12343585 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
全て | 報徳記&二宮翁夜話 | 二宮尊徳先生故地&観音巡礼 | イマジン | ネイチャー | マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界 | 宮澤賢治の世界 | 五日市剛・今野華都子さんの世界 | 和歌・俳句&道歌選 | パワーか、フォースか | 木谷ポルソッタ倶楽部ほか | 尊徳先生の世界 | 鈴木藤三郎 | 井口丑二 | クロムウェル カーライル著&天路歴程 | 広井勇&八田與一 | イギリス史、ニューイングランド史 | 遠州の報徳運動 | 日本社会の病巣 | 世界人類に真正の文明の実現せんことを | 三國隆志先生の世界 | 満州棄民・シベリア抑留 | 技師鳥居信平著述集 | 資料で読む 技師鳥居信平著述集  | 徳島県技師鳥居信平 | ドラッカー | 結跏趺坐 | 鎌倉殿の13人 | ウクライナ | 徳川家康
2014年08月20日
XML
6 二宮尊徳の知的実験
二宮尊徳の考え方は「合理の世界を合理の心で考える」というべき特徴がある。だいぶ以前ある人に二宮尊徳の思考法の特徴の一つを話したことがある。
「尊徳は思考実験ということをやるのです。仮定の閉ざされた時空を想定し、一定の条件を徹底させるとどうなるのか。たとえばここに一〇〇人の村があるとする。他の社会とは隔絶されている。この村の人が全員、役人だったらこの社会は成り立つか?」「成り立たないね」
「次に全員が商人だったらどうか? やはり成り立たない。次に工人だったら?全員工人だったらやはり成り立たない。じゃあ、農民だったら、どうか?」
「やっぱり成り立たないのじゃないの?」
「食料を得られ循環できるから成り立つ。尊徳はそういう知的実験から、農業が根元であると考える。」
尊徳の知的実験について佐々井典比古氏が「尊徳の森」で紹介されたのを思い出して話したのだった。
それは「農村仕法の根元」(「尊徳の森」p.82)で、佐々井氏は「二宮尊親が大正三年に編んだ『二宮尊徳遺稿』の原理篇の中に、『未定稿』と仮題された断片的述作集がある。」と『報徳訓七八』(1-594)を紹介され、「尊徳が用いる『知的実験』の一つ」とする。
一 これまで仕掛け置き候、諸家様、荒地開発・窮民撫育・借財返済・村柄取り直し旧復の趣法、取行いの儀は、これまでのとおり(略)
一 今般荒地開発・村柄取り直し旧復の趣法については、元来土地柄あしく、数年退転亡所同様まかりなりおり候儀につき、一同術計尽き果て途方に暮れおり候儀につき、これを再復仕り候については、先に仕るべき業を先に仕り、後に仕るべき業を後に仕り候ほか、順なるは無し。これにより、先後するところを知ること、左のとおり。
一 天朝、神道はもちろん儒、仏、三道相開け、あるいは仁義礼智信、あるいは五常、又は因果因縁、そのほか種々の法礼これあり、まったく前後相わかりかね、困窮難渋仕り、ついに退転亡所まかりなり候儀につき、何ぶん前後諸業相わかりかね候とき、諸道・諸芸、達人・師範の人物、一村に一人ずつ取り分け、その師の教訓諸業に基づき、一村男女・大小人とも一芸を取り行い、差し支えの有無を試し候わば、前後・目前に相わかり候こと。
一 神道者あって神道善しと言わば、その教誨に付いて一村残らず神道を取り行い、差し支えの有無を試し申すべきこと 一 儒道者あるときは右同断 一 仏道者あるときは右同断 一 士道者あるときは右同断 一 農者あるときは右同断 一 工道者あるときは右同断 一 商者あるときは右同断。
内容的に、大きく三段に分かれる。第一段は序言的な部分で、すでに手がけている諸州・諸家の仕法について、担当者がこれまでどおり指導・援助を受けに来ているが、町場での滞在の費用もかかり、もともと困窮のところ、気の毒なことだ。仕法の原資は昨年までに出払って、今はないけれども、貸付け分の償還をもって順次これを賄い、それぞれ仕上げてやりたいと思う、という趣旨である。これは尊徳が天保九年(1838)、本格的農村復興仕法開始のため、小田原に長期出張していた時のものと推定できる。第二段は、その農村復興仕法にあたっては、「一同術計尽き果て途方に暮れ」ている状況なので、まず人間の営みのうち、何を最優先しなければならないかを、徹底的に自覚させる必要がある。それは『大学』に「物に本末あり、事に終始あり、先後することを知れば、すなわち道に近し。」とあるとおりだが、では、その先後はどうしたらわかるか。それは「左のとおり」とあって、第三段に移る。
これは尊徳が往々用いる『知的実験』の一つである。
いま、わが国では神儒仏の教えがあってもそれぞれ最善の道と説くほか、種々さまざまな生き方、暮し方があって、どれが先、どれが後ともわかりかねる。そこで、一つの村の中で諸道・諸芸の達人とか師範といえる人物を、一道一芸につき一人ずつ選定する。そして、その先生の教えるとおり、一村こぞってその道ばかりを行ったとして、差支えがあるかどうか、一つずつ試してみれば、何が先、何が後かは一目瞭然だ。たとえば神道者が神道を最善と説いたとして、一村残らず神職になってしまったらどうか、それは差し支えがある。儒道者の場合も仏道者の場合も同じ。四民のうちの士も工も商も同じ。ただ一つ農者の道だけは、一村こぞって従事しても支障がない。これこそ人間文化の徹底、天祖開国の大道で、農村の復興は農民各自にその自覚をもたせることから始まる。―これが尊徳の意中だったのではなかろうか。 
 二宮尊徳は『報徳積善談』七冊で、まず青芋を例に挙げ勤め励むべきことを説く。その後「大根」等九種、「茄子」等十種、「梅」等一〇種、「鯉」等一〇種、「鯛」等一〇種、「松」等一〇種、「たこ」等二〇種が同種の文で繰り返される。これは帰納法で天道の理を示そうというものに他ならない。これも知的実験により天理を見出し説明しようとするものである。尊徳は仕法も統計的・数理的に始めに終わりを解明してから着手する。尊徳は極めて合理的・科学的な思考の持主であった。私たちの知る尊徳は一面にすぎないかもしれない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014年08月20日 19時10分46秒



© Rakuten Group, Inc.