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2011年04月28日
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テーマ:鈴木藤三郎(175)
カテゴリ:鈴木藤三郎

駿河みやげ(国府犀東 斯民第1編第10号明治40年1月23日発行 38ページ~ )


駿河みやげ(報徳行脚 明40・1・23発行斯民) その1

駿河みやげ(報徳行脚 明40・1・23発行斯民) その2

駿河みやげ(報徳行脚 明40・1・23発行斯民) その3

  
 

◎西个谷氏の話おわらざるに、鈴木(藤三郎)氏まず『平生造林の事につきて常に考えつつあれど』と、極めて遠慮深く口を切りつゝ『造林事業をなさんには、伐採期となりて、全体を皆伐するは然るべからず。皆伐すれば、その跡はもとの赭山(あかやま)、されば伐木の跡には、必ず補植ヲなし、一区一区と漸次に伐るべきものと覚ゆ』(中川氏の手帳による)

◎『植継ぎさえなしおかば、永代にわたりて立派なる財産たるべし。この村の山林にも、伐採期となりて、悉皆伐り出し、それを金にして、各戸に分かつをやめ、その幾分を補植費に残しておかば万全の策ならん』と。鈴木氏の所見、皆同感なりしが如し。中川望氏も、西个谷氏に勧めて『今のうちに村人に説き勧め、鈴木氏の意見にあるごとき仕組とし、方法を変更してはいかん』と説く。西个谷氏うながいつ、さなりさなりという。

◎この村にてはこれら貯金のため、貯蓄規約の設けもあり、毎年9月に一字の集会を催して、その規約を朗読し、かつその金額及び利殖の方法等を報告するを例とす。(同上)

◎西个谷氏のもとを出でて、東報徳社の事務所におもむく。尊徳翁のむすめ、富田高慶翁の妻女たる奇峰女史文子が筆せる報徳訓の掛け軸、その上に稲の実りしままなる藁をふさふさと下げて、それを飾り藁に用ゆ、外に多く見ざる所。(同上)

◎杉山報徳社よりは、片平九郎左衛門氏はるばる東報徳社まで来りて、予らの一行を迎え、各種の書類を出して、村況を説明せらる。(相田氏の手帳による)

◎杉山報徳社の資金は、土台金現今1,065円33銭、善種金9,098円95銭3厘にて酬謝金利息4,373円9銭7厘なり。山林代金は1,824円55銭1厘にて、合計16,361円93銭なり。

◎杉山は戸数60戸、柑橘の収入3万円。『されば新暦にて年を迎ふるとも得べきなれど、庵原にては、柑橘にて3万円、茶にて5万円を収むれども、未だ新暦にて年を迎ふる能はず』と、西个谷氏のいえば、中川望氏『いかなる故にや』と問いしに、『農家にては田の方の勘定、つねに旧暦の1月までを要し、新暦の1月は、いまだ前年の決算をおえず。もし年内にありて、一戸田以外の収入200円を得しならば、新暦の新年を迎うるとも出来たらんに、柑橘の収入、年5万円とならでは、これも望みなからんが、この望みの達せられん日も遠きにあらざるべし』とは、西个谷氏の語りし所。(中川望氏の手帳による)

◎東報徳社の事務所にも、その左側に小園を囲いて、築山の上に二宮誠明先生の遺訓をほりたる石碑を立つ。故勝海舟伯(爵)の書せる所。

『遊楽退分内勤苦進分外富貴在其中

 遊楽進分外勤苦退分内貧賤在其中』

と。(同上)

◎東報徳社を出でて、西个谷氏またまた同行す、片平氏等に別れ、清水港さして事をさしらす。鈴木氏はまず佐野にかえりて、一行7人となる。(西个谷氏をあわせて一行8人)寒風面をさかんとして、帽さえ折々吹き飛ばされんず。目も耳も痛きをおぼえて、車上の旅行むしろ苦痛にたえず。

《駿河みやげ前編終り》

 

※鈴木藤三郎氏は植林について、報徳の方法に基いて、永世に事業者にも山にも利益をもたらす方法を考えていたことがわかる。

「普段から造林の事についてて常に考えていることがありますが』と、きわめて遠慮深く、口を切った。

「造林事業を実施するに、伐採期となって、全体を皆伐するはよくありません。

皆伐すれば、その跡はもとの赤裸の山になってしまいます。

ですから木をきった跡には、必ず補植を行って、

一区一区と順番にきるべきものと考えます。

植え継ぎをきちんと行っておけば、永代にわたって立派な財産となることでしょう。

この村の山林にも、伐採期となって、すべての木をきり出して、それを金にして、各戸に分けるのをやめて、その幾分かを補植費に残しておけば、万全の策となるのではないでしょうか。」

◎森の元気屋さんから頂いた資料に、鈴木藤三郎が醤油会社失敗の後、金原氏にあてた手紙がある。

 金原氏はこの報徳行脚に当初参加の予定だった。

文中に「相田氏が来て『金原氏も宿を予約していた。大変楽しみにしていて心勇んでいたが、病気で来れなくなって大変残念だと言っていました』との報告」とある。

 鈴木藤三郎と留岡幸助、金原明善翁とは、心友というような互いに心を許す間柄であったようである。

 醤油会社失敗のあと、金原氏に 自分が植林中の山を買ってもらいたいと頼み、

また乾燥機械を発明し、乾燥富国論を著したときも、その都度金原明善翁に報告をしているのである。

駿河みやげ(報徳行脚)も いよいよ 次回から 鈴木農場への訪問となる。

明治40年当時の鈴木藤三郎が絶頂期の時代における 静岡県佐野に広がる広大な鈴木農場のありさまがみてとれるであろう。

それにしても この報徳行脚における 鈴木藤三郎氏の態度のなんと謙虚で思慮深い印象を読む人にあたえることか。






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最終更新日  2011年04月29日 07時27分46秒



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