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カテゴリ:鈴木藤三郎
S先生にメールで「台湾製糖会社の最期」を送ったところ、返信のメールが届いた。 メール、資料、ありがとうございました。
S様(CC様)
台湾製糖株式会社の最期(2012年2月5日-6日ブログに掲載したものに追加) その1 質問を受けて明確になることもある。 ある意味で質問は必要があって発せられ、混沌のなかから回答が現われてくる。 そうした面持ちがある。 「台湾製糖株式会社と製糖工場の住所地はどこですか」という質問は、C先生が徹底的に調査され、創立当時の住所と現在の住所地が判明した。 その過程での住居表示も判明した。いわば学術的な調査の成果で「素晴らしい」。 ちなみに創業当時の住所が「1900年(明治33年)台南県仁寿下里橋仔頭庄大路墘で現在は「高雄市橋頭區橋南糖厰路24号」にあたる。
台湾製糖株式会社本社の住所は、創立後、明治44年に打狗(高雄)に移転し、大正9年屏東へ移転している。
そこで質問である。 「その後、台湾製糖株式会社はどうなったのか」という質問である。 わたしたちは、日本は太平洋戦争の敗戦で台湾から引揚げ、台湾製糖の台湾における工場等の財産は現在の台糖公司へ引き継がれたぐらいの認識しかなかった。 というよりも、鈴木藤三郎が初代社長を勤めた時代の台湾製糖株式会社と現在の状況に関心があって、会社としての台湾製糖の変遷にはほとんど関心がなかったのである。 すべて起こる出来事がなにかしらの理由があって起こるのであるとするならば、その後の台湾製糖について解明するべく、問が発せられたのかもしれない。 この問に対して一冊の本がある。台湾製糖株式会社の最期の社長でもあり、日本における台湾製糖の残余財産によって創設された台糖株式会社の社長だった筧干城夫氏の遺稿集「土と人と砂糖の一生」である。 これは昨年暮れに亡くなられたR先生が亡くなる前にわたくしに贈ってくださった本の一冊であって、今になって思うと死期を予感し大切に保管されていた本を託されたかのようである。
=以下:補追 R先生は「本が着きました」という私の感謝のメールにこう返信された。 「G様:わざわざ遠い所まで資料を集めに行き大変ご苦労さんでした。 私が、大変悩んでいることは、私があの世行きになった後、日本語の冊子をどうすれば良いのかと思うようになりましたので、G様に送ったのです。筧氏の冊子は非売品です。前回の冊子〔「日本製糖業の父・台湾製糖株式会社初代社長」鈴木藤三郎氏顕彰第3集〕はこの人の子に送ったのです。筧氏の第二番目か?三番目?の子か覚えていませんが、私の兄とは、小学校時代同じクラスにいました。この学校は当時台湾人は入学出来ませんでした。ただし親が警察官、教員、弁護士、お医者でなければ入られませんでした。もう一つの条件として入学前に日本語で口頭試問を受け、これにパスすれば良いのです。 その年はうちの兄一人だけが入学出来たのです。うちは父母が学校の教員だったので幼い頃から兄弟はみな日本語で会話をしていました。 戦後になってから母語やマンダリン語を習ったのです。兄とクラスメイトだったこの人も帝大の出で、建築博士で、仙台に住んでいます。 彼が私の兄にこの冊子を送ったのです。この作者は橋仔頭製糖所で結婚しました。彼の妻は山本悌二郎の義理の娘です。ちなみに山本悌二郎はこの橋仔頭製糖所にはまた別に一人の台湾人男性と台湾人女性を義理の子として認定していたのです。 3人とも今は故人に成っています。 R」 =補追終り
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最終更新日
2012年08月23日 02時49分35秒
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