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 「時代ト農政」柳田国男

 「時代ト農政」柳田国男

 報徳社と信用組合との比較


 二宮先生の社会改良事業家としての地位は、少なくとも日本の歴史においては空前であります。
かの同胞共済の説の如き、之を世に説く必要がありとしますれば、今日ほどその必要の急なる時は無いにも拘わらず、先生以後先生程の熱心を以て之を唱えた人の無いのは甚だ遺憾なる事であります。
 徳川時代の末頃、諸侯旗下その他大小の士人が悉く家政の逼迫を感じておった結果、いわゆる身代直しの輩の技量と先生の事業とを比較して見まするに、その差異は決して程度の問題ではなく、全く種類の差異なのであります。
又「夜話」などに現れている先生の教訓を以て、尋常心学者流の教訓と較べて見まするに、先生の説は遥かに積極的であって、かつ近代的であると思われます。
是恐らくは報徳教が弘く天下に徳沢を流し今日までも永続しておる所以であろうと思います。
 元来貧富という事は人間最大の問題でありますが、古人は大抵皆足ることを知れよとか分に安んぜよとかいうような教訓を以て、社会の秩序を維持しようとしておりましたけれども、このいわゆる知足安分の説なるものは細かに之を分析して見ますれば随分残酷なるものでありまして、若し今日の時勢で特権ある階級即ち金持ちとか貴族とかいう人達が自ら之を貧乏人に向かって説いたとしますれば、恐らくは社会主義と同様な反抗を招いたに違いありません。
しかるに二宮先生は曰く、世に貧富の差等あるは自ずから因って来る所がある。
徳を厚くするものは則ち富み栄えるのであると夜話などにも説いておられます。
是は勿論東洋風の因果説に基づかれたもので、別に新しい説ではないとも言い得ますが、然し余程面白い説き方だと思います。
自分の思うには二宮先生の教訓は道理というよりもむしろ信仰である、学問というよりもむしろ宗教であるといわねばなりません。然し道理でない、信仰であるといったとて決して軽蔑したにでは無く、自分は却って常にこの信仰ある人を羨むものであります。
 自分が始めて報徳記を読んだ時、先生は疲弊今一層甚だしくならねば救われぬと言われたり、あるいは村の難儀を救われんことを求むる者に対し、ただ鍬一挺を与えられたり、又あるいは衰村でなければ報徳の道に入る事はできないというような議論をしておられるのを見て、先生の教訓は随分厳峻であってあたかも旧約の神様のような教えであると感じておりましたが、その後諸国の報徳社の立派なる事業を見ますれば、それが悉く先生の教えに基づいている事が判り始めて一方には又こんな慈愛に満ちたる教化門もあるのだということを覚ったのであります。
無論報徳社は福住・安居院(あごい)その他の人々が大成せられたもので、現在の繁栄は先生の力のみとはいわれないかもしれませぬが、その根底に培うたのは全く先生の教えでなければなりませぬ。


 報徳社の発達は本来時代の産物に外ならぬのでありますが、現今に於いては却って時代を動かすべき一の勢力と成っております。
而してこの勢力を以て社会改良の一手段としようという希望が、報徳社の内外を問わず現今一般に発表せられているようでありまして、是は誠に慶賀すべき徴候と思うにつけ、深く留岡氏を始め諸君子の尽力を感謝するのであります。それから自分は元来門外漢の姿でありますから、議論も従って冷淡であり当を欠くかも知れませんが、然し久しくこの報徳社の制度を日本の社会改良に利用したいという考えを持っている一人であります。
以上は、最も真面目に報徳社の現在の状況及びその現に採っている方針を批評して皆様のご参考に供したいと思います。
尤もこの批評は単に報徳社の事業の経済的方面ばかりに対するものでして、而もその起原とか成立とかではなく、単にその現在の形が社会改良の為に最も適当であるや否やということ、及びその中に何等の不備不良をも含んでおらぬか否かということ、即ち換言すれば二宮先生の遺志に合致しているや否やということを研究してみるだけで、いわゆる報徳教の教義に関してはいやしくも嘴(くちばし)を容れることを敢えてないのであります。
 報徳社の事業と西洋諸国に於ける産業組合の事業とは、余程よくその発達が似ておりまして、実に東西相煥発するとでもいうべきであります。産業組合でもイギリス・フランス・ドイツ等皆国情民情に基づいておりますからそれぞれの特色があるので、報徳教と比較して研究することは又確かに他山の石として有用であろうと思います。
例えば英国の消費組合の発達は最も健全でありますから、ドイツその他の国々では之を手本として信用組合以外に消費組合を沢山に作りました。
信用組合の本家本元はドイツでありますが、イギリスでヴォルフなどという人が深くこれを研究したために、彼の借金嫌いの英国民の中にも信用組合が近年盛んに勃興して来たのを見ましても、お互いに相補い相教えるの利益があることは分かります。
近年はこの産業組合と報徳社とを比較して研究しようと言う人が段々殖えて来たようで自分などもただその輩に倣う者であります。
 外国では多くの学者はこの農村に出来ている組合なるものに非常に重きを置いておりますので、ミルあたりの唱えている地持小農は最も完全なる農業者なりという説は、外国競争の烈しい時に最も苦しむのは地面と離れにくい小農である為に、段々と之を信じない者が多くなり、之に対する反動説として借地大農を以て最も完全なる農業なりという説も起ったくらいでありますが、之にも弱点の多い所から、結局真理は中間に在りて、小農がその合同の力を以て生産の関係上大農と同じ利益を得るようになれば、国の為最も幸福であろうという議論に帰着したようです。今のヨーロッパ大陸の農業には悲観を抱かぬ人は少ないにも拘わらず、多くの学者達がこの暗澹たる農界に於いて一道の光明を未来にかかげるものは、彼の農業組合の好望なることであると申します。
この点から見れば農村に起った報徳社は実に頼もしいものでありますから、十分真面目に研究して見ねばなるまいと思います。
 明治38年の暮の先生50年祭の折に、桑田博士の報徳社と産業組合と比較したる講話を敬聴したのでありますが、ただその中で報徳社はライフアイゼン式の信用組合に似ている。又日本の信用組合はシュルツエ式の信用組合に似ているという説があったかと記憶しますが、これにはいささか服する事が出来ないのであります。
第一に日本の産業組合殊に信用組合は、産業組合法の規定に依れば余程ライフアイゼン式に傾いたものであります。
是は法案の理由書などで見ても分かるので、勿論シュルツエ式が悪いというのではありませぬ。
現にドイツなどではこの2派の式が漸次統一させらる有様でありまして、日本の産業組合法もドイツの現行法が手本となっているので、従って2派何れをも優れりという予断はありませんが、少なくとも信用組合はなるべくライフアイゼン式によらせようという趣意であったらしいのです。
語を換えて言わば日本の信用組合は之を以て現今未だ備わらざる村落の金融機関にしゆおということが名言せられているのであります。
市街地の金融機関としても勿論悪くはないが、市街地には既に種々の機関が具わっていたのであります。
之を見てもわが国の信用組合を以てシュルツエ式の組合に比することの出来ねのが分かります。
次に産業組合法に依れば信用組合に限り1市町村より広き区域にわたることの出来ぬのを原則としております。
是は平素行状性質を知り合っている者のみで組合を作らせる趣旨でして、彼のライフアゼン式の特色たる道徳上の信用約束という分子が入っているのであります。
尤も東京市とか大阪市とかいう大きな区域で組合を設けることにしますれば、ほとんど区域があって無いと同様であるが、現今の実状を見ると東京市のような大きな一都会を以て区域とする信用組合があるとしても、やはり指物師の信用組合とか湯屋の信用組合とかいうように、同商売で仲間の交際があって平素互いの性質行状を知り合っている者ばかりで組合を作るので、東京市に住んでいる以上は大工も左官も日雇取も役人も一緒に信用組合を設けるということはありません。
つまりラ氏式の趣旨は行われているので、是も先ず日本の信用組合がアイフアイゼン式に近い一つの証拠だと思います。
今一つは是は組合の定款にも掲げられ又法にも現れておりますが、信用組合のみならず一般の組合は対人信用を以て原則とし、物の担保に重きを置かず、道徳上の約束を主とし借主の人柄若しくはその行動を吟味することになっております。
この点もシュルツエ式にはないことです。
ただ遺憾なことは信用組合が一般に金利が高く、最初信用組合を設けた趣旨を徹底しておらぬ点でありますが、是は一時的の現象に過ぎぬのであろうと思います。
要するに我が国の信用組合がシュルツエ式であっても別になにも悪い事はないので、やかましくいうにも及ばぬことですが、桑田博士の説はいかがかと思うのであります。
それから報徳社のライフアイゼン式と似ておらぬ所にも著しい点があります。
ラ氏は勿論無限責任であって、初めは組合員に出資はさせぬのでありました。
現今では法律の規定がある為に出資をさせますが、ただごく少々でほんの名目だけにとどまるのであります。
而してその組合員は悉く皆無限責任を持っておりますのに反して、報徳社はそうではない、有限責任である。
報徳社の最もラ氏式と似ている点は何かといいますと、漠然たることではあるが、報徳社はその性質上都会の為にするよりも遥かに多く村落の為になるという点においてラ氏式と良く似ていると思います。
故に自分は専ら農村農業の経済事情を参酌して議論するのでありまして、商工業者に適用せらるべき報徳社即ち市街地に於ける報徳社については別に議論がありますけれど、余り枝葉にわたる故、今は略して置くことにします。


 最初に報徳社の長所として目すべき点を列挙致します。
即ち報徳社と信用組合とを比較して信用組合の遥かに報徳社に及ばぬということを感じた点であります。
その一つは本社と支社との間の関係であります。
報徳社の本社は支社を監督連絡するのみならず、なお積極的にこれを誘掖幇助しいわゆる仕法を授くる仕事までしているようであります。
右の両社の関係にも色々ありまして、例えば遠江森町の報本社の如きは本社は単に教義伝道の中心になっているのみでありますが、その隣の掛川の報徳社は本社と支社との間に金銭上の関係が密接に付いております。
が概して本社の支社に対する関係は監督のみならず誘掖幇助の労をも執っているようであります。
是は日本の産業組合には今日なお今だ得られない所の恩恵であるので、この本支社の連絡方法が種々あるのを比較研究したなら随分面白かろうと思います。
日本の産業組合も近来段々盛んになるとともに、東京に中央会ができ、なお一府県を区域として段々中央会支部を設けておりますが、今のところでは中央会の事業は英国などのいわゆるセントラルユニオン即ち伝道部だけの事業で、物質的方面についてはいまだ何も致さない、例えば消費組合の力で、少し物を安く買い入れ得ると、小売業者は得意が減るから問屋に掛け合ってその邪魔をする。この場合には外国では購買組合の又連合組合ができていて、共同して直接製造元から物を購入する、なお進んでは全国を連合してしわゆる卸売組合を設け自ら必要品を製造するというやり口ですが、日本にはいまだその企てもないのであります。
又数ある産業組合の中で一方では剰余金があって使い道に困り、安い利子でも確実を主として郵便局に預けていると、又他の一方では資金の足りぬため農工銀行その他の銀行から一割などという高い金を借りている。
幸いにここに組合の中央銀行があって有無を相通ずることに便益は大きいが、日本ではいまだ之を考える者もないのであります。
生産組合即ち共同使用組合で共同して外国から器械を取り寄せることにすれば安く買える、ただ一個購入するには高価になるものも組合からは安く購入ができるのでありますが、これらもいまだできておらぬのであります。畢竟産業組合の連合会というものがいまだ日本にはできておらぬからですが、報徳社の方ではこれが余程進んだ形になって現れているので、是は第一に羨むべき点であります。
第二には加入条件の極めて寛大なることであります。
是も実際は余り新加入者が無いから何にもならぬといえばいわれますが、多くの報徳社の定款を見るに極めて寛大なる条件で加入をゆるしております。
例えば神を敬わざる者又は国家に対して忠実でないものは入れぬとかいうように、加入を許さぬ者を限って外の者は悉く加入を許す、極めて寛大なものであります。
産業組合の方は之に反して非常に困難であります。
第一総会の議決が必要であったり、さなくても理事の手心でいかにも成ったり、新立の組合ならばいかがか知らぬが、古くから出来ていて繁昌しているものに入ろうとしても中々むつかしいのであります。
多くの村々に産業組合ができているのは賀すべきではありますが、大概は中流以上の人達の集合であって、最も組合の必要を感ずべき下流の住民はほとんど少しも恩沢を受けておらぬのです。
自分はいつも之を見るにつけ元来産業組合はコオペレーションという言葉から推しても、村の中で50人や30人の工面のよい者だけが集まっているべきものでは無い。
そんな産業組合は悪くいえば集合的利己主義であると考えております。
この点においても報徳社の方は伝道を伴っておって長所があると思う。
それからなお一つ、是は法律の結果であるから致し方はないが、産業組合の方では組合の事業即ちその目的とする範囲が狭すぎるが、報徳社の方は組合の目的が極めて広いのであります。
先ずその金の使い方を見てもただ組合員の貯蓄貸付のみに重きを置かず、月々の総会には報徳に関係あること若しくは一般農業の問題までも種々と研究しておられる。
この点は最も完全なるライフアイゼン式の組合でも及ばぬ所であると思われるのである。
これは近頃旅行をした時の実験談でありますが、三河国八名郡八名村大字一鍬田の積徳社でありますけれど、是などは50何人かの組合員が悉く寄り集まって出征軍人の家族の為に田畑の耕作を手伝ったり、又は一週間に一遍くらいずつその留守宅を慰問したり、あるいは農業の進歩改良の為に米とか麦とか堆肥とかいう7種物品の品評会をやったりしておって、その審査の為には全部の社員が悉く何れかの審査委員になっております。
そう皆が審査委員に成ったら困りはせぬかと思った所が、その審査している中に自分の物の悪い点が良く分かって、外の人の出品より劣っていると審査員自身が恥だというので励むということであります。
又隣村の山吉田という村は、八名郡中では先ず模範村でありますが、他の点については総て村柄が好いに拘わらず、村農会だけが余り発達しておらぬので、村長に向かって余り意気地がないではないかといった所、何分金が少なくて仕事ができぬといいます。
それは大いなる間違いで、村議会が会費のみで事業をすることのできぬのは勿論である故に、智慮と勤労とを以て出資とすべきであるといったら、それも出来ない。
というわけは、働く人は何れ先輩であるが、一度や二度なら快く頼まれるけれど、月々の事となると無報酬では頼まれぬという。
それでも一鍬田では、熱心にやっているではないかと申せば、一鍬田のは銘々の志で設けた団体であるけれども、農会は法令の結果としてできたものであるから違うと申しましたが、是は余程意味の深い会話であったと思います。
フランスのサンヂカアグリコル即ち農業組合なるものも報徳社に似ておって、普通の産業組合の事業の外に日本で言えば水害予防組合兼水利組合の事業又は害虫駆除のような事もやっているのであります。
是は法律上の監督の為にはあるいは不都合であるかも知れませぬが、単純なる農民に多くの組合を作らせるのは本来無理でありますから、若し報徳社の事業が発達して単に多くの問題の研究のみならず、その実行にも共同することになればいかに幸福であるかわからぬのであります。
第4の点もまた小さくない長所です。
是は資本を外部から仰がないということでありまして、自分の資本を積み立てて後に事業を始めるという主義であります。
是は富国捷径などを見ても原則として書いてある。
資金のできるまで腕を拱(きょう)して待っているというのは迂遠なようではありますが、結成手そうではない。
実に愉快な考えなのでありまして、産業組合の方では内に資本がまだ集まらぬ前から効果を収めるのに急である為に、あるいは農工銀行法を改正して産業組合に対しては無担保で貸付を許すとか、その他種々なる特典を法律が与えておりますが、その為に一方には非常に弊害を生じまして、産業組合を作れば安い利息で無担保で借りられるから一つ設立しようではないかといって産業組合を設ける者もないとはいわれませぬ。
是は例もあることでありますが、こういう弊のあるのに比ぶれば、資本を外部から借りないという主義もやはり敬服すべき一つの長所と思われるのであります。
それから最後に自分の最も感心しているのは報徳社の教育的効果で、是が消極的でなく積極的であることであります。
 ライフアイゼン式の信用組合でも組合員に対して大なる徳育的効果はどちらかというと消極的でありまして、怠けたり不正直の事をすると、さて資金が必要であるという場合に借りることができないから勉強する、若しくは不徳義の事をすると近所の者に対して顔向けができぬから勉めるというので、大森の加納子爵の信用組合などもその点の長所は充分発揮せられておられるが、報徳社の方はそうではなく金融事業に於いても之と同様の制裁を加えていると同時に他の一方では積極的に道徳の進歩を促しておりますので、その仕事は自然教育的の効果が多いのであります。あるいは教育の方に重きを置きすぎていると見えるかも知れませぬ。しかしこの点もまた産業組合の方では研究する必要の最も大なるものに属しております。
是は思うに西洋諸国には外部にキリスト教会の統一的勢力があって、組合の中で説教を聞かせないでも、村にはたいてい会堂があってその処へ行けば段々と善人にしてくれますが、日本ではそうではなくて神・仏・キリスト教その他種々の宗教が競い進む有様で、人民は拠に迷うている故に、従って道徳の訓練までも組合が自ら之を行う必要があるのありましょう。
報徳社の盛んな地方では一般の人気が自然に違っております。
以上の諸点を考えたならばまず報徳社をいかに悪く見る人でも、是だけの長所は決して没却する事はできないのであります。
 
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 この次には長所といいましょうか短所と申しましょうか、とにかく報徳社の特色と認めますものを列挙して少しくその批評をして見ましょう。
その第一は報徳社の金融の事でありますが、報徳社は金融の事を主としませぬ。
預金貸付の事を主とするのは別に信用組合を設くれば善いので、報徳社は余力があったときに之を行うのみであるという原則であって、是は遠江国報徳社の通則にも現れているのみならず、報徳人の常に口にしている所であります。
しかしながら我々の見る所では報徳社は今や随分沢山の資金を蓄積しておりますが、是は決して偶然の結果ではありませず、全くその社員の努力蓄積の結果なのであります。
若しいわゆる報徳学の共同研究とか、農業の発達を計る共同の尽力の為とか、凶年の用意の為とかならば、遠江本社の如く10万円の9万円のと積み立てて置く必要はないので、何の為に積んだかその理由が分からなくなってしまいます。
(これから以下の議論には遠江報徳社社長岡田先生の反対がありました。御参考の為にその論点を抄録しておきます。先生の説では10万円の資金は決して多きに過ぎはせぬ。300余の町村社に割れば300円ばかりであるから、大凶年の備えとしては足らぬくらいである。かつこの会は年々経済的事業の為に色々貸し付けることがある。また本社の入費もこれで支えねばならぬのだと言われました。諸国の300の支社が口をそろえて救助を求めるような非常の大凶年の為に、平生数万の金を使わずに置くことがよいか悪いかが、即ち本論の眼目なのであります。又本社善種金がせめてその高の半分でも年々の経済的貸付に出してあるようなら私は別に批難をせぬのです。本社の入費と申すのは町村社の監督及び訓導派出の費用であるそうです。
これは経常費でありますから経常収入即ち基金の利子などを以て支弁せらるべきはずであって、その飢饉は貸付にあてても差し支えはありますまい。)
 また他の方面から論じましても共同貯蓄共同融資の為には別に信用組合を以てするがよい。
報徳社はそれまでの仕事はせぬという事も是も間違った話であります。
元来普通の農民の精力は限りあるもので全力を尽くしてもその効果は僅かでありますのに、一方では報徳社の事業に従事し他の一方には更に産業組合をも適当に組織し発達させるということは不可能の事で、産業組合の将来の為にも報徳社自身の為にも共によろしく無いことと思います。
 (遠江報徳社社では道徳を主とし金融を客としその間に軽重の差等は立ててあるが、信用組合法を斟酌して土地人情に適せしめんとするので、決して別に信用組合を設けよなどとは言わぬ。ただ5,60年来の経験に依れば、貸付を主として弊害があったから、資本の融通は熟慮して行わねばならぬと説いてあるばかりだそうです。然らばこの説を誤解して資金融通の道を開くのは不心得の行為だと思うゆおな社員ができたのでしょう。尤も他の報徳社には一切の貸付を杜絶したものも稀にはあるということです。)
 自分はこの点から報徳社が別に一方に金融の為に信用組合を拵えよという説には反対するのであります。
掛川の報徳社の通則中にも、徒らに貸付を主とすれば弊害を生ずという文句がありますが、是には異存はありません。
しかしながら之を説明するには決して簡単に軽率には考えてはならぬぼで、この文句には必ず深い意味がありまして、之を明らかにするには時代時代の状況に照らし最も慎密に熟慮しなければならぬと思います。
先ず第一に今と昔と経済事情の変遷していることは著しいもので、僅か2,30年経つか経たぬ間に農村に於ける固定資本流通資本の需要の増加したことはほとんど十数倍であると思われます。
昔は土地を買うとか新田を開拓するとかの場合の外は資金を新たに要することは少なかった。
肥料は皆余剰の労力を以て之に変形するのもの即ち手間肥でありまして、現今いわゆる資本の形を備えぬ中に直に使用してしまったのであります。
農具にしてもその年賦償却は非常に遅々たるもので、1年分にすれば収入のごく小部分ですんだんもです。
是はもっとも平年のみの事でして、平年にはほとんど金銭的資本は入らなかったが、それと正反対に凶年における資本の需要は又非常に大きなものであって、凶作の損失の補填は急にしてかつ巨額でありました。
現今でも分かっておりますが、年貢の未進とか若しくは翌年までの夫食なり種籾なりに困るとなると、是いわゆる焦眉の急でありまして、その欠損の補充に至っては到底普通貸借の手の届かぬ境でありましたのです。
よく年貢に困って娘を売ったというような事があるが、是等はいわば災害が極端である為に之に対する方法も従ってまた極端であったのでしょう。
この有様ですからして昔の報徳社であれば助貸の事業が最も主要なる事業で無ければならぬのです。
故に報徳社でもその最初の団体には普通貸借というよりは寧ろ助貸を主とする傾向をもっておりましたが、今日は全然事情が違っております。
近世資本の必要の増加は実に顕著なる事実であって、通常経済学で説く所の経済的の必要の外に、更に又法律的の必要というものがある。


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