報徳記 巻之二
【2】先生横田村里正円蔵を教諭す
横田村衰貧尤も甚しく民戸中古の半を存す。古田荒蕪して原野の如し。貧民今日の活計術尽るに至る。先生之を恵み、之を撫すること百計皆悉く至誠ならざるはなし。里正円蔵なるもの、其の先由緒ある家筋にて連綿として此横田村に相続すること幾百年たるを知らず。細民と共に衰貧せりといへども、未だ活計道なきが如きに至らず。性才智あるにあらざれども、質直にして私曲なし。斯の如き旧家なるが故に、従来の家頗る破損し、且傾きしかば、新に家作を計れども家貧にして作ることを得ず。多年、心を用ゐ漸く材木を求め作らんとするに、入費二十金足らずして其の望みを果すこと能はず。
是に於てこれを先生に乞ふ。先生諭して曰く、
嗚呼汝の邑衰貧貧困既に極まれり。里正たるものこれが為に痛歎して身を顧るに暇なからんとす。何の暇ありて己れの家作安居を計るや、過てりと云ふべし。
深山木(鵜沢作右衛門)(「尊徳門人聞書集」報徳博物館)
「深山木」は小田原藩の鵜沢作右衛門が天保6年2月から6月まで桜町陣屋に出張して二宮金次郎の事業とその成果を大久保忠真侯に報告した復命書である。(原文は読みづらいので現代語訳化して参考にのせる)
【8】横田村名主格の円蔵と申す者は、去る文政5年御仕法が始ました時分に、自分で心掛けて、新しく家の建築に取りかかって、竹・木・カヤ等まで調達して、木材の下拵えに取りかかったところ資金が不足したので、利息付きで金10両5ヶ年の年賦均等償還で、御仕法金を借りたい旨を願い出ました。
その時に金次郎から円蔵へ申しますに、「その方は、組頭の役を勤め、御知行所の村々の小前(本百姓ではあるが特別の権利・家格をもたないもの)が今日をしのぎかねるなかに、自分から心掛けて準備したのは感心ではあるが、現在の時節に新規に家を建築しては御仕法にも生涯をきたし、はなはだもって心得違いであるということを詳しく道理を説いて聞かせ、おいおい取り集めました竹・木・カヤまでもそのまま置いておくか、または難渋している者へ送ってやってもよく、さらにその方が新らしく家の建築に取りかかるには、米・麦を始め味噌・醤油等まで、建築の外に工事中物入りも有るから、建築資金を借りても返済しなければならないであろう。そうであれば家の建築したいと思うときは、その方から金10両5ヶ年割賦で利息を添えて、御陣屋仕法金へきっと納めなければならない。家財産もそれなりに持っているのであるから、建築しなければなお返済しても差支えないだろうから、念を入れて十分に考えてみるよう申しました。円蔵も大変篤実である者であるので、難有(ありがたし)と答えて、承諾いたしまして、その意思にまかせ貸りない拝借金10両、5ヶ年年賦均等償還で、元利を御陣屋の仕法金へ加えおく方法を実行し、おいおい納めました。また御陣屋でも仕法金に入れて、利息を倍にしてはからってやりました。円蔵は、その後になってなお十分に考えたところ、身に沁みて難有(ありがたし)と深く思いあたったためか、それから自分の屋敷の竹藪をかり払って、金5両で売って、その代金も御陣屋の仕法金の内へ加えてくださいと申し出て、納めました。年限が立って、元利を払って利倍に積み立ててやったところ、其の後円蔵の家内一同が流行病にかかって難渋した時に、その預金の内から下しおかれたいと願い出たので、入用だけ遣わし、残金は積金を計いました。この円蔵の2男で四郎太という者は、きわめて誠実な者であることから別家に取り立ててやり、御百姓一軒を相続する方法や、天道に叶う生き方を諭したところ、承諾いたしましたので、天保元年に新規に家を一軒建築して、この四郎太へ遣わしました。円蔵の屋敷は年来だいぶん経って、潰れ家同様の姿で、大雪や大風雨の時には家にいることもできかねるほどとなったことから、今年の春まではそのまま住居しておりましたが、御仕法によって特別に精を出して働いてきた者であることから、今年の春になって、円蔵の居宅を金次郎から新規に建築して遣わしました。外見も普通と違って特別念入りにこしらえ、桁行10間・梁間4間半、家も頑丈にこしらえて、円蔵の居宅くらい手堅く建築した家は、近在には無いほどでした。家の建築だけでも金百両余もかかり、造作や仕上げまでよほど資金がかかったものと思われます。
さらに金次郎が申しますに、最初御仕法が身に入った者は、現在に至りますといずれも幸せになりました。また御仕法が身に入らず妨害をなした者どもは、自然と現在になると潰れていきました。これは因果の道理というものでしょうかということでした。