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「随感随筆」2&富田高慶先生との対話

【30】富田先生が坪田村の民を諭して善心を起させた話
 宇多郡坪田村は興復方法を最初におこした村である。
弘化2年の創業以来、先生は自らこの村に行って、暑い時も寒い時も日夜回村した。村を巡っては、孝行で兄に従順な者を褒めて表彰し、農業に勤める者を奨励し、怠惰な農民を振いたたせた。あるいは、荒地を開き、水利を通じ、道路を便利にし、用水路・排水路を堀った。あるいは無利息金を貸し与えてその病気や貧窮を除いて、専ら農業を振興し人民を救助する行いがあった。しかし、長年積み重なった古い習慣は容易に脱することは難しく、疑って従わない者が多かった。あるいは表には褒めて裏では邪魔立てする方法をはかる者があった。あるいは悪人で仕法を妨害する者があって、莫大な恩もまだ全体に浸透しなかった。このために事業がとどこおりつまずく嘆きがないわけでもなかった。しかし先生誠忠はなお一日のようで、しっかりとしていてあえて意に介しなかった。いよいよ恵んでいよいよたわむことがなかった。ここにおいてその感動は悪人であってもその悪をなすことができなくなり、怠惰な農民もこれまでのように怠けることができなくなった。ようやく風俗があらたまって徳化もまた行われた。ここに一人定左衛門という者があった。その性質はふてぶてしく一向に旧来の悪事を改めなかった。ますます私意をたくましくして他を扇動して、悪だくみしては仕法を妨げた。一村定左衛門にしっかり対抗できる者がなく、村役人もまた非常にその制御にくるしんだ。そこで先生に付いていた役人に相談して先生に教訓してもらいたいとのぞんだ。ある朝先生が村を巡っているとき、定左衛門の家の門を過ぎるとき、付いていた役人が先生之つげた。
「先生しばらくここにお休みください。」先生は言われた。
「回村のときいまだかって休んだことはない。またどうして理由もなく今ここに休憩しようか」
役人は、ここで休憩してくださいと求めてやまなかった。先生が思うに、私が回村するときかって休んだことがないことは皆が知る所だ。そして今朝、特にしきりに休むことを求めるのは他でもない、定左衛門の悪事は日にはなはだしく教え諭す方法が尽きて、私に少し教訓させようということにほかなるまい。」
意中ひそかに決して、そこでその家にいたった。すると、定左衛門の父の善右衛門は喜び迎えて地下にひざまずいて、先生の回村の苦労を感謝した。定左衛門は関係ないことだと家にいた。役人が先生が到着したことをおしえて出迎えるよう誘った。仕方なく定左衛門も家の外に出て先生に面謁した。そのありさまは顔をそむけて黙って父のそばにひざまづいた。その様子は酔っているようで、その表情は怒っているようだった。先生は声を和らげて諭して言われた。
「お前が善右衛門の後継ぎの定左衛門か。父の善右衛門は性質が善くまたあつくよく道を守って家業を勤めて、誠を尽し公共の用務にも従い、みなしごや寡婦を憐れんで、一人暮らしの老人を顧みて、専ら村を復興することを希望して止まない。遂にその真心が官にきこえて、いつしか庄屋に挙げられ、村民もまた喜んで服した。全村皆その善をたたえている。これは誠に人道を踏んで正理を誤らない者であり、とても数少ないことだ。多くは私欲のために人の道を忘れ、怠ける方に流れてバクチを行って、本業を怠っては財産を使い果たし、人の憂いを聞いても憂えることなく、人の困窮を見てもこれを救わず、他をたおして自分を利し、ひどいものは表面は人に従うようで人を欺いて、悪巧みして他人を陥れたり妨害する者が多いのだ。そしてこのような人間は人道の容れることのできない者で、また天の罰する所である。定左衛門よ、お前がこのような行いするかどうかは私は知らない。しかし、善は進むことが難しく、悪は移りやすいのが、古今愚かな者の常である。ややもすれば過ちを犯して禍を招かないわけにいかない。今示す所は予めお前の将来を思ってである。過ることがないようにしなさい。」
富田先生は起って中村に帰った。明朝、従者が門にでて戸を開こうとした。門の外に立っている者があった。従者が名を問うと、その者が言った。
「先生に会いたくて来ました。私の名は定左衛門といいます。お願いです、先生にお告げください。」そこで従者はこのことを先生に告げた。先生はすぐに定左衛門に会って言った。「夜はいまだ明けない。お前は何の理由で来たのか。」
定左衛門は言った。
私が今朝来たで面会を求めたのは、ほかでもありません。私は愚かで人の道が何であるかを知らず、もっぱら私意をほしいままにし、悪事を行うこと数知れません。そうであるのに天はいまだこの罪を罰されません。かえって先生の懇切な高諭を下されました。私の幸い、これにすぎるものがありましょうか。しかし心中に自ら省みるに自らせめれば、一つとして心魂に徹しないものはなく、いよいよ思ってますますその悪を知って、終にこの身を容れる地がなく、夜もすがら寝ることもできません。非常に以前の過ちを後悔し改めようと思います。しかしながら私の悪事は、一朝一夕の事ではありません。今一言過ちを改めるといっても、誰がこれを信じましょう。だからといって一言その反省を告げる事もなく先生の教訓を空しく労させるのも、私の大変に忍びない所です。ですからここに後悔し反省したことを告げようと来たのです。先生が信用されるかどうかは私が言う事ではありませんが、改心したかどうかをどうかお試しください。」と、おおいに前非を謝罪した。
先生は言われた。
「昨日示した所は人道と凡情のおもむく所とを説いたのだ。そして、将来どうなるか試みたのだ。どうして謝罪することがあろう。しかしお前がかって殿様の仁政を妨げたことがあって、今その過ちを後悔し、善道につこうとする心は、たとえ一日のことであっても喜ぶべきことだ。ましてや将来にわたって改心するというならなおさらである。しかしながら往々反省はその時だけに止って、永遠に持続しがたいものである。もしお前の改心も一たんのときに止まるのであれば、罪を謝罪しても益がないだけでなく、むしろ努力して今日に至るまでの素意を拡張して、お前はお前の流義を尽すがよい。私がそうしてお前汝一人の妨害者があっても、この民を安んじようとして空しく手をつかねるようなことがあろうか。お前は何はばかることなくお前の欲するところを行うがよい。」と。
ここに、定左衛門はますます懺悔して言う所を知らなかった。非常にこれまでの行状を謝罪し帰った。後にその改心の効は空しくなく、もっぱら仕法がいかに素晴らしいかたたえ、ともに再復に尽すようになった。そして、一人の民も罰することもなく、ついに全村全く復旧したのであった。
ある人が富田先生に質問した。
「定左衛門はむかし非常に悪人であったと皆言います。今や彼を見ると、とても恭しく丁寧で、穏やかでそれが顔にあふれています。誰が昔そんな悪人であったということを信じましょうか。改心した人は顔付きもまた変化するのでしょうか。」
先生は言われた。
「善心が心に充満するときは、どうして顔付きまで温柔にならないということがあろうか。定左衛門のように内に悪心が盛んなときは、二度と見るに忍びないありさまであった。そして今になってはあなたの言うとおり、温柔で旧悪を疑うようになるのである。

  富子興復の掛員を取捨す
 仕法開業の困難は実に枚挙に暇あらずと雖も、既に紛議を排し施行以来も国中猶之に同ずる者なく、諸有司を始め村吏下民に至るまで専ら法の行れざらんことを企図し、百般之が妨害を為す者日に多く、中にも松岡某なる者あり。奸悪殊に甚しく、倖にして宇多郡の代官助役となるに当り、専ら里民に諭して仕法の開業を妨げ、或は開業の村吏郡庁に出れば擯斥して曰く、仕法を行ふの掛員たる者は固より仕法を守り其の指揮する所に従へば可なり。何の用あって此に来るや。以後出入に及ばずと、威を以て漫りに之を退け、公務をも達する能はざらしむ。村吏等其の事の達する能はざるを憂ひ、稍々理を解する者も再び翻て邪曲の徒となり、共に仕法の行れざらんことを謀り、仕法除の祈祷と称し、各村神仏に誓て開業を防ぐに至る。富子独り此の間に在て依然として敢て撓まず、益々誠意を尽し、心力を労して之を行ふ。草野、池田の二老確乎として変ぜず、仕法漸く日に盛ならんとす。是に於て松岡某以為(おもえら)く、我仕法を拒むこと屡々なりと雖も、力能はずして事業日に益々盛なり。是の時に当り猶之を防がんとせば却て将来の患を来すや測る可からず、早く此の道に入り栄誉を取るにしかずと。池田大夫に乞て其の掛員たらんことを求む。大夫其の人と為りを知ると雖も、已に改心此の道に依らんとせば、仮令虚と雖も仕法の力畢に改ることを得べしと。即ち書を作て東都の邸に贈り草野大夫に計る。大夫之を閲し、富子の登京を待て其の是非を問ふ、富子答て曰く、是れ我が是非する所にあらず。君挙て之を用へんとせば用ゆべく、止めんとせば止むべく、固より君の取捨し玉ふ所、我何をか喋々すべきに非ずと雖も、今其の利害を問ひ玉ふ、何ぞ黙止すべけんや。夫れ松岡なる者は才知余りありて力足れりと雖も、上に諛へ下を虐するの質ありて仕法の道には適せず。其の適せざる者をして之を此の創業に当り之を用へ、若し過ちある時は其の責仕法に帰し、国中再興は勿論、一二村と雖も再復すること能はざるに至らん。然らば興国の良法も一人の為に汚名を負ひ、弥(いよいよ)奸者妨害の種となり、行ふ能はざるに至るも知るべからず。故に彼の輩の如き取捨如何と問はるゝ時は、我に於て取らざる所なりと、大夫其の至論に感じ、直に此の由を以て池田に答ふ。池田大夫も亦其の意を斟酌して松岡に示す。松岡志に達すべからざるを察し、其の子をして門に入り学ばしめんと欲し、人を遣はして富子に乞ふ。富子又其の意の誠ならざるを察し、答て曰く、此の開業に当り我の来る所以の者は、先生来る能はざるを以て已を得ず之に代はりて来れり、然れども余未だ脩業中にして悉く先生の指揮に依れり、何の子弟を教ゆるの力あらんやと、謙譲以て辞す。松岡事の成らざるを怨むと雖も如何ともする能はず。后数年を経、草野、池田の二大夫既に歿し、熊川氏其の職を襲ふに及び、再び其の意を達せんと欲して屡々某邸に出入す。氏其の意を信じて言を容れ、富子の来る日謂て曰く、松岡なる者は才学兼備の人にして専ら仕法に力を尽さんとするの志あり。子之を容れ共に戮力せば成業期して待つべし、如何。富子曰く、彼固より才あり学あり用いる所に依ては益する所あるべしと雖も、其の性仕法に適せず。故に君之に命ずる時は已むを得ざるも、我に問ふ時は、我之を用いるの意なし。熊川氏曰く、其の適せざる者如何。富子曰く、仕法の事は実業にして才学のみを以て行ふ能はず。且つ上の威を仮り下を虐するが如きは最も仕法の取らざる所なり。然るに彼れ大に之れあり。是れ我取らざる所以なり。熊川氏曰く、理然りと雖も、力を尽さんとする者、敢て容る可らざるの理あらんや。富子曰く、我今之を容るゝも前論の如く相反せり。故に力を勠せ業を共にせんとせば一に帰せざるを得ず、而して今や之を一にせんと欲し、我之を改めんとするも力足らずして若し改ること能はずとして我彼れに従はゞ、道廃して行はるべからず。然のみならず、草野・池田の二大夫に答ふるも猶斯くの如し、而して今や曲げて之を君の言に従ふ時は二大夫を欺くに当れり。我何ぞ斯くの如く相反することを為すに忍びんやと。大に彼の非を挙げず、却て自ら謙譲し温以て之に接する者は、時勢を斟酌して仕法に害なからしむる所以なり。然れども、熊川氏言の協はざるを知り、遂に自ら断じて其の掛員を命ず。
斯くの如く富子の志操堅にして終始動かず。后屡々掛員を挙るも、専ら着実誠意の人を取る。故に才学の人其の門に尠しと雖も、大業永く盛行して過ちなき者、一は此に在る歟。


「富田高慶先生との対話」富田高慶報徳秘録334頁
問 岡田良一郎著富国論に、財は本也、徳は末也。財あり以て徳をなすべし。と、故先生教誡の語なりとあり。知らず、有りや。

 富田先生
善いかな問や。故先生決して教えられたる語にあらず。夫れ報徳の名は、徳を本とするに出づ。徳を末にするの名にあらず。狂せるかな良一郎。故先生の道教を傷つく、一言以て足れり。当時此の書を梓に上せ、壱部を当社へ送られたり。読て此に至り読過する能はず。後世先生を知らざるもの、此の書によりて誤るもの少なからざらん。痛心の余り二宮当先生より責文遣はざれしが、尚己の非を改むる事を為さず。回答に云う、財本の語、旧豊岡藩久保田氏、故先生より直聞したる言にして、久保田氏は必ず偽りを語るものにあらず。我に於いて固く信ずる所、且つ、当今泰西の学士専ら財本徳末の論あり。蓋し、故先生当時にあって今日を看破せられたる卓論と、いよいよ信じて疑はず。因て、財本の語は、富国論中けずることの成らぬ次第に御承知下されたく云々。
「財本徳末」の説は、蓋し、故先生、人有り則ち土有りと大学の中にあるを読まれて、或る日門弟子に教へられたることあり。人有りて則ち土有りと書かれたる理合より推すときは、人が土地より先きに湧出して、土地が人あるに依りて出来たると聞こゆる故、然らば、鮒魚あれば井あり池ありとも書かざるべからずと、疑ひを生ずるに似たり。井也池也、決して鮒魚あって独り自から出来たるものにはあらず。井也池也、己に既にあればこそ、自然の鮒魚の棲む道理なり。併しながら、大学に云う所は説く所の用異なりて、土有りは土地を為して、都市開けて材用足る言うことに用ひらるの理にして、其の説く所の用を知らずして、妄りに解することなかれと言はれたる誡めを、久保田某なる者が誤聞して岡田に話したるものか、又岡田が間違ひたるか、何にせよ、千万先生の説でなきことは明白也。各其の心得あるべし。

(先生又曰く)
相馬旧領の窮たるや、当時列藩中その比を見ず。城中ロウソクなく藤蔓に火を点じ用ひたる有様。ある時、巡察使回藩せられたる旨達しありたり。その頃、列藩附属足軽人足を出すの習あり。相馬領は20人皆紅がら色の脚絆を着けしむる仕来りの処、その仕立金に差支へ、藩中相談し居る処へ、頓才の者発言にて、夫は甚だ容易の事なり。20人の人足速にこの席に喚び給われ。仕立ては早速間に合い申すべし。先づ16文の銭を以て紅がら粉を買来り、適宜の桶に溶散して、「人足一人」づつ足をこの中に入れしむなり。然らば布切れを用ひず、仕立料を煩はさず、膝下忽ち紅がら色、脚半を着けたるの装飾を呈す。豈奇策ならずや。列坐大に笑ふ。この話を以て今日に聞かしめば、戯謔の談柄と一般なりと雖も、之に因ても当時の窮状は知られたる者なり。かかる哀窮を興復して今日あるを致したるは、報徳記にても承知せらるる通り、徳を本とするの教え一になり。徳本立って財自ら足る。外国他邦は知らず、この相馬6万石を興復したるは、徳を本とする故先生の教誡を信じたるに由る。



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