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2012年08月22日
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カテゴリ:鈴木藤三郎

S先生にメールで「台湾製糖会社の最期」を送ったところ、返信のメールが届いた。

メール、資料、ありがとうございました。
小生が直接存じ上げている○○さんから次々に拡がって行く「世間の狭さ」に驚いています。

 

S様(CC様)

メールありがとうございました。また○○様へ資料を送付いただいたとのこと心より感謝いたします。

○○様からお手紙をいただきました。

早速、「報徳産業革命の人」鈴木藤三郎氏顕彰第1集及び森町文化講演会基調講演で
用いたシナリオ「発明王鈴木藤三郎の報徳」さらに添付の「台湾製糖会社の最期」を同封しました。

「台湾製糖会社の最期」は「日本製糖業の父 台湾製糖株式会社初代社長 鈴木藤三郎」(絶版)を台湾で印刷製本した際にお世話になったR先生が昨年暮れになくなる前に私に送ってくださった「土と人と砂糖の一生」(筧干城夫氏の遺稿集)に基くいわば心覚えです。

講演会でもこれに基き、台湾製糖の屏東本社が米軍の空襲で全滅した次第と比較して、橋頭の百年前の創成期の工場及び事務所、観音像が残っていることに触れました。

昨年、森町の町議会議長、副議長をトップに橋頭に視察に行き、郷里の先人鈴木藤三郎氏の偉業がそのままに残っていることに感動し、議長は涙されたそうです。

「土と人と砂糖の一生」を拝読すると、当時の最期の台湾製糖会社社長としての筧社長の御苦悩や御苦労が偲ばれ、そうした歴代の経営者や従業員の誠実な積み重ねで現在も大切に台湾の人々に受け継がれているのかなと思った次第でした。

○○様におかれまして、森町が現在進めつつある 高雄市、さらには台湾との
絆を深めるこころみを御支援くださるようお願いいたします。


Tozaburo Projects とは、鈴木藤三郎氏顕彰事業を今回パンフレットを中国語訳していただいた台北のJさんが名付けたもので、

鈴木藤三郎先生の偉大な業績と「報徳の精神」を広く世に知ってもらおうという、いわば勝手連のようなものですが、

お蔭さまで今回文化講演会にあわせて作成した日本文と中国文のパンフレット各100部を 台北駐日経済文化代表処横浜分処及び台北駐大阪経済文化弁務処に置かせていただきました。

いずれは、台北駐日経済文化代表処で今回森町文化講演会で展示した鈴木藤三郎展(読売新聞静岡版で紹介されました)を開催できればと思っております。

さらに台湾の方々に、台湾製糖会社初代社長鈴木藤三郎先生のことをもっと知っていただき、八田與一氏が台湾で顕彰されることによって、日本でも広く知られるようになったように、

台湾で広くその業績が評価されることによって、日本にも鈴木藤三郎先生の功績が広く知られることを念願しています。


日本教育学の祖とも称され「修身教授録」を著された森信三先生は、お亡くなりになる前に
「日本が立ち直るのは2025年でしょう。それは二宮尊徳先生のお考えによらなくてはなりません。そして世界が日本が立ち直ったことを認めるのは2050年でしょう」と予見されました。(「森信三先生随聞記」)
これは東日本大震災が起こる前のことですが、まるでそのことも予見されたかのようにも感じられます。
私たちの Tozaburo Projects もまたそうした大きな流れの一貫かもしれないと、そんなふうに思っている次第です。

 

 台湾製糖株式会社の最期(2012年2月5日-6日ブログに掲載したものに追加)

   その1

質問を受けて明確になることもある。

ある意味で質問は必要があって発せられ、混沌のなかから回答が現われてくる。

そうした面持ちがある。

「台湾製糖株式会社と製糖工場の住所地はどこですか」という質問は、C先生が徹底的に調査され、創立当時の住所と現在の住所地が判明した。

その過程での住居表示も判明した。いわば学術的な調査の成果で「素晴らしい」。

ちなみに創業当時の住所が「1900年(明治33年)台南県仁寿下里橋仔頭庄大路墘で現在は「高雄市橋頭區橋南糖厰路24号」にあたる。

 

台湾製糖株式会社本社の住所は、創立後、明治44年に打狗(高雄)に移転し、大正9年屏東へ移転している。

 

そこで質問である。

「その後、台湾製糖株式会社はどうなったのか」という質問である。

わたしたちは、日本は太平洋戦争の敗戦で台湾から引揚げ、台湾製糖の台湾における工場等の財産は現在の台糖公司へ引き継がれたぐらいの認識しかなかった。

というよりも、鈴木藤三郎が初代社長を勤めた時代の台湾製糖株式会社と現在の状況に関心があって、会社としての台湾製糖の変遷にはほとんど関心がなかったのである。

すべて起こる出来事がなにかしらの理由があって起こるのであるとするならば、その後の台湾製糖について解明するべく、問が発せられたのかもしれない。

この問に対して一冊の本がある。台湾製糖株式会社の最期の社長でもあり、日本における台湾製糖の残余財産によって創設された台糖株式会社の社長だった筧干城夫氏の遺稿集「土と人と砂糖の一生」である。

これは昨年暮れに亡くなられたR先生が亡くなる前にわたくしに贈ってくださった本の一冊であって、今になって思うと死期を予感し大切に保管されていた本を託されたかのようである。

 

=以下:補追 

R先生は「本が着きました」という私の感謝のメールにこう返信された。

「G様:わざわざ遠い所まで資料を集めに行き大変ご苦労さんでした。

 私が、大変悩んでいることは、私があの世行きになった後、日本語の冊子をどうすれば良いのかと思うようになりましたので、G様に送ったのです。筧氏の冊子は非売品です。前回の冊子〔「日本製糖業の父・台湾製糖株式会社初代社長」鈴木藤三郎氏顕彰第3集〕はこの人の子に送ったのです。筧氏の第二番目か?三番目?の子か覚えていませんが、私の兄とは、小学校時代同じクラスにいました。この学校は当時台湾人は入学出来ませんでした。ただし親が警察官、教員、弁護士、お医者でなければ入られませんでした。もう一つの条件として入学前に日本語で口頭試問を受け、これにパスすれば良いのです。

 その年はうちの兄一人だけが入学出来たのです。うちは父母が学校の教員だったので幼い頃から兄弟はみな日本語で会話をしていました。

 戦後になってから母語やマンダリン語を習ったのです。兄とクラスメイトだったこの人も帝大の出で、建築博士で、仙台に住んでいます。

 彼が私の兄にこの冊子を送ったのです。この作者は橋仔頭製糖所で結婚しました。彼の妻は山本悌二郎の義理の娘です。ちなみに山本悌二郎はこの橋仔頭製糖所にはまた別に一人の台湾人男性と台湾人女性を義理の子として認定していたのです。 3人とも今は故人に成っています。   R」

=補追終り

 






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最終更新日  2012年08月23日 02時49分35秒



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