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2012年08月23日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
 

はじめ2年の約束が遂に在任7年の長きにわたりました。

鶴見祐輔氏の書かれたものによると、「この一高長時代は新渡戸先生の一生に取って最も記憶すべき時代の一つであったと思うのであります。博士はこの時に、単に一高一千の学生の指導者となられたのみならず、隠然として日本全国の青年の思想的中心となられたのであります。

当時の日本は日ロ戦争の直後で国民思想の動揺期でありました。

大戦後に起こりやすい粗暴な気分と、当時文壇に現れた自然主義文学の唯物的な破壊的な思想の影響を受けまして、大勢の青年男女が適従する所に迷っておりました時に、博士はその一流の人格主義と理想主義とを掲げて、満天下の青年に帰向する所を示されたのであります。

札幌時代以来新渡戸先生の薫陶を受けた全国の青年男女は今や悉く成人して、日本の社会の各方面に活躍しているのでありますから、新渡戸先生は日本の為めに新しき時代を作り出した一人として、永く日本国民に感謝せらるるであろうと思うのであります」と。

 

一高校長時代に著された書物に、『随想録』、『帰雁の蘆』、及び『ファウスト物語』等があります。

 

明治44年8月、日本より最初に選出された日米交換教授として渡米され、ブラウン、コロンビア、ジョンス・ホップキンス、バアジニア、イリノイ及びミネソタの6大学を主とし、その他各地において前後166回の講演をなし日本の事情を全米国に紹介されました。その講演は翌年ニューヨークより"The Japanese Nation;its Land,its People and its Life(with Special Consideration to its Relations with the United States)"と題する一書として出版されました。その節ブラウン大学よりLL.D.の名誉学位を授けられました。

帰朝後間もなく第一高等学校長の職を辞し、その後東京帝国大学法科大学教授に専任され、植民学講座を担当され、学生の薫陶に従事されること約8年間に及びました。

 

明治42年実業之日本社の顧問となられ毎号青年の為めに精神の修養に適切なる記事を掲載し世道人心に裨益すること極めて大でありました。これらの記述を分類編纂し単行本として出版されたものが『修養』、『世渡りの道』、『自警』等であります。

 

大正8年3月世界大戦後の状態を視察の為め後藤伯に同伴し、米国を経て欧州に赴かれました。その時あたかも平和条約が調印され、新たに国際連盟が成立し、日本からも一人の事務次長を出さねばならぬことになりましたが、その人選には全権一行も少なからず苦しんだのであります。新渡戸君がちょうど視察について鳩首協議中でありましたが、君の姿を見るや否や牧野伯が「ああ、ここにいた!」と叫んで参列者一同異口同音に有無を言わせず君に応諾を迫りました。そこで君は後藤伯さえ承知されるなら自分は快く御請する旨を答え、ここに日本はこの上なき適任者を代表として連盟に送ることができたのであります。君はそれ以来7年間スイスのジュネーブに在って連盟の仕事に従事されました。当時は連盟の初期であって困難もあったと同時にまた華やかな希望に輝いていた時代でありますが、博士はいつの間にか「連盟事務局の良心」と人に呼ばれるほど、この連盟に高尚な精神を吹き込まれたのであります。また君の人格は年と共にますます円熟を加え接触せる内外人を誰彼となく感嘆せしめ、「ジュネーブにおいて最も愛された人」というアダナを受けられるほどになりました。ここにおいて君は国際人として世界稀なる存在となられたのであります。就任中最も著しき功績と認められるは知的協力国際委員会の設立に関しその立案者との一人として活躍し又その活動に対しては終始かわらざる努力を払われたことであります。

 

大正14年勅旨をもって帝国学士院会員仰せつけられ、又昭和元年貴族院議員に勅撰されました。

 

昭和2年の春、国際連盟の事業に対し国民の理解と支持を喚起いたしました。又大阪毎日、東京日日新聞社の顧問となりその英字新聞に毎号 Editorial Jottings(編集断片)として感想を名文にて発表いたしました。この断片集は外国の新聞にも転載されて好評を博したのであります。

 

ジュネーブにあった頃執筆された著書としては"Japanese Traits and Foreign Influences"が昭和2年ロンドンより出版されました。また7年間国際連盟にあって積まれた経験が、『東西相触れて』、及び『偉人群像』となって世に公けにされました。

 

昭和4年田中〔義一〕内閣の時、文相〔水野〕の辞任に際し、首相が奏上によってその留任をはかったことが、いわゆる優諚問題として貴族院の論議をまき起こしたに当たり、君は同院で首相問責の決議に賛成する演説をして、貢献する所がありました。

 

早稲田大学の講師として種々雑多なる問題について学生一般に講演され、多大の感動を与えましたが、その講演中、我が国目下の非常時に際し、いかなる理解と決心を持つべきかについて述べられしところを『内観外望』と題する一書にまとめて出版されました。この書において著者の憂国の至情を洞察することが出来ます。同様に『西洋の事情と思想』も早稲田大学における連続講演の速記でありますが、これは逝去後昭和9年に出版されました。

H.A.L.フィッシャー氏の編集に係る"The Modern World.A Survey of Historical Force "なる叢書中の一つとして日本の現状、発達等につき詳細に記述して、"Japan; Some Phases of the Problems and Development"と題し昭和6年ロンドンより出版しました。

 

佐藤男の書かれた新渡戸君追想文中に君の性格の一面をよく物語る左のごとき叙述があります。

「新渡戸君は私的生涯においては親戚故人に対する情誼も厚く頼まれれば否むことの出来ぬ性分であった。されば公生涯において極めて繁忙なる際でも、講演を頼まれれば引き受けるとか、又は新渡戸君でなくては出来ぬことはやはり快諾して美なる奉仕の精神を発揮された。この主義において東京女子大学初代の学長となり、又東京女子経済専門学校長ともなられた。」

 

第3回太平洋会議が昭和4年京都で開催された時、君は井上準之助氏に代わり議長として最も公平なる態度をもって統括し、無事に成功裡にこれを終わることができました。会議の模様は『太平洋問題』と題する書に詳らかであります。

第4回太平洋会議は昭和6年上海において開催され、君は日本代表の委員長として死を決して出席し、国際的に活動されました。

 

大正13年に米国において移民法が改正実施されし時、新渡戸君は非常に憤慨され、それが撤回されるまでは米国の土は踏まないと言っておりました。昭和7年2月君は急転する時局を深く憂えていましたが、松山市に講演旅行をした際、新聞記者を含む来訪者との宿舎での私的会見において「日本を亡ぼすものは共産党か軍部であろう」という意味の憂慮を述べられたとの報道が広まり、その後暫く軍部関係、在郷軍人等の団体から圧迫が加えられました。病気入院中弁明のため出頭を強いられたとか、延いては、軍の行動の代弁を要求されたとかの誤解に基づく内外の非難が加えられたのはかかる経緯によります。実際には、君は満州事変勃発以来米国において日本の真意が曲解され反日感情が日増しに募り日本の国際的立場が頗る不利な位置に置かれるのを見て愛国の情禁ずるあたわず奮然として起ち誤解一掃の為め昭和7年4月渡米の途につかれ一ヶ年間にわたり百回を超える講演を試みられました。

昭和8年8月カナダのバンフに開かれた第5回太平洋会議に日本代表の団長として出席し、その議事の進行につき心を労すること一方ならず、無事成功をもって会議を終わりし時には君は非常に疲労を感じておりました。ヴィクトリアに病後の令夫人を迎えそこにて暫く休養の上、更にニューヨーク方面に赴き、日本の真の精神の説明の仕事に従事しようとしておられたところ、9月13日急に激烈なる腹痛を覚え、同地のジュビリ病院に入院し、あらゆる治療と手厚き看護を尽くしたるも経過思わしからず、10月15日の朝、腹膜炎を併発していた膵臓壊死のため(胃の潰瘍と穿孔がその誘発原因と思わる)手術を受けましたが、同日午後8時35分、72歳を一期としてこつえんとして永眠されました。病中医師看護婦に対し絶対の信頼を表しよく病苦に堪え、一度たりともそれを訴えることなく、かえって常に口辺微笑を含んでおったということであります。病院開始以来かくのごとき患者はいまだかつて一人も無しと院長は感嘆した由であります。平素の鍛錬顕れ異境にあって日本武士の最後を飾ったものというべきであります。

 

その報ひとたび伝わるや全日本のみならず世界の同情さんぜんとして博士の一身にあつまり、その人格と事業とを追慕し、その逝去を痛惜するの声、天下に満ちたのであります。

 

未亡人の語られるには、「稲造は平素人には死に場所が大切だと言っておりましたが、このたび欧米各地より受け取った山なす弔詞弔電を見ると確かに稲造は死に場所を得たと偲ばれ自から慰むることが出来ます」と、かくて君は身をもって終に青年時代の夢であった「太平洋の橋渡し」を実現したのであります。新渡戸の遺骨はマリ子未亡人に護られ、11月16日横浜に到着、直ちに小石川の自宅へ帰られました。

畏れ多くも博士の功績 天聴に達して勲一等に叙せられました。又、侍従を差し遣わされ幣帛並びに祭し料金一封を御下賜あらせられました。

葬儀は同月青山斎場において佐藤男司会の下にフレンド派式によりいと厳かに挙行され、告別式には斎藤首相を初め各国大公使及び朝野各階級の人々約2千人が白菊の一枝を霊前に捧げ告別の誠意を表しました。

 

遺骨は12月2日に多磨墓地に埋葬され、遺髪は三本木の祖父太素(伝)翁の眠る太素塚の側に分葬されました。又カナダ・ヴィクトリア市スタンレー公園に市の有志者により故新渡戸博士の記念碑が建設されることになりました。

新渡戸君は学識深遠なる碩学なりしのみならず生まれつきの雄弁家でありました。又君は偉大なる国際人であったのみならずなお又真の愛国者でありました。実に日本にとってかけがえのない一偉人を失ったことは我々同窓としてもまことに哀惜の情に堪えない次第であります。

 






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最終更新日  2012年08月23日 18時25分59秒
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