは!?」「一体何が起きたんだ!?」プライベートビーチ全体を突如襲った雷に、観光客達は戦々恐々としていた。「あれは・・」ジャングルの中で、シキはプライベートビーチを絶え間なく襲う雷を呆然と見ていた。「アリマサ、何とかあの方を救えないのか?」「無理だろう。もう彼は・・この島の神は魔物と化してしまっている。彼はこの島を破壊尽くすことしか考えていない。」有匡はそう言うと、海辺近くにある旧市街に居る火月のことが気にかかった。「きゃぁぁ!」旧市街に住むリンガルのアパートで、火月は激しい雷鳴に悲鳴を上げた。「大丈夫かい?」「どうして急に雷が?」「神がお怒りになられたのさ。あたし達が自然を破壊したから。」リンガルはそう言って、天を仰いだ。プライベートビーチ周辺のホテルでは火災が発生し、消防隊が出動して消火に当たったものの、炎の勢いが激しく、巨額を投じたホテルは次々と崩落した。「おい、お前達何とかしろ!」「そういわれましても・・」「何ということだ、わたしのホテルが!」目の前で崩落してゆくホテルを、レイモンドはなすすべもなく呆然と見つめていた。“やっと見つけたぞ。”彼の前に、紅い衣を纏った男が舞い降りてきた。「何だ、お前は!」レイモンドはそう叫んで男に発砲したが、銃弾は彼の周辺で留まるだけで、その身体を貫きはしなかった。「ひぃぃ、化け物!」“黙れ、愚かな人間よ!”男の白い指先がレイモンドの顔へと伸びたかと思うと、彼の血と脳漿が潰れた柘榴のように飛び散った。(神の“気”を近くに感じる・・旧市街の方か?)有匡がシキと旧市街へと向かっていると、鐘楼の方から悲鳴が聞こえた。「シキ!」「一体何が起きたんだ?」シキに駆け寄った女性が、恐怖に震えながらレイモンドの遺体を指した。それは顔を原型に留めぬほど潰された無残なものだった。「何てことだ・・」魔物と化した神の怒りを感じたシキは、思わず槍を地面に落としてしまった。その時、一筋の光が有匡の顔を掠めたかと思うと、神が彼の頭上に剣を振りかざしてくるところだった。“愚かな人間よ、また来たか。身の程知らずが。”そう言って口端を歪めて笑う姿は、魔物そのものだった。(このままでは彼が神に戻れなくなる。どうすれば・・)有匡が土産物店に飾っていた剣を掴んで応戦すると、神は間髪入れずに攻撃を仕掛けてきた。「有匡!」向こうから火月の叫び声が聞こえたかと思うと、彼女が自分達の方へとやってくるのが見えた。「来るな!」「あんた島の神様でしょう!お願いだから人間を傷つけないで!この人たちはあなたを蔑ろにした事を後悔しているの、だから許してあげて・・」“黙れ!”神はカッと目を見開くと、火月を睨みつけた。「神よ、どうかお気をお鎮めください!」シキは火月を守ろうと彼女の方へと駆け寄ろうとした、その時だった。突然島全体が、激しい揺れに襲われた。「何だ?」石畳には、あの祭壇に刻まれた文様が浮かびあがってきた。有匡は慌てて神の姿を探したが、彼は何処にも居なかった。「ありま・・」火月が有匡の方へと駆け寄ろうとすると、突然地面がひび割れた。漆黒の闇の中、三人は凄まじい勢いで落下していった。(一体何が起きた?)有匡は青龍を呼び出し、火月とシキを乗せた。「しっかりつかまっていろ!」青龍は上空へと向かって上昇していった。「おい、あれは・・」「あの青龍、まさか有匡のか?」一方、戦場では紅牙族と人間が死闘を繰り広げていた。その最中、琥龍が上空を泳ぐ青龍を目撃した。あれを操れるのは、二人しか居ない。有匡と、彼の妹である神官だけだ。だとすれば、有匡があの青龍に―「どうしたの、琥龍?」「禍蛇、有匡の龍が・・」琥龍がそう言って上空を指した時、敵兵の火矢が彼目掛けて飛んできた。「琥龍、危ない!」禍蛇が彼を守ろうと駆け出した途端、上空から何かが急降下してきた。「化け物だぁ~!」「全員退却!」青龍が敵を威嚇すると、彼らは一目散に逃げていった。「大丈夫か?」「やっぱりてめぇか、有匡。」危機一髪のところを有匡に救われ、琥龍は少しムッとした顔で彼を見た。「人間と和解できたんじゃなかったのか?」「ちょっと訳有りでな。それよりも・・火月、フェロモンボンバー!」青龍から降りてきた火月の姿を見るなり、彼はそう言って彼女に抱きついてきた。「何すんのよ、このスケベ!」戦場に、乾いたビンタの音が響いた。「有匡、何で火月が凶暴化してんだ?お前、何かしただろう?」「何もしていないぞ。今からお前に説明しようと思ってだな・・」「火月、俺と不倫してくれ~!」「ウザイ!」懲りずに火月に突進する琥龍に、彼女は彼の股間を蹴り上げた。「で?こいつは確かに火月だけど、俺達が知ってる火月じゃねぇってことか?」紅牙の村で琥龍はそう言うと、火月を見た。「まぁそういう事だ。顔も名も同じだが、わたしの火月とは全く似ていない。」「誰ぁれが、“わたしの火月”だと、この野郎!夫ぶってんじゃねぇよ、有匡!」琥龍は有匡を睨むと、彼は飄々とした様子で酒を飲んでいた。「全く、まだ火月(つま)を諦めておらんのか、サル。これじゃぁ禍蛇(よめ)に逃げられても文句言えんな。」「うるせぇ!大体なぁ、火月に先に惚れたのは俺だ!」「だから火月をものにするのは当たり前だとでも?馬鹿げてるな。女は男の所有物だと古臭い考えは捨てろ。」「んだとぉ、表に出ろ!」「全く、口論で負けたと思ったら今度は喧嘩か。これかだから単細胞は困る。」怒りで完全に逆上している琥龍を前に、有匡は冷静沈着な態度を崩さなかった。「ねぇ、あいついつもああなの?他人の奥さんにいつもセクハラかますわけ?」「まぁそりゃぁねぇ、琥龍は火月ちゃんにベタ惚れだったからねぇ。いつも日本に来ては殿(ありまささま)と火月ちゃんの仲を邪魔してたもんねぇ。」「そうそう。でもさぁ、結局火月ちゃんに振られちゃったからねぇ。」有匡の式神、種香と小里は、そう言いながら笑った。「全くあいつときたら、いつも他の女寝室に引き摺りこみやがって。嫁の俺には全然構ってくれねぇんだもんな。まぁその度に〆るけどさぁ。」「あたしは旦那が浮気したら金は渡さないわぁ。家計を握っている妻の権限よねぇ。」「言えてる~!」女性陣による“夫の浮気に対する制裁トーク”で盛りあがり、いつしか夜は更けていった。「あのう、何処で寝れば?」「う~ん、やっぱり一応殿と一緒に寝ないとねぇ。」「え~、それマジで嫌なんだけど。お姉さん達のところで寝かせてくださいよぉ~」「駄目よぉ、ねぇ?」「そうそう!じゃぁおやすみ~」種香と小里はそそくさと自分達の部屋へと入ってしまった。(どうしよう?)こんな極寒の中で野宿する訳にもいかないし、かといってあの琥龍(ケダモノ)の部屋で寝る訳にもいかないし・・結局火月は、有匡の部屋で寝ることにした。「何だ、来たのか。」「お姉さん達の所で寝ようとしたら、きっぱり断られちゃったもん。っていうか、あんたと一緒に寝たくないんだけど!」「それはこっちの台詞だ。」「何よそれ~!」また有匡と火月はいがみ合ってしまい、火月は床で寝ることになった。「あぁもう寒いったらありゃしない。ねぇ、ベッド譲って欲しいんだけど。」「お断りだ。何故お前なんぞに譲らねばならん。」「ケチ~!」有匡が本を読んでいる間に、床で火月はいつの間にか寝入ってしまった。(全く、どうしてこいつは妻と同じ顔と名前なんだ。)性格は全く似ていないというのに、顔が似ているというのが厄介だ。無防備で大口を開けて眠る火月を見ながら、有匡は溜息を吐いて彼女に毛布を掛けた。翌朝火月が起きると、ベッドでは有匡がすやすやと寝息を立てていた。ここのところ、心身ともに疲れている所為からなのか、彼女が揺すってもなかなか起きない。「カゲツ、俺だ。」扉の向こうから、シキの声が聞こえた。「なぁに?」「アリマサと話があるんだが・・」「あいつなら寝てるわよ。それにしても話ってなに?」火月がそう言ってシキを見ると、彼の顔が少し曇った。「さっき、男達が妖狐族の宮城に攻めに行くとか話していた。」「妖狐族の宮城に?それって確か、有匡の奥さんと子どもが捕えられている所だよね?」「そうなのか?」シキの蒼い瞳が驚きで大きく見開かれた。「いつ頃城攻めするって?」「さぁな。明朝発つとか言っていたな。」紅牙族の男達が話していた内容が確かなら、有匡の妻子はどうなるのだろうか。「シキ、それは本当なのか?」「アリマサ・・」いつの間にか起きて来た有匡が、そう言ってシキに詰め寄った。「アリマサ、何処へ行く!」「決まっている、妖狐族の宮城だ!」吹雪の中、有匡が妖狐族の住まう妖狐界へと次元通路を開こうとした時、シキが慌てて彼を止めようとしていた。「止せ、落ち着くんだ!」「そうだよ、有匡!少し冷静になってよ!」「煩い、わたしに構うな!」有匡は二人の制止を振り切り、次元通路を開いて異界へと行ってしまった。(行っちゃった・・)次元通路が閉じられた今、火月はシキと吹雪が吹き荒れる中、彼の無事を祈ることしかできなかった。次元通路を開き妖狐族がいる妖狐界へと向かった有匡は、一路宮城へと向かっていた。早くしなければ、火月と子ども達の身が危ない。有匡が宮城へと脇目も振らずに歩いていると、突然前方から何かがやって来るのが見えた。それと同時に、通行人達が慌てて脇へと寄り始めた。(何だ?)徐々に近づいてくるのは、妖狐族軍の行進だった。皆それぞれ真紅の髪を靡かせながら、槍の穂先を天に向けて馬に乗って進んでいた。(軍が行進しているとなると・・余り時間はないな。)有匡は軍を避けようと裏路地へと入ろうとしたが、馬上の者に目敏く見つけられてしまった。「貴様、何者?人間が何故妖狐界に居る?」「離せ、わたしは宮城に・・」「怪しい奴め、捕えよ!」有匡は軍に捕えられ、宮城へと連行された。「こやつが街中に居たとな?妖狐族の街に、人間が?」「はい、王(ハーン)。怪しい奴ゆえ、捕えました。」「顔を見せよ。」兵士の一人にいきなり俯いていた顔を上げさせられた有匡は、そこで妖狐族を統べる王を見た。「そなた、あの人間の・・」有匡と目が合った王が瞬時に顔を強張らせると、憎々しげに彼を睨みつけた。「誰か剣を。この者の首を刎ねて・・」「お待ちくださいませ、父上!」謁見の間に駆け込んできたのは、母・スウリヤだった。「スウリヤよ、邪魔立ては許さぬぞ!」「父上、わたくしの息子です。父上といえども手出しは許しません。」娘の言葉に王は怒りで顔を赤く染めたが、忌々しそうに有匡達にこう告げた。「さっさとその男を連れて行かぬか。目ざわりでならん。」母に命を救われた有匡だったが、火月達の事が気に掛かってしまい、礼も言えなかった。「そなたの妻と子ども達は無事だ、有匡。」「そうですか・・」有匡がそう言って所在なさげに周りを見渡していると、火月と子ども達が彼の方へと駆け寄ってきた。「先生!」「火月、会いたかった!」有匡は漸く妻・火月と再会し、二人は互い、一目も憚らず熱いキスをした。有匡が妖狐界に来て、妻子と再会して数日後、紅牙族と人間との争いが激化しているという知らせが彼の元に届いた。「先生、琥龍達は・・」「あいつらなら無事だ。それよりも火月、母上には良くして貰ったか?」「ええ。スウリヤ様は何かと僕達に気を配ってくださいましたし、雛(すう)が熱を出した時も看病をしてくださいました。」「雛が熱を?」妻の言葉を聞き、有匡の眦が上がった。「ええ。先生と突然地震で離ればなれになって、妖狐族の牢獄に囚われていた時になかなか熱が下がらなくて。」「雛は何処だ?」「あの子なら庭園で遊んでいます。」「そうか。熱が下がったのならいいが。」もしやまた双子に変幻が起きるのではないか―有匡はそんな事を思いながら、スウリヤの部屋へと向かった。「母上、失礼致します。」「有匡か。雛の事を聞きに来たのなら、あの子はもう大丈夫だ。」スウリヤはそう言うと、咥えた煙管に火をつけた。「そうですか。それよりも今回の地震といい、人間界での異変といい・・原因が全く判りませんね。」「近いうちに人間界と魔界が呼応する時が来よう。その時は有匡、火月達と逃げろ。」「しかし、母上・・」「わたしの事は自分で何とかするから、心配するでない。だからお前は、家族を守れ。」「母上・・」スウリヤのまっすぐな目から、有匡は視線を逸らす事が出来なかった。彼女は、夫と有匡を残し、単身妖狐界へと戻っていった。それは二人を捨てたのではなく、スウリヤと有仁が有匡を人間として育てることを決意したからの、行動であった。「親子としてわたしとお前は共に居られなかったが、お前は違う。あの双子を守れ。」「解りました。」スウリヤの部屋から辞した有匡は、雛が遊んでいる庭園へと向かった。「あ、蝶々!」蒼い羽根を持つ蝶を見た雛は、それを捕まえようと脇目も振らずに走り出した。あと少しで捕まえられると彼女が思った時、小石につまずいて転んでしまった。「痛ぁい・・」擦りむいた膝を擦りながら雛は蝶を探したが、蝶は何処にもなかった。「あ~あ、逃がしちゃった。綺麗だったのに。」「雛、大丈夫か?」向こうから父親が血相を変えて走って来た。「お父様!」数ヶ月の間離ればなれだった父親と再会し、雛は彼に抱きついた。「全く、すぐ目を離すとこれだから・・」お転婆盛りの娘を抱き上げながら、有匡は溜息を吐いた。「だって綺麗な蝶を見つけたから、捕まえようと思ったんだもの。」「綺麗な蝶?」「うん。蒼い大きな羽根だったよ。」「そうか。もうここは寒いから部屋に戻ろう。」「うん!」庭園を去る時、有匡は一瞬殺気を感じたが、それはすぐに消えた。「お父様?」「何でもない、行こうか。」(今誰かに見られたような・・)彼らが庭園を去った後、茂みが激しい音を立てて一人の男が出てきた。「なるほど、ここが妖狐族の宮城ですか。」帝の護持僧・文観はそう言うと笑った。「スウリヤ様、結界に侵入者が・・」「人間だな。放っておけ。わたしはもう休む。」スウリヤはそう言うと、寝台に横たわった。(また、見られているような・・)家族で朝食を囲んでいると、有匡は執拗な視線を感じた。「お父様、ストーカーに狙われてるの?」雛がそう言って有匡を見ると、彼は何かを考え込んでいた。「そなたがストーカーに遭うとはのう。もしや昨夜感じた“気”も、ストーカーかもしれぬな。」スウリヤがそう言った時、女官達が部屋に入ってきた。「スウリヤ様、大変です!」「どうした?」「人間の男が、宮城の敷地内に!」女官達の言葉を聞いた有匡が驚きで目を見開いた時、またあの視線を感じた。「お久しぶりですね、有匡殿。」凛とした声が背後から聞こえ、有匡が振り向くと、そこには文観が立っていた。「文観、貴様何故妖狐界に?」「さぁ、わたしも何故ここに来たのか判りません。寺には身重の妻を一人残しておりますし。」文観の言葉に、有匡の眦が上がった。彼の言う“身重の妻”とは、有匡の妹・神官(シャマン)のことだった。「有匡、そやつと知り合いか?」「あなたが、皇女スウリヤ様ですか?」文観の視線が、有匡からスウリヤへと移った。「そうだが。そなたは、艶夜の夫か?」「いかにも。お初にお目にかかります、スウリヤ様。」文観はそう言うと、スウリヤに頭を下げた。「艶夜が身重とは、どういう事だ?」「実はこの度、二人目の子を授かりましてね。しかし体調が芳しくなく、安定期を過ぎても悪化の一途をたどるばかりで、このまま無事に出産を迎えられるかどうか・・」「そうか。文観とやら、わたしを人間界へ連れて行け。」「皇女様、なりません!」「妖狐界から王の許可なしに出るとは、正気の沙汰とは思えませぬ!」女官達が抗議すると、スウリヤはキッと彼女達を睨んだ。「黙れ、子に会いたいという母親を止めるでない!」「わたし達も参りましょう、母上。」こうして有匡達は、文観とともに醍醐寺へと向かった。「こちらです。」彼に案内され、有匡は神官が寝ている部屋へと向かった。そっと御簾を上げた途端、凄まじい瘴気が有匡と文観を襲った。(これは、一体・・)「いつからこんな瘴気が?」「昨年の夏ごろから、悪阻にくわえて意識障害も出て来ておりまして。」有匡が御帳台の中で眠る神官を見ると、彼女の顔は何処か蒼褪めている。そっと彼が妹の下腹に触れると、微かに胎児の鼓動を感じた。だがそれとは別に、何かが蠢く気配がした。禍々しい、魔物の気配。「有匡殿?」「腹の子の他に、魔物の気配を感じた。魔界と現界が呼応する時が近づいているというのは・・」「艶夜の胎内に宿りし子が産まれし時じゃ。このままだと腹の子もろとも助からぬであろう。」スウリヤはそう言うと、娘の前に腰を下ろした。「何か手立てはありませんか?艶夜と腹の子、二人が助かる方法を。」「本人達の生命力に賭けるしかなかろう。」スウリヤと有匡、そして文観は、神官と腹の子を助ける方法が見つけられぬまま、残酷に時は過ぎていった。そして、神官は産み月を迎え、吹雪の夜に彼女は産気づいた。「もっと護摩を焚け!」「ですが僧正、これ以上焚いては・・」「煩い!」神官が産気づき、文観は彼女と子が無事にこの危機を乗り越えられるよう、加持祈祷を行っていた。護摩壇からは、天にまであと少し届くかのような紅蓮の炎が上がっていた。文観は独鈷杵(とっこしょ)を握り締め、祭文を唱えた。一方、白一色に染められた神官の寝室で、彼女は絶え間なく襲う陣痛に耐えていた。「ミツタダ・・」神官は夫の名を呼びながら、荒い呼吸を繰り返した後意識を失った。「火月ちゃん、殿を呼んできて!」「解った!」火月は産室から出て有匡が居る本堂へと向かうと、そこには文観と加持祈祷をしている彼の姿があった。「先生、大変です!神官が・・」「どうした、火月?」「突然意識を失って・・」有匡と火月、文観が産室へと向かうと、そこは魔物の瘴気に満ちていた。「火月、暫く外に出ておけ。お前まで巻き込まれる。」有匡はそう言って妻を背後に下がらせると、呪を唱えた。すると、産室全体が大きく揺れ始めたかと思うと、神官の身体から魔物が現れた。それは黒い衣を纏った女だった。「貴様か、神官に取り憑いていた魔物は?」「コノ身体ハワタサヌ。血肉ゴト食ライ尽クシテクレヨウゾ。」女がそう言って口端を歪めて笑うと、また産室が軋みを上げて大きく揺れた。有匡が呪を唱え始めると、女は苦しげに胸を掻きむしった。「オノレ、陰陽師メ・・」女はかっと目を見開き、恐ろしい形相で有匡を睨んだ。「その様子だと、効いているらしいな。」有匡はふっと笑うと、女に留めを刺すべく剣を取り出した。「オノレェ・・」女は苦しそうに床に蹲り、外に居た火月に目を向けた。「器ハ変ラレル・・」「妻には手を出すな。」有匡は間髪いれずに女の胸を刃で貫いた。女は凄まじい悲鳴を上げ、消えた。「先生、大丈夫ですか?」「ああ。魔物の気配はもうしないが、油断は出来ん。」有匡がそう言って火月を見た時、神官が意識を取り戻した。「後はお前に任せるぞ。」「はい、先生。」有匡と文観が産室を出た後、火月は神官の出産を介助した。やがて産室から元気な産声が聞こえた。産まれたのは女児だった。「そうか、産まれたのは姫君か。一時はどうなることかと思うたが、良かった。」スウリヤはそう言うと、盃を満たしていた酒を一口飲んだ。「これも有匡殿のお蔭です。」「ふん、礼を言うほどのことでは・・」「シスコンだもんね、先生は。」火月に図星をさされ、有匡がジロリと彼女を睨むと、彼女はスウリヤと談笑していた。「火月よ、次はそなた達の番だな。」「母上、それはまだ・・」「そなたらの様子を見ていると、三人目も遅くはないようだからの。」三人目を催促し、戸惑う息子夫婦を前にして、スウリヤはほくそ笑みながらまた酒を一口飲んだ。それから火月が三人目を授かるのは、そう時間が掛からなかった。妹・神官(シャマン)の出産が無事終わり、有匡は妻子を連れて鎌倉へと明日戻ろうとしていた。「もう少しこちらでゆっくりすればよいものを。」「用は済んだからな。それに幕府側の人間であるわたしが、いつまでも醍醐寺(ここ)に居てはお前の立場もないだろう?」「お優しいことをおっしゃるのですね、義兄上(あにうえ)。」宿敵に“兄”と呼ばれ、有匡はあからさまに不機嫌そうな顔をした。「それよりもあの魔物、消えたのはいいですが正体が判らないとは。一体なんだったのでしょう?」「さぁな。それよりも母上の言っていたことが気になる。」“近いうちに人間界と魔界が呼応する時が来よう。”妖狐界で母が自分に言った言葉の意味を、有匡は考えていた。人間界と魔界が呼応する時―いずれまた戦が起こるという意味だろうか。それとも―「僧正、帝からの使いが・・」「今は取り込み中だとお伝えしろ。」「いえ、それが・・土御門有匡殿に用があるとか。」弟子の言葉に、文観と有匡は一斉に彼を見た。(帝がわたしに用だと?)土御門家とは完全に絶縁したので、今更帝は自分に用はないと思っていたのだが。「わたしに用とは?」「実は、帝の東宮様が、あなたのお噂を耳にし、是非会いたいとおっしゃられて・・どうか、一度内裏へ参内してはいただけませぬか?」「大変光栄な申し出ではあるが、丁重にお断りさせていただく。わたしは明日、鎌倉へと発つ予定で・・」「東宮様は、貴殿の奥方にもお会いしたいとか。」帝の使いがそうはなった言葉に、有匡は驚きで目を見開いた。「東宮様が、わたしの妻にお会いしたいと?一体何の用件で?」「それは直接お会いになってからお聞きしたほうがよろしいかと。」向こうは有匡が東宮の誘いを断らないという想定内でそんな言葉をかけると、早々と醍醐寺から去っていった。「どうなさいます、有匡殿?」「どうもこうも、出発を早めて鎌倉へと戻る。火月の体調次第だが。」三人目を身籠っている火月の体調は少し芳しくなく、悪阻が重いようで一日中床に臥せっていた。「大事な時期ですので、余り無理をかけてはいけませんね。」「そうしたいのは山々だが・・」東宮が何故自分達に興味を持ったのか、有匡には理解できなかった。翌朝、有匡は妻子を連れて鎌倉へと発とうとしていた。その時、間の悪い事に文観が悪い知らせを彼に持ってきた。「今から、東宮様がこちらに来られると仰せです。」「東宮様が?今から鎌倉を発つというときに、厄介な。」有匡はそう言うと舌打ちした。「火月、お前は部屋に隠れていろ。」「はい・・」ほどなくして、東宮が醍醐寺に現れた。「文観よ、そちらが土御門有匡殿か?」まだ17の若さではあるもの、東宮の全身からは威厳に満ちたオーラが発せられていた。「はい、東宮様。土御門有匡と申します。今日はどういったご用件で?」有匡がそう東宮に尋ねると、彼は扇子で自分の傍に寄るよう有匡に指示した。「ほぉ、美しい顔だ。それでいて有能な陰陽師というだけある。そなたの妻は何処だ?」「生憎ですが、妻は悪阻が酷く床に臥せっておりまして。それにわたくしは鎌倉へと発つことになっており・・」「そなたを鎌倉へは行かせぬ。」御簾がするすると上がったかと思うと、東宮がそっと有匡の手を握ってきた。「そなたは我の元に仕えるのだ、有匡。」「何をおっしゃいますか、東宮様。有匡殿は幕府お抱えの陰陽師ですよ?そのような事は許されませぬ。」文観が東宮に抗議したものの、彼は聞く耳を持たなかった。「すぐに御所へ参れ、有匡。そなたの妻と子どももともにな。」有無を言わさぬ口調で東宮は有匡にそう告げると、彼は口端を歪ませて笑った。こうして半強制的に、有匡と火月達は東宮によって御所に連れていかれた。何が何だか訳が解らぬまま、火月は後宮へと入ることになってしまった。「先生、これからどうすれば・・」「心配するな、火月。どうせ東宮様の気紛れだろう。すぐに帰れるさ。」そう言って妻を励ました有匡であったが、いつ鎌倉に帰れるのか不安で堪らなかった。「東宮様、土御門有匡様が参りましてございます。」東宮が住まう部屋へと有匡が向かうと、彼はそれまで物憂げな表情を浮かべていたが、有匡の顔を見るなり一転晴れやかな表情を浮かべた。「有匡、ようきてくれたな。待ちくたびれておったぞ。」「東宮様、このようなことをなさったのは何故ですか?ご用件が分からねばこちらとしてしても・・」「そなたの妻を、我の妃といたせ。」「東宮様、戯言を。」「戯言ではないぞ。我はいつも本気だ。」東宮は有匡がどう反応するのかを、横目でチラチラと見ては嬉しそうに口元を歪めた。「と、東宮様・・それはできませぬ。」「何故じゃ?それほどにそなたは妻を愛しておるのか?」東宮はそう言って有匡の狼狽した顔を見て笑った。「東宮様、戯言を申されるのはお止めになされませ。有匡殿が困っておいでではありませぬか。」すかさず東宮の傍に控えていた男がそう彼を窘めたが、彼はブスっとして男を睨んだ。「お話しがお済みになりましたので、わたくしはこれで失礼致します。」「嫌じゃ、待て、有匡!」東宮は突然駄々を捏ね始め、有匡の手を掴んで離さなかった。「では、わたくしはこれにて。」有匡は東宮の手を振り払うと、東宮の寝所から辞した。(全く、何なんだ東宮様は。突然駄々を捏ね始めて、まるで子どものようではないか。)「もし、有匡殿。」廊下を歩いていると突然声を掛けられ、有匡が振り向くと、そこには東宮の傍に仕えていた男が立っていた。「何かわたしに用でしょうか?」「実は、東宮様の事で・・」「東宮様の?」「ええ。先程は驚かれたと思われますが、東宮様は時折あのような駄々をお捏ねになったりなさるのです。お母君を幼くしてお亡くしになられたので、他人の温もりといったものが欲しいのでしょう。」「確か東宮様は今年で17となられる筈。東宮の母君がお亡くなりになられたのは東宮様がおいくつの時ですか?」「そうですね、まだ東宮様が御袴着の儀を迎えられた後でしょうか。母君亡き後、帝は弘徽殿女御様を妃に迎えられ、女御様は男子(おのこ)をお産みあそばされて、東宮様はそれ故蔑ろにされたのです。」男から東宮の生い立ちを聞き、先程の行動は幼少期の愛情不足からくるものだったのかと有匡は思った。だとしても、他人の妻を自分の妃にするなど、理解し難い。東宮は何を心の底に抱えているのだろうか。宮中に参内するのは久しぶりだから、有匡はつい道に迷ってしまった。道を聞こうにも人気がなく、元来た道を戻ろうと彼が踵を返した時、向こうから人の話し声が聞こえた。「全く東宮様にも困ったものよの。あれでは弟君に廃嫡されるのも無理はない。」「ほんに。弘徽殿女御様は、何故あのような無能な者を東宮にするのだと、大変お怒りだそうな。」「まぁ、東宮様には誰も期待はしておるまい。いずれ土佐にでも流されよう。」公達達がヒソヒソと話しながら、遠ざかっていった。彼らの話を聞く限り、東宮は継母である弘徽殿女御から冷遇され、弟君と何かと比較されて育ったようだ。それ故に突飛な行動をして周囲を驚かせ、気を惹こうとしているのではないのだろうか―有匡はそう思いながら、鎌倉へと戻る日を待ちわびた。夜の帳が下りた後宮では、女達がすやすやと寝息を立てて眠っていた。そんな中火月は、悪阻に苦しんでいた。双子を妊娠した時は全くなかったのに、今回の妊娠に限って酷い。お腹の子はちゃんと育っているのだろうか。火月はそっと下腹に手を当て、この子が無事に産まれてくるように願った。(先生、今どうしているかな?)そう思いながら彼女が御簾越しに月を眺めていると、こちらへと向かってくる足音が聞こえた。「誰です、こんな時間に?」「・・そなたが火月か。」低い男の声が聞こえたかと思うと、東宮が部屋に入ってきた。「と、東宮様?」突然の東宮の来訪に、火月は戸惑った。「何故こんな時間に起きておる?」「少し体調が優れなくて・・東宮様は、何故こちらに?」火月がそう東宮に尋ねると、彼はいきなり火月を抱き締めた。「何をなさいます、東宮様。お離しくださいませ。」「嫌じゃ。」火月は東宮から離れようとしたが、彼は一向に火月を離そうとはしない。「そなたからは母上と同じ匂いがする。」東宮はそう言うと、火月の金髪を梳いた。「東宮様のお母君は、どんなお方だったのですか?」「余り良く憶えておらぬ。母上は我がまだ幼いときにお亡くなりになられたゆえ。」「まぁ、そうでしたか。僕・・わたしも幼い頃、両親を亡くしましたので、お気持ちは解ります。」「そうか。有匡は何故、そなたを妻としたのじゃ?」「さぁ・・互いに惹かれ合っておりましたので、自然と夫婦になりました。」「自然と夫婦に、か・・我もそうなりたい。」東宮はそう言うと、漸く火月から離れた。「東宮様、もうお戻りになられませんと。」「嫌じゃ。そちと朝までここに居る。」「東宮様・・」火月は東宮に戻るよう説得したが、彼は駄々を捏ねてしまい、結局火月の膝枕で眠ってしまった。「火月、どうしたんだ?」「先生・・」翌朝、有匡が火月の元に行くと、そこには彼女の膝で眠っている東宮の姿があった。「昨夜急に訪ねてこられて・・寝所にお戻りになられたらとおっしゃっても、なかなかお戻りになられなくて・・」「そうか。」「東宮様、幼いときにお母君を亡くされて、色々と心細い思いをなさったのでしょうね。」「まぁ東宮様のお気持ちは解らぬでもないが・・悪阻は辛くないか?」「最近は酷くなったり、なかったりと、波があって。無事生まれるかどうか。」有匡はそっと、火月の下腹を触った。すると、腹の中から楽しそうにはしゃいでいる胎児の声が聞こえた。「大丈夫だろう。余り気に病むな。魔物の気配もないしな。」「そうですか。」有匡の言葉に、火月は安堵の表情を浮かべた。「雛(すう)と仁(じん)はどうしている?」「二人なら良く遊んでいますよ。」「そうか。さてと、わたしは東宮様を寝所にお連れするとしよう。」有匡は東宮を揺り起こすと、彼は低く呻って目を開けた。「東宮様、お戻りになられませんと。」「嫌じゃ、火月とここに居るのじゃ。」「東宮様、どうか・・」駄々を捏ね始める東宮に溜息を吐いた有匡が彼を後宮から連れ出そうとすると、衣擦れの音が向こうからした。「あら、あれは・・」「東宮様の弟君ではないの。」「いつ見ても凛々しいお顔だこと。」東宮の弟君・雄仁が後宮に現れると、女達が急に色めき立った。有匡が御簾の向こうから外を見ると、そこには一人の公達が歩いてくるところだった。紅の直衣を纏い、烏帽子を被っている彼の姿は、堂々としていた。「さぁ東宮様、お戻りを。」「嫌じゃ。我はあやつに会いとうない!」雄仁の姿を見た瞬間、東宮はそう声をあげ、ガタガタと震え始めた。にほんブログ村
画像は、てんぱる様からお借りしました。「火宵の月」の二次創作小説です。作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。色々と捏造設定ありです、苦手な方はご注意ください。「彌、待って!」同級生が殺されたことを知り、激しく動揺して家を飛び出した従弟を慌てて追いかけた火月は、彼の手を掴んだ。「どうして有匡様は佐々木さんを助けてくれなかったの?登は助けてくれたのに、どうして?」彌はそう言ってTシャツの袖で涙を拭った。「あいつにはあいつの考えがあるのよ。それにね彌、佐々木さんを殺した犯人は、あんたの友達を操ってたやつなのよ。」「あの金髪の人が?」「まだ確証は掴めないけれど・・きっとあいつの仕業だって。あたしがあの金髪の奴をぶちのめすから、家に戻りましょう?」火月は従弟の頭を優しく撫でながら言った。「本当に、佐々木さんの仇を討ってくれる?」「当たり前でしょ。金髪野郎の顔にあたしの強烈な右フックをお見舞いしてやるわよ。」火月は拳を鳴らしながら彌に微笑んだ。二人が家に戻ると、風呂上がりの有匡がタオルで濡れた髪を拭きながらリビングに入ってくるところだった。「有匡様、さっきはごめんなさい。」彌は有匡にそう言って頭を下げた。「謝らなくてもいい。同級生が突然死んだのだから、動揺するのも無理はない。それよりも、お前の友人が襲われた時のことを少し話してくれるか?」「うん、わかった。」彌は椅子に腰を下ろし、数日前登が金髪の少女に操られた一部始終を有匡と火月に話した。「お前の友人の様子がおかしくなる前に、急に空が曇り始めたんだな?」「うん。あの日は雨なんか降らないって思ってたのに、急に曇り出したんだ。そのあと、登が変になって・・」彌はそう言うと言葉を詰まらせた。何者かに操られていたとはいえ、親友に刃を向けられた事件からほんの数日も経っていない。親友に刃を向けられた恐怖心はまだ幼い彌の心を深く傷つけ、その恐怖が彼の無垢な魂を穢そうとしている。「そこまで話してくれただけでいい。立て続けに辛い事が起きたんだ、お前が立ち直るまでわたしは何も聞かない。」有匡はそう言って彌に微笑み、そっと大きな手で彼の小さな頭を優しく撫でた。「うん・・」彌は再び堪えていた涙を流し始めた。「あんた、あたしには厳しいのに彌には優しいんだね。」火月は有匡と通学路を歩きながら、そう言って隣で歩いている彼を見た。「昔は子どもは苦手だったが、父親になってからは違った。」「父親!?あんた子どもいたんだ!?」「わたしと妻にそれぞれ似た双子の息子と娘がいた。丁度その息子とあいつの年が近いのでな。」「ねぇ、ひとつ聞いてもいい?あんた、家族に会いたくないの?」一瞬、二人の間に重苦しい沈黙が流れた。「会いたくないと言えば嘘になる。だがこちらから妻たちがいる所へ戻る術が見つからぬ限り、一生会えぬかもしれぬ。」有匡はそう言って目を伏せた。目の前の彼は、火月が今まで熱を上げていた伝説の陰陽師・土御門有匡とは違う姿を見せていた。夫であり、二児の父親である彼の姿が、そこにはあった。「多分、あたしが思うに、あたしとあんたが出逢ったのは、何か意味があるんじゃないかなぁ?少しオカルトっぽくなるけど、まるで誰かがあたし達を導いて引き合わせてくれたかのような。」火月の言葉を聞いてそれまで暗い表情を浮かべていた有匡は、ふっと笑いながらゆっくりと顔を上げた。「・・そうかもしれぬな。」やがて二人は、火月が通っている高校の校門へと着いた。「じゃぁ、あたしはここで。また放課後にね。」火月はそう言って有匡に手を振った。「ああ。」有匡は火月に手を振り返して背を向けて歩き出そうとした時、背後から怒声が響いた。「火月、俺っていう男がありながら浮気してんじゃねぇよ!」有匡が振り向くと、そこには一人の少年が怒気を孕んだ瞳で火月を睨んでいた。「あんたとは別れたじゃん、猛(たける)。これ以上あたしに付き纏わないでよ、迷惑なんだけど。」火月は自分の手を掴む少年のそれを邪険に振り払った。「このアマ、調子に乗ってんじゃねぇぞ!」いきり立った少年はポケットからバタフライナイフを取り出し、それを火月に向かって振りかざそうとした。その時、一匹の青龍が突然唸り声を上げながら少年に向かってきた。「な、なんだよ、こいつ!?」少年が悲鳴を上げながら地面に尻餅をついてバタフライナイフを落とした。「これは彼女のボディガードだ。」青龍の出現により弾みで青龍に乗ってしまい、それが消えた途端地面に落下しそうになった火月を、有匡は寸でのところで受けとめながら少年にそう言って睨みつけた。「てめぇ、何なんだよ!火月はなぁ、俺の女なんだよ!」「ほう?彼女はそうは思っていないようだが?痛い目に遭わされる前に、さっさと消え失せろ。それとも、こいつの牙と爪で八つ裂きにされたいのなら別だが。」「くそ、覚えてろよ!」少年は舌打ちして、校舎の中へと駆けて行った。「助けてくれて、ありがと。」火月は照れ臭そうに有匡に礼を言うと、校舎へと向かった。「聞いたよ火月、あんたイケメンにあの最低野郎から助けて貰ったんだってぇ?」教室に入ると、友人がそう言って火月の肩を叩いた。「あいつは今我が家で世話になってる居候。別に何の関係もないから。」「ふ~ん、怪しいもんだ。」「だから、違うって!」そう言い合う火月と友人を、教室の後ろで一人の女子生徒が睨みつけていた。有匡が火月の元彼・猛を撃退したことは、あっという間に校内に知れ渡り、その事で火月は行く先々で友人達から質問攻めにあった。「ねぇ、さっきのイケメン紹介してよ~!あと、彼に友達いたら合コンやろうよ!」「あのさぁ、あいつは単なる居候!それにあいつには友達いないから合コン無理なの!」「え~、つまんないなぁ。」昼休み、友人はそう言って口を尖らせながら唐揚げを口に放り込んだ。「それにしてもさぁ、猛ってまだあんたのこと諦めてなかったんだ。とっくに別れたのにさ。」「うん。向こうは未練たらたらで困っちゃうよ、全く。」あの時―猛に襲われそうになった時、式神が発動していなかったらどうなっただろうかと想像したら火月は鳥肌が立った。「そのピアス、何処で買ったの?」「ああ、これ?昨夜あいつから貰ったの。お守りだとか何だとか言って。」そう言って火月が友人を見ると、彼女はニヤつきながら火月を見た。「やっぱり、そういう仲なんじゃん。」「ち、違うって!このピアスは、あいつの奥さんのもんだったんだから!」「あのイケメン、妻子持ちなの!?じゃぁなに、禁じられた火遊び?」「だから、違うって!」火月が友人に向かってそう吼えていると、背後から強烈な視線を感じた。振り向くと、教室の後ろーロッカーの近くで自分を睨みつけている一人の女子生徒と目が合った。「あの子、誰?」「ああ、高橋?あの子さ、猛のこと好きだったんだよ。あんまり関わらない方がいいって。」火月はさっとその女子生徒から目を逸らすと、友人に向き直った。だが刺すような視線は、いつまでも感じた。「あなたが、猛さんの彼女かしら?」「そうだけど?」体育の時間、着替えを終えた火月が下足箱でスニーカーに履き替えていると、昼休み中に自分を睨みつけていた女子生徒―高橋がそう言って火月を呼び止めた。「あなたに少しお話があるのだけれど、よろしいかしら?」「うん、いいけど・・」高橋に連れられたのは、人気のない体育館裏だった。「話ってなに?」「あなた、猛さんにもう付き纏わないでくれる?」「はぁ?あたしと猛はもう終わったの。それにね、付き纏われて迷惑してんのはあたしの方。あんた猛の事好きなんだって?じゃぁ猛に言っといて、あたしはあんたのことなんか全然好きじゃないって。」一方的に火月は高橋にそう言い放つと、彼女に背を向けて歩き出した。「・・待ちなさいよ。」氷のような冷たい声が、火月の背中を刺した。「猛さんを傷つける者は許さない・・あの人の為なら、わたしは何だってやるわ。」そう言ってゆっくりと顔を上げた高橋の瞳は、血の色に染まっていた。「悪いけど、あなたにはここで死んでいただくわ。だってそれが、猛さんの為だもの。」彼女は鞄の中から肉切り包丁を取り出してそれを翳すと、火月に向かって突進した。(駄目だ、やられる!)火月が目を瞑ると、頬に何か生温かいものが飛んできた。「なに、これ・・」目の前には青龍の牙と爪で全身を切り裂かれ、血の池の中で息絶え絶えに足掻いている高橋の姿だった。「たすけて・・」火月は恐怖の叫び声を上げながらその場から逃げだした。「火月、どうし・・きゃぁぁ!」友人がそう言って高橋の姿を見て悲鳴を上げた。「誰か、救急車!」やがて、サイレンが春の風に乗って響いてきた。高橋が火月の耳飾りに仕込まれていた有匡の式神・青龍に襲われ、救急車で病院に搬送された。彼女が“襲われた”現場である体育館裏には数人の警察官や鑑識課署員らが現場検証や目撃者の聞き込みなどを行っていた。火月は、一人の刑事から事情聴取を受けていた。「本当に、君は何もしてないんだね?」「はい。突然彼女が肉切り包丁を取り出してわたしを襲ってきたんです。その後のことは余り覚えていません。」本当は青龍が彼女を襲ったところを少し見ていたが、火月は咄嗟に嘘を吐いた。「そうか。では彼女は君に殺意があり、何者かが君を殺害しようとした彼女に危害を加えたということだね?」「はい。高橋さんはわたしに恨みを持っていました。わたしが付き合っていた恋人に想いを寄せていて、彼と別れているのにわたしが彼に付き纏っていると勘違いして・・」「痴情の縺(もつ)れか・・」刑事はぼそりとそう呟くと、溜息を吐いて火月を見た。「色々とありがとう。もう君は行ってもいいよ。」「では、失礼します。」凄惨な現場から背を向け、火月はその場から走り出した。「火月、大丈夫?」高橋が式神に襲われた直後に駆けつけて来た友人の凛夏(りんか)がそう言って火月を心配そうな表情を浮かべて見た。「大丈夫。少し落ち着いた。ごめんね、みんなには迷惑かけちゃって・・」「気にしないでよ。それよりさぁ、高橋って結構カゲキな子だったんだねぇ。あんたを呼び出して殺そうとするなんてさぁ。でも返り討ちに遭っちゃったんだよね。」凛夏はそっと火月の手を握ると、少し声を潜めた。「高橋全身何かでメッタ刺しにされてたよね?あいつ肉切り包丁持ってたんでしょ?もしかしたら高橋が嫌いな奴に返り討ちにされちゃったりして・・」友人の言葉に、高橋の血塗れになった姿が脳裡に浮かび、火月は猛烈な吐き気を催して教室から飛び出して行った。女子トイレの個室に駆け込んで鍵を閉めると、火月は髪を掴んで胃の中の物を全て吐いた。数回それを繰り返して気分が落ち着いたところで彼女が個室から出ようと立ち上がろうとした時、女子トイレに数人の生徒が入って来る気配がした。「ねぇ聞いた?さっき体育館裏でさぁ・・」「あ~、聞いた。高橋って子が誰かに襲われたんでしょう?あの子性格悪いからねぇ。あいつに恨み持ってた奴多いし。」「何でも、猛の元カノに変な言いがかりつけたらしいよ。しかも、家から持ってきた肉切り包丁でその元カノ殺そうとしたって。」「うわぁ、怖い。でもさ、良い気味だよね。」「そうそう。身から出た錆ってやつ?」女子生徒達は口々に好き放題言い合うと、豪快な笑い声を上げながらトイレから出て行った。(あたしが、高橋を傷つけた・・)今朝青龍が自分を猛の刃から守ってくれたことに感謝した火月だったが、今は自分に対して危害に加える者に容赦なく牙を剥くその存在に彼女は恐怖を抱き始めていた。「ただいま。」疲労とともに帰宅した火月は、有匡がいる和室へと向かった。「今日は早かったな。」「ねぇ、聞きたいことがあるんだけど、いい?」「何だ?」「あんたの式神が今日、あたしのクラスメイトを襲ったの。あんた、言ったよね?何かあたしの身にあれば式神が動くって。あれってあたしに危害を加える者は全員あんたの式神に殺されるってこと?」「どうした、一体何が・・」有匡は火月の肩に触れようとしたが、その手を彼女に邪険に払い除けられた。「ねぇ、答えてよ!」そう叫んだ火月は泣きながら有匡を見た。「式神が動くというのは、そういう意味である事も事実だ。」「じゃぁ高橋は?あの鋭い牙で全身を切り裂かれたあの子は、どうなるの?」火月の問いに有匡は無言で首を横に振った。「これ、返すね。」火月は紅玉(ルビー)の耳飾りを左耳から外すと、それを有匡に渡して和室から出て行った。その背中を、有匡はただ黙ってじっと見つめていた。(式神が人を襲うとは、想定外だったな。)その夜、和琴を奏でながら有匡は溜息を吐いた。鎌倉時代にいた頃、妻・火月の耳飾りに施した式神(青龍)は、単なる張りぼてに過ぎず、相手を怯えさせるだけの道具としての役割だけであった。だが、今回の式神は違う。主である自分の命令で動いているのではなく、己の意志で動いている。通常、式神は個性や性格、己の意志すら持たないものだ。何故、今回の式神は己の意志を持ち、人を襲ったのか。和琴を弾くのを止め、有匡はそっと妻の耳飾りを掌に乗せた。祭文を唱え、式神を呼び出した。部屋に白い光が満ち、青龍が姿を現した。『お呼びでしょうか?』そう言った青龍の金色の瞳には穏やかな光を湛えていた。「お前に問う。何故人を襲った?」有匡は険しい表情を浮かべながら青龍を見ると、青龍は目を細めてこう答えた。『あの女には、邪悪なものが取り憑いて穢れていた。ああしなければ、火月様はあの女に殺されていた。』「邪悪なもの?まさかあの鬼族の仕業か?」『違う。誰の仕業でもない。あの穢れは女自身が作ったもの。浄化するには遅過ぎた。』そう言って青龍は再び耳飾りの中へと消えた。その頃、火月を襲った少女―高橋は口に酸素マスクを、全身に医療用チューブを付けられ、集中治療室のベッドに横たわっていた。巡回した看護師が集中治療室に入って来た。「可哀想に・・意識が回復する見込みはないのに・・」彼女がそう呟いて集中治療室を出ようとした時、高橋の背後で蠢く影があった。「な、なに・・」手に持っていた懐中電灯で照らされた怪しく蠢く影は、看護師を恐怖に陥れるには充分だった。「誰か来て!」集中治療室のドアを開けようとしたが、何故か開かない。看護師が必死にドアを開けようとすると、徐々に彼女の方へと影が迫って来た。「嫌・・誰か、助けて・・」彼女の叫びは、漆黒の闇へと消えた。影は暫くすると高橋の身体へと戻って行った。彼女の目がゆっくりと開かれた。同じ頃、都内某所にある高級ホテルのロビーに、美しく着飾ったあの金髪の少女が周囲を見渡していた。(ここには碌な人間しかおらぬ。)少女はバッグからコンパクトを取り出すと、左頬に残る火傷の痕を見て忌々しそうに舌打ちした。脳裡に、火傷を負わせたあの忌々しい陰陽師の姿が浮かんだ。(よくもこの美しい顔に傷をつけてくれたな。必ずやこの手で殺してやる。)コンパクトを乱暴に閉じた少女は、それをバッグに仕舞った。ソファからゆっくりと立ち上がり、エレベーターホールへと向かおうとした時、少女は初めて自分を見つめる男に気づいた。「おや、どなたかと思ったら、麗しい金髪の姫君様でしたか。」そう言って少女の前で跪いた男は炎のような真紅の髪を揺らしながら彼女の手の甲に接吻した。「いつ日本に来た?」「数時間前です。あなたのお顔を見に。」少女と共にエレベーターに乗り込んだ男は、そう言って少女を見た。「冗談も程々にしろ。余りふざけたことを言うと殺すぞ。」「おやおや、怖い方ですね。」男は笑いながら、少女の左頬をそっと撫でた。「その傷はどうしたのですか?もしかして陰陽師にやられたとか?」男の言葉を聞いた少女は、銃口を彼のこめかみに突き付けた。「・・どうやら図星のようですね。」両手を上げて降参のポーズを男が取ると、少女は拳銃をバッグに仕舞った。その時、エレベーターが宴会場のある階に止まった。「では、またお会いいたしましょう。」宴会場に少女が入る前、男はそう言って彼女のうなじにキスをして颯爽と立ち去って行った。「遅かったな、悠葉(ゆずは)。」宴会場に少女が入ると、そこにはあの黒髪の男がワイングラスを片手に持って立っていた。「途中で変な奴に絡まれた。銃で脅したから大丈夫だ。」「そうか、それは良かった。妖狐(ようこ)などに気を許すな。奴らと我らは敵同士なのだからな。」「判っている、兄者(あにじゃ)。」「可愛い弟よ、お前をこれ以上危険な目に遭わせる訳にはいかぬ。」黒髪の男は少女の手を優しく握ると、華やかなパーティーの中へと戻って行った。一方、少女にエレベーターの中で絡んだ真紅の髪の男はホテルを出て、愛車である場所へと向かっていた。信号待ちをしていると、上着の中で携帯が鳴り始めた。「もしもし?」『あの鬼族と会ったか?』通話口の向こうから聞こえるのは、渋い老人の声だった。「ええ、会いましたよ。随分と警戒してましてね、なかなか落とせませんでしたよ。それよりも、奴の左頬に火傷の痕がありました。」『火傷の痕だと?それは本当か?』「本当です。普通の火傷じゃありませんでした。陰陽師にやられたものじゃないかと。傷から相手の“気(オーラ)”を感じましたからね。」信号が青となり、男は携帯の通話をスピーカーフォンモードにした。『“気”だと?どんなものだ?』「そうですね。単純に言えば、刃物のようなギザギザとしたものでした。それに、その陰陽師とやらは俺らの血をひいているようなんすよ。」通話口の向こうで、唾を飲み込むような音が聞こえた。『妖狐の血をひく、陰陽師だと?』「ええ。ただ、半分だけですが。妖狐の血を半分ひく奴なんて一人しか思い浮かばないでしょう?」男はそう言って通話ボタンを押した。彼が運転した車は、火月達の家の前に停まった。「ここに奴が居る。結界張ってるのバレバレだぜ、陰陽師様。」男はふっと笑いながら、有匡の結界内に侵入した。その途端、火花が家の中で激しく散った。(結界内に侵入者。まさかあの鬼族か?)和室で寝ていた有匡は異常を感じて飛び起き、和室から飛び出した。すると廊下には、真紅の髪をなびかせた一人の男がニヒルな笑みを浮かべて立っていた。「あ~、俺の愛しいカノジョに怪我させたのはやっぱあんたか、土御門有匡様。」「お前は、あの時の・・」有匡の脳裡に、愛しい妻と子ども達を攫った憎い男の顔が浮かんだ。「思いだしてくれた?流石同胞だね。でもさぁ、カノジョの邪魔しないでくんないかなぁ?あいつ今大事なお仕事の真っ最中なんだよねぇ。あんたに邪魔されると困るんだよ。」「一つだけ問う、妻と子ども達は何処に居る?」「王(ハーン)の城にいる。けど、あんたは此処で死ぬから関係ねぇよな!」男はそう叫ぶと、掌に宿した炎の塊を有匡にぶつけた。有匡は素早く呪を唱え、印を結んだ。「へぇ、なかなかやるじゃん。そうでないと喧嘩のしようがねぇよ。」「表に出ろ。」有匡は懐に仕舞っていた筮竹を取り出しながら男を睨みつけた。「それじゃぁ久しぶりに暴れようかな?」同じ頃、高橋は静かに壁を伝いながら、病院の廊下を歩いていた。白いリノリウムの床は、彼女の犠牲者達の血で真紅に染まっていた。「おらおら、どうしたぁ?」男の攻撃に、有匡は印を結べずに、近くの公園に植えられている木陰にその身を隠した。(クソッ、何とかしなければ・・)有匡は舌打ちしながら、呪を唱えた。顔の横を蒼い炎が掠めた。(一か八か、やってみるしか・・)「見つけたぜ!」歓喜の表情を浮かべた男が有匡の前に姿を現した時、有匡は式神を彼の胸へと放った。有匡の反撃を予想していなかった男は驚愕で目を見開き、咄嗟に青龍の攻撃をかわしたが、鋭い爪で左肩を引き裂かれ、地面に崩れ落ちた。「お前には聞きたい事がまだある。」男の髪を掴んで無理矢理彼を立たせると、有匡は彼を睨んだ。「何故わたしの妻と子ども達を攫った?」「俺はただ王(ハーン)の手伝いをしただけだ。」「王は何を企んでいる?」「さぁな、それは俺も知らねぇよ。でも王はお前の事を気にいらねぇみたいだぜ?」男はニヤリと笑いながら、有匡を見た。「妖狐族の皇女でありながら、人間との混血児を産んだスウリヤ様のことも憎いが、その息子であるあんたが野猫族の女と子を為して高尚な一族の血を穢していることに王は耐えられないんだとさ。」「馬鹿らしい、血統に拘るなどまるで人間のようではないか。」有匡は男の言葉を鼻で笑った。「人間でも妖でも、自分達が属する一族の血は命そのものなんだよ。純血志向が強い輩は、あんたみたいな混血を迫害している。」男の話がもし本当だとしたら、妖狐族の王によって監禁されている妻と子ども達の命が危ない。「その話、詳しく聞かせろ。」吹雪によって舞い散る雪が、部屋の中にも入ってきて、有匡の妻・火月は寒さで身を震わせた。「母様、いつここから出られるの?」彼女の方へ、黒髪の少年―有匡の息子・仁(じん)が駆けてきた。「さぁ、わからないわ。それよりも雛(すう)は? まだ熱が下がらないの?」「うん・・あの人達が出したお薬が効かないみたい。」火月は部屋の隅に置かれている寝台に横たわっている娘の方へと向かった。自分と瓜二つの容姿を持った娘は、高熱に苦しみ、荒い息を吐いていた。「かぁさま・・」娘の小さな手が母の手を求め、空中で幾度も彷徨う。「母様は此処だからね。大丈夫、何処にも行かないからね。」火月は娘を安心させる為、娘の手を握り締めた。数ヶ月前、火月は子ども達とともにこの城に拉致・監禁された。あの日はいつものように多忙な夫が仕事から帰って来るのを子ども達と待っていたのに、突然結界を破り数人の男達が有無を言わさず魔界へと連れ去られてしまった。これから自分達がどうなるのか、夫は今どうしているのか・・火月は毎日不安を抱きながらも、子ども達と身を寄せ合い生きていた。(先生・・)火月はそっと、左耳に触れた。そこにはいつも身に付けている紅玉の耳飾りがない。あの耳飾りは夫と出逢った時にプレゼントしてくれた、大切なものだった。(先生、早く・・早く助けに来て・・)火月が病に臥せっている娘の手を握りながら窓の外を見ていると、不意に固く閉ざされていた扉が開いたかと思うと、美しい真紅の髪を持った女が入って来た。「お前が、火月だな?」女はそう言って、髪の色と同じ瞳で火月を見た。「ええ、そうですけど・・あなたは?」「わたしはスウリヤ。」突然の有匡の母親の出現に、火月は驚愕の表情を浮かべた。「スウリヤ・・様・・?」火月は突然現れた夫の母親―妖狐族の皇女・スウリヤを見た。(この人が、先生を産んだ母親・・)「子ども達は、どうしている?」スウリヤはそう言って、寝台に横たわっている雛を見た。「雛の熱が下がらなくて・・薬を飲ませたんですけども、全然効かなくて・・」火月の言葉を聞いたスウリヤは、そっと雛の元へと近づいた。「変幻は昔、防げた筈だな?」「え、ええ・・」雛と仁が一歳を迎えた頃、2人に流れる妖狐の血が濃過ぎて、変幻を招きそれを有匡が防いだことがあった。「恐らく、まだこの娘には妖狐の部分が残っているのかもしれぬ。」スウリヤは雛の金髪をそっと梳いた。「そんな・・」火月はまだ禍の種が娘の中に残っていることを知り、愕然とした。「有匡は今何処にいる?」「わかりません・・それよりも僕達はここからいつ出られるんですか?」「父はお前達をここから出すつもりはないだろう。」スウリヤは寝台の端に腰掛けると、じっと息子の嫁を見た。彼女の脳裡に、娘と出産後引き離された記憶が甦った。「いずれ父はわたしから神官を取りあげたように、お前から息子と娘を奪うつもりだ。これ以上、一族の血を汚さない為にも。」「そんな・・どうしてそんな酷い事を?」「父はわたしに期待していた。やがて自分の跡を継ぎ、妖狐族を統率する女帝として活躍してくれると。父はわたしの皇女という身分に見合う相手と結婚させようとしていたが、わたしは人間と恋に落ち、有匡と神官を産んだ。」有匡から幾度も聞いていた彼の境遇。彼は妖狐との混血児というだけで蔑まれ、利用されてきた。その所為で自分の血を濃く受け継ぐ子どもを望まなかったことも。だが息子と娘が産まれ、幼い頃母親に捨てられたと言う偽りの記憶に気づいた有匡は、自分達と新しい人生を歩み始めた。「先生から聞きました、スウリヤ様のことは。でも本当はスウリヤ様に捨てられたんじゃないって気づいて・・」「神官は・・わたしの艶夜は、どうしている?」「人間と結ばれて一児の母となっています。」「そうか・・わたしの子ども達はそれぞれ伴侶を得て満ち足りた生活を送っているのだな。わたしとは大違いだ。」スウリヤはそう言って言葉を切ると、自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。「スウリヤ様・・」火月はスウリヤが慈愛に満ちた表情を浮かべながら娘の髪を撫でるのを、黙って見ていた。彼女は、有匡と神官を自分の手元で育てたかったに違いない。だが有匡は夫に託し、身籠っていた神官は父親に奪われ、滅多に会う事が出来なかった。自分が産んだ子ども達が幸せを掴んだことを彼女が喜ぶのは、当然なのかもしれない。「スウリヤ様、ひとつお聞きしたいんですが・・」「何だ?」「スウリヤ様は、先生・・有匡様のことを愛していらっしゃいましたか?」暫し、2人の間に気まずい沈黙が流れた。「あの子が産んだ日、わたしは有仁と結ばれて良かったと・・彼を選んで良かったと思った。お前はどうなのだ、火月? 有匡を選んで後悔していないか?」「いいえ。」火月はそっと目を閉じ、有匡と結ばれるまでの出来事を思い出していた。「一人ぼっちだった僕に、優しく手を差し伸べてくれて、怪我を治してくれたのも先生だけでした。僕は、昔から自分の居場所は先生の傍にしかないと思ってます。それは今も変わりません。」火月の言葉にスウリヤは満足気な笑みを浮かべた。「父には何とかお前達のことを考えなおして貰うよう、説得してみる。」彼女はそう言うと、さっと立ち上がると部屋から出た。スウリヤが出て行き暫く経つと、外からガチャガチャと金属が擦れ合う音が聞こえたかと思うと、牢に武装した兵士が入ってきた。「なんですか、あなた方は?」火月がそう言って兵士達を睨むと、その中の一人が彼女の腕を掴んだ。「貴様が、カゲツだな。我々とともに来て貰おう。」「嫌です、子ども達を置いてはゆけません!」熱に魘されている娘と、不安がる息子を見ながら、火月は兵士達の手から逃れようとしたが、いともたやすく捕まえられてしまった。「母様を放せ!」仁が兵士の向こう脛を蹴飛ばしたが、逆に頬を殴られた。「仁、雛を・・姉上を守るのですよ!」「母様~!」兵士達によって牢に出された火月は、一体彼らが何処に向かっているのかが解らなかった。もしこのまま処刑され、夫や子ども達の元に戻れなかったら・・そう思うと、恐怖と不安で彼女の胸は押し潰しされそうだった。「一体僕を何処へ連れて行くというのです?」「煩い、黙れ!」兵士の一人が苛立った様子で火月の華奢な身体を突き飛ばした。「きゃぁっ!」彼女は強かに地面に腰を打ち、その痛みで顔を顰めた。「そこで何をしておる!」「ス、スウリヤ様・・」鞭のように鋭い声が頭上でしたかと思うと、兵士達が慌てて地面にひれ伏した。「大事ないか?」そう言って皇女スウリヤは火月に手を差しだした。「ありがとうございます。僕は大丈夫です。ですが子ども達が・・」「これからこの者をわたくしの部屋へ連れて行く。お前達、この女の子どもをわたくしの元へ。」「ですがスウリヤ様、わたくしどもは王に命じられ、この女を・・」「黙れ!この者はわたくしの義理の娘ぞ、わたくしに逆らう気か!?」スウリヤの全身から漂う凄まじい妖気を感じた兵士達は、すごすごとその場から立ち去っていった。「助けてくださって、ありがとうございました。」「これからはわたくしがそなたの面倒を見る。無論、二人の孫達もな。」「スウリヤ様・・」火月の真紅の双眸から、大粒の涙が流れた。「泣くでない。そなたは母親ぞ、我が子の前で決して涙を見せるでない。」「はい・・」その後火月はスウリヤに連れられ、彼女の部屋へと向かった。「そなたは今日からわたくし付の侍女だ。父上はわたくしの侍女であるそなたに惨いことはしまい。安心いたせ。」「あの、スウリヤ様、子ども達は・・」火月が牢に残してしまった子ども達の事を心配していると、廊下の向こうからパタパタとせわしい足音が聞こえたかと思うと、部屋に子ども達が入ってきた。「母様~!」「ははうえ~!」火月の姿を見るなり、仁と雛は顔を涙でグシャグシャにして彼女に抱きついた。(子ども達を守れるのは、僕しかいない!)スウリヤという強力な味方を得た今、火月は母親として一層強く生きようとしていた。一方現界では、有匡が妖狐界へと連れ去られた妻子を救出するための策を考えていた。『王は・・必ずお前の女房と子供を処刑する・・何も出来ずに居る自分を悔やむんだな・・』死に間際にあの男が遺した言葉を何度も反芻しながら、有匡は部屋を右往左往しているばかりだった。「有匡さん?」「何だ。」火月が部屋に入ると、有匡は亡き祖母の和琴を弄りながら溜息を吐いていた。「どうしたの、何か悩み事・・」「放っておいてくれ。」「何よそれ!あたしはあんたの事を心配して・・」火月は有匡の言い草にムカッときて彼の腕を掴むと、彼は乱暴にそれを振り払った。「お前には解らぬだろう、家族の元に駆け寄りたくても出来ぬ歯痒さが!」「あたしにはもう、両親は居ないわよ!その重い現実を受け入れられずに施設に行った後、何度も前に住んでいた家に行ったわ!でもそこは灰と化して何もなかったわ。夢にだって出て来てはくれなかった両親を、あたしは何度も恨んだことか・・」両親を亡くした時期のことを思い出していたら、自然と涙が出てきた。涙なんて、とうに涸れてしまったものかと思っていたのに。「・・あんたはいいわよね、あんたの事を待ってくれる家族が居るんだから・・」しゃくり上げる火月を前に、有匡はそっと彼女を抱き締めた。「何も知らずに酷い事を言って済まなかった。少し苛々していた。」「いいのよ。」火月がそう言って有匡に微笑んでいると、部屋の襖が開いて聡子が部屋に入って来た。「火月ちゃん、ご飯よ。あら、お邪魔だったかしら?」「お、叔母さんこれは違うの・・」「お邪魔虫は消えるわねぇ~」その後、夕食は気まずい空気になり、火月と有匡は居たたまれなかった。「ねぇ、今度の日曜、鶴ヶ岡八幡宮に行ってみない?そこで何か解るかもしれないし。」「ああ、そうだな。」日曜、火月と有匡は鶴ヶ岡八幡宮に来ていた。そこには何の変哲もない所だった。「何も変わった所はないわねぇ。」「ああ。」有匡が溜息を吐いて石段から降りようとした時、何かを見つけた。それは、妻・火月に送った紅玉(ルビー)の耳飾りだった。(一体どういう事だ?何故耳飾りがここに?)「どうしたの?」火月が石段の下で座り込んでいる有匡に声を掛けると、彼は紅玉の耳飾りを持っていた。「それ、奥さんの?」「ああ。まさかこんな所にあるなんて・・」有匡がそう言った時、彼の手の中で耳飾りが突然光った。“先生?”遠くから声が聞こえたかと思うと、有匡の前に妻が現れた。「火月・・火月なのか?」“ええ。先生、安心して下さい。僕と子ども達はスウリヤ様に良くして貰ってますから。”「母上に?いじめられたりはしていないか?」“大丈夫です。先生、僕達待ってますから・・必ず僕達を迎えに来てくださいね。”「ああ、解った。待っていろ、必ず・・」有匡が俯き、泣いているように火月は見えた。歴史書の中では「冷血漢」「血も涙もない陰陽師」として彼を酷評する資料があったが、それは違うと火月は思った。彼は冷血漢だったかもしれないが、家族の事を想って泣く夫でもあり、子を恋しがる一人の父親でもある。偏った解釈によって有匡は世間から「冷酷非情な陰陽師」という誤解を受けたまま、その名を残している。それを、誰かに信じて貰えなくても、火月は変えたいと思った。「・・きて良かったね。」「ああ。」帰りの電車内、二人はそう言葉を交わしただけで終始無言だった。火月はチラリと、隣で寝ている有匡の横顔を見た。切れ長の黒い瞳に、薄い唇。絶世の美男子が自分の肩に頭を預けて眠っている光景が珍しいのか、観光客らしき数人の女性達がちらちらと自分達の方を見ていた。「ねぇ、起きてよ。ねぇったら!」有匡を揺さ振ったが、彼はなかなか起きようとしない。(んもぅ~!)次第に苛々してきた火月は、思い切り彼に頭突きをくらわした。「何をする、この馬鹿女!」「うるさいわねぇ、あんたがさっさと起きないからでしょうが!」「何だと~!」(全く・・こんな女に同情したのが馬鹿だった!)(やっぱりこいつ最低!)一度は歩み寄れたものの、すぐさま火月と有匡は結局いがみ合ってしまうのだった。瞬く間に季節が過ぎ、火月たちが通う高校は夏休みに入った。「あ~、暑い!」火月はクーラーの効いた室内で宿題をしていると、有匡が和室から出てきた。「何だ、こんなに部屋を冷やさんと勉強ができんのか貴様は?」そう言うなり、彼はクーラーのスイッチを切った。「ちょっと、何すんのよ!」彼の手からリモコンを奪い返そうとするも、有匡はそうさせまいと腕を高く上げた。「大体、こんなもので涼を取るなど、邪道だな。見ろこの部屋の室温を。23度だぞ?」「ちょうどいいじゃん、それくらい。」「よくない!」有匡と火月がリビングで言い争っていると、玄関のチャイムが鳴った。「お前、出ろ。」「なんであたしが?あんたが出ればいいでしょう!あたしは宿題やってんの!」火月はそう言って有匡に背を向けると、ダイニングテーブルへと戻った。有匡がインターホンの画面を覗き込むと、そこには火月と同じクラスの男子生徒が立っていた。『あの、高原さん居ます?』「誰だ貴様は?火月に一体何のようだ?」不機嫌な表情を隠しもせずに有匡が男子生徒にそう問うと、彼は突然聞こえた男の声にビビッていた。顔は見えないが、有匡の怒りが彼に伝わったのだろう。「なに、どうしたの?」「お前に用があるらしい。」火月がインターホン画面を覗き込むと、彼女は嫌そうな顔をした。「ゲッ」「こいつを知ってるのか?」「知ってるも何も、関わりたくない奴だよ!あんたちょっと行って追い払ってきて!」「おい、人をこき使うのもいい加減にしろ!」有匡はそう言ってブチギレた。「何よ、鎌倉への交通費、誰が出したと思ってんの!?それに食事代だってあたしが全部出したでしょうが!」「だからといってお前に下男扱いなどされる憶えはないぞ!全く、似ているのは顔と名前だけだな!」「なんですってぇ~!」二人がギャーギャー言い合っていると、今度は玄関のドアが叩かれた。「高原さぁ~ん、居るんでしょう?」「あたしは留守ってことにして、お願いね!」火月はそう言ってダイニングテーブルに広げた宿題を掻き集めると、二階へと上がっていった。「火月なら留守だが、彼女に何か用か?」有匡が玄関のドアを開けると、そこには髪を金メッシュに染めた少年が立っていた。「どうも、近衛秀介です。高原さんとお話がしたいんですが・・」「居ないと言っているだろう。」不機嫌な表情を有匡が浮かべると、少年―秀介は彼から一歩後ずさった。「そうですか。じゃぁあなたでもいいや。」「は?」有匡が怪訝な顔をして秀介を見ると、彼は突然有匡の腕を掴んで外へと連れ出した。「おい、何処へ連れて行くつもりだ?」「すぐに済みますんで。」ニコニコしながら秀介は有匡の腕を引っ張ったまま、近所のファミレスへと入った。「何頼みます?僕の奢りだから、何でもいいですよ。」「その前に貴様は一体何者だ?火月に何を話したいんだ?」「何って・・あなた火月さんとどういう関係なんですか?まさか親戚とかありきりたりな嘘、僕には通じませんから。」先ほどまでニコニコとしていた秀介の顔が突然真顔となり、有匡の顔が険しくなった。「そんなプライベートなことを、何故お前に教える必要がある?」「だって僕は火月さんの許嫁だもの。恋敵が現れたとなっちゃ、行動を起こすのは当然でしょう?」秀介はそう言うと、ドリンクバーで取ってきた水を一気に飲み干した。「お前が火月の許嫁だと?お前の誇大妄想に付き合ってる暇などない。」有匡がさっと椅子から立ち上がろうとしたが、秀介がそれを阻んだ。「まだ話は終わってないよ。こっちはまだまだ聞きたいことがあるんだから。」「火月からお前の話は一度も聞いたことがないが、それでも許嫁と言えるのか?」「だから、その事を食事しながらそこら辺の事情を話そうとしてるんじゃない。」有匡は渋々と席に戻ると、秀介を睨んだ。(一体こいつは何を考えてる?)「さてと、何頼む?」「和食なら何でもいい。」「あっそ。じゃぁ僕はボロネーゼでも頼むね。あとポテトも。」秀介はそう言うと、呼び出しボタンを押した。初めて見るそれに、有匡は少し驚いてしまった。そんな彼を、秀介は馬鹿にしたような目つきで見た。「それで?お前が言う、“そこら辺の事情”とは何だ?」「話せば長くなるかなぁ。」秀介が次の言葉を継ごうとしたとき、店員がポテトを運んできた。「うちの母親と、火事で亡くなった火月さんの母親は、従姉妹同士なんだよね。所謂血族結婚ってやつ?従姉妹同士の子どもを結婚させて、家を繁栄させる目的でするんだ。今じゃぁ珍しいけれどね。」淡々とポテトを頬張りながら話す秀介を、有匡は睨みつけていた。火月の母親と、秀介の母親・頼子は従姉妹同士で、更に近衛家と高原家は姻戚関係であった。家同士の結束を固めるため、両家の間では幾度となく血族結婚を繰り返してきた。その所為で、精神障害を抱えたりする者が多く生まれ、その者は座敷牢にて戦前は監禁されていたという。「要するに、血の歪(ひずみ)が顕著に現れてしまったってことだね。でも両家は血族結婚を止めようとはしなかった。ただ一人、火月さんの母親を除いては。」そう言葉を切った秀介は、コーラを一口飲んだ。「彼女は因習を忌み嫌い、家を出て東京である男性と交際した後、結婚した。それが火月さんの父親の、高階晃さん。」秀介は鞄の中から一枚の写真を取り出し、有匡に見せた。そこには、笑顔で火月の両親が映っていた。眼鏡を掛けた火月の父親は、人が良さそうな顔をしていた。「高階さんの実家は、明治から続く旧華族の家柄でね。彼に嫁いだ火月さんの母親―璃妃(りひ)さんは、親戚連中から陰湿ないじめを受けて、堪え切れず自殺未遂までしたそうだ。結局は晃さんが実家と絶縁したんだけれど、火月さんが生まれたことを知った高原家の連中が、彼らを家ごと焼き殺した。」秀介の言葉を聞き、有匡は胸がざわつくのを感じた。家の為に、殺人までいとわない連中が、この世には居るのだ。「それで?何故そんな話をわたしに?」「火月さんは、僕と共に京都に行くんだ。そこで夫婦の契りを交わす為にね。」「夫婦の契りだと!?」有匡は思わずグラスに入った水を秀介に掛けた。「そんなに興奮しないでよ。夫婦の契りといっても、形だけさ。火月さんに手を出すつもりはないから、安心して。」怒りをあらわにする有匡とは対照的に、秀介は飄々とした表情を浮かべながらそう言うと、彼の肩を叩いた。「火月は、知っているのか?自分の両親を、母親の親戚が殺したことを?」「知る訳ないじゃない。それに、彼女のお祖母さんが轢き逃げに遭ったことだって、怪しいもんだよ。」「何だと?」「彼女のお祖母さん・・朱鷺さんだっけ?彼女、火月さんの母親が抱えている事情を知っていてね、嫁と孫娘を守ろうと高原家にもう二人に手を出してくれるなと忠告したそうだ。その後、彼女は事故に遭った。」「まさか、彼女も。」「その可能性は高いね。あなたをここに呼んだのは、連中は火月さんを手に入れる為なら、どんな卑怯で悪辣なことなんて厭わないってこと。」「憶えておこう。」有匡はそう言って漸く和定食に箸を付けたが、それはすっかり冷めきってしまっていた。「ただいま。」「お帰り。ご飯は?」「もう食べてきた。それよりも火月、何か両親の事で聞いていないか?」「え、何突然?」二階から降りて来た火月は、そう言って有匡を見た。「いや、何でもない。少し部屋で休むから、静かにしていてくれ。」有匡はさっさと和室に入っていってしまった。「変な奴・・」火月は首を傾げながら、浴室へと入っていった。朱鷺の部屋に入った有匡は、和琴を弄りながら秀介からファミレスで聞いた話を整理してみた。火月を狙っているのが彼女の母親の実家であるとしたら、彼女を手に入れるまで連中は諦めないだろう。何とか彼女を守らなければ―そう思いながら有匡が和琴を爪弾いていると、彼の前に一人の青年が現れた。「お前・・青龍か?」「左様。主に伝言があり。」「伝言?」「火月様は妖狐族の宮城にて見合いをなさっておられるご様子。」「見合い?」有匡は、青龍(しきがみ)からの報告に驚きで目を見開いた。何故、こんなことになってしまったのだろう。「火月様、聞いておられますか?」「は、はい・・」鎌倉から遠く離れた妖狐族の宮城の一室で、火月は自分と向かい合わせに座っている男を見た。夫が自分達を迎えに来るその日を待って、姑・スウリヤの女官となった火月は慌ただしい毎日を過ごしていた。そんな中、彼女に突然縁談が舞い込んだ。相手は貿易都市を牛耳る名家の息子で、宮城に王家への献上品を納品した際、火月を見染めたという。勿論火月は断ったものの、スウリヤは一度会うだけでいいと言ったので、会ってみることにしたのだが―「火月様には、お子様がおられるとか。」「ええ、男女の双子がおります。」「そうですか。お恥ずかしいことですが、わたしには子どもが出来ない身でしてね。後継者が居ないとわたしの代で家が途絶えてしまう。でもそれを聞いて安心いたしました。」「あ、あの・・」完全に相手のペースに呑まれそうになっている火月の元に、スウリヤがやって来た。「もうその辺にしといてくださいませぬか、リィヤ殿。あなたがどんなに愛の言葉を囁こうと、彼女には届きませぬ故。」「それは、どういう意味です、スウリヤ様?」「彼女には愛する夫が居るのですよ。ですからこの縁談は白紙に・・」「そうですか。」リィヤは突然椅子から立ち上がると、火月の手を握った。「それを知ったら、俄然あなたを諦めきれなくなりましたよ。」「リィヤ様、放してください。」火月がそう言ってリィヤの手を振りほどくと、彼は不満そうな顔をした。「あなたの夫は、今何処で何をしておられるのです?こんなに美しいあなたを放ったらかしにして・・」「夫は・・先生は必ず僕達の元に戻ってきます!ですからあなたと結婚するつもりはありません!」「夫への操立てですか。いいでしょう、あなたがそのつもりならわたしは絶対にあなたを諦めません。」リィヤはそう言うと、火月の頬にキスして部屋から出て行った。「困ったことになったの、火月よ。あの者の事はわたしに任せるがよい。」「はい、お義母様。では仕事に戻ります。」火月はスウリヤに頭を下げて部屋から出ると、途中で華やかな衣装に身を包んだ少女達の一団と廊下ですれ違った。以前スウリヤが話していた西国の皇女・蓮華(れんげ)達だろうか。火月が脇に寄って少女達に頭を下げていると、彼女達の中で一番華やかな衣装を纏った少女がすいっと火月の前に出た。「あなたが、火月様?」「ええ、そうですけれど・・」「初めまして、わたくしは蓮華と申します。スウリヤ様の御親族だと聞いたのだけれど、少しあなたとお話がしたいの。宜しいかしら?」「構いませんが・・」「そう、ではこちらへ。」蓮華はそう言って火月を自分の部屋へと連れて行った。「土御門有匡様の北の方様が、まさかあなたなんて驚きましたわ。確かあなたは、紅牙族の出身ですわよね?」「ええ、それがどうかなさいましたか?」「実は近頃、紅牙族に不穏な動きがあるという噂があってね。あなたがそれについて何か知っているのではないのかと思って・・」唐土に住む紅牙族達の近況を知らない火月にとって、蓮華の話は寝耳に水だった。「さぁ、存じ上げません。」「そう、それならいいわ。」蓮華はそう言うと、優雅な仕草で茶器を持った。その夜、宮城では蓮華を歓迎する宴が開かれた。王(ハーン)は美女に囲まれながら目の前で美女の舞を眺めては酒を飲んでいた。それを横目で見ながらスウリヤは苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべており、彼女付の女官達も苦々しい顔をしていた。女達はほとんど半裸に近い状態の衣装を纏い、惜しげもなく乳房を王の前に晒していた。仮にも外国の賓客の、しかも皇女の前でそのような無作法な振る舞いをするとは常識に欠けている。「父上には困ったものだ。蓮華様が見ていらっしゃるというのに・・」「ええ、全くです。わたくしが王に一言申し上げて参りましょうか?」スウリヤの傍に控えていた護衛官・紫苑がそう言って動こうとすると、スウリヤはそれを制した。「止せ。父上の事は放っておくがよい。ここは蓮華様に任せよ。」「ですが・・」「見事な舞でしたわ。わたくしの為に国中の美女を集めてくださってありがとう。」宴も終わりかけようとしている頃、蓮華はそう言って美女たちの舞に拍手を送った。「蓮華様にそう言っていただけると嬉しいですな。誰か気に入った娘でもおりましたか?」王はそう言うと、美しい皇女の横顔をちらちらと見た。「いいえ。それよりも王、最近紅牙族の事で不穏な噂があるのはご存知?」「ええ。何でも長年対立していた人間と和解したとか。ですがそれを快く思わぬ連中が人間の里を襲ったとか・・」王の言葉に、火月は動揺して持っていた皿を割ってしまった。「あ、すいません!」「何をしておる、宴の最中に!」「申し訳ございません・・」火月を睨みつけた王は、立ち上がるなり彼女の腕を掴んで自分の前に引き摺りだした。「誰か剣を持ってまいれ、この者を討つ!」「お待ちくだされ、王!皿を割っただけにございます、どうか怒りをお収めに・・」紫苑が慌てて両者の間に割って入ったが、王は彼の頬を殴った。「黙れ!お前の事は前々から気に入らなかったのだ!」「どうかお願いです、お命だけはお助け下さい・・」恐怖で顔を引き攣(つ)らせながらも、火月は必死に命乞いをした。「お待ちください、王。わたくしはそのような些細な事で気分を害したりはいたしませんわ。その者をわたくしに免じてお許しくださいな。」蓮華の玲瓏とした声が広間に響き渡り、王は怒りで顔を一瞬歪めたが、火月を乱暴にスウリヤの方へと突き飛ばすと、再び玉座に腰を下ろした。「ありがとうございます、蓮華様。」「お礼を言っていただかなくても結構よ。それよりも紅牙族の事も心配だけれども、鬼族の事も気掛かりね。」「鬼族、ですか?」「ええ。何でもあなたの夫に鬼族の若君が火傷を負わされたとか。それで鬼族達は怒り狂っているそうよ。」「そんな事が・・」「だから用心をするに越したことはないわ。決して一人になっては駄目よ、解った?」「はい、解りました。」蓮華皇女から忠告を受け、火月は有匡の身に何かが起こるのではないのかという一抹の不安を抱きながら、眠れぬ夜を過ごした。一方人間界では、火月達の元に一通の招待状が届いた。「豪華客船のチケットじゃない、これ?」「確かこの前、マスコミで取り上げられていたやつ?でもどうしてこの船の招待状があたし達の所に?」火月がそう言って招待状の送り主を確かめようと封筒の裏を見ると、そこには秀介の名と住所が書かれていた。数日後、有匡と火月は、豪華客船・イリアス号に乗船した。6月に就航したばかりのイリアス号は、映画館やプール、ナイトクラブやエステなどが併設されているまさに“動くホテル”そのものだった。何故イリアス号のチケットをあの秀介が贈ってきたのか、火月は理解できなかった。「ねぇ、あんた秀介と何か話したんでしょう?何話したの?」「飯を奢って貰っただけだ。それよりも秀介って奴は信用できんな。」「でしょう?何だか腹の底で何考えてるのか解らないっていうか・・気味が悪いのよね。」火月がそう言いながら客室のカードキーを挿し込んで中に入ると、そこには噂の人物が居た。「やぁ、久しぶり、高原さん。」「何であんたがここに居るの!?」「僕が贈ったチケットの部屋番号、僕の部屋番号と同じだから。あぁ、心配しないで。僕はこの人と寝るから。」有匡の腕を掴んでそう言うと、秀介は火月に微笑んだ。「貴様、一体どういうつもりだ?」「別に。僕はただ彼女を守りたいだけ。そういえばあなた、独身?」「いいや。妻と双子の娘と息子が居る。」「妻子持ちかぁ、それはそれでいいかもね。障害がある恋愛の方が燃えるって言われてるもんねぇ。」「何故そんな方向に話を持って来るんだ、貴様は?」ディナーの為に選んだドレスをフィッティングルームで試着している火月を待ちながら、有匡と秀介は火花を散らしていた。「お待たせ~!」フィッティングルームから出てきた火月は、裾にレースがふんだんと使われている薔薇色のドレスを纏っていた。「似合うね、高原さん。僕の見立ては間違っていなかったよ。」「どう、少しは見直したでしょう?」火月はそう言って有匡を見た。「ふん、馬子にも衣装だな。見掛けだけは騙せても、普段の立ち居振る舞いで化けの皮が剥がれるぞ。」「何よムカつく~!」火月は怒りで顔を引き攣らせ、ドレスの裾を摘んで有匡に背を向けた。「女心が解っていませんね。まぁそんなあなたでも結婚出来たんだからいいですよね。」「ほう、僻んで居るのか?まぁ貴様のような自己中心的な男には誰にも相手にされんな。」「へぇ、そうですか。相手にされなくて結構です。僕は独りが好きなんですよ。」有匡と秀介が言い争いながら大広間へと向かっていると、突然奥の通路から女性の悲鳴が聞こえた。「どうかなさいましたか?」「ひ、人が死んでるのっ!」彼女がそう言って指した先には、血だまりの中で倒れている振袖姿の少女の姿があった。「嗚呼、お嬢様!何てお姿に!」部屋のドアが開き、朽葉色の着物を着た70代の老婆が出て来て、少女の方に駆け寄ってきた。「お嬢様、目を開けてくださいませ~!」突然豪華客船内で起きた殺人事件に、乗客達は騒然となった。「全く、冗談じゃありませんわ!優雅なヴァカンスを期待しておりましたのに、殺人事件だなんて・・」厚化粧をして両手の指全てに指輪を嵌めた紫のドレスを纏った太い女がヒステリックにそう叫ぶと、有匡を見た。「そこのあなた、警察でしょ?何とかなさいな!」「何を言っているんだ、この婆。わたしは警察でも何でもないぞ。」「んまぁ、目上の者に対して失礼な物言いね!わたくしが誰だか知らないの?わたくしは大野木京子、この船のオーナー夫人よ!この船で一番偉いのよ、お解り?」女がドヤ顔で自己紹介する脇を有匡はさっさと通り過ぎ、大広間へと向かった。「どうしたの、何かあった?」大広間で開かれているパーティーに有匡が遅れて入ってきたので、火月はそう言って彼を見た。「ああ。途中で変なのに絡まれてな。確か大野木とかいったか。」「大野木って、日本で五指に入る財閥じゃない?確かこの船のオーナーだったわね。」「そのオーナー夫人が妙に威張り散らしていてな。殺人事件が発生して折角の休暇が台無しだとか文句を垂れていてな。」「殺人事件?何でそれ早く言ってくれないのよ!」「言っても何もしないだろう。わたし達は警察ではないんだからな。こういった事はその道のプロに任せた方が良いとは思わないか?」「そうね。あ、何か食べる?」火月はそう言ってドレスの裾を摘むと、ビュッフェテーブルへと向かった。そこには、一流パティシエが作ったスイーツやシェフが腕を振るった料理などが並んでいた。「全く、色気よりも食い気だな。うわべだけ着飾っても、何の意味もない。」「何よぉ、あんたってムカつくわね!あんたの奥さんはどうして自己中心的で俺様なあんたの何処に惹かれたんだか・・」「青臭いガキのお前に、男女の恋愛について講釈しても仕方なかろう。まぁ、妻とは紆余曲折があってな、今の幸せを掴むために色々と辛い思いをした。」「そう・・」少し寂しげな有匡の顔を見て、火月は何も言えなかった。「それにしても、被害者の子って、誰か解る?」「さぁな。ただ、部屋から和服姿の女性がやって来て“お嬢様”と叫んでたな。」「ふぅん、どんな顔だった?」「知らん。婆を撒くのに必死だったからな。」有匡がそう言って日本酒を飲んでいると、大広間に太った女が入って来て彼の方へと近づいて来た。「まぁあなた、さっきは良くもわたくしを虚仮にしてくれたわね!」「何故こういう場には日本酒が少ないんだろうな?」「さぁね、余り好きじゃない人が多いからじゃない。」「ちょっと、聞いてるの!」女を完全に無視して、有匡は火月に秀介のことを話した。「あいつのお母さんと、亡くなったあたしのお母さんと従姉妹同士だなんて、初めて聞いた。お母さん、そんなの話してくれなかったから・・」「それはそうだろうな。お前が亡くなった祖母が、母親の実家からお前を守ろうとしていたようだし。余り高原家に関わらないに越したことはない。」有匡がそう言って言葉を切ったとき、大広間に少女の遺体に駆け寄った老女が入ってくるなり、有匡の方へと駆け寄ってきた。「お願いです、お嬢様を生き返らせてくださいませ!」「何を言っている。訳が解らんぞ?」「どうか、お願いです!お嬢様を、多喜子様を生き返らせてくださいませ!」額を地面に擦りつけんばかりに老女が有匡に土下座すると、周囲の目が彼らに向けられた。「詳しい事情を聞こうか。行くぞ。」「う、うん・・」先ほどから秀介の姿が見えないことに気づいた火月だったが、慌てて有匡の後を追った。「それで?何故わたしがあの少女を生き返らせなければならん?」老女に連れられて二人が入ったのは、ロココ調の華美な家具と内装に囲まれた部屋だった。「わたくしは一度、あなたが死んだ鷹の雛を生き返らせたのを見ました。」「ああ、その事か・・」鎌倉への帰り、途中で有匡は地面に転がっていた鷹の雛を呪術で生き返らせたことがあったが、それを老女が見ていたとは知らなかった。「どうかお願いいたします、多喜子お嬢様を生き返らせてください。報酬はいくらでも払いますから!」「馬鹿を言え。死者の反魂など、禁術だ。誰一人として反魂に成功した者はいない。諦めるのだな。」「そんな・・もう高原家の直系の娘は、多喜子お嬢様しか居られないというのに!」老女の言葉に、部屋を出て行こうとした有匡の足が止まった。「今、何と?」「申し遅れました。わたくしは高原清と申します。」老女はそう言って、有匡に取り縋った。「どうか、お嬢様を・・」「行くぞ。」「う、うん・・」有匡は老女を振り払い、部屋から出た。「あの人、どうしちゃったんだろ?」「さぁな。」大広間にある階段を上がった先には、ひとつの隠し扉があった。そこには、ある団体が会合を開いていた。「いらっしゃいませ。どうぞ。」「ありがとう。」秀介は受付の男から仮面を受け取り、隠し扉を開けた。そこは舞台と客席があり、舞台には1人の男が台に横たえられていた。「皆様、ようこそお越しいただきました。これより儀式を始めます。」舞台袖から白装束を纏った男が登場し、錫杖を鳴らしながら呪文を唱え始めた。すると台に横たえられていた男が悶え苦しみ、血を吐いて息絶えた。「さぁ皆さん、この太刀で聖なる血を浴びましょう!」仮面を付けた数十人の男女は、次々と男の遺体に刃を突き刺した。「これで皆さんは神からご加護を賜ったのです。さぁ、祝福の宴を開きましょう!」(とことん悪趣味だな・・高原家もここまで堕ちるとは・・)「旦那様、大変です!多喜子様が・・」「多喜子がどうかしたのか?」「先ほど身罷られました!」部下の言葉に、周囲の者達がざわめいた。「何ということだ・・多喜子が・・高原の血を継ぐ娘が、死んだ!」男はそう叫んで頭を抱えると、床に蹲った。「おのれ、誰が多喜子を殺したのだ!」「それが・・」部下が、男の耳元に何かを囁いた。「一体これはどういうことだ!?」「旦那様・・」男が愛娘・多喜子の部屋へと入ると、彼女は寝台に寝かされていた。一見眠っているようにも思えたが、彼女の顔からは血の気がひき、蝋のように白い。「多喜子、本当に死んでしまったのか・・」男はそう言うと、そっと娘の手を握った。その手は、氷のように冷たかった。「旦那様、お嬢様を・・」「清、お前がついておりながら、何故多喜子を守っていなかった!」「申し訳ありません!」老女はそう言って床に蹲り、泣き崩れた。「これで高原家直系の娘は途絶えた。これからどうすればよいのだ。」「その事ですが旦那様、わたくしに考えがございます。」「申してみよ。」清は俯いていた顔を上げ、主を見た。「実はこの船に、陰陽師が乗っております。彼に反魂を頼めば、きっとお嬢様は生き返りましょう。」「そうか。では、その陰陽師を呼んで参れ。」「かしこまりました。」老女はそう言って部屋から出て行った。「多喜子、待っているがよい。必ずそなたを生き返らせてみせよう。」男はそっと亡くなった娘の額を撫でた。(今夜は色々と疲れた・・)部屋へと戻った有匡は、そう思いながら溜息を吐くと、タキシードを脱いで夜着に着替えた。「あ、先に戻っていたんですか。」「随分と遅かったな。今まで何処に行っていた?」「ちょっと船内を散歩していただけですよ。それよりも火月さんは?」「あいつなら自分の部屋で休んでる。」有匡はそう言うと、ベッドに横たわった。変な物音に目覚めて彼が起きたのは、深夜2時半過ぎだった。ドアの外をカリカリと、誰かが爪でひっかくような音が聞こえた。(気の所為か・・)有匡がそう決め込んで無視していると、ドアが乱暴に蹴破られ、顔を白い布で覆った数人の男達が雪崩れ込んできた。「何だ、貴様ら!?」「申し訳ないが、我々と来て貰おう。」抵抗する間もなく、有匡は男達によって目隠しをされたままある部屋へと連れて行かれた。「旦那様、陰陽師めを連れて参りました。」「そうか。その者の目隠しを外せ。」そっと目隠しを外され、有匡は自分の前に白装束を纏った男が立っていることに気づいた。「誰だ、貴様は?」「わたしは高原正親(まさちか)、高原家19代目当主だ。貴殿が陰陽師であることを聞き、頼みがある。」「娘を蘇生させるのは無理だ。」「それでは高原の家が滅ぶのを、黙って見ていろと!?」「貴様の家が滅ぼうが滅びまいが、わたしには関係ない。夜中に人を叩き起こして無理難題を吹っ掛けるな!」低血圧の有匡は不機嫌さを隠さずにそう男に怒鳴りつけると、部屋から出ていった。「あの陰陽師、一筋縄ではいきませんね。どうなさいます、旦那様?」「焦るな。まだ策はある。」正親は、そう言うと多喜子の遺体を見た。(わたしは必ず、娘を生き返らせる!)一方、火月が部屋で寝ていると、誰かが入ってくる気配がした。「誰?」ランプをつけようと手を伸ばした火月は、その前に何者かに液体を染み込ませたハンカチを無理矢理嗅がされ、気絶した。「火月、居るのか?」翌朝、有匡が火月の部屋をノックしたが、中から返事がなかった。不審に思った彼がカードキーを挿し込んで中に入ると、そこには誰も居なかった。「火月?」浴室やトイレまで探したが、彼女の姿は何処にもなかった。(一体何が・・)「どうしたの?」「火月が居ない。船内の何処かに監禁されているのかもしれん。」「どうしてそう言いきれるの?まさか高原家の者に何かされそうになった?」「ああ。手分けして火月を探すぞ。」有匡と秀介が船内を捜索している間、火月はあの部屋の寝台に寝かされていた。「ん・・」「気が付かれましたか?」彼女が目を開けると、そこにはあの老女が立っていた。「あなた、昨夜の・・」「憶えてくださってくれたのですね。」火月は寝台からゆっくりと起き上がると、自分が振袖を纏っていることに初めて気づいた。真紅の布地に金色の蝶が飛んでいる図柄のそれは、何処かで見覚えがあった。「どうしてあたしはここに居る訳?」「それは、あなたが高原の血を受け継ぐ娘だからです。」「え・・」老女の言葉に、火月は驚きで目を見開いた。「ご存知なかったのですか、ご自分が神聖なる高原の血を継いでいらっしゃることを。ああ、あなたのお母様は高原家を嫌い、家を出ていきましたものね。知らないのは当然ですね。」老女はそっと火月の頬を撫でると、ほくそ笑んだ。「これで、家が滅ぶ心配はありません。なぜなら、あなたが居るのですから。」「あたしを、どうする気?」「それは旦那様がお決めになることです。それまで暫くここで大人しくしていてくださいね。」老女はそう言って部屋から出ると、ドアに結界を張った。「どうだった?」秀介の問いに、有匡は首を横に振った。「何処か彼女が行きそうな所って、ないかなぁ?」「さぁな・・」有匡が彼と通路を歩いていると、彼は突然火月の“気”を感じた。(あそこは、確か・・)「どうしたの?」「火月の居場所が解った。」有匡はそう言うなり、あの少女の部屋へと向かった。「ここだ。」「灯台下暗(もとくら)しってやつか。まどろっこしいのは嫌だから、さっさと入ろうか。」秀介がドアを開けようとドアノブに手を掛けようとした時、火花が飛び散った。「うわっ、何だよ!」「結界が張られている。外部からの侵入を防ぐためだな。」「それじゃ、破ってよ。」「馬鹿か。他人の結界を破るのは無謀だ。」そう言うと、有匡は数珠を取り出し、祭文を唱え始めた。「居たぞ、あいつだ!」「二人を生け捕りにしろ、逃がすな!」(チッ、邪魔が入ったか。)あと少しで火月を救出出来るところだった有匡は、後ろ髪を引かれる思いで部屋の前から去った。「全く、一体どうなってるんだか!」「それはこっちの台詞だ!」数人の男達に追われながら、有匡と秀介はデッキへと出た。「もう逃がすまいぞ!」「捕えろ!」男達が動き始めた時、上空から何かが光ったかと思うと、男達が血しぶきを上げて倒れた。「また会えたのう、陰陽師よ。」蒼いドレスの裾を翻しながら、金髪の少女―悠葉(ゆずは)がそう言って有匡と秀介の前に姿を現した。「貴様に構っている暇ではない。そこを退け。」「ふん、折角助けてやったというのに礼もなしか。」悠葉はそう言うと、鼻を鳴らした。「何の用だ?貴様と遊んでいる暇はないんだ。」「そうか。では、お前を殺すまでだ!」悠葉は床を蹴ると、有匡に向かって斬りかかってきた。有匡は彼の攻撃を避けながら、咄嗟にデッキに飾ってあった洋剣を掴んで応戦した。「ほう、なかなかやるな。」顔の前で刃を交えると、悠葉は余裕綽々とした表情を浮かべ、口端を歪めて笑った。その時、遠くから火月の声が聞こえたかと思うと、彼女がデッキに現れた。「火月、来るな!」「あり・・」「余所見をするでない!」悠葉は有匡の向こう脛を蹴ると、彼の手から洋剣を奪い、首の前で交差して床に彼を押し倒した。「下手に動くでないぞ。」「何してんのよ!」悠葉に向かって火月が怒鳴ると、彼はじろりと火月を睨んだ。「小娘、邪魔をするな。邪魔立てすると貴様も海の藻屑にしてやろう。」悠葉はさっと立ち上がると、火月の方へと突進した。だが、一発の銃弾が彼の胸を貫いた。「おのれ・・」「良かった、こんな時に銀の銃弾持ってて。」涼やかな声が背後から聞こえ、火月が振り向くと、そこには拳銃を構えた秀介の姿があった。「貴様、よくも!」「火月様、逃がしはいたしませんよ!」慌しい足音が聞こえたかと思うと、老女と白装束の男達がデッキに雪崩れ込んできた。「来ないで!来たらここから飛び降りてやるから!」火月は船尾へと向かうと、その裏側へと回った。「火月様、お気を確かに!さぁ、落ち着いてこちらへ!」「嫌よ、誰があんたらの言いなりになるかっての!」火月が老女達にそう怒鳴ったとき、突然突風がデッキを襲った。「火月!」有匡は首の前で交差する剣を二本とも抜くと、船尾で悲鳴を上げている火月の方へと駆け寄った。「掴まれ!」「きゃぁ~!」あと少しというところで火月が有匡の手を掴もうとしたとき、新たな突風にあおられ、海中へと落ちてしまった。有匡はためらいもせずに冷たい海の中へと飛び込んだ。激しい潮の流れの中、彼は火月の身体を抱き締めた。「火月様・・あぁ、なんてことでしょう!高原家の最後の希望が!」老女は二人が消えた海を見つめ、悲嘆に暮れた。「海の藻屑と化したか、陰陽師よ。哀れよの。」悠葉はそう言って笑うと、姿を消した。波音が聞こえ、海岸に打ち上げられた火月が目を開けると、そこには自分を抱き締めたまま気絶している有匡が居た。「ねぇ、起きてよ。」火月は有匡の頬を叩くと、彼は激しく咳き込んで海水を吐き出した。「さっさとどけ、重くてかなわん。」「さっきはいい奴だと思ってたけど・・やっぱりあんたって最低!」こんな非常時でも、二人はいがみ合ってしまうのだった。「一体ここ何処なのよ?まさか無人島だったりして。」豪華客船のデッキから海に転落し、何処かの海岸へと流れついた火月と有匡は海岸を離れ、人里を探しに森の中へと入っていった。「さぁな。船が今何処に居るのかは解らんが、わたし達が遭難していることは向こうに伝わっていると思うだろう。」「あんたねぇ、何でこんな時に冷静な訳?もう少し慌てたら?」「無駄なパニックは命取りだ。式神に情報収集させてあるし、奴らに聞けば住む事だ。」「あっそ。それよりもお腹空いたなぁ。何か持ってない?」「持ってる訳がないだろう、あんな状況で。それとも何か?今すぐ海に戻って魚でも獲って来いと?」「あたしにしろっていうの?か弱い乙女に裸になれって?」「何処かか弱いんだ?勝手な行動はするわ、向こう見ずだわ、煩く怒鳴るわ・・こういう所は変に妻に似るものだな。」「はいはい、悪かったわねぇ。それにしても暑いったらありゃしない。」水を吸った振袖は徐々に乾き始めてはいるものの、暑くて仕方がない。グタグダと火月が文句を垂れながら森の中を歩いていると、やがて目の前に道が開け、遥か遠くに村と思しきものが見えてきた。「無人島じゃなくて良かった!これで食べ物にありつけるよ!」火月が歓声を上げながら村へと駆けてゆくのを、有匡はあきれ顔で見ていた。(全く、馬鹿な女だな・・)妻と名前も顔も同じだが、性格は全く違う。一つ自分が嫌味を言えば、彼女はそれを十も返してくる。その所為で火月と顔を合わせるたびにいがみ合ってしまう。ただでさえ妖狐界に居る妻の身を案じてストレスを感じているのに、彼女との低次元の争いで無駄なエネルギーを使いたくない。かといって、彼女と歩み寄るつもりはないし、どうしたらよいのか・・「きゃぁ~!」遠くから火月の悲鳴が聞こえ、有匡が彼女の方へと駆け寄ると、そこには鍬(くわ)や鋤(すき)、槍で武装した村人達が彼女を取り囲んでいた。「一体何をした!?」「何もしてないって!村に入ってきたら突然囲まれたんだから!」有匡が火月の方へと一歩近づくと、村人達が彼の喉元に槍を突き付けた。「お前達、何者だ?」そう言ったのは、顔に鮮やかな刺青を彫った褐色の肌をした青年だった。「わたし達は怪しい者ではない。遭難し、ここに流れ着いてきた。」「解った、話を聞こう。」青年は槍を収めると、村人達に向かって何かを命令した。彼らは解らぬ言葉で口々に喚いていたが、青年が一喝すると一斉に黙り込んだ。どうやら青年は、村のリーダー的存在らしい。「村長がお前達を呼んでいる。」「解った。」恐怖で顔を引き攣らせている火月の手を握りながら、有匡は青年の後に黙ってついていった。するとそこには、周囲の茅葺屋根の家と比べて煉瓦の頑丈な造りの家が目の前に現れた。「村長、侵入者を連れて来ました。」「解った、入れ。」贅を尽くした大理石で作られた玄関ホールに三人が入ると、廊下の奥から若い男の声が聞こえてきた。青年とともに廊下のつきあたりにある部屋を入ると、そこはペルシャ絨毯がひかれ、優美なヴィクトリア様式のソファに横たわった一人の白人男性が居た。年の頃は30前後といったところだろうか、注文服(オートクチュール)の高級スーツを着こなしている姿からして、何処かの貴族だろう。「シキ、お前は下がっていろ。」「解りました。」シキと呼ばれた青年はそう言って白人男性に頭を下げると、部屋から出て行った。「初めまして。わたしはレイモンド、この村を統治する者だ。あなた方は?」彼はそう口を開くと、好奇心を剥き出しにした視線を有匡に送った。「遭難して、この島に流れ着いたものだ。」「そうですか、それは大変だったでしょう。確かこの前、ニュースでそんな事をやっていたな。」この村の“村長”・レイモンドはそう言うと、今朝の朝刊を有匡達に見せた。そこには、『豪華客船に暴風雨襲う、男女二人未だに不明』という一面記事が載っていた。「この記事に書かれているのは、あなた方のことかな?」「はい、そうです。」「ではわたしが連絡しておくから、暫く我が家でゆっくりと身体を休めてください。遠慮は要りませんよ。」「ありがとうございます。」レイモンドの言葉に多少ひっかかりを感じた有匡だったが、素直に彼の好意に甘えることにした。「シキ、彼らをお部屋へ案内しろ。」「かしこまりました、旦那様。」先程の青年がリビングに入ってきて、有匡と火月を寝室へと案内した。「ひとつだけ言っておく、奴の事は余り信用するな。痛い目をみるぞ。」「それは一体どういう・・」有匡がそう言って青年を問いただそうとした時、リビングのドアからレイモンドが顔を出した。「シキ、無駄口を叩いてないで早く行け!怠け者に金はやらないからな!」そんな言葉を投げつけられたシキは怒りで一瞬顔をどす黒くさせたが、レイモンドに向かって黙礼すると、二階へと向かっていった。「あいつが“村長”か?何処かいけ好かない奴だな。」「ああ。表面上あいつが村長だが、みんなはあいつに辟易しているんだ。金持ちの道楽でこの島を私物化して、俺達の生活を壊しているんだ。」シキはレイモンドへの嫌悪を滲ませた口調で言うと、豪華な絨毯に唾を吐いた。どうやら彼は、あの村人達に憎まれているようだ。「ここが、お前達の部屋だ。」シキに案内されたのは、まるで新婚夫婦が使うような部屋で、寝台にはハート形の花弁が飾られていた。「何か勘違いしているようだが、わたし達は新婚じゃないぞ。」「そうか、済まん。」シキはそう言うと、そそくさと花弁を片付けた。「この村はいつからレイモンドの支配下になった?ここは何処だ?」「ここはアバソロ島だ。丁度お前達が乗った船の航行ルートにある。農業と漁業が主な産業だが、数年前からあのレイモンドが観光業を始めた。その所為で余所者がこの島の生態系や伝統、文化を破壊した。今やあいつのような強欲な禿鷹野郎どもがこの島に跋扈(ばっこ)してやがる。」「シキと言ったな?顔の刺青にはどういった意味がある?」「これか?」シキはそっと顔の刺青を撫でた。「これは古くから俺達民族に伝わる神との契約だ。神はこの島に精霊を遣わせ、俺達の祖先とともにこの島の秩序と自然、伝統を守ってきた。」「それをあのレイモンドが壊したということか。それと同時に、神の怒りを買ってしまったのか?」「まぁ、そうなるな。実際、この島を通りかかる船や飛行機は必ず嵐に襲われる。」シキは淡々とした口調で有匡にアバソロ島の歴史を掻い摘んで説明してくれた。「お前達が乗った船は無事にフランスの港に着いた。いずれ助けが来るだろう。」「暫く世話になる、宜しく頼む。」有匡がそうシキに頭を下げると、彼は苦笑して彼に右手を差し出した。「こちらこそ宜しく頼む、アリマサ。」男達の間に友情が生まれた時、火月は村の女達が集まるある場所へと向かっていた。「ここは何処なの?」「ここは観光客への土産物を作る場所さ。今からあんたに仕事を教えるからね。」そう言って火月の前に一人の太った女がやってきた。「あのう、あなたは?」「あたしかい?あたしはここの責任者の、マテーシャさ。あんた、裁縫は出来るかい?」「え、ええ・・」「そうかい。じゃぁあっちで先輩達に仕事を教えて貰いな。」女は太った身体を揺すりながら、作業場から出て行った。(何なの、あの婆。カンジ悪っ!)火月はモヤモヤとした気持ちを抱えながら女達が集まっている場所へと向かうと、彼女達は刺青を彫った顔を一斉に自分に向けた。「初めまして、火月です・・」「どうも。あたしはリンガル。それでこっちはメイシャさ。じゃぁ早速仕事を始めるよ。誰かこの子に裁縫箱を持って来て!」背の高い女・リンガルがそう声を張り上げると、何処からともなく螺鈿細工が施された黒塗りの裁縫箱が火月の前に現れた。彼女が中を開けてみると、そこにはよく手入れされた裁ち鋏と糸切り鋏、待ち針などの裁縫道具が整然と仕舞われていた。「あんたにはこの図柄を刺繍して貰うよ。」そうリンガルが火月に渡したのは、不死鳥が描かれた紙だった。「何か難しそうですね。」「ちょっとしたコツがあるからね。」先程の偉そうにしているマテーシャとは違い、リンガルは懇切丁寧に刺繍の仕方を火月に教えてくれた。「あの、皆さんはいつもこんな事をなさっているんですか?」「生活の為さ。昔は魚が沢山獲れたけど、あの禿鷹野郎が来てからはさっぱりさ。男達は出稼ぎで留守にしているし、あたし達が家計を支えてんのさ。」女達は仕事の手を休めずに、生活が苦しい事などをそれぞれ愚痴っていた。「ここは“楽園の島”って呼ばれてるけど、ありゃ嘘っぱちさ。あいつが来てからあたし達はいつも食いっぱぐれてるのに。」火月は女達の話を聞きながら刺繍を施していると、それはいつの間にか完成していた。「今日はお疲れさん。」「あのう、あたしと一緒に居た男は?」「多分レイモンドの館だろうね。ここだけの話だけど・・」リンガルは突然声を落とすと、火月の耳元に何かを囁いた。「え、何か女癖悪そうな顔してたのに、そっちだったんですか?」「まぁ、人はみかけによらないからね。さてと、今夜はあたしの家に来ておくれ。」リンガルに手をひかれ、火月は作業場を出て彼女の家へと向かった。彼女家は、村を抜け、島一番の観光スポットとなっている旧市街に建ち並ぶアパートの一室だった。まるで中世ヨーロッパを思わせるかのような石畳の道を歩きながら、火月は風光明媚な街並みに見惚れていた。「ようこそ、我が家へ。」「お世話になります。」火月が頭を下げると、リンガルは彼女に優しく微笑んだ。一方、レイモンドの館にある客間に泊まることになった有匡は寝台で寝ていると、不意に胸の上に誰かがのしかかっている感覚がして目を開けた。「誰だ?」「君、良い身体をしているね。」レイモンドの声が闇の中から聞こえたかと思うと、レイモンドが有匡の顔をぬぅっと覗きこんだ。「貴様、何しに来た?」「何って、君を抱きに来たのさ。」レイモンドはそう言うと、有匡の引き締まった腹筋を見て舌なめずりした。「近寄るな!」「ふふ、そう怯えないで。痛みは一瞬だよ・・」夜着を脱がそうとしてきたレイモンドの顔を、有匡は裏拳で殴った。「そうか、君はこういうプレイが好きなんだね!」「何を言う!」どうやらレイモンドはMだったようで、さっきのは逆効果だった。「やめろ、近づくな!」「もっと僕をいじめてよ!」レイモンドが迫って来た時、不意に彼の後頭部を誰かが殴った。「大丈夫か?」気絶したレイモンドの顔を踏みつけているのは、シキだった。「礼を言う、もう少しでこいつに犯されるところだった・・」疲労困憊した有匡は荒い息を吐きながらシキを見ると、彼は腰に巻いていた荒縄でレイモンドの身体を縛った。「まぁこいつは男が好きでな。お前のような美男子を見つけると、自分の館に招き入れて色々と遊ぶんだ。犠牲にならずに済んだが。アリマサ、俺とともに来てほしい所がある。」「解った・・」有匡とシキが出て行った部屋の天井には、亀甲縛りで縛られたレイモンドが吊るされていた。彼と共に向かったのは、深い緑で覆われているジャングルの中だった。「こっちだ。」闇の中を難なく走り抜けるシキの後を、有匡は必死でついてゆくしかなかった。「何処へ向かってるんだ?」「神が祀られている祭壇だ。あと少しで着く。」神が祀られている祭壇は、ジャングルの中にひっそりとあった。石にはシキの刺青と同じ文様が彫られていた。「荒れているな。」「昔は俺達がこの祭壇に魚や木の実を捧げ、敬ってきた。だがあいつが来てから神は蔑ろにされたことを怒っている。」「そうか・・」有匡がそっと祭壇に手を置くと、石が脈打ったような気がした。「どうした?」「石が脈打ったような気がした。気のせいか。」「そうか。」シキがそう言った瞬間、祭壇が突如蒼い光に包まれた。「何だ!?」「一体何が・・」激しい揺れに襲われ、有匡とシキは身を屈めた。“わたしの家で何をしておる”玲瓏な声が直接頭の中に響いてきたので、二人が周囲を見渡すと、そこには真紅の衣と烏帽子を被った男が祭壇の前に立っていた。彼の全身から発せられる“気”を感じたとき、彼がこの島を守る神だと有匡は悟った。「あなたは、この島を守る神か?」“そうだ。わたしはこの島を古より守ってきた。だが、余所から来た男がこの島を滅茶苦茶にした。”「あなたの怒りは良く解る。しかし、罪なき人間の命を弄ぶのは神にあるまじき所業。どうか怒りを収めてくれぬか?」有匡の説得に、男は美しい眦を上げた。“それはできぬ。人間など信じられぬ。”そう言った彼の横顔が、酷く寂しいものに見えた。かつて人々に崇められ、尊敬された神は人間の欲により蔑ろにされ、魔物へと変貌しつつある。それほど、彼の怒りは凄まじいものなのだ。「どうか気をお鎮めください、神よ!わたくし達が愚かでした!」シキが男の前に身を投げ出し、そう言って彼に跪いた。“もう遅い・・”島を守っていた神は突風を吹かせると、有匡とシキの前から消えてしまった。「パパ、雨が降ってきたよ。」「何だ、せっかく来たのに・・これじゃぁ台無しだな。」観光客向けのプライベートビーチ上空に突如黒雲が覆い、バーベキューをしていた家族連れがそう言いながらゴミを海に捨ててホテルの中へと戻ろうとした。その時、激しい雷鳴が轟いた。“愚かな人間どもよ、思い知れ”稲光が一瞬光ったかと思うと、それはプライベートビーチ全体を襲い、全てを焼き尽くした。にほんブログ村
画像は、てんぱる様からお借りしました。「火宵の月」の二次創作小説です。作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。色々と捏造設定ありです、苦手な方はご注意ください。西暦1333年夏、唐土。鎌倉陰陽師・土御門有匡は、妻・火月と息子と娘を連れ、紅牙の村へとやって来た。「火月、久しぶり~!」有匡と火月が子どもたちの手を引きながら広い草原の中を歩いていると、遠くで火月の友人・禍蛇が手を振っていた。「禍蛇、久しぶり。ねぇ、もう動いて大丈夫なの?」そう言って火月は禍蛇の少し膨らんだ下腹を見た。禍蛇は一昨年長年の幼馴染であった琥龍と結婚し、三人の子宝に恵まれ、現在第四子を妊娠中だ。「大丈夫だよ。悪阻も少し治まったし。それよりも琥龍がさぁ、また女んとこ泊まってたんだよね。」禍蛇は深い溜息を吐きながら下腹を擦った。「禍蛇おばさん、こんにちは。」「こんにちは。」有匡と火月との間に産まれた雛(すう)と仁(じん)が、そう言って禍蛇に頭を下げた。「雛と仁、会わない内に大きくなったねぇ。雛、変な男に引っかかっちゃ駄目だぞ。」「はぁい。」雛は禍蛇の言葉の意味も判らずに無邪気に答えた。「余り娘に変なことを吹き込まないで貰おうか。」不機嫌な表情を浮かべながら、有匡はそう言って禍蛇を睨んだ。「はいはい、わかったよ。みんな待ってるから、もう行こう。」禍蛇は雛と仁の手を引きながら、村へと向かった。「どうやらあのサルは相変わらずのようだな。」有匡は溜息を吐きながら火月を見た。「そうみたいですね。」「まぁ、サルが何かしでかしたらあいつらが始末するだろう。」「もう、先生ったら・・」紅牙の村で、有匡達は楽しい休日を過ごした。「ねぇ、先生、もし生まれ変わっても僕と一緒にいたいと思います?」その夜、火月は自分を抱き締めている夫を見上げながらそう言って彼を見た。「愚問だな、それは。」有匡はそう言って妻の唇を塞いだ。窓の外に広がる漆黒の闇空に、流れ星が光った。「生まれ変わっても、ずっと僕は先生の傍にいますからね。」西暦2009年、春・鎌倉。「ここが、伝説の陰陽師・土御門有匡(つちみかどまさ)の邸跡かぁ。」鎌倉市内が見下ろせる小高い山の中で、一人の少女がそう言って溜息を吐いた。輝く金髪を春風になびかせ、真紅の瞳を煌めかせている彼女の姿は、まるで地上に舞い降りた天女のようだった。「火月、こんなところにいたの。もうすぐバスの時間だよ~!」背後から友人の声がして、少女は振り向いた。「ごめん、今行く~!」少女は友人に返事をして、そっと目の前に建てられている石碑にそっと触れると、山を下り始めた。「もう、一体何してたの?あんな山ん中で。」「へへっ、ちょっとね。伝説の陰陽師様の邸跡を見てきたの。」鶴岡八幡宮へと向かうバスの中で、少女はそう言って瞳を輝かせながら友人を見た。「歴女だねぇ、あんた。ここに来てまでそんなマイナーな所行くなんてさぁ。」友人が呆れたようにそう言うと少女を見て溜息を吐いた。「マイナーじゃないもん、あたしにとって土御門有匡様は憧れのスターなんだから。」少女はそう言って携帯を開いた。そこには先ほど訪れた土御門有匡邸跡に建てられていた石碑が写っていた。「あ~、有匡様が現代に生きてたらなぁ~。」「あんたはそればっかりだね。いい、あんたの大好きな有匡様は六百七十年前に死んだの!いい加減現実見て彼氏作りなって。」友人の言葉を聞いた少女は溜息を吐いて窓の外を見た。少女の名は、火月という。彼女が最近夢中になっているものは、鎌倉時代末期に活躍した稀代の陰陽師・土御門有匡だ。というのも、三年前に受験生だった彼女は書店で参考書を買おうとして、ある一冊の本に目が止まったのだ。その本は、土御門有匡を主人公とした小説『紅玉』シリーズだった。丁度受験勉強で疲れていた彼女はそのシリーズを買い漁り、たちまち主人公の土御門有匡に惚れ込んでしまった。高校に入学し、華の女子高生となった火月は土御門有匡についての資料などを読み漁り、瞬く間に「歴女」となった。そして高校に入って春の遠足の目的地が鎌倉だと知った彼女は狂喜乱舞し、土御門有匡が実際に住んでいた邸を訪れて先ほど一人興奮していたのである。「もうすぐ鶴岡八幡宮だよ。うわぁ~、桜が綺麗だねぇ。」友人は窓の外から見える若宮大路の桜並木を眺めながらそう言って溜息を吐いた。「ここ、小説で何度か出てるんだよね。本物の有匡様も、あの石段を上ったのかなぁ。」バスから降りながら火月はそう言って辺りを見渡した。「あんたはそれしかないねぇ・・」すっかりテンションが最高潮に達した火月の後を、友人があきれ顔でついていった。火月が石段を上ろうとした時、誰かに呼ばれたような気がした。「どうしたの?」「ううん、何でもない。」気の所為かーそう思いながら火月が本殿へと向かうと、また誰かに呼ばれた気がした。「ねぇ、今何か聞こえなかった?」「ううん、別に。どうかしたの?」「うん、ちょっと誰かに呼ばれた気がして・・」火月がそう言った時、背後に人の気配がした。ゆっくりと彼女がそちらを振り返ると、そこには直衣を纏い、烏帽子を被った男性がじっとこちらを見つめていた。「あの~、何かわたしの顔についてますか?」そう言って火月が男性に一歩近づくと、彼女を抱き締めてこう呟いた。「やっと見つけた。」「え?何言って・・」突然現れた男に抱き締められ、彼の腕の中にいる火月は状況が全く把握できずにパニックに陥った。男はそんな彼女の様子などお構いなしに、そっと彼女の金髪を一房掴んで自分の方に振り向かせると、桜色の唇を自分のそれで塞いだ。「んんっ」火月は男を押し退けようと彼の胸を押したが、女の力ではビクともしない。(一体何なの、こいつ?訳分かんない。)男の舌が生き物のように火月の口腔内を這いずり回った。本当は気持ちが悪いのに、何故か男の濃厚なキスは気持ちが良い。脳裡に、走馬灯のようにある光景が浮かんでは消えてゆく。金髪紅眼の少年と直衣姿の男が見つめ合う光景や、その男が自分に向かって優しく微笑む姿などが。「はぁっ」漸く男がそっと塞いでいた唇を離すと、火月は小さく喘いで彼を睨んだ。「感じたか?」自分のファーストキスを奪っておいて、澄ました顔でそう言った男の頬めがけて、火月は拳を振り上げた。「この変態!」春の青空に、鈍い音がこだました。「火月、大丈夫?」「大丈夫なんかじゃないって!ファーストキス奪われたんだよ、あの変態に!」男にパンチを喰らわせ、足音荒く鶴岡八幡宮から去って行った火月は、帰りのバスの中でそう叫んで友人を見た。「それにしても、あいつ変な格好してたよね。源氏物語に出て来そうなカンジの。コスプレか映画かなんかの撮影だったのかなぁ?」「知らないよ、そんなの!それよりもあたしのファーストキスを返せ~!」やがてファーストキスを謎の男に奪われ怒り狂う火月を乗せたバスは鎌倉を出て東京へと入り、彼女が通う高校に着いた時には青かった空が茜色に染まり始めていた。「火月、美味しいもの食べて機嫌直そうよ。奢るからさ。」「え、マジで!」先ほどまでの不機嫌さは何処へやら、友人の言葉を聞いた途端に火月の顔がぱぁっと明るくなった。二人はいつも放課後に立ち寄るファミレスに入った。時間帯が夕飯時で、しかも土日とあってか、店内は家族連れなどでごった返していた。「どうする、出直す?」「ううん、別にいいよ。二人だからすぐ空くでしょ。」火月はそう言った時、レジへと向かう男子高校生の姿が目に入った。そこには、彼女が最も会いたくない人物がいた。「久しぶりだなぁ、火月。」「猛(たける)・・」メッシュでライトブラウンに染めた髪に、腰パン姿の男子高校生の名は猛。火月の元彼。「なぁ火月、今度隣のカノジョと一緒に合コンやろうぜ。昔みたいに面白おかしくやろうや。」「さっさとあたしの前から消えて。」火月は猛に冷たくそう言い放つと、彼に背を向けて歩き始めた。「ちっ、可愛気のない奴。」猛が毒々しい言葉とともにあからさまに舌打ちすると、仲間と共にファミレスから出て行った。「大丈夫?」「うん、大丈夫。今夜は思いっ切りお腹いっぱい食べるから、よろしく!」「ええ~!」数分後、火月は友人とファミレスの前で別れ、満腹になった腹を擦りながら自宅へと歩き出した。自宅まで後少しというところで、火月が何かの気配を感じて振り向くと、公園の茂みから唸り声と共に一匹の野犬が躍り出て来た。「何、こいつ・・」突然現れた野犬を、火月はじっと睨んだ。野犬は彼女に怯むことなく、鋭い牙を剥き出して唸りながら徐々に彼女との距離を詰めてくる。火月はバッグの中からカッターナイフを取り出すと、その刃を野犬に向けた。「近寄ったらこいつで刺すわよ!」だが野犬は勢いよく火月に襲い掛かり、その弾みでカッターが彼女の手から離れた。「誰か、助けて~!」火月は必死に叫んだが、住宅街の中からその住民が出てくる気配が全くしなかった。(このまま、あたし死んじゃうのかな?)あの頃と同じような感覚に、火月は捉われた。両親と共に炎に包まれた家の中で頭から血を流して掠れた声で助けを呼んでいた頃に。―誰か、助けて・・こんな所で、死にたくない。「助けて!」涙を流して火月がそう叫んだ瞬間、眩い光が野犬と彼女を包んだ。すると野犬は火月から離れ、今度は光に向かって唸り始めた。「縛鬼伏邪(ばっきふくじゃ)、急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」黒犬は光の中から出て来た何かによって倒された。火月は恐る恐る顔を上げて辺りを見ると、黒犬がいた辺りには一匹の青龍がいた。(これって、夢?)試しに頬を引っ張ると、痛みを感じた。やがて光が消え、その中心から人影が現れた。「大丈夫か?」その人影は、鶴岡八幡宮で自分のファーストキスを奪ったあの男だった。「あ、あんた、何でここに?」「お前の気を追ってここまで来たら、あの魔物がお前に襲いかかろうとしたので退治したまでだ。」「変態の上にストーカー!?うわ、超キモいんですけど!」火月はそう言って男から後ずさった。「命を助けてやったというのに、礼ひとつも言えないのか、小娘。」男がムッとしたような顔でそう言うと火月を睨んだ。「小娘って何よ!あたしにはね、火月っていう立派な名前があるんです!あんたって本当最低ね、オッサン!」「無礼なのは貴様の方だ。わたしはオッサンではない。土御門有匡(つちみかどありまさ)という名がある。」男は眉間に皺を寄せながら火月を睨んだ。「え、今なんて・・」「若いのに耳が悪いのか、お前は?わたしは土御門有匡だ。」(土御門有匡って、あたしが憧れている最強の陰陽師様がこいつなの!?)まさか六百年以上前に生きていた憧れの“有匡様”がこんな変態で最低で態度がデカイ男だったとは、信じたくはなかった。「信じないわ、クールで、セクシーで最強な有匡様が、こんな態度デカくて変態で最低な野郎なんて、わたしは絶対に信じないわ!」「おい。」「ああ、でも一説によると有匡様ってクソ意地悪い性格だったって言うし・・人間一つや二つは欠点くらいあるわよね・・」「何をブツブツ言ってるんだ、貴様?脳天に虫でも湧いたか?」謎の男―土御門有匡はそう言って怪訝そうな表情を浮かべながら火月を見た。(憧れの有匡様に折角会えたんだもの、この際変態だろうが態度デカかろうが、全部目を瞑ってやるわ!)「有匡様ぁ~、お会いしたかったですぅ~!」火月は両目を潤ませながら有匡に抱きついた。「ヌン!」有匡は火月の額に紙のようなものを貼った。「何これ?」「動きを封じる札だ。」「やっぱりあんたって最低~!」火月の絶叫が、都会の夜空にこだました。その頃、東京から遠く離れたハノイの路地裏で、一人の男が何かから必死に逃げていた。“こんなところにいたのか。”男がほっと安堵の溜息を吐き、壁にもたれて座っていると、頭上から氷のように冷たい声が降って来た。彼がゆっくりと声がした方を見上げると、そこには一人の少女が長い金髪をなびかせながら蒼い瞳で彼を睨んでいた。「お願いだ、見逃してくれ!」“そうはいかないな。お前は知り過ぎた。”少女はにぃっと口端を歪めて笑いながら、男の前に立った。獣のように鋭い犬歯が、少女が笑うたびにちらりと覗いた。「お、俺には家族が・・お願いだ、命だけは!」“笑止。”男の返り血で少女が纏っている純白のアオザイが真紅に彩られた。彼女は愛おしそうに顔に付いた男の血を舐めた。“やはり人間の血は美味い。”少女は男の遺体に近づいて跪くと、持っていた刀でそれを突き刺した。“こんなところでそんなものを食べるでない、身体を壊しても知らぬぞ。”少女が男の遺体から臓腑を引き摺りだそうとした時、背後で玲瓏とした音楽的な美しい声が少女の耳に響いた。そこに立っていたのは、熱帯夜だというのに長身を漆黒のスーツを纏い、じっと蒼い瞳で少女を愛おしそうに見つめる一人の男だった。“良いではありませぬか、兄者。こんなものでも、俺にとっては貴重な蛋白源なのですから。”“ならぬものはならぬ。兄の言う事が聞けぬと申すのか?”男の言葉を聞いた少女は舌打ちし、男の遺体から離れた。“お前にはもっといい獲物をやろうぞ、愛しい弟よ。”男は少女の頬を撫でながら、彼女の唇を塞いだ。二人の姿はやがて闇の中へと消えていった。「どうぞ、有匡様。狭い家ですけど上がってくださいな。」火月はそう言って、憧れの陰陽師・土御門有匡とともに我が家に入った。「・・随分と狭い家だな。わたしの邸(いえ)とは大違いだ。」「あらぁ、それは済みません。でもわたしにとってはお城のようなものですのよ~。」(何よこいつ、家が狭くて悪かったわね!あんたみたいにうちの叔父さんはセレブじゃないのよ!この家だって叔父さんがこつこつと貯めてやっと建てた夢のマイホームなんだから!)「まぁいい、邪魔するぞ。」有匡はそう言うと浅沓(くつ)を脱いでさっさと家に上がった。「ただいま~!」火月が彼と共にリビングに入ると、そこには叔父夫婦と従弟の小学三年生の彌(わたる)が夕食を囲んでいた。「火月姉ちゃん、お帰り。その人、誰?」「ああ、この人はね、姉ちゃんの命を助けてくれた恩人なのよ。」「へぇ~、変な格好だね!」「なんだ、このクソ餓鬼は。目上の者に対して無礼だろう。」彌の言葉に気分を害した有匡は、そう言ってじろりと彼を睨んだ。「この子は彌っていって、あたしの従弟よ。彌、この人は土御門有匡さんよ。」「え、土御門有匡って、あの有匡様?」はじめは不審そうに有匡の顔を見ていた彌の目がぱぁっと輝いた。「は、初めまして、有匡様!さっきは失礼な事を言ってごめんなさい!」(この女といい、餓鬼といい、何なんだ一体。絶対脳天に虫が湧いているな。)「火月ちゃん、夕食は食べてきたの?」叔母の聡子がそう言って姪を見た。「うん。ファミレスで食べてきた。」「そう。じゃぁそちらの方はまだなのね。」聡子はちらりと有匡の方を見ながら、テーブルに鶏の唐揚げが載った皿を置いた。「すいません、こんなものしかありませんけどどうぞ召し上がってください。」「肉は余り食べないが、まぁいい。丁度腹が減っていたところだから食べてやるとするか。」(お前、何様のつもりだよ・・。)箸で唐揚げを摘んでいる有匡を見ながら、火月は心の中で彼に悪態をついた。「ねぇ火月ちゃん、あの人随分と失礼な人ねぇ。イケメンだけど。」洗い物を手伝っていた火月に、聡子はそう言って彌とテレビゲームをしている有匡をちらりと見た。「ごめんなさい叔母さん、あいつ今までセレブだったからわたし達庶民と生活感覚が違うのよ、許してあげて。」「そう。それなら仕方がないけれど、ムカつくわぁ~。」聡子は笑顔を浮かべていたが、目は笑っていなかった。「有匡様、ゲーム上手いね。」「ふん、こんなもの魔物に比べれば大したことはない。それにしても、こんな所に泊まっていいのか?」「いいに決まってるよ。だって有匡様は火月姉ちゃんの恩人だもん!母さんは有匡様のこと、余り好きじゃないみたいだけれど。」「そう言うのならここで世話になってやってもいい。で、わたしは今夜何処に寝るんだ?」数分後、彌に案内されて有匡が入ったのは、六畳半の和室だった。「ここは?」「亡くなったお祖母ちゃんの部屋だよ。狭いけど我慢してね。」「御帳台は何処にある?」「お布団なら其処に敷いてあるよ。じゃぁまた明日ね。」自分の部屋とは勝手が違う和室の中で、有匡は布団に包まりながらゆっくりと目を閉じた。こうして鎌倉時代からやって来た俺様陰陽師と、ある一家の奇妙な同居生活が幕を開けた。どこからか綺麗な音がする。火月はゆっくりとベッドから起き上がって部屋から出ると、一階に下りた。音は、和室から聞こえて来た。そっと襖を開けると、そこには亡き祖母が生前愛用していた和琴を奏でる有匡の姿があった。「それ、お祖母ちゃんの・・」「起こしたか。」有匡は和琴を奏でる手を止めて、チラリと火月を見た。「さっきこの和琴の主が夢に出てきてな。大切な孫娘を守って欲しいと言われた。」「お祖母ちゃんが、あんたの夢に?」火月の祖母は五年前に帰宅途中、轢き逃げに遭って亡くなった。幼い頃両親を火事で亡くし、叔父夫婦の元に引き取られた火月にとって、祖母は母親代わりで、何でも相談できる存在だった。「ああ。お前を狙っている者が近々お前の傍に現れるから用心しろと。それと、自分を殺した犯人はお前の近くに潜んでいるとな。」そう言って有匡は火月を見た。「お祖母ちゃんね、五年前に轢き逃げに遭って死んだの。犯人はまだ捕まってないけど、黄緑色の車が現場付近で目撃されたって聞いたわ。」「そうか。お前の祖母の事故、少し調べてみた方が良さそうだ。」有匡は和琴を床の間に置くと、ゆっくりと立ち上がった。「何処行くの?」「風呂だ。身体を清めて神仏とコンタクトを取るのは陰陽師の基本中の基本だからな。」「朝風呂!?あのさぁ、ガス代うち今節約してんの。我がまま言わないでくれる?」「ちっ、まぁいい。」有匡は不機嫌そうな表情を浮かべながら和室から出てリビングに入った。「火月姉ちゃん、有匡様、おはよう。」トーストの香ばしい匂いが漂い、火月は自分の席へと座ってトーストを一枚頬張った。「朝はやっぱりトーストよね。」そう言って火月が隣の有匡を見ると、彼は朝食に手をつけていない。「どうしたの?何かアレルギーでもあんの?」「いや、わたしは和食派なんでな。」「有匡さん、郷に入っては郷に従えっていう言葉があるでしょう?うちにお世話になっている限りは、こちらのルールに従って貰うわよ、おわかり?」聡子は氷のような笑みを浮かべながらそう言って目玉焼きを皿に載せた。一瞬、リビングに季節はずれのブリザードが吹き荒れたような気がした。有匡は無言でトーストを一口齧った。「美味いな。」「母さん、僕もう行くね。」彌(わたる)はそう言ってランドセルを背負い、トーストを咥えてリビングから飛び出していった。「有匡さん、ちょっといいかしら?」火月と彌(わたる)、允(まこと)が次々と家を飛び出して行った後、食器を洗っていた聡子はそう言って有匡に手招きした。「何だ?」「彌(わたる)が手提げ袋忘れて行っちゃったの。学校まで届けてくださらない?」有匡はテーブルの下に置かれたオレンジ色の手提げ袋を見た。「わかった。何処まで届ければいい?」「東田小学校って聞けばすぐに着くわよ。じゃぁ、宜しくね。」(全く、何でわたしがこんなことをしなければならないんだ。)溜息を吐きながら、有匡は手提げ袋を肩からぶら下げながら歩き出した。「全く、ここに来てから碌なことがないな・・」居候先の子どもが忘れていった手提げ袋を肩から下げながら、鎌倉時代からやって来た最強の陰陽師・土御門有匡はそう言って溜息を吐いた。彼がこの時代に来てから半日。あの日、妻・火月とともに鶴岡八幡宮を訪れていた有匡はそこで激しい揺れに遭い、気づいたら違う時代にいた。時空の狭間に呑み込まれ、自分が生きていた時代とは違う時代(ところ)に飛ばされてしまったことは何故か理解できた。だが、此処から元の時代に戻る術が判らない。(死返珠(まかるがえしのたま)さえあれば元の時代に戻る事は簡単だが、問題はそれをわたしが持っていないということだ。)実父の形見で、土御門家当主の証である死返珠は、鎌倉で土御門家への縁切りとしてその使者に突き返したことを有匡は急に思い出した。(火月は今、どうしているかな。)脳裡に、金髪紅眼の美しい妻の笑顔が浮かんだ。この時代にも彼女と同じ名と容姿を持つ少女が居るが、彼女と妻とは全くの別人だ。この時代の「火月」とは、全く反りが合わない。生意気で口が悪い。何故あんな少女の名が、奇しくも愛しい妻と同じ名なのか、未だに信じられない。有匡は溜息を吐きながらふと空を見上げると、そこには分厚い鼠色の雲が太陽を覆い隠していた。雨が降る前に手提げ袋を届けなければー有匡は考え事を中断し、歩を速めた。「ねぇ、曇ってきたよ。」その頃、彌は窓から外を見ながら、親友の大谷登を見た。「じゃぁドッヂ出来ねぇな。つまんねぇの。」大谷君はそう言って舌打ちした。その時、彼の肩辺りに何か黒いものが取り巻いていることに彌は気づいた。「ねぇ、登。何か肩に黒いものが・・」彌がそう言って登の肩にそっと触れようとすると、彼はゆっくりと彌に振り向いた。「ああ、これ?俺の友達だよ。困った時に助けてくれるんだ、俺の事。」登は口端を歪めて彌に笑った。その笑顔は、いつもの溌剌とした本来の彼の笑顔とは程遠い、とてつもなく邪悪で昏いものだった。「ねぇ、どうしたの、登?今日何か変だよ?」「変?俺はいたって普通だよ。なぁ彌、俺の事好きだよな?」「う、うん好きだよ。それがどうしたの?」「じゃぁ俺と一緒に死んでくれる?」登はそう言ってポケットから何かを取り出した。それは工作の時に使うカッターナイフだった。「や、やめてよ。登の事好きだけど、僕はまだ生きたいよ。」「ふぅん、そう?じゃぁ仕方ないなぁ。」カッターナイフを握り締め、自分にゆっくりと迫って来る登の影に、何か変なものが映った。言葉では言い表せないほどの、恐ろしいもの。「ねぇ登、変だよ。気分でも悪いの?危ないからそれ、しまってよ。」彌はそう言ってゆっくりと登からあとずさったが、彼は何も言わずに恐ろしい笑みを浮かべながら自分に迫って来る。やがて遠くから雷鳴が聞こえ、稲光とともに影の正体が一瞬視えた。金髪をなびかせた、美しい少女。彼女が、登を操っているー彌は何故かそう思った。「彌、ごめんな。」登はカッターナイフの刃を彌めがけて振り下ろした。「縛鬼伏邪(ばっきふくじゃ)、急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」教室の入り口から力強い声がして、一羽の鳳凰が登めがけて飛んできた。“おのれ・・”登を操っていた金髪の少女が鳳凰の攻撃を受けて低く呻いた。「そいつから離れて貰おうか。痛い目に遭いたくなければな。」教室の入り口で有匡はそう言って少女を睨むと、祭文を唱え始めた。すると登が急に頭を抱えて苦しみ始めた。“この・・人間風情が!”少女は有匡を睨みつけると、黒い瘴気を彼めがけて放った。「業火招来!」黒い瘴気は紅蓮の炎に焼かれて霧散した。その直後、少女が耳を劈(つんざ)くような悲鳴を上げた。「もう一度言う、そいつから離れろ。」少女はゆっくりと俯いていた顔を上げた。その美しい顔の左半分は、酷く焼け爛(ただ)れていた。“覚えておれ!”少女は黒い瘴気を纏いながら掻き消え、それまで少女に操られていた登は力なく床に倒れた。「登!しっかりしろよ!」彌(わたる)は親友に駆け寄り、彼の身体を激しく揺さ振った。「大丈夫、気絶しているだけだ。」有匡はそう言うと、登に向かって何かを呟くと彼から離れた。「有匡様、さっきの人は一体誰なの?」「さぁ、わからん。ただ邪悪な物であることは確かだ。いつこいつとお前に襲い掛かってくるかもしれぬから、こいつに護りを施しておいた。」そう言って有匡はチラリと登が首に提げている家の鍵を見た。「護り?」「ああ。こいつに何か危険な事があれば式神が動く。」「登を助けてくれてありがとう。」彌は有匡に抱きつきながらそう言って彼に微笑んだ。ふと有匡が教室を見渡すと、そこには唖然とした様子の児童達が彼を見ていた。「彌、そのおじさん誰?知ってる人?」それまで一部始終を遠巻きに見ていた女子児童の一人が、恐る恐るそう言って彌に声を掛けた。「佐々木さん、この人は土御門有匡様。最強の陰陽師なんだよ!」「おんみょうじって、さっき変なやつ倒したの、この人なの?」「そうだよ!」「ねぇ、その人占いできる?」佐々木というその児童は、そう言って有匡をじっと見た。「占いはできるが、無料(ただ)ではできんな。」有匡は冷たい口調で彼女に言った後、彌の方に向き直った。「これを届けに来た。」オレンジ色の手提げ袋を彌に手渡した後、有匡は彼に背を向けて教室から出て行こうとした。「有匡様、もう帰っちゃうの?」「ああ、用事は済ませたしな。」「もうちょっとゆっくりして行ってよ。」彌は天使のような笑顔を浮かべながら有匡の手を掴んだ。「授業はどうするんだ?もうそろそろ始まりそうだが。」有匡は壁に掛けられていた時計をちらりと見た。「大丈夫、先生はイケメン好きだから有匡様のこと気に入るよ。」そういう問題ではないと思うのだが・・。有匡は心の中で彌の発言に突っ込みを入れながら、溜息を吐いた。「少しだけなら遊んでやってもいい。」「やったぁ!」はしゃぐ彌の姿に、有匡は息子の姿を重ねた。彌(わたる)に忘れ物を届けて帰る筈が、何故か有匡は彼の担任教師を占う羽目になってしまった。「今年のあなたの運気は少し悪いです。特に恋愛・結婚運においては最悪です。」そう言って目の前に椅子に座っている女性を見ると、彼女は酷く落ち込んだ様子で溜息を吐いた。「どうしよう、わたしもうすぐ三十なのに・・このまま孤独死するのかしら?」彼女はそう言うと遠い目で窓の外を見つめた。「有匡様、もうちょっとオブラートに言えないの?」隣に立っている彌が有匡を睨みながら言った。「大丈夫だ、ちゃんとフォローするから。恋愛・結婚運は最悪ですが、今年の秋以降に運命の人と出逢うことでしょう。終わり。」意気消沈しまくった女性に素っ気ない口調でそう告げると、有匡はさっさと椅子から立ち上がって教室から出て行った。「待って!」廊下を歩いていると、先ほど占いを依頼してきた女子児童が追いかけて来た。「何だ、占いなら無料ではやらんぞ。」有匡はじろりと彼女を睨みながら言った。「これで、占って頂けるかしら?」彼女はそう言って有匡に一万円札を差し出した。小学生が一万円を持っているなど、一体どんな金銭感覚をしているんだー有匡はちらりと彼女を見ながら溜息を吐いた。「その金はどうした?」「お祖母様からいただいたのよ。あのね、占って頂きたいのはわたしではなくてお母様なの。」「そうか。ならばこの金は受け取る訳にはいかぬな。親戚から貰った金ではなく、お前が自分で稼いだ金でしかわたしは受け取らん。」有匡はそう言って彼女に一万円札を突き返すと、さっさと小学校から出て行った。甘ったれた金持ちの我がまま娘―有匡はあの少女にそんな第一印象を持った。恐らく物心ついた頃から両親や親族の愛情を注がれて育ち、今まで苦労や挫折などの経験が皆無なのだろう。それ故に、金にものを言わせて自分の母親の鑑定を頼んで来たに違いない。彼女と同じ年くらいの頃、自分は実父を亡くし京の土御門家で散々辛酸を舐めてきた。己の身体に流れる妖狐の血と、妖狐の力が自分をいつも苦しめて来た。だが皮肉にも妖狐の力が絶大な呪力を自分に与えた。だから鎌倉最強の陰陽師としての地位に君臨してきたのだ。これまで妖狐の自分を頑なに拒絶してきたが、その“存在”を完全に消し去るより受け容れることを選んだ。その所為で大事なものを失ったことがあったが。小学校を出て帰宅した有匡が家に入ると、和室の方から和琴を奏でる音がした。和琴は床の間に置いたままにしていたし、あそこには誰も居ない筈だ。和室の襖を開けると、そこには檜皮(ひわだ)色(いろ)の着物姿の老女が和琴を奏でていた。(もしかして、彼女が夢に出て来た火月の祖母か?)有匡がそう思いながら老女を見ていると、彼女はゆっくりと彼を見た。『初めまして、火月の祖母の朱鷺(とき)と申します。』老女は和琴を奏でる手を止め、そう言って有匡に頭を下げた。「あなたが、この和琴の主ですか。何故、今朝わたしの夢に?」『恐ろしい闇の力が、この国を滅ぼそうとしています。それを伝えに来ました。』火月の祖母・朱鷺はそっと有匡の手を握った。彼女の手は、まるで生身の人間のように温かった。『どうか、孫達を守ってやってください。』「わかりました。」有匡がそう答えると、朱鷺は笑顔を浮かべて消えた。彼女の姿が消えた後、暫く和室には暖かい空気が満ちていた。彼女と握った手をそっと開くと、そこには紅玉の耳飾りが掌に乗っていた。その耳飾りは、妻が持っていたものだ。朱鷺はこれで自分の孫娘を守って欲しいと伝えに来たのだろうか。妻と同じ名を持つ少女を。「あんた、今日彌の学校であいつの友達助けたんだって?」夕食の席で、火月はそう言って有匡を見た。「ああ。あの子どもを邪悪な何者かが操っていた。」有匡の脳裡に、長い金髪をなびかせた少女の姿が浮かんだ。少女の全身から発せられた黒い瘴気。そして凄まじいほどの妖気。彼女の正体は恐らく、鬼族(きぞく)だろう。古来この国を豊かにし、神と崇められ敬われていたが、人間との確執により“鬼”と呼ばれ、やがては恐れられる存在となった闇の眷属。その中で、平安の昔に鬼族の頭が霊力の強い巫女を攫い、子を為したという伝説をある書物の中で読んだ覚えがある。もしその伝説が本当だとしたら、彼女は・・「ねぇ、大丈夫?気分悪いの?」はっと有匡が我に返ると、怪訝そうな表情を浮かべながら自分を見つめている火月がいた。「いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ。それよりも、お前に渡したいものがある。」「渡したいもの?」「ああ、後でわたしの部屋に来い。」火月は有匡の言葉に何故かドキッとしてしまった。(何でドキッとしてんのよ、あたし。あいつはちっともあたしのこと何にも想ってないのに。)ただ渡したいものがあるから部屋に来てほしいと彼は言っただけではないか。何故そんな言葉に心が揺れるのか、火月はわからなかった。「入るわよ?」夕食の後、火月がそう言って和室に入ると、そこには黒の着流しを素肌に纏った有匡が寛いだ様子で畳に座っていた。「ねぇ、あたしに渡したいものってなに?」「今朝お前の従弟に忘れ物を届けた後、お前の祖母に会ってこれを渡された。」有匡はそう言って火月の掌に紅玉の耳飾りを乗せた。火月はじっと紅玉(ルビー)の耳飾りを見た。「これ、どっかで見たことがあんのよね。確か、あんたと鶴岡八幡宮で会った時に一瞬あたしに似た女の人がこれ付けてたような・・」「それはわたしの妻、火月の首飾りだ。」「え・・」火月はそう言って耳飾りを見た。何故鎌倉時代に生きた有匡の妻のものが、現代にあるのだろうか。そしてそれを祖母が有匡に渡したのは、一体何の意味を持つのか。「それにしてもこれって、純度が高い紅玉だね。あたしが死んだ母さんも同じような紅玉の指輪を持っていたけど、こっちの方がなんだか上手く言えないけれど、見ているだけで心が鎮まるというか・・」「その紅玉は妻の涙から生まれたもの。それは不治の妙薬にもなる。」有匡はそう言って火月の左耳に耳飾りを付けた。「この耳飾りには護りを施してある。お前の身に何かあったら式神が動く。」「そう、ありがとう。」火月は照れ臭そうに有匡に礼を言って和室から出て行った。同じ頃、六本木にある高層マンションの一室で、一人の少女がベッドに横たわっていた。その隣にはハノイの路地裏にいたあの男が寄り添っていた。彼はそっと少女の左頬―有匡に火傷を負わされた箇所を優しく撫でた。そこにはうっすらと火傷の痕が残っていた。“愛しい弟よ、こんな姿になってしまって。許さぬぞ、あの忌々しい陰陽師め。”彼が少女の金髪を優しく梳いていると、彼女がゆっくりと蒼い瞳を開いた。“兄・・者・・?”“気がついたか、弟よ。安心するがいい、お前の傷の仇はこの兄が討ってやる。”男はそう言うと、少女の唇を塞いだ。外では、月のない闇夜の下、魔物達が跋扈(ばっこ)していた。有匡から彼の妻の紅玉(ルビー)の耳飾りを受け取った火月はベッドに寝転びながら、そっと左耳に付いているそれを触った。指先に温かい感触が伝わった。宝石が熱を持つ事など通常は有り得ないが、この紅玉は普通の宝石と何かが違うと火月は思った。伝説の陰陽師・土御門有匡について様々な歴史書や小説などが山のようにあるが、彼の家族についてのものや、晩年の彼についての記録や記述等は皆無に等しかった。有匡の家族や彼の晩年に関しては、未だに多くの謎に包まれていた。だから、彼の口から彼の妻の事を聞いた時、火月は驚きを隠せなかった。しかも、彼の妻の名が自分と同じ名であるということも、驚きだった。(あたしが、有匡様の奥様と同じ名前で、外見もそっくりなのは偶然なの?だって彼の奥さんは六百年以上前に生きてた人なのに。一体どうして・・)頭の中で様々な疑問が浮かんでは消えてゆく。色々と考えているうちに、火月は眠りに就いた。翌朝、火月が制服に着替えてリビングに入ると、そこには黒の着流しを着た有匡が新聞を読んでいた。「おはよう。何読んでんの?」火月がそう言って有匡が読んでいる新聞を覗き込むと、「殺人」という単語が目に飛び込んできた。「昨夜遅くに赤坂近くのマンションである一家が何者かによって殺されたらしい。これによると、被害者は彌(わたる)の同級生のようだ。」有匡は被害者の名前を指で指しながら言った。「ちょっと見せて。」彼から新聞を渡された火月は、その記事に目を通した。そこには、赤坂近くの15階建ての高級マンションの最上階に住むセレブ一家が、何者かによって惨殺されたことが書かれていた。被害者の写真の中に、見覚えがある顔があった。(この子、確か、彌と同じクラスの・・)まだあどけない少女の笑顔の横に、「佐々木栞(しおり)ちゃん(9)」と氏名が書かれてあった。数日前、有匡は栞に会った。「わたしのミスだ。数日前、その少女はわたしに母親を占ってくれるよう頼んだが、わたしは断った。数日後に彼女は家族とともに殺された。」「犯人は判ってんの?」「さぁ、見当もつかぬ。だが、数日前に彌の友人を操った金髪の少女がその事件の黒幕に違いない。」そう言った有匡は、険しい表情を浮かべながらコーヒーを飲んだ。「そいつ、一体何者なの?」「恐らく鬼族(きぞく)だろう。前に書物で読んだ事がある。霊力の強い巫女と鬼族の頭との間に生まれた混血児のことを。」「半分人で、半分鬼?そんな奴が現代に居るって訳?」火月は信じられないような表情を浮かべながら言った。「現界と魔界との間には常に遮断され、魔物が現界に入って来ることはほとんどない。だが、一つだけ例外がある。」「例外?」「それは陰の気が淀み、それが魔界と呼応する時だ。戦や災害の時などが魔物を呼びやすい。それと・・」有匡が一呼吸置いて言葉を継ごうとした時、キッチンで何かが割れる音がして彼と火月が振り向くと、そこには驚愕の表情を浮かべた彌が立っていた。「嘘だ、佐々木さんが死んだなんて。」「彌、わたしは・・」有匡がそう言って彌の方へと一歩近づこうとしたが、彌は有匡から後ずさった。「有匡様、どうして護ってくれなかったの?」彌は涙を流しながら有匡を見てそう言うと、彼に背を向けて裏口から外へと飛び出して行った。「彌、待って!」にほんブログ村
素材表紙は湯弐さんからお借りしました。「火宵の月」夢小説です。作者様・出版社様とは一切関係ありません。二次創作・夢小説が嫌いな方はご注意ください。その日、石倉澪は、いつになくはしゃいでいた。というのも、彼女は高校生の頃から好きだった少女漫画の聖地・鎌倉の鶴岡八幡宮で筝曲部の奉納演奏に参加する事になったのだった。澪は奉納演奏前日に憧れの地である鶴岡八幡宮を堪能した後、ホテルへと戻ろうとした時、横断歩道でアクセルとブレーキを踏み間違えた車にはねられた。虚空を舞った彼女は、全身を襲う激痛で目を覚ました。「おい、目を覚ましたぞ!」「今のうちに捕まえろ!」彼女は辺りを見回すと、そこには時代劇、一昨年の大河に出て来た男達のような服を着ている者達に囲まれている事に気づいた。「おい、お前・・」「イヤッハァ~!」澪は彼らに捕まりたくないがために、急に奇声を上げて走り始めた。これを火事場の馬鹿力というのだろうか、澪は目を爛々と輝かせながら、鶴岡八幡宮の境内を走り回った。「ひぃぃ~!」「妖だ!」「魔物だ~!」突然現れた、奇声を上げながら走り回る謎の娘の姿に、周囲は騒然となった。折しもその日は退魔祈禱が鶴岡八幡宮で行われており、そこには陰陽師・土御門有匡が居た。「有匡、早くあれを何とかせいっ!」「はぁ・・」アドレナリンが過剰分泌され、気分が最高潮に達した澪は、祭壇の前に置かれている和琴の前に座り、こう叫んだ。「俺の演奏を聴け~!」彼女はドン引きしている聴衆を前に、好きなアニメソング七曲を和琴で弾いた。突然の闖入者の出現に、鎌倉にウジャウジャいた魔物もドン引きしていた。(何あれ?)(ヤバすぎん?)(無理だわ~)魔物達は一晩で居なくなった。そして我に返った澪を襲ったのは、全身の激痛と強い羞恥心だった。「うぉぁぁ~、俺を、殺ぜぇ~!」全て濁点がついた言葉を喚きながら、澪はキラキラ加工されたゲロをその場に吐き散らした。「おい、落ち着け!」「推しキャラ、フォ~!」澪は、自分の初恋を奪った有匡に見つめられ、発狂して気絶した。「先生、今日も遅いな~」同じ頃、土御門邸では有匡の妻・火月が二人の子供達、雛と仁、そして有匡の式神達と共に夫の帰りを待っていた。「まぁ仕方無いわよ~、まぁた色々と退魔祈禱だの何だのと忙しいからねぇ、殿。」「仕事中毒中には、何言っても無駄よぉ~。」有匡達の式神こと、式神シスターズの種香と小里はそう言いながら双子を寝かしつけていた。「ねぇ、火月ちゃん、“あれ”、どうなってんの?」「え?」「ほら~、“一年に一人ずつ計画”よぉ~」「ちょ、お姉さんっ!」「騒がしいぞ、お前達。」「あら殿、お帰りなさいませ!あら、その子は?」「知らん。執権に世話を押し付けられた。」「ヤァァ~!」有匡が式神シスターズに鶴岡八幡宮で起きた事を話そうとした時、彼が背負っていいた澪が意識を取り戻して暴れた。「落ち着け!」「うぁ、すいません・・」有匡に鳩尾を殴られ、澪は正気に戻った。「あの、わたしこれからどうすれば・・」「暫くここに居ろ。お前のような素性が知れん小娘を野放しにしたら碌な事がないからな。」「あ、ありがとうございます・・」こうして、澪は土御門家に居候する事になった。だが、ひとつ彼女には問題があった。それは、彼女は歴女でヲタクであったが、幕末と平安時代以外はノーマークであったという事だった。(今の執権って、誰?)「あの、ひとつお聞きしたい事が・・」「何だ?」「今の執権って・・北条泰時ですか?」「ハァッ!?」(俺、死んぢまうストーリー・・)にほんブログ村
2024.03.01